母親も一緒だったが、カトリーヌはピトゥと二人きりになれるよう措置を講じた。
ビヨ夫人は馬の後ろからついて来るおかみさんたちと連れ立っておしゃべりに花を咲かせていたので、カトリーヌはおかみさんの一人に自分の馬を預けて、称讃の声から逃げて来たピトゥと一緒に森を通って徒歩で帰宅することにした。
こんなことがあっても田舎では誰も気にしない。他人に対しておおらかなので、隠しごとがあろうとも核心を探ろうとする者がいないのだ。
だからピトゥにビヨ母娘と話があるのは当然のことだと思われたし、もしかすると気づかれてさえいなかったかもしれない。
この日は誰もが深閑として鬱蒼たる木陰(des ombres)に惹かれていた。栄光や幸福といったものはすべて、森深い土地にある太古の木楢の下に眠っている。
「此処でいいでしょう、カトリーヌさん」ピトゥは二人きりになると言った。
「どうしてこんなに長く農場からいなくなってたの? 非道いじゃない、ピトゥさん」
「だって……」ピトゥは絶句した。「わかってますよね……」
「知らない……非道いじゃない」
ピトゥは口唇を咬んだ。嘘をつくカトリーヌは見たくなかった。
カトリーヌもそれに気づいた。というのも、いつもは隠れなく真っ直ぐなピトゥの眼差しが伏せられていたからだ。
「ねえ。それよりも、ほかに話があるの」
「そうですか」
「こないだ、藁葺き小屋(la chaumière)のところでわたしを見かけたでしょう……」
「あなたを見かけた?」
「わかってるでしょ」
「わかってますとも」
カトリーヌは真っ赤になった。
「あそこで何をしてたの?」
「じゃあボクに気づいたんですね?」非難の声は柔らかく侘びしかった。
「初めはわからなかったけど、しばらくして気づいた」
「どういうことですか、しばらくしてって?」
「放心することだってあるでしょ。見るともなく見ていて、それからようやく頭が追いつくの」
「そうですね」
カトリーヌがまた口を閉じると、ピトゥも押し黙った。二人とも考えなくてはならないことが多すぎて、整然とした話をするためには時間がかかった。
「やっぱりキミだったんだね」
「ええ」
「あそこで何をしてたの? 隠れてなかったのは何故?」
「隠れるわけないじゃありませんか。どうして隠れていなくちゃならないんです?」
「そんなの、覗いてたからじゃあ……」
「ボクは覗きなんかじゃありません」
カトリーヌは苛立って地団駄を踏んだ。
「どっちにしろキミはあそこにいたんだし、いつもいるような場所でもないじゃない」
「本を読んでいたんですよ」
「知らないわ」
「ボクの姿を見ているんですからご存じのはずです」
「キミのことは見ているけど、何となくだったから。それで……読んでいたってのは?」
「『国民衛兵完全読本』です」
「それ何?」
「戦術を学んでいたんです。後で隊員に教えなくちゃならなかったので。それに集中して勉強するには
「そうだね、まったくその通り。つまりあの森の外れだと、何の邪魔も入らずに済むんだ」
「皆無でした」
また沈黙が降りた。ビヨ夫人とおかみさんたちはそのまま進んでいた。
「それでその勉強ってのは長い時間していたの?」
「一日中することもありました」
「だったらさ」カトリーヌの語気が強まった。「長い間あそこにいたってこと?」
「ずっといました」
「どうしてだろう、到着した時には見かけなかったよね」
ここからカトリーヌは嘘をついた。あまりの図太さに、さすがのピトゥも正直に言えと言いたい気持になりかけた。だがピトゥには負い目があったし、愛していたから一歩が踏み出せなかった。こんな嘘ばかりつくという短所も、ピトゥにしてみれば慎重であるという長所と同意だった。
「たぶん眠っていたんです。頭を使いすぎるとたまにそうなってしまうので」
「だったらキミが眠っている間に森の木陰に入って行ったんだね。そして……そして小屋の塀のところまで行ったの」
「小屋ですか……何処の小屋です?」
カトリーヌがまた顔を赤らめた。だが今度の赤らめ方はわざとらし過ぎた。
「シャルニーさんの小屋」カトリーヌは努めて冷静であろうとした。「この辺りで一番よく効く
「そうでしょうね」
「洗濯中に怪我しちゃって、万代草の葉っぱが欲しかったんだ」
ピトゥは哀れにも信じようとでもするかのように、カトリーヌの手に視線を注いだ。
「手じゃなくて足だから」カトリーヌが慌てて答えた。
「見つかったんですか?」
「よく効くのがね。ほら、ちゃんと歩けてるでしょ」
――その前だってちゃんと歩いていたじゃないか。ボクの見ている前で、荒野の鹿より素早く逃げて行ったくせに。
カトリーヌはまんまとやりおおせたつもりでいた。ピトゥが何も知らず何も見ていないものだと信じていた。
だから高邁ならざるカトリーヌは勝ち誇るという善からぬ衝動に勝てなかった。
「やっぱりピトゥさんはわたしたちを避けてるんだね。新しい地位が誇らしくて、貧しい農夫なんて見下してるんでしょ。何てったって将校だものね」
ピトゥは傷ついた。表立ってではないとは言えあれほどの犠牲を払ったのだから、常に見返りを求めていた。それなのにどうやらカトリーヌはピトゥを騙そうとしているらしいし、恐らくイジドール・ド・シャルニーと引き比べて嘲笑っていたとあっては、好意も機嫌も吹き飛んだ。自尊心とは眠れる蝮である。その上を歩こうとするのは軽率のそしりを免れまい。一撃で踏み潰さぬ限りは。
「避けているのはむしろあなたじゃありませんか」
「どうして?」
「仕事をくれずに農場から追い出したからです。ビヨさんには何も言うつもりはありませんし、ボクには必要なものを手に入れられる両手も熱意もありますけれど」
「言っとくけどね、ピトゥ……」
「結構です。家長はあなたですからね。だから追い出した。だからシャルニーさんの小屋に行き、そこにいたボクを見かけたのなら、林檎泥棒のように逃げ出さずに、ボクと話をすべきだったんです」
蝮が咬んだ。カトリーヌは安心していた高みから転がり落ちた。
「逃げ出す? わたしが逃げ出したって言うの?」
「農場から火が出たみたいに。ボクが本を閉じる間もなく、草陰に繋いでいたカデに飛び乗って逃げ出したじゃありませんか。奏皮は樹皮を食い尽くされてすっかり駄目になっていましたよ」
「奏皮の木が駄目になった? いったい何が言いたいの、ピトゥさん?」カトリーヌは自信という自信が擦り抜けてゆくのを感じ始めた。
「当たり前のことです。あなたが万代草を摘んでいる間、カデは樹皮を食んでいたんですから。馬一頭が一時間あれば平らげてしまうでしょう」
「一時間?」カトリーヌが声をあげた。
「一頭の馬があの木の皮を歯で咬んで毟るには、一時間以下では不可能です。あなたが万代草を摘んでいたとすると、バスチーユ広場で負ったくらいたくさんの傷を負っていたことになります。あれはいい湿布薬ですからね」
カトリーヌは真っ青になって言葉を詰まらせた。
ピトゥも言うべきことを言って口を閉じた。
ビヨ夫人が四つ辻で立ち止まり、おかみさんたちを見送っていた。
たったいま作ったばかりの傷の痛みに苦しんでいたピトゥは、飛び立とうとする鳥のように足を交互に揺すっていた。
「将校さんは何て?」ビヨ夫人がたずねた。
「良い晩を、と言ったんです、ビヨおばさん」
「それだけじゃないでしょ」カトリーヌが投げ遣りに呟く。
「じゃあ良い晩を。来ないのかい、カトリーヌ?」
「ほんとのことを言いなさいよ」カトリーヌが呟いた。
「何ですか?」
「わたしたち、もう友達じゃないんでしょ?」
「そんな!」ピトゥが声をあげた。まだ経験もないのに打ち明け話の相手という非道い役どころで恋愛という舞台に足を踏み出したというのに。利益を引き出すには頭を絞って自尊心を犠牲にしなくてはならない役どころだというのに。
ピトゥの口唇から秘密が出かかった。カトリーヌが一言でもしゃべれば何でも言うことを聞いてしまいそうだった。
だが同時に、口に出してしまえば終わりだと感じていたし、疑ってばかりいるとカトリーヌに言われようものなら苦しみのあまり死んでしまいそうだった。
こうした不安がピトゥをローマ人のように寡黙にさせた。
ピトゥはカトリーヌの心を突き刺すような恭しい挨拶をすると、ビヨ夫人にはにこやかに微笑んで挨拶をしてから、厚い木叢に姿を消した。
カトリーヌは追いかけようとでもするように思わず足を踏み出した。
ビヨ夫人が声をかけた。
「いい子だね。物識りだし、思いやりもある」
ピトゥは一人きりになると先の主題についてぶつぶつと呟き始めた。
「愛とは何だろう? ある時はとても甘いのに、ある時にはとても苦いものだな」
ピトゥはあまりにうぶで善良だったため、愛には蜂蜜も苦ヨモギも含まれているということや、イジドールがピトゥにとっての蜂蜜を手に入れていたとは考えなかった。
カトリーヌは非道い苦しみを味わったあの瞬間から、無害で滑稽だと考えていたピトゥに対し、数日前にはまるで感じていなかった恐れのようなものを抱いた。
他人の心に愛を芽吹かせたことのない者は、ささやかな恐れを芽吹かせようとも何も感じない。ましてやピトゥは個人の尊厳というものに並々ならぬこだわりを持っていたので、カトリーヌの心にそういった感情を見つけたとしたらさぞや得意になったことだろう。
だが一人の女の頭の中を一里半離れたところで見抜くことが出来るほどには生理学に通じていなかったため、滂沱の涙を流して地元の悲曲を暗い調べに乗せて幾つも繰り返したところでまずはやめておいた。
こんな風に指揮官が女々しい泣き言に溺れているのをもし部下たちに見られでもしたら、さぞや幻滅されたことだろう。
散々歌って散々泣いて散々歩いた末に部屋に戻ると、部屋の前にはアラモンの崇拝者たちが武器を持たせて立ち番を置いていた。
ところがその立ち番は銃を手に持てないほど酔っ払っており、足の間に銃を挟んで石の腰掛けの上で眠りこけていた。
ピトゥは驚いて揺り起こした。
立ち番の話によると男たち三十人がアラモンのヴァテールことテリエ親父のところで宴会を開き、奔放な女たち十人ばかりがその勝利を祝い、隣村のコンデ公を打ち負かしたテュレンヌのために上座は空けているということであった。[*2]
ピトゥの心は疲弊しきっていたので、胃がその影響を受けないわけにはいかなかった。シャトーブリアン曰く、「王の目にたたえられた涙の量に驚いたが、その涙によって大人一人の胃袋がどれだけ空っぽになったのかは推し量り難かった」のである。[*3]
立ち番に連れられて宴会場に着いたピトゥは、壁も揺るがすほどの喝采で出迎えられた。
ピトゥは無言のまま挨拶で応え、やはり無言のまま席に着き、いつものように物静かに牛肉一切れとサラダにかぶりついた。
これはピトゥの心の傷が癒え、胃袋が満たされるまで続いた。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre LXIX Le miel et l'absinthe」の全訳です。
Ver.1 19/12/15
[訳者あとがき]
初出『La Presse』紙、1851年6月26日。
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. [屋根万代草]。
屋根万代草(ヤネバンダイソウ joubarbe)は傷薬や魔除けの薬草として用いられた。[↑]
▼*2. [ヴァテール/テュレンヌ、コンデ公]。
ヴァテール:ルイ14世時代の料理人。
テュレンヌ、コンデ公:フロンドの乱において、反乱軍側のコンデ公はテュレンヌと戦って破れた。[↑]
▼*3. [王の目にたたえられた…]。
「王の目にたたえられた涙の量に驚いた」の部分は、シャトーブリアン『アタラ(Atala)』より。「les reines ont été vues pleurant comme de simples femmes, et l'on s'est étonné de la quantité de larmes que contiennent les yeux des rois ! 」。[↑]
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