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作展覧会

トーマ・ナルスジャック

作家・作品について/訳者あとがき


ナイチンゲール邸の謎
(サー・アーサー・コナン・ドイル風に)


 一八八九年はきわめて多くの犯罪事件が起こったが、その大部分がシャーロック・ホームズの名声を高めたのものだった。ノートをひもといてみると、オサリヴァン事件、ランドール事件、さらにはまた、四つ葉のクローバーの意味に気づくのが遅れていれば間違いなく友人の命が無くなっていたであろうゴドショー大尉の冒険譚などが、乱雑に記されている。だが、今から読者の方々にお聞かせするつもりの、当時「ナイチンゲール邸の謎」と呼ばれた事件ほど、奇妙なものはない。

 ささやかな遺産を相続するため、妻が数日ほど出かけなければならなくなり、私は数週間ぶりにシャーロック・ホームズを訪問したいという抑えがたい気持を感じた。部屋のベルを鳴らそうとしたところ、これまで幾多の悲劇が幕を閉じたベイカー街のカーテン越しに、痩せた人影が行き来するのが見えた。もう夜も更けていたし、仕事中のホームズをわずらわすのは気が引けたが、好奇心が勝ちを収め、ホームズの部屋に足を踏み入れると、ホームズはとても嬉しそうな顔をしてもごもごと言いながら肘掛椅子を指し示し、私をじっと見つめながら黒いパイプに中味を詰め込んでいた。そんな振る舞いには慣れていた私は、友人が観察を終えて微笑むのを待った。それほど長くはなかった。

「ワトスン君、暴動は長続きしないし週末には元通りになるとも。パディントン駅あたりで話を交わした大尉は、それほど詳しくは説明していないのだ!」

 驚きで声も出なかった! この悪魔的な天才は、私がここに来る途中で考えていたことを、どのようにして見抜いたのであろう? パンジャブで反乱が勃発するやいなや、駐屯軍は叩きのめされ、セポイの乱に似た一斉蜂起のことがとうに噂になっていた。アフガニスタンに従軍して以来、現地の人たちと近づきになっていたし、祖国のことやラホールにいる旧友たちのことを考えると、反乱が長びかないか心配になった。将校についていえば、たまたま出くわしたのだ!……

 私が驚いたのを見てホームズは面白がっていた。

「どうしてわかったんだい?……」

 言いかけたがホームズが口を挟んだ。

「君は髪を切ったばかりだし、右頬からはまだ血が滲んでいる。顎の右側に小さな切り傷を残しているのも見える。だが普段は自分で髭を当たるはずだ。となると、床屋に剃ってもらう気にさせた一番の理由は何か? そして床屋がこんなふうに顔を傷つけてしまったのはなぜか? 答えは簡単だ! なにしろ床屋での話題といったら何だい? その日のニュース、つまりパンジャブの話題だ。あの国に友人がいるから、君は髭を当たりに行き、あまりの興奮で無意識に動いてしまって顎と頬を切ったのだ。右側にいる話相手の方へしょっちゅう顔を向けていたということは、件の相手はインドの情勢に精通している人物にほかならない、ということは恐らく、将校だろう。将校氏のおかげで君は不安を共にし、その発言にひっくり返りそうなほど注意を惹かれ思いを巡らせたのだ。ズボンの裾を見たまえ、黄色い泥が撥ねているだろう、こんな泥がつくのはパディントン駅の近くに違いない。ところがパンジャブは危険ではなく、心配するには至らないとぼくは考えている!」

 ホームズのやり方にはいつも惑わされ、巧みで正確な推理には感嘆の念を禁じ得ない。

「なぜ階級がわかるんだ?」私はなおも尋ねた。

「では考えてみたまえ」ホームズが声をあげた。「若者、つまり君の話相手は、非常事態をごく気軽に受け止めている。一方年配者なら、事態をより広く正確な視野で捉える。氏の行動は、責任に頭を悩ましたり部隊とともに生活している将校の振る舞いとは考えづらい、ゆえに大尉だ!」

「その通りだよ。なんて簡単なことなんだ!。なのに私にかかってはその方法もとんだ役立たずだよ、意味のある情報なんて引き出せないからね」

 シャーロック・ホームズは二服目に火をつけてから話し始めた。

「ワトスン君、君は見てはいるが観察していないんだ。取るに足らないと思われるような、事件についての些細な事柄を、それぞれ結びつけて考えようとはしていないが、そうしたものこそ非常に重要だし、理解の手助けになるんだ。例えばほら、呼鈴を鳴らす決心がつかずに表の歩道で足踏みしている背の高い男が見える。見てごらん。彼がはにかみ屋で、恋愛中であり、父がなく、古銭学者だということは、簡単にわかるだろう?」

 窓際に行く暇もなかった。呼鈴が鳴り、お洒落な身なりの長身の男を給仕が招き入れたが、シャーロック・ホームズの前にいるあいだじゅう、子供のように赤くなっている。やる気のあるときのホームズは魅力的に見せるすべを心得ており、快く椅子を勧めた。

「ご訪問の目的を伺う前に、ワトスン博士の好奇心を満足させるために、いくつか質問をしてもかまいませんか?」

 私は口を挟みかけたが、ホームズは声を強めた。

「たいへん若い頃に父上を亡くされましたね、ええと……お名前は?」

「ジョン・バンクロフト卿です。父は八歳の時に死にました。間違いありません。どなたからお聞きになりました?」

「まずはこれです」

 ホームズはバンクロフト氏の外套の袖についていた喪章を指さした。

「次にこれ」

 手編みのスカーフが、これまた手編みの手袋に取り合わされているのを示した。

「最後にこれです」

 訪問者が足のあいだに立てかけていた柄の長い雨傘を指し示す。

「あなたのために世話を焼き、おそらくはそれを生きるよすがとしている母親がいるというわけです! その傘にしても、ご自身のを貸してくれたのでしょう!」

 ジョン・バンクロフト氏は真っ赤になったが、戸惑いや不快感を表に出すことはなかった。それどころか、ホームズのもてなしに緊張を解いたようだ。

「あなたには何も隠しごとが出来ないようですね」かすれてはいるが柔らかく魅力に満ちた声だった。「ご評判どおりです。確かに父は事故で死にましたし、母と私はそれ以来ずっと喪に服しております。母は私のことを一人前扱いしてくれません――二十八歳なのですが――仰る通りです、何から何までお節介を焼くものですから」

「それでご婚約のことはどのようにお伝えしたのですか?」ホームズは単刀直入に尋ねた。

 バンクロフト氏は茫然自失といった態だ。

「魔法使いだ」そう呟くと今度は真っ蒼になった。

「ふん! こんな諺がありますよ。『未知ナル物ハ悉ク偉大ニ見エタリ』」ホームズは笑い飛ばした。「先ほど歩道にいるのが見えましたが、たいへんうろたえためらっておいでなので、悩みの種はすぐにわかりました。子としての愛情と大いなる恋心のあいだで板挟みとなり、バンクロフト夫人にそのことを告げるのを避けておりますね」

「その通りです。一と月前に、聖ジェイムズ・ホールの演奏会で、メイシー・ハーロウという素晴らしい女性と知り合いになりましたが……」

ぼくも行きましたよ! サラサーテのクロイツェル・ソナタは名演でした。もっとも第一変奏は、ぼくの好みではありませんでしたが。覚えているだろう、ワトスン、あの悲痛な旋律のところで、ピアノの熱烈な問いかけにヴァイオリンが答えて……」

 彼の好みにそれほど慌てて理解を示さずにいると、ホームズはヴァイオリンを手にして件の旋律を熱演した。楽器を置いてから、バンクロフト氏に向き直った。

「申し訳ありません。このドイツ音楽には情熱をかきたてられるものですから。あなたの顎と指を見れば、ヴァイオリニストでないことはわかりますが、しかし骨董の蒐集をなさっているのなら、美しいものに対する情熱はわかっていただかなくては!」

「卿は自分が蒐集家だという話はしなかったはずだが」私はそのことを指摘した。

「だがスカーフのピンを見たまえ」ホームズは苛立って答えた。「見たところ非常に古い硬貨で、純金製の貴重なものだ。こんなものを持っているのは専門家だけだよ」

 ジョン・バンクロフト氏が頷いた。

「なんという直感力だ、ホームズさん! 確かに私は古銭学者で、国立美術館の鑑定人をやっております。世界でも珍しい硬貨と古銭を蒐集していますが、身につけているのはコレクションの中でもとりわけ素晴らしい品なんですよ。この硬貨は、一一二五年製のマルタの金貨です」

「ミス・ハーロウの話に戻りましょう」ホームズがそっと口にした。「もう邪魔はしません」

「ああ! ぼくらはお互いに愛し合っていいました。ところが天真爛漫なあのひとは、怪しい奴等に命を狙われ追われているのです。すでに何通も脅迫状を受け取り、ある晩には玄関先で襲われました。通行人が警察を呼んでくれなかったなら、メイシーはもはやこの世の人ではなかったでしょう。そんなわけですので、体裁など気にせずに我が家――ナイチンゲール邸に保護することに決め、われわれの純愛を冷たい目で見つめる母の軽蔑にも耐えています。そうしてあなたに助言と助けを求めに来たのです」

「脅迫状は取ってありますか?」

「すべてではありませんが。これです」

 四つ折りの紙を一通ホームズに差し出した。

 友人はそれを読むと肩をすくめ、私に手渡した。

「どう思う、ワトスン?」

 新聞から切り抜かれた文字が丁寧に糊付けされており、次のような文章になっていた。



 ジョニーは必ず死ぬ!



「そうだな、単語や文章を作るために何かの活字から切り抜かれたものだということは間違いない。正体を隠すには完璧な方法だ。この脅迫にしても、ジョン卿がハーロウ嬢の保護者になるというのなら、近いうちに実行される可能性も高いんじゃないだろうか」

「君の言う通りだ、ワトスン! 敵はいらっしゃいますか、ジョン卿?」

「いるわけがない! ですが私のコレクションは有名ですから、悪人に目を付けられても不思議はありません。なにしろ六か月前には、厳重な警戒にもかかわらず、厚かましくもナイチンゲール荘に、まんまと強盗が入り込みました。使用人のトムがすぐに警報を鳴らしたので、盗っ人は急いで逃げていきましたが……」

「ミス・ハーロウは、知り合われる前から、あなたが見てお怒りになったような手紙を受け取っていらっしゃいましたか?」

「いいえ! だから不安なんです。誰かが二人の結婚を妨げようとしているのではないでしょうか? 私を脅そうとしているのでは? あるいはメイシー自身は知らないものの、脅迫を受ける理由があるのでは? 気になって仕方がありません!」

「ミス・ハーロウのご両親にはお聞きになりましたか?」

「まだです! ニューキャッスルに住んでいるので、いずれ会いに行くつもりです。メイシーはフランスを旅行中の友人宅に身を寄せ、ロンドンで独り暮らしをしていました」

「ミス・ハーロウの写真はお持ちでしょうか?」

 ジョン・バンクロフトはふたたび顔を赤らめると、紙入れから写真を引き出し、ホームズに差し出した。ホームズは実験室に籠ってしばらく出てこなかったので、バンクロフトは初めていらだちを見せた。やっと戻ってきたホームズはいつものように落ち着き払い、私にハーロウ嬢の写真を見せた。卿の言葉に偽りはない。力強い印象を与える眼差しの中に、どこか新鮮さと冷やかさの混じった、魅力的な女性だ。とても若く、やや痩せ気味に思われたが、おそらくは小ぎれいに編んでシニヨンに結った美しい髪のせいで、小さな顔が圧迫されていた。私は、依頼人にもわかるほどに感嘆しながら写真を返した。

「どうすればよいでしょう?」依頼人が尋ねた。

「あなたの計画は悪くない。ミス・ハーロウはあなたの家にいれば安心だし、ぼくらにも考える時間もあります」

 ジョン・バンクロフトは少しがっかりしたようだったが、ホームズが言い足した。

「真相解明は引き受けました。心配なさらずとも結構! 新しいことが起こったらすぐに知らせてください」

 バンクロフトを見送って戻ってきたときには、心配そうで、見たこともないほど謎めいた様子だった。

「単純な事件だね。あの若者は妬みから結婚を妨害しようとするやつの犠牲者だよ」

 ホームズは疑わしげに首を振った。

「ワトスン、月並みな事件ほど実は単純でないことは知っているだろう。複雑に見える謎を解明したり、大事件の犯人を見つけたりすることは簡単なことが多いが、ありふれたタイプの事件であるほど、さまざまに解釈できるし手がかりも不十分だから、説明が難しいことが多いものだ。ぼくの助けを借りに来る人たちというのは、たいていの場合はっきりとした危険を感じているのだが、ジョン卿はそうなる前にやって来た。機は熟していない。待つことだよ!」

 ホームズは椅子にうずくまり、鷲のくちばしのような鼻のところまで痩せた膝を引き上げた。難解な推理に偉大な知性のすべてを注ぎ込むときには、進んでこうした窮屈な姿勢を取る。友人が煙草の箱とパイプ二本を引き寄せ、もうもうたる煙に包まれたころ、私は帽子を手にした。

「いいかな、ワトスン?」ドアを開けようとしたところでホームズが声をかけた。「面白いことがあると請け合うよ。明日の晩に来てくれないか!」

 私は喜んで承諾し、さまざまな考えに気を揉むと、なぜかパンジャブとミス・ハーロウがごちゃ混ぜになった空想に身を委ねた。



 面白いこと! むしろ劇的というべきだった! べーカー街に戻ると、上機嫌の友人がいた。外出着をまとったホームズは、部屋に私を入れると机の上の手紙を見せた。ジョン・バンクロフトが書いたものだ。そっくりそのまま引用しよう。



『ホームズ様

 お願いですからすぐに来てください! メイシーが攫われ、コレクションの中でもかなり貴重なものが盗まれました。私は破産し、メイシーは生きてはいないでしょう! ところが、ナイチンゲール邸に出入りできる者などいないのです。そうなると何もかもが不可解で恐ろしい! お願いします、早く来てください! 警察には報せましたが、私が全幅の信頼を置いているのはあなたです!

     ジョン・バンクロフト』



 ホームズはラモーのメヌエットを口ずさんだ。私には何が何だかわからない。

「さてさて!」ホームズはやっと言葉を発した。「手紙は読んだかい?」

「ああ! 恐ろしいことだ! あまりにも可哀想だよ!」

 ホームズは笑い出したが、止めさせようとは思わなかった、というのは、かかる探偵が女性を軽蔑し、いつも私の感傷を滑稽だと言ってからかいの種にしていたからだ。やがて私たちは一緒に馬車を捕まえ、ナイチンゲール邸に向かった。木立に隠れた貴族の邸宅が並ぶ、閑静なロンドン西地区だ。道中ホームズはほとんど口をきかなかったし、私も瞑想の邪魔をしようとはしなかった。ところがホームズが、私を悩ませて離さない問題を話題にした。

「ワトスン、君ならどうする? 厳重な警備と監視に守られた邸に侵入したいとしたら?」

 私が黙ったままでいると、友人もしつこくは聞かなかった。やがて馬車はナイチンゲール邸の前で止まり、すぐに作法の行き届いた使用人のトムに招き入れられた。夜のことゆえ、闇の中で庭の木立と一体となった邸は、黒っぽい塊としか見分けられない。どこか近くで獣の咆哮が聞こえたが、すぐにトムが不安を取り除いた。

「番犬です。鎖につながれていますが、夜には放します! 恐るべき門番ですよ」

「ほかに護衛方法はないんですか?」ホームズが尋ねた。

「とんでもない! 塀のてっぺんに電線を張って、上れないようにしてます。ジョン卿の部屋の机につながっている警報器のシステムは完璧なものですから、何者かが邸に侵入したのを報せるだけではなく、どの部屋にいるのかもわかってしまうんです。それに、貨幣の陳列室には入るところがありません。部屋に行くには扉がありますし、鍵を持っているのはジョン卿だけですから……」

 このとき、ジョン・バンクロフトが玄関前に姿を見せた。冷静でいようとたいへん苦心しているようだ。退るようにトムに合図して、私たちを二階の客間に案内した。その場で彼は、人生をむちゃくちゃにしてしまった恐ろしい事件のことを語り始めた。

「……五時間ほどになりますか。メイシーとこの部屋でお茶を飲もうと、準備をしているところでした。お側にありますが、食器はまだそのときのままです。メイシーは疲れていたようで、昼過ぎに起きると、母とそっけない会話をしたあとで部屋に戻りました。そんなわけですから、私はお茶の準備ができたことを報せようとドアを叩いたのです。すると感謝の言葉と、着替えが終わったらすぐに客間に行く旨を告げられました。ですから待っていると、ドアが開いてからまた閉じる音と、鋭い悲鳴が聞こえました。慌てて駆けてゆくと、ドアの前の廊下にメイシーが倒れており、顔も首も血塗れでした。何もわからぬまま抱え上げると、長椅子に寝かせましたが、努力の甲斐なく今も意識が戻りません……」

「どのような介抱を?」ホームズが尋ねた。

「はい、戸棚の中にリキュールと薬壜があったので、気つけ薬を嗅がせました……」

「戸棚に鍵は掛かっていましたか?」

「ええ! 鍵の束は肌身離さず持っています。ご覧になりますか?」

「その必要はありません! どうぞ続けてください!」

「……それなんですが、メイシーの意識は戻る気配がありません。そこで階下に降りると、トムに医者と警官を呼びに行かせました」

「トムに上がってきてもらうことができたのでは?」

「それはそうです! ですがあんなときにトムを部屋に入れておくのは嫌でした!

「私は大急ぎで階上に戻ると、部屋を覗いて愕然としました。メイシーが消えていたのです。メイシーの部屋に向かいましたが、誰もいません! 客間にも物置にも行きましたが、誰もいないのです! ふと恐ろしい疑惑にとらわれ、陳列室に向かいました。ガラスケースがこじ開けられ、貴重な古銭も硬貨もすべて盗まれていました。終わりです。部屋の絨毯にある小さな血の跡が、メイシーの行方を明らかにしています。急いで窓を確かめましたが、すべて閉まっていました。それで一階をくまなく探しましたが、何の手がかりも見つかりません。殺し屋とその犠牲者は、文字通り消え失せてしまったのです。絶望して、あなたに事件を報せたわけなのです」

「ミス・ハーロウの失踪を確認されたあとで、犬を放さなかったのですか?」

「ええそうです! すぐに警察が到着しましたから、無意味だと思ったのです。ですが邸を囲む電線には電流を流しました。家中を調べましたし、トムが戻るまで玄関にいましたから、逃げ出した者はいないと断言できます」

「ではどなたが手紙を届けたのです?」

「母が使っているメイドのクレアです。この点についても、やるべきことはやりました。いいですか、彼女の部屋には誰も隠れていません。疑わしいところはまったくありません……」

「それからどうしました?」

「トムがレストレードという名の捜査官を案内しました。ご存じですか?」

 ホームズはほくそ笑んだものの、何も言わなかった。

 私は疑問を口にした。「お部屋のテーブルを拝見しましたが、どうして警報器の電源を入れなかったんです?」

「家中を探しまわったあとでは無駄ですとも。それに、トムが戻るまで玄関にいた方がいいと思ったものですから」

「レストレードは何か見つけましたか?」

「あの刑事さんもそこらじゅう探していましたが、何も見つかっていません。今は母のところにいます。母が何か知っているとでもいうのでしょうか! 何もかもが恐ろしく不可解な事件です! メイシーが見つかると思われますか?」

 シャーロック・ホームズはジョン・バンクロフトの顔をまっすぐに見つめて小さく言った。

「率直に言うと、思えません!」

 ジョン・バンクロフトは呻きをあげると、口にハンカチを押し当てた。あまりに可哀想でならない。

「希望が全くないわけではありませんよ!」私は気を遣って声をかけた。だがホームズは、私が先を続けようとしているのを見て、ひとこと口にした。

「部屋を見せてもらえませんか」

 大きな長方形の部屋で、重いドアの向こうは陳列室に通じている。ドアが閉じられると部屋は暗室のようになり、光が射すのは陳列室のドアからだけになった。ホームズは絨毯に四つんばいになると、拡大鏡を手に、眉を寄せ、眼光も鋭く捜査を始めた。これが聖ジェイムズ・ホールにいた優れた音楽愛好家、ベイカー街に住む女嫌いのコカイン中毒者だとは思えない! 顔つきが変わり、目は輝き、犬のように鼻をひくつかせている。聞き取れない呻きをもらしたかと思うと、驚くほどの敏捷さを見せて動き回った。レストレードはホームズのこんな姿を見ても別に驚いたようには見えなかった。肩をすくめてから握手をすると、背中越しに親指でホームズを指さし、尋ねた。

「それで、またですか?」

 だが答えを待たずに私を廊下に連れ出すと、声をひそめた。

「簡単な事件ですよ! トムが共犯です。バンクロフト夫人が、息子と結婚しようとする女狐の死体を隠したんですな。まだ自白してはいませんが、非常に厳しい立場に置かれていると考えておりますし、今からトムを尋問しに行くところです。間違いありませんぜ! 真実を見つけるのは拡大鏡ではありませんよ!」

「せいぜいがんばってください!」と余裕の笑みを見せられて、私はかっとなった。シャーロック・ホームズはそんなことにはまるでかまいもせずに調査を続けている。調査中の陳列室には少しも乱れた形跡がない。だがほとんどのガラスケースが空っぽだった。錠前の周りの木枠が、金属の道具の一突きで破壊されていた。賊が大慌てでことを行ったのはすぐわかる。さまざまな点があいまいなまま残っていたので、ジョン・バンクロフトに向かって疑問を口にせずにはいられなかった。

「陳列室にはどうやって侵入したんでしょうね?」

「わかりません! 錠の仕組みは完璧なものだし、一個だけしかない鍵はずっとポケットの中でした!」

「でも鍵は束にしていたんですよね? では、ほんの一瞬でも鍵束をポケットから出したことは?」

「どういうことです?」

「ええ! 思い出してください! 気つけ薬を取り出すときに、戸棚を開けたはずです。あなたは急いでいた。おそらく鍵束ごと鍵穴に差したままにしておいたのではないでしょうか?」

「そうでした! すっかり忘れていました。階下から戻ってきたときに、無意識のうちに戸棚を閉めたんです。動揺のあまり機械的に動いていたのですが、思い出しました!」

「では間違いない、賊は一瞬の隙を利用して鍵を奪い、陳列室の扉を開けたんです」

「すばらしいよ、ワトスン!」背後からホームズが声をかけた。「確かに、ほかに説明のつけようはなさそうだ!」

「では賊はどこに消えたんです?」ジョン・バンクロフトが尋ねた。「私はせいぜい三分ほどしか階下にいませんでした。盗みにかける時間はせいぜい三分しかない。どう考えても、家中を調べたときにどこかの部屋で鉢合わせするはずです。それにメイシーは? どこに隠れるというのです? そうじゃありませんか?」

「絨毯がその質問に答えてくれますよ」ホームズは落ち着いて断言すると、物置と洗面所を調べるために廊下の端まで歩いていった。

「何かわかったんだ!」バンクロフト氏が叫びをあげ、ホームズを追って駆け出そうとしたので、私はそれを引き留めた。

「あのまま放っておいてください。話を聞き出そうとしないことです。捜査に没頭しているときは、質問されるのを嫌がりますから。それよりも絨毯を調べてみませんか」

 私たちは血痕を覗き込んだが、事件解明の手がかりになるようなものは何ひとつ発見できなかった。

「どの程度の傷なんでしょう?」

「わかりません! メイシーは首にスカーフを巻いていましたから、血はそれに染み込んだのではないでしょうか。手当てする時間もなかったんですよ! 真っ青でしたから、なんとかして気がつかせたかった。きっとナイフか何かで刺されたんです。顔と同じく手も血に染まっていました。たぶん抵抗したときにスカーフを引っ張ったのでしょう」

 この説明で私の不安がいっそう強くなった。首の傷というのは大量の血が流れ続けるものだが、死ねば出血は止まる。ところが残された血の跡は少ししかない。メイシーはまず間違いなく死んでいる。

 ホームズが廊下のはずれから声をかけた。洗面所の入口に立っている。

「見たまえ!」

 ホームズに倣って物置部屋に入ると、小さな天窓からわずかに明かりが差している。狭い部屋だ。古着――スーツ、外套、レインコートが、干し竿にぶら下がっていた。竹縁の鏡が釘でつるされている。

「ジョン卿、この部屋は探しましたか?」

「もちろんです! どの部屋もすべてです!」

「どのような順番で調べたのです?」

「先ほど申し上げたように、まずは大小の客間を念入りに探しました。それから洗面所に入り、物置を抜けて廊下に出ると、最後にメイシーの寝室と化粧室に行きました」

「思っていた通りです! ミス・ハーロウはスーツケースをお持ちでしたか?」

「ええ!」

「今も部屋にありますか?」

「覚えてませんが!」

「見てきてくれ、ワトスン!」

 私はベッドの下から暖炉の中まで確かめてみたが、スーツケースは見つからなかった。哀れなバンクロフトの苦悩をいや増しに強めるようなこの報せを聞いて、シャーロック・ホームズは喜んだように見えた。私はといえば、ますますわからなくなった。賊は人間を一人消し去っただけではなく、スーツケースまで隠したというのか? 奇跡に近い! ホームズが皮肉っぽい様子でこちらを見た。

「だがねワトスン、君は犯人の風体を知っているのだ!」

 私は飛び上がった。

「馬鹿な! 何もわからないな! 捜査を初めて以来すこしも進展したとは思えないし!」

「落ち着きたまえ、ワトスン君! 犯人は五フィート二インチくらいの身長をした人物だ。金髪で身ごなしが軽く、コカインを常用している。舞台に立っており、レキシントン・パレスのすぐ近くに住んでいる……。鏡を見たまえ。普段からこの場所にあるのだろうか? いや違う! ここだとも!」

 ホームズははっきりと四角く跡が残る壁紙を指さした。

「……ほかはすべて色褪せているというのに、鏡の裏だけは元のままの色が残っていたのだ。犯人は鏡を必要としていたが、高いところにありすぎたので、鏡をはずしてほかの場所に掛けた。これで正確な身長がわかる。床に上でもつれた金髪を見つけたのを考えると、鏡の前で髪をとかさなければならなかったんだろうね。この家には金髪の人間はいない。バンクロフト卿に気づかれることなく隠れおおせたのだから、身軽な身体の持ち主なのだ……」

「だがいったいどうやって?」

「ああ! あまりにも単純なことです! あなたが洗面所にいるあいだは物置の中に身を潜めていた。あなたが物置に入ったときには足を忍ばせて廊下を渡り、あなたが廊下に出て来れば今度は寝室に滑り込むだけでよい。寝室に戻ってきたなら再び物置に隠れ……というわけです! つまりあなたは関係のないところを廻っており、犯人は調べられそうな部屋から抜け出して、いったん調べられるやそこに戻っていたのです。目指す相手がまだ家の中にいるのに、すでにもぬけの殻だと思われたのです。極めて狡賢い奴が相手なのは明らかでしょうね、しかも身軽ですばしっこいとくる。床の軋みも衣擦れの音もまったく聞こえなかったのでしょう?」

「何一つ聞こえませんでした! ですがうろたえていましたから、あまり細かいことに注意できる状態ではありませんでした」

「なぜコカイン中毒だとわかるんだい?」

「廊下側のドアの錠が、手探りで鍵を差し込んだように傷だらけだったことに気づかなかったかい? 細かい作業をしっかりと行えるほど手がスムーズに動かないということだよ。鍵束を使ってガラスケースを開けようとしなかったのも同じ理由からだ。錠を壊す方を選んだのだよ!」

「なるほど! だが酔っぱらいだと考えることもできるんじゃないかな!」

「なかなかいいね、ワトスン! だが、ぼくが犯人はコカイン中毒だと断言したのは、君のまだ知らないほかの情報を持っているからなのだ」

「ではメイシーは?」呻くようにジョン・バンクロフトが尋ねた。

「絨毯を調べましたか?」

「もちろんです! ですが何もわかりませんでしたよ!」

「それは調べ方を知らないからです! 来てください!」

 ホームズは私たちを部屋まで連れていくと赤い染みのそばにしゃがませた。

「これは何の形でしょうね?」

「大きな水滴でしょうか」

「その通り、縦にしたならギザギザのついた車輪といったところです。水滴というものは、落ちる角度が急であればあるほど、ぶつかったまま伸びてゆきます。例えば窓ガラスを伝う雨粒をご覧なさい。さてそれでは目の前の染みですが、細長く、周りに飛び散った跳ねはみな同じ方向を向いています。気づきましたか? 跳ねは陳列室の方に向かっています。入口まで行きましょう。ここにも小さな染みがありますが、とても小さく細長い。ドアの近くにはもう一つ小さな染みがある。どうです、わかりましたか?」

 ジョン・バンクロフトは、手に負えないといった様子で私を見つめた。

「あなたの考えは複雑すぎてついていけません。お願いです、メイシーを取り戻してください!」

「説明してくれないか……」今度は私が言った。

「だがあらゆる事実が告げているとも! もちろん君たちは理解しようとしていないのだろう。何かもっと説得力のあるものが必要だな! 今すぐ一つ見せようじゃないか!」

 ホームズが呼鈴の紐を引くと、すぐにトムが現れた。

「おそれいります。階下で刑事さんに尋問されておりましたものですから」

「思い出してくれないか、トム! レストレードさんが到着したとき、警官が一人いっしょじゃなかっただろうか?」

「はい、おりました!」

「どんな警官だった?」

「大柄で痩せていました!」

「ふむ! また出ていくのを見たかね?」

「はい、確かに!」

 トムは戸惑っていた。シャーロック・ホームズは微笑みながら見つめている。

「あの! ホームズさま!」

「ふむ?」

「ですが二度目に見たときにはもっと小柄だったような気がします。じっくり考えてみますと、別の人間だったに違いありません!」

「その男はスーツケースを持っていなかったかい?」

「その通りです! 革製の大きなスーツケースです!」

「そいつだ! 犯人だったんだ!」ジョン・バンクロフトが打ちひしがれたように呟いた。

「そうでしょうね! レストレードが検分しているあいだに鏡の前で変装し、警官やトムの目の前を通って堂々と抜け出したのです。誰もが慌てふためいていることも考慮に入れていたのでしょうね、計画は完璧でした!」

「ですがメイシーは? まだ家の中にいるというのでしょうか? もういちど探してみなければ!」

 ホームズは悲しげに首を振った。

「ミス・ハーロウがどうなったのか知りたいですか? 今夜十時にレキシントン・パレスに来てください。トラファルガー広場で落ち合いましょう!」



 九時にホームズのもとを訪れた。ホームズはまだ帰っていなかったが、待っているようにという言伝があった。そんなわけなので、ナイチンゲール邸の謎について知りたくてたまらない気持を抑えてじっと待っていた。腰を下ろしてから階段に足音が響くまで五分と経っていなかっただろう、見ると襤褸をまとい穴だらけの帽子をかぶったみすぼらしい乞食が入ってきた。左目に眼帯をあてている。慌てて追い出そうとしたところ、シャーロック・ホームズの笑い声が聞こえた。乞食が帽子と眼帯を取ると、唖然とする私の目の前には、見慣れた鋭い輪郭と灰色の目があった。長いあいだ我が友の優れた変装を見てきたが、今夜ほど見事に騙されたことはなかった。ホームズは変装を解きながら話し始めた。

「探していた人物に巡りあえたよ! 何としても捕まえなければ! ナイチンゲール邸の犯人は、デヴィッド・ダイモンドにほかならないのだ!」

 私は驚愕した。あろうことか! デヴィッド・ダイモンド! 彼こそはインド銀行の強盗犯! 彼こそはキャッスルレイ卿の城に押し入った人物! 彼こそは……。だがそんな悪行を列挙したところで何になろう! 二大陸の警察が長年にわたり追いかけていたが、シャーロック・ホームズが足取りをつかんだのである! まさに千載一遇の機会だった!

「だけどどうしてわかったんだい?」

「初めから真相の見当はついていた。けれどジョン・バンクロフト氏のことを考えたのだ! 少しずつ目を開かせてやりたかった」

「ああ! そういうことか!」――真っ暗闇の中からひと筋の光が見えた!「ミス・ハーロウはダイモンドの共犯だったのか! 哀れなバンクロフトを誘惑し、現場に情夫をてびきしたというわけだ!」

「おみごと! ワトスン! その通りだよ! だが急ごう! 武器は持ってるね? ない? それじゃあこの回転拳銃を持っていきたまえ、相手は覚悟を決めているからね!」私たちは門のところで馬車を捕まえ、ジョン・バンクロフトと会うためにレキシントン・パレスに向かった。

 濃い霧にもかかわらず、道行きはあっという間だった。正面口に照明が灯るレキシントン・パレスは、夜中にひときわ輝いていた。シャーロック・ホームズが席を三つ取っていたので、前桟敷のボックス席に腰を下ろし、無遠慮な視線にさらされることなく舞台を見ていられる。ジョン・バンクロフトは不安と苛立ちのあまり興奮していた。大詰めが近づくにつれ、あからさまに謎めかせたホームズの不可解な態度が耐え難くなってきたようだ。それゆえ、的外れに思えるシャーロック・ホームズの招待に関心があったのも、芝居の最初のうちだけであった。ホームズの方はしばしばプログラムを調べ、歌手の歌声を聞いたり空中ブランコ乗りや曲芸師の驚くべき芸当を見たりして愉しんでいるようにも見えた。十時になるとホームズが腕をさわってささやいた。

「よく見るんだ」

 ひときわ恭しい態度をした真っ赤なタイツ姿の軽業師が舞台に現れた。プログラムを順番に調べていくと、大きな文字で〈ディアボロ復活〉と書かれてある。

「あれがナイチンゲール邸の犯人だよ!」なおもホームズが耳打ちした。

 私は胸が締めつけられた。ということは、あそこにいるのがあのダイモンドだ! 燃えさかる松明を五本持って芸当をしていたが、頭を上げたとき、痩せた顔つきと淡い瞳が見えた。

「コカイン中毒にしては、まだまだ死ぬほど器用じゃないか!」私はささやいた。

「死ぬほどとはぴったりだな!」ホームズが微笑を浮かべて答えた。「服用し続けていたのだから、もう廃人だ……」

 ホームズの言葉に合わせるかのように、ダイモンドが床に松明を落としそうになったが、すぐに次の出し物に移った。しかし災いがついてまわっていたようだ。なにしろ皿を何枚も割ってしまい、観客がざわめき始めた。突如としてどよめきがあがった。サーベルとナイフを放り上げたディアボロが意識を失い、短刀が胸に深々と突き刺さっていた。鈍い衝撃音とともに恐ろしい鉄片の雨が降り注いだのに、倒れたまま起きあがらない。私たちを従えてホームズが立ちあがった。観客を落ち着かせようとしてオーケストラが行進曲を始めたのがぼんやりと聞こえたが、グレートハウンドのように走り出したホームズを見失いたくなかったら一分も無駄にはできない。ジョン・バンクロフトも後を追う。舞台裏まで来ると、行き来する道具方や芸人たちが驚いていたが、彼らにぶつかって走る速度が遅くなった。ディアボロの楽屋前には人がひしめき合っていた。ホームズは人を押しのけ、大声で叫びながら少しずつ進んでいった。

「医者を通してくれ!」

 私はジョン・バンクロフトに合図しようと振り返ったが、そこに姿はなかった。楽屋の入口にたどり着くまでには大変な時間がかかったが、なおもホームズは道をふさいで食ってかかるわからず屋を説得しなければならなかった。けっきょくホームズが男の足を払い、私たちは部屋の中に走り込んだ。部屋は空っぽだった。赤い古着と舞台用の引っ込むナイフが床に落ちていた。

「逃げられた」ホームズが呻いた。

 彼は獣のように部屋を見回すと、壁の模様と混ざり合ったようなドアの溝に目を留めた。ドアを大きく開けると、別の楽屋へと続く、小さな鉄の階段があった。大急ぎで階段を下りると、目の前に狭い通路が現れた。ホームズが立ち止まる。急いで逃げる足音が聞こえてきた。ホームズがまたも感情を露わにした。私たちはディアボロに勝ちをおさめたが、二度とその姿を見ることはできないのだ。通路は幾重にも曲がりくねっていた。不意に、支え木やロープ、種々雑多な道具類でいっぱいの、小部屋のようなところに出た。だがその場で私は釘づけにされた。ぼんやりと二つの人影が見えたが、それはジョン・バンクロフトとミス・ハーロウのものだった。私はあっけにとられて動けなかった。

「頭を下げろ」ホームズが叫んだ。

 乾いた音がして弾丸が肩をかすめた。私は柱の陰に隠れると友人の姿を目で探した。そばにはいない。危険を冒して部屋の奥まで覗いてみたが、またも弾丸をお見舞いされ縮こまった。どうすればいい? どのようにホームズを助ければよい? ゆっくりと考える暇もないままに、取っ組み合いの音が聞こえてきた。私は回転拳銃を握ると、低い姿勢のまま、ホームズが死闘を続けていると思われる場所まで駆け寄った。二つの人影が足許で取っ組み合っているのがぼんやりと見えたが、顔の見分けはつかない。誰かの腕が上がり、棍棒のようなものをつかんでいるのが見えたので、私はよくわからぬままとっさに銃床で殴りつけた。下がった腕をつかんで引っ張り上げると、それは呻きをあげて座り込んだジョン・バンクロフトのものだった。ホームズが立ちあがった。床の上には、手錠を掛けられたミス・ハーロウがじっとしていた。ホームズは額をぬぐうと、ミス・ハーロウを立ちあがらせた。ジョン・バンクロフトがそれをうらめし顔に見つめている。

「怒っていらっしゃいますか?」ホームズが尋ねた。「すぐに感謝するようになるでしょう!」

 ミス・ハーロウの髪をつかんで、あっというまにもぎ取ると、とたんにディアボロが現れた。

「これがあなたの婚約者です! ミス・ハーロウとデヴィッド・ダイモンドはたった一人の人間です。犯人と被害者は同一人物だったのです」

 騒ぎを報された警官たちが駆け寄り、またたくまに地下室には三十人ほどの人々が詰めかけて、騒々しくなった。

 ホームズが囚人を当局に引き渡し、私たちはふたたび地上へと戻った。人混みをうまく利用して、ホームズが私たちをこっそり出口まで連れ出すと、馬車でベイカー街に向かった。疲れ切っていたので、用意された食事を大いに満喫した。ホームズはパイプに火をつけると、バンクロフトと私の頭を離れない問題について話し始めた。

「面白い事件だったとは思いませんか? 劇的で、しかも滑稽でもあった! ミス・ハーロウの写真を見たとき、すぐにおぼろげな記憶が呼び起こされました。拡大鏡で子細に調べると、髪の毛が鬘だということはすぐにわかりました。ぼく自身もよく変装をするので、耳の脇の髪に本物らしさを与えるのがいかに難しいか知っております。右耳の上にほんの少したるみを見つければ、それが明白なしるしです。顔にはわからないほどですが若干の男らしさがありましたし、冷やかな表情の下からは別の顔が浮かび上がってきました。髪を隠してみると、ダイモンドの顔が現れたのです。すぐにわかりました。君も知ってのとおり、ぼくはヨーロッパとアメリカの犯罪者を集めた最新のファイルを持っているから、部屋で確かめてみた。間違いなくダイモンドだった。五年前に、かなり込み入った麻薬取引事件でやつを捕まえそこねています。だから間違えようがなかった。すぐに不快な策略の細部まで理解しました。おそらく、あまり良心的ではない大金持ちの愛好家に依頼されて、あなたのコレクションを盗もうとしたのでしょう。六か月前にトムが追っ払った泥棒も、もちろんダイモンドでした。ナイチンゲール邸の警備が極めて厳重だと確認できたわけです。その結果、すこぶる巧妙な計画が企まれました。いつもスペイン人のふりをして舞台に上がる芸人という職業を考えれば、女装するのもやつにとっては子どもの遊びです。コンチータ・トレスという名を耳にしたことがおありでしょう。コンチータ・トレスこそがダイモンドです。バンクロフト卿を監視し、日々の習慣を調べ上げ、演奏会では隣の席になるよう手配したのです。会話が始まりました。あとは知ってのとおりです。バンクロフト卿は女性とおつきあいされたことがない――この点にはたいへんな共感を覚えますが――そんなわけで卿はすっかり魅了されてしまいました。ですが虜にしただけではダイモンドには不十分でした。なんとしてもナイチンゲール邸に潜り込みたかった。そこで脅迫状をでっちあげたのです。もちろん、騎士道精神あふれるバンクロフト卿は邸に保護した。計画の第一段階はまんまと成功しました。そこでダイモンドは小さなスーツケースとともに乗り込みました。ジョン卿、あなたがスーツケースを開けていたなら、警官の扮装を見つけていたでしょうね! ダイモンドは一刻も無駄にはできなかった。彼は首をスカーフで巻き、襞の中に小さな血糊袋を押し込んでいました――さらなる芝居の細工です! 予定どおりに部屋のドアの前で倒れると、ジョン卿は介抱するため横に寝かせようとしました。部屋には長椅子があります。少しもためらわずに、自分の手でダイモンドを聖域に入れてしまったのです! こうしてダイモンドとしては準備万端です。ジョン卿は問題の鍵束を取り出し、一人ダイモンドを残してしばらく部屋を空けました。あなたが部屋から出るが早いか、ダイモンドはさして時間もかけずに血の跡をつけ、陳列室に駆け込みました。ですがその染みが犯人を示していました。考えてみてください。染みの形から見て、「血を流した人物」すなわち被害者が、陳列室の入口に駆け寄ったことは明白です。つまりこの人物は「襲撃を装って」いたのです。襲撃事件が装われたものだとしたら、すなわち襲撃者などは存在せず、いるのは人をペテンにかけようとしている腕利きの泥棒だけです。こうなったらあとは、素早く的確なテンポのままに繰り広げられるだけです。ダイモンドは古銭を分捕り、スーツケースを手にすると物置に隠れました。すでにご存じのとおりの方法でジョン卿から逃げおおせたのです。ジョン卿は一階に下りました。ダイモンドは落ち着いて服を脱ぎ――金髪の下の――化粧を落とし――新たな服を身につけると、やがて戦利品とともに姿を消しました。初めは警官のトリックがわかりませんでしたが、ダイモンドがどうやって入り込んだのかはよくわかっていました。ですがドアはジョン卿とトムが順番に見張っていたのですから、どうやって抜け出たのかがわからなかった。物置に入ったとき、突如として光明が射しました。ダイモンドは劇場の人間です。小道具室から警官の衣裳をくすねることなどあまりに簡単なことです。一方でかの軽業師ディアボロが、レキシントン・パレスで復帰するところでした。コンチータ・トレス、ミス・ハーロウ、ダイモンド、ディアボロ。四つの名前がぼくの頭の中に集まりました。けれど確かめなければならない仮説はたったひとつしかありません。そこでぼくは乞食に変装し、レキシントン・パレスまでぶらつきに行きました。建物の中に入り、仮説に間違いがないと確かめるのは簡単なことでした。まだ血のついたままの警官の制服を見つけたのです。もはやダイモンドを逮捕するだけです。ところがあまりに自信を持っていたために、ぼくは重大な過失を犯してしまいました。前桟敷から芸人を間近に見ることができるのなら、反対に舞台からも観客をたやすく見わけることができたのです。ダイモンドはわれわれを見てうろたえ、松明を落としました。しかしそこは策略家です。すぐに短刀を使った計略を考えつき、観客の混乱を利用すると、ふたたび女の姿に戻ったのです。共犯者が楽屋を封鎖し、ダイモンドを逃がす手伝いをすることになりました。ダイモンドは逃亡した。そのときジョン卿は、人混みのせいでぼくらからはぐれ、道に迷っていました。出口を探して廊下をうろついていると、死んだはずのミス・ハーロウが目の前に立っていました。喜びのあまりジョン卿はハーロウと連れだって逃げだし、しつこい犯人たちが入口まで婚約者を追いかけてきたのだと信じて、ぼくらに銃を撃ってきた。幸いなことに、ぼくは今でも用心しています!」

 シャーロック・ホームズはジンを少し注ぐとつけ加えた。

「いいかい、ワトスン、厳重に警備された邸に侵入する方法はたった一つしかない。結婚することさ! 偉大な知性にとって最大の敵は愛情だよ」


Thomas Narcejac--'LE MYSTERE DE NIGHTINGALE MANSION' の全訳です。

Ver. 01 04/09/12
Vol. 2 


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作品について
 ミステリや映画を見ない人でも、ヒッチコックの名前は聞いたことがあると思います。代表作は数知れず、『鳥』『北北西に進路を取れ』『ダイヤルMを廻せ!』『サイコ』……そして『めまい』。その『めまい』の原作者が、フランスの推理作家ボアロー&ナルスジャックです。
 そしてボアロー&ナルスジャックの片割れトーマ・ナルスジャックが発表したのが、本作品『贋作展覧会』というわけです。

 この『贋作展覧会』、全部で18篇の短篇が収録されていますが、そのすべてが贋作(パスティーシュ)という異色作――中には当時のフランス国内でのみ知られているような作家の贋作も混じっていますが、それを除けば、ホームズ、ルパン、ブラウン神父、ピーター卿、ポワロ、クイーン、メグレ、ネロ・ウルフ、ハドリー・チェイスにウィリアム・アイリッシュといった錚々たる顔ぶれ。手持ちの版には未収録ですが、ファイロ・ヴァンスの贋作もあるらしい。

 ここに翻訳したのは、いわずと知れたアーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ物語のパスティーシュ。ポケミスの『贋作展覧会』にはなぜか収録されなかった作品です。

 出来はというと、個人的にはあまり優れた贋作だとは思えませんでした。お馴染みの依頼人登場からホームズの推理、という展開こそ原典らしさが漂っていましたが、例えばレストレード警部やバンクロフト夫人の扱いなど、いかにも中途半端です。レストレードの登場やホームズの変装などは、作品として云々というよりファンサービスと捉えるべきでしょう。ほかにも細かいファンサービスといいますか、シャーロキアン的お遊びが随所に散りばめられた、ホームズファンには楽しい作品であることは間違いありません。
 気になる点といえば、ワトスンが賢すぎるというか、勘が良すぎるような気もするのですが、どうなのでしょう? 
 ミステリ的には……ま、言わずにおきましょう。

[翻訳について]
 一応、ホームズものらしく訳したつもりです。ホームズは「ぼく」、ワトスンは「わたし」といった基本線なんかも。しかしホームズはまだしもワトスンの語り口調って難しいですね。あまり偉そうでもいけないし、あまりおバカそうでもいけないし、あまり丁寧すぎても親しげすぎてもいけないし。

 最後の段落について――ホームズがワトスンと依頼人の二人に推理を話して聞かせる場面のはずなのですが、ワトスンも依頼人も口を挟まずホームズだけしか喋っていないので、どう訳せばいいのか迷いました。結局、基本的には依頼人に向けて(丁寧に)話しつつ、時折ワトスンに(親しげに)話しかける、という訳し方にしました。

 シャーロキアン的な註釈もわかるかぎりつけてはみました。


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