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ある歩兵に関する個人的な覚書

J・D・サリンジャー

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 彼はギャバジンのスーツ姿で事務室にやって来た。アメリカ人男性が妻に向かい、週に二回ジムに通うことにしたと口にして――妻が答えて曰く、「いいんじゃない、ねえ――頼むから灰皿つかってくれる? そのためのものでしょ」――そんな年齢――四十歳くらいか?――それを何歳《いくつ》か越えていた。上着が開いていたので、年季の入ったビール腹が見て取れる。シャツの襟はびしょぬれ。息を切らしていた。

 書類を手にして近づいてくると、机の上に広げた。

「見てもらえますか?」

 わたしは徴兵官ではないのだと伝えた。すると「おや」と声をあげて書類をまとめ始めたが、わたしはそれを取り上げて目を通した。

「ここは徴兵事務所じゃないんだ」

「ええ。でも最近はここでも入隊を受けつけているのでは」

 わたしは頷いた。「わかってるだろうけれど、この部署に入隊すれば、基礎訓練はここで受けることになる。歩兵部隊だ。時代遅れなところがある。歩くんだ。足の具合は?」

「問題ありません」

「息が切れている」

「でも足は問題ありません。息切れもすぐ治ります。煙草をやめたので」

 出願書類をめくった。曹長が、もっとよく見ようと椅子を回した。

「重要な軍需工場の技術主任なんだし」ロウラー当人に指摘してみた。「年齢から言って、今の仕事をまっとうするほうが祖国のためには一番なのではと考えてみたことは?」

「後任には、頭脳は申し分なし、身体は救いようなしの若者を見つけてきました」

 わたしは煙草に火をつけた。「その仕事には長い経験と訓練が要るはずだ」

「以前はそう思っておりました」

 曹長が白くなった片眉をあげて、わたしを見た。

「結婚して息子が二人。従軍のことを奥さんはどう思っている?」

 ロウラーは奇妙な笑みを浮かべた。「喜んでますよ。そうでしょう? 妻というものは旦那が戦争に行くのを見たがるものです。もちろん息子は二人。一人は陸軍、一人は海軍――真珠湾で片腕を失くすまでですが。話はこれくらいでいいでしょうか? 軍曹殿、徴兵官がどこにいらっしゃるか教えていただけませんか?」

 オルムステッド軍曹は答えなかった。わたしが机の向こう側へ書類をすべらせると、ロウラーは手に取って待っていた。

「歩兵中隊前をまっすぐ行って、左。右側に見える最初の建物だ」

「ありがとうございます。お騒がせしました」からかうようにそう言うと、ロウラーはハンカチで首の後ろを拭きながら、事務室を出ていった。

 事務室を出て五分もしないうちに電話が鳴った。ロウラーの妻だった。自分が徴兵官ではないこと、できることは何一つないことを説明して聞かせた。本人が入隊を望んでおり、精神的にも肉体的にも道徳的にも適性があるなら――徴兵官にだって宣誓させる以外できることはない。だが身体検査で不合格する可能性は常にある。

 軍規通りの通話とはいいがたかったが、ロウラー夫人とかなり長いあいだ話をしていた。世界で一番やわらかな声だった。まるでクッキーのありかを少年たちに教えることに人生の大半を費やしてきたかのように聞こえた。

 もう電話をかけないでほしいと言いたかったが、この声に冷たい仕打ちはできなかった。

 絶対にできなかった。

 ついには受話器を置くときがきた。女に強く当たることがどれだけ重要であるかについて、曹長がすらすらと一席ぶった。

 基礎訓練のあいだじゅう、わたしはロウラーから目を離さなかった。軍隊生活のどう名付くべかるる局面にも参ることはなかったし、元気をなくすことすらなかった。みっちり一週間、炊事当番を勤めあげたし、並ぶ者なき台所奉行であった。行軍のやり方も、寝台のきれいな整え方も、兵舎掃除のやり方も難なく覚えていた。

 たいした兵士だったので、神経を研ぎ澄ましているところを見てみたかった。


 基礎が終わると、お人好しのジョージ・エディ率いる第一大隊F中隊に転属された。昨年晩春のことだ。夏の初めにエディの部隊が出兵命令を受けた。最後になって、エディは乗船名簿からロウラーの名前を外した。

 ロウラーがこのことで会いに来た。気分を害して反抗的なところがあった。二度ばかり話をさえぎらなくてはならなかった。

「なぜここに? 隊長じゃないのに」

「きっと何か関係があるんだ。そもそも初めから入隊させたがっていなかった」

「何の関係もないよ」その通りだった。ジョージ・エディには、いいとも悪いともいっさい話したことはない。

 そのときロウラーが言ったことが、わたしの背筋を震え上がらせた。わずかに上体を突き出すと机に身を乗り出した。「戦いたいんだ。わかってもらえないかな? 戦いたいんだ

 目をそらさずにはいられなかった。理由はわからない。ロウラーは直立不動の体勢に戻った。

 妻がまた電話をしたのかとたずねられた。

 そうではないと答えた。

「きっとエディ大尉に電話したんだ」ロウラーが苦々しげに言った。

「そんなことはないだろう」

 ロウラーは頷くともなく頷いた。それから敬礼すると、くるりと振り向き、事務室を出ていった。わたしはロウラーを観察した。軍服は着慣れ始めていた。十五ポンドほど落ちていたし、背筋は伸び、腹は――というかそのなごりは――へこんでいた。全然かっこわるくなかった。

 ロウラーは第二大隊L中隊へ二度目の転属となった。八月に伍長になり、十月初めには下級軍曹の記章をつけていた。隊長のバッド・ギネスが、ロウラーは中隊のなかでも一番だと言った。

 冬の終わり、わたしが基礎訓練所の引き継ぎを命じられたころに、第二大隊が出航した。ロウラーが発ってからしばらくのあいだは、夫人に電話することはできなかった。部隊の上陸が公になるまでは無理だった。それからわたしは長距離電話をかけた。

 泣き出されはしなかった。とはいえ声はとても弱々しくなり、ほとんど聞き取れない。普段通りの素晴らしい声を取り戻してもらいたくて、うまいことを言いたかった。今は勇敢な兵士《ボーイ》になっているのだと口にしようと考えた。だが勇敢なことは相手もわかっている。だれだってわかっている。それにロウラーは子供《ボーイ》ではなかった。それにそもそも、そんな気休めは不自然で嘘っぽかった。ほかの言い回しも考えたが、どれもみんなこじゃれたものばかりだった。

 普段通りの声に戻すことはできないことをそのとき悟った――少なくともこんな即席では。だが嬉しがらせることはできた。嬉しがらせることができるとわかっていた。

「ピートを呼んだよ。船まで見送りに行けた。親父が敬礼しかけたけど、お別れのキスをしてやった。元気そうだった。すごく元気そうだったよ、母さん」

 ピートは弟だ。海軍で少尉をやっていた。


‘Personal Notes of an Infantryman’-- J. D. Salinger の全訳です。


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05/04/04 ver.3

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