バスを二本乗り継いだため夕暮れ近くなってしまったので、ベルを鳴らさなくてもすむように裏口に滑り込んだ。台所を抜けて二階へと急ぐ。服を脱ぎ捨てシャワーを浴び、身体をきれいにしたかった。それで少しは楽になる。気持を落ち着かせなければ。何もかも今朝と同じく振る舞うように努めなければ。
けれど今朝から十歳も歳を取ったような気がしていた。以前は遊んでいたに過ぎなかった。ゲームのようなものだった。ほとんど『もしかして』という疑心暗鬼で怖がっていた。疑いだけだった。もしかしたらデヴォン医師は犯人ではないかもしれなかった。もしかしたら不安はすべて取り越しかもしれなかった。でも知ってしまった。もうゲームではない。現実だ。ちょっとでもミスを犯した途端に、トニーの身に恐ろしいことが起こってしまう。
ある意味では前よりもやりやすくなってきたという不思議な思いを抱いていた。
服を着替え始めた。ドアがノックされたときには、スリップ姿で顔と髪を整えていた。
ビーだった。「戻ってきたと思って」
どんな糸が二人のあいだに張られていたかと記憶を探った。音楽?
アリスは急いで口を開いた。「あのね、もう家でピアノは弾かないから」
「そう? あれはあれで悪くなかったけどな」
「そうですか、ありがとうございます」思わぬ優しい言葉に面食らった。
「みーんな退屈してるよ」蔑むようないつもの口調だった。「デヴォン先生は別だけどね。馬鹿なことが好きじゃないから」
ビーのやきもちが治まっていることに気づいた。
「それにしても、ものすごいことやったよね!」どこか面白がっているようだ。「どうしてケリー・ピールと結婚していたなんて法螺を吹こうと思ったわけ?」アリスは答えなかった。「何を隠そうと思ってるのか知らないけどさ」哀れむような調子だった。「秘密なんて隠し通せっこないよ」
「あの、わたしがばかだったんです」アリスはつぶやいた。「隠しごとなんてありませんから……」
「へえ、そう、あるんでしょ」ひとり満足してビーは続けた。「そのうちばれるよ。無理矢理はいやでしょ? 気持的にさ。全部きちんと話し合ったほうがいいよ。絶対に。じゃないとおかしくなっちゃうよ」
「そう思いますか?」アリスはつぶやいた。
「トニーはいいやつだもん」とつぜん話を変えた。「あたしはちゃんと話を聞くよ」黒い瞳が輝いていた。「母は何にも興味を持たない人だけどさ。でもあたしは……ちゃんと話を聞きさえすればどうなるのかってことを少しは学んだもの。心にしまっていたって、誤解されるだけだよ。それくらいのことはわかっている」
おそらくビーは好意で言ってくれている。でもアリスには喜べなかった。
「内緒にしてくれるって約束しましたよね?」アリスは穏やかにたずねた。
ビーの顔に血がのぼる。「昨日、誕生日だってのをしゃべちゃったこと? なんなの、それが大事なこと?」アリスが答えなかったので、ビーはすぐに穂を継いだ。少し後悔しているように見えた。「ごめん。でもさ、デヴォン先生に話したほうがいいと思うんだ。先生になら……(ビーはできるだけ優しくなろうとしているのだろうか?)きっと話してみてよかったと思うよ。どっちみち話さなきゃならないんだし、楽になれる。解決法はそれしかない」
「何の解決法なんです?」
「そりゃ……波風を立てないための……」
「夕飯に行こうと思って着替えていたんです。波風なんか立ってなかった」
ビーが顔をこわばらせた。「できるだけのことはしたからね。助け船は出した。仲よくしようとしてあげたのに――たとえ嘘つきでもね! おばさんが、部屋に来るようにって言ってたからさ」突き刺すように付け加えた。「伝えといたほうがいいと思ったんだ。それだけ」
「ほんとに感謝してます」
ビーがドアをぴしゃりと閉めた。すまないという気持にはなれなかった。
夕食用の青い服に着替えて老婦人の部屋に入ったアリスは、上品で汚れのない、白髪をきれいになでつけた――ひとりの貴婦人が――小さくて可愛らしいピンクの椅子に座っているのに気づいた。
「どうぞお座りなさい」
低くて滑り落ちそうな椅子に腰を下ろした。自分の顔がどれほど変わっているのか知らなかった。自分の皮膚の表面が骨のようにむき出しになり引きつって見えることを知らなかった。昨夜より十歳以上も歳を取ったように見えることに気づかなかった。アリスはかしこまってたずねた。「なんでしょうか?」
「みんな心配していたんですよ、なかでも私は……」
「ごめんなさい。わかってますから。昨日の夜のことを許してもらえないのはわかります」
二人の目が合った。何かが音を立てて行き交った。
「どんなことにも二つの見方があります」老婦人がゆっくりと話し始めた。「たしか、あなた側の言い分を聞いたことがなかったわね」
「ばかな利かん坊みたいなことしちゃったんです」アリスは控えめに答えた。
「信じません。あなたは馬鹿でも利かん坊でもないでしょう」
視線がぶつかり合ったと言えないこともない。だがある意味では痛いところをずきずきと突いていた。
「いくつかたずねなくてはならないと思ったんです」レッドファーン夫人が言った。「かなりしつこくなってしまうとしても」
アリスは何も言わなかった。
夫人はもってまわったように話し始めた。「とても不愉快なことでしたが――」
アリスは頷いた。「そのとおりです」
「ビアトリスが恐ろしいことをほのめかしました」
「知ってます」
「知ってる?」アリスがそれ以上答えなかったので、夫人は乾いた口唇をうるおした。「なんと言ったらいいのかわかりませんが、何か困っているのなら私たちもトニーの家族として、それどころか今はあなたの家族として、心から心配しているのだということをわかってほしいのです」
「とてもよくわかります」
「どんなことで困っているの?」
「何も困ってはいません」そう言ってアリスはわずかに微笑んだ。「心配してくださってありがとうございます」
今はもうレッドファーン夫人は目を合わせていなかった。「ふと思ったんです――ここにいらした日に気づいてしまったのだけれど……何か言おうとしてためらいませんでしたか?」
「いえ」記憶にない。
「ためらっていたように見えましたよ」穏やかに打ち消した。「だから、ご家族のことで困っているのではないかと考えたのですが?」アリスはしゃべらない。これに乗じるわけにもいかないし、嘘を重ねることもできなかった。「何も恥じることはないんですよ」レッドファーン夫人が温かく声をかけた。
自分を殺す姿勢に心を打たれた。アリスがたじろいだことに夫人も気がついたようだ。「だってアリス……トニーはあなたと結婚し、ここに預けていったんですよ。私の家にいるんですから」
アリスは弱々しくつぶやいた。「置いていってほしくなかったのに」
今度は老婦人のたじろぐ番だった。
「だけどトニーのしたことだから……待っていなくちゃならないんですか?」
「そのとおりですよ」
「できるだけおとなしくするってことですね」
「そういうことです」夫人は悲しげにそう答えた。
最後に交わした視線には、互いの敬意が確固として存在していた。
アリスは部屋を出た。
深い息をついた。
アリスは螺旋階段を下り始めた。
グレゴリーが下からアリスを見上げていた。
「ちょっと来てくれないか」帰宅するには早い時間だ。狼狽している。アリスは背筋をぴんと張り詰めさせた。
グレッグは螺旋階段の下にひっそりと作られた小さな穴蔵みたいな部屋にアリスを連れて行った。ドアを閉める。投獄されたような気分だ。
「ピールが死んだ」
ひどく突然のことだったので、驚いたふりをすることができなかった。何も言わずにぐったりと小机にもたれることしかできない。
「息子さんのケリーが会社に電話をかけてきた。何も知らないのか? 本当のことを言ってくれ!」
アリスは唾を飲み込むと、喉に手をやり、首を振った。
「今回は嘘はなしだ。ハンク・ボウマンが銀行から昼に電話を寄こした」グレゴリーの目は節穴ではなかった。「三百ドルのトラヴェラーズ・チェックを現金化したね?」
「しました」否定することなどできなかった。どれだけのことを認めなければいけないのかも悟っていた。
「ピールさんの身体から、三百ドルが見つかったそうだ」
アリスは目をつぶった。
「ケリーは覚えがないと言っている。ボウマンは気づいていない。というか、そうであってほしいよ。だが私は気づいたし、真相を話してもらうつもりだ。ピールに三百ドル渡したんだね?」
「はい、渡しました」
「なぜだ?」
「ピールさんが亡くなったとおっしゃいましたよね?」
「ああ、そう言った。お金のことを話してくれ。すぐにだ、アリス」
「わかりました。あの……ピールさんが馘首になった原因はわたしでしたよね? そんなつもりは全然なかったのに。だからどこかよその場所で暮らすために、お金が必要だったら……援助すべきなんじゃないかと思ったんです――できるかぎり」
「ビーが言っていたように、口止めのためではないんだね?」
頭が痛い。目が痛い。アリスは痛む頭を横に振った。
「トニーは気にしないだろうと思ったわけかい?」グレッグの口元が一瞬だけからかうように変化した。
アリスは低い声で答えた。「二人のお金をどう使ったかはトニーがたずねるだろうと思ってます」
グレッグが怒ったように鼻を鳴らした。「信用できない。君は頭がよすぎるんだ。大馬鹿者なんかでは絶対にない。何かを隠しているんだろう。とんだ厄介ごとを持ち込んでくれたよ!」何歩か進んでから振り返った。「ケリー・ピールが、階段の真ん中で首を折っている母を発見した」容赦なかった。
アリスは両手で顔を覆った。
「手を降ろしなさい。本当のことが知りたいんだ。事件が起こったとき、現場にいたんだね?」
「そんなことありません」
「だが今日そこに行きはしたんだね?」
「はい」
「それでいい」重々しい声できっぱりと告げるとアリスに迫った。「タクシーのドライヴァーが警察に連絡しているんだ。さあ話してくれ」
「お金をあげるって約束してたんです」アリスは弱々しく答えた。あきらめきって静かに顎を上げた。「だから小切手を現金に換えて、家までタクシーを拾いました。二階に上がってお金を渡してから、挨拶をして下に降りました。五分かかりました。それで全部です」
「十一時二十五分にそこに着いたはずだね?」
「わたしが?」
「ドライヴァーがそう言っている。どのくらいそこにいたんだい?」
「五分以上はいませんでした」アリスは嘘を繰り返した。「もっと短かったかも。でもいったい……ピールさんに何があったんですか?」
グレッグおじが口唇を噛んだ。「いいかい。君が巻き込まれていることを理解してもらうよ。もしボウマンが……ドライヴァーはグレイの服を着た若い女を乗せたと言っている。その場所も確認している。君の人相書きを説明できるんだ。現場で降りたことも認めている。立ち去るのを見た人はいるのかい?」
アリスは首を振るしかなかった。
「警察はグレイの服を着た若い女を探しているそうだ」苦々しく吐き捨てた。「わかるかい? もしボウマンがつながりに気づいたら……どうすればいいのかわからない。これは殺人事件なんだ」
アリスは息を呑んだ。
「ピールさんの手首にね。誰かが手首を強く握っていたせいで、跡がついているそうだ。君のものなのか?」今やグレゴリーの声は厳格なものではなく、頼み込むようなものに変わっていた。
「違います」アリスはきっぱりと答えた。「わたしじゃありません」
「帰るときにはまだ生きていたんだね?」
「はい、そうです」
「つまり……警察の助けになるようなことは何も言えないのか……」
グレッグの緊張がゆるむのを感じ取れた。おじは出口を探していた。「ええ、何も知らないんです」誠意を尽くしてそう答えた。「誰も見なかったし、ピールさんは一人きりでした。帰るときには生きていました」みんな嘘だったが、たずねずにはいられなかった。「信じてくれますか?」
グレッグは冷たい視線を送った。「信じるよ。わけを言おう。手渡した三百ドルがまだそこにある。この転落事件に関係があるのなら、きっと持ち帰っていたはずだ」
アリスは何の反応も見せなかった。
「いいかい」グレッグは小机の向こうにある椅子へと向かうと、てきぱきと命じた。「座りなさい。座りたまえ。どうすれば一番いいのか決める必要があるんだ」アリスは座った。「私が一番いやなのはね、家族が殺人事件と関わりがあると思われることだよ。できることなら、ジェラルディンおばさんを困らせたくないんだ。あまりにも……汚らわしすぎる。いいだろう。ピールさんが落ちる前に家から出たという話を信じることにしよう。条件がある。残りをすっかり話してくれたら、だ」
「もう何も……」
「なぜお金を渡したんだ? なぜそもそもがイヤリングなんだ? 隠しているのはどんなことなんだい、アリス?」
「すっかり話しました……」
「違う、話してはいない」
「ごめんなさい……」
「ではすぐにトニーに電話をかけねばなるまい。トニーなら話す気にさせられるというのなら、そうしてもらう。実際、君のことはトニーの問題だ。私たちにそうした権利があるかのどうかもわからないよ。居場所は? ミネソタかい? 町の名前は?」
「レイク・パートリッジ」アリスは小さくささやいた。
「それじゃあ……所長の名前は?」
「デルガドさんです」
グレッグが立ちあがった。「話してくれるね? ピールに友情だけを感じていたと言うのかい?」
「でもそうなんです」
「夫が苦労して稼いだ三百ドルを投げ捨てたのかい?」
「トニーはわかってくれます」アリスはつぶやいた。
「おいおいわかるよ」
ドアを開けると、ホールを横切り電話の方へ向かった。アリスもついてゆく。会話の中頃から、グレゴリーはアリスを警察に突き出したりはしないだろうとなぜか確信していた。たとえ出口を見つけられなかったとしても。
だけど心が痛んだ。トニー! トニー! トニー! トニーはミネソタにはいないのだ。
すっかり話してしまおうか? 今ここで? デヴォン医師がピールさんを殺したと? できるわけない! 信じてくれるわけがない! 嘘つきだと思われてるんだから。嘘つきだってことを知っているんだから。わたしは嘘つきなのだ。信じてもらうこともできないし、わたしほどにはトニーのことが心配にはならないだろうし、誰にも言わないでくれるとは思えない。
絶対に話せない。
グレッグは交換手たちと激しいやりとりをしていた。それからミネソタの誰かと話をしていた。「トニー・ペイジをお願いします……はい? いつ出ました? はい、ええ……それじゃあ、もうシカゴにはいないだろうと?……ええ、ありがとう」
アリスの心が大きくゆるみ和らいだ。
「トニーはシカゴに向かったそうだ。そこにももういないだろうと言っていたよ。だからすぐには捕まらない。何をすればいいだろうね?」
「警察の助けになるようなことは何もないんです」アリスは小さくささやいた。「でもやらなきゃいけないと思うのなら、どんなことでもなさってください」
おじは顔をしかめた。「朝には連絡が取れると思うよ。それまではおとなしくしておいてくれないか、アリス。女たちには内緒だぞ」
「わかりました。約束します」素直に頷いた。
ミネソタ、レイク・パートリッジでは、ロサンジェルスに電話をかけていた。サイモンズという人物にだった。
「ハーブ・イネスです。ちょっと変なんです。トニー・ペイジの妻がシカゴに現れません」
「ではどこにいる?」
「わかりません、それが、デルガドのところにペイジ宛てに電話がかかってきたんです。ついさっき。グレンデールからです。ごまかしておきましたが。トニーはシカゴに向かっている途中だと言っておきました」
「それでいい」
「これは……その……奥さんが――知ってるのでは……」
「わかっている」
「それはまずいでしょう」
「できるかぎりペイジを助けてやるんだ」
「連絡は? まだ戻りませんか?」
「ああ。君はシカゴにいる方がいいな」
「すぐに飛びます」
「よし。できるかぎり助けてやるんだ」
木曜日、メキシコ。宝石などの貴金属品をビッグ・フランク同様ひっそりと経営している輸出入会社を調べることにその日一日を費やした。ここで働かせてもらったのだ。虚ろな顔で帰るときには、日が落ちるまでにはこれがビッグ・フランクに報告されるだろうと考えて満足していた。
ゆっくりと、だが簡単に終わってしまったのかもしれない。
アリスは夕食のため大部屋に向かった。すぐに貴婦人たちも集まった。ホーテンスは狂ったようにじろじろとアリスを見つめたが、何も言わなかった。レッドファーン夫人はいつもの席についた――神殿の真ん中だ。ビーがアリスを無視して飛び込んできた。誰もが気取っている。
少し悲しかった。グレッグは朝までうまく言い逃れるつもりだろう。ありがたいことにミネソタにいる人たちが嘘をついてくれたおかげで、今のところトニーは無事だ。貴婦人たちはピール夫人の死を報されていない。緊張を解いて静かに一休みする時間だ。
ほっと一息入れた。
そのときドアからエレンの声が聞こえた……「いらっしゃいませ、デヴォンさま」
この家の習慣のせいで少しだけ……ほんの少しのあいだだけ……ふたたび緊張を強いられる。デヴォン医師が今夜やって来るなんて知らなかった! 夕食に招かれていたんだ! 頭のなかがぐちゃぐちゃになった。
どうすればいいんだろう? 目なんか合わせられるだろうか? この内通者と? この犯罪者と? この殺人者と? でもやらなくちゃだめなのだ! 目を合わせるだけではなく、アリスの身辺では何も起こらなかったと信じさせなくてはだめなのだ。二人のあいだでは、何もかも以前とまったく同じように。どんなつながりが……うわ、何てことだろう? 医師にかなり好感を持っていたことを思い出した。味方のように見えたのに。いい人だと思っていたのに。なのにこの人が? まさか! どうしてこんな――ひとこと伝えればトニーを殺すことのできる――悪人が少しでも魅力的に見えるのだろう。トニー!
天啓が降りた。
呼鈴を鳴らしたのがトニーだったとしたら? ちょうど今、トニーが部屋にやってくるところだとしたら?
デヴォン医師の姿がかまちに現れたとき、アリスは顔を上げ、輝かんばかりの喜びを浮かべてみせた。口元がほころび、目が輝いていた。トニーの無事を見ているという素晴らしい夢を医師に向かって投げかけていた。一本の線が二人のあいだで跳ね上がる。その線が空気を揺るがせた。「こんばんは!」アリスはありったけの声をあげた――まるでトニーが来たみたいに。
デヴォン医師は否が応でも温かい笑みで答えるしかなかった。「やあ、こんばんは」親しげに言葉を返した。
次に婦人たちに挨拶を送れば、返ってくるのはビーからの猜疑に満ちた暗い視線なのは目に見えていた。
グレッグが後ろから声をかけた。「ウォルター、ちょっと部屋に寄ってほしいんだ」
「ああ、いいとも。ちょっと失礼」二人は部屋をあとにした。
アリスの顔から輝きが消えていった。一休みする間なんかこれっぽっちもなくなるだろう。グレッグはデヴォン医師に目下の問題を打ち明けるつもりだ。それはわかる。ピール夫人のところにわずかしかいなかったと、できるだけはっきりさせておいたのは、これを恐れていたからにほかならない。ピール夫人が生きているうちに立ち去ったことを……いなくなっていたということを……何も知らないということを……デヴォン医師は信じるはずだ。信じなかったとしたら……アリスは背筋が締めつけられるのを感じた。絶対に信じるはずだ! ゆっくりと言い聞かせる。絶対に信じるはずだ、だって笑顔を送ることができたじゃないか、トニーのために。そうだ、何だってできる! 何もかも! トニーのためなら。
顔を下ろして、ドレスを震わす胸の鼓動を確認した。
ビーが怒りを露わにした。「この家の中で、いったい何が起こってるの? アリスが隠しごとしてて。今度は父さん」
ホーテンスがもごもごと声を出した。
「今日はどうでしたか?」レッドファーン夫人の優雅な声音が、ビーの貴婦人らしからぬ動揺にかぶせられた。
アリスも同じように答えた。「とても楽しかったです」嬉しそうにそう言った。「魅力的な町でした」微笑むと、目があった。
男二人は小さな部屋に閉じこもっていた。「トニーはシカゴに向かっているところだから、到着するまではつかまらないんだ」グレゴリーの目は心配そうに見開かれていた。「どうすればいいだろう?」
デヴォン医師は黙って聞いていた。口唇をすぼめたが、開きはしなかった。
グレゴリーがぶちまけた。「すぐに警察を呼ぶべきだ、なんて言わないでくれ。アリスがグレイの服の女なんだ。本人も認めている。だけど警察を呼びたくはないんだよ。家族のことを考えたんだ……それにはっきり言うと……自分のことも考えた」
「アリスの言うことを信じるのか?」
「ある程度まではね。すべてを話してはくれなかった。どうしてお金を渡したのかもわからない」
「だがアリスが殺人に関わっているとは思っていないんだな?」
「それはそうだよ」グレゴリーはいらいらして答えた。「君はそう思うのか?」
「まさか。そんなこと、にわかには信じられん」医師は――すべてを知っている人物は――そう言って慰めた。
「会いに行ってくれてたらなあ」グレゴリーはうめいた。
医師はため息をついた。「忙しかったんだ。会いに行きたかったさ。それより、息子さんが電話を寄こしたと言ったな?」
「ああ、うちの使用人だったからね……」
「警察からの連絡はないんだな?」
「うん、ないよ、だけど連絡は来るだろうな。たぶんそのうちに。まさにそれなんだ。少なくとも朝までは待つつもりだ。今夜、警察に連絡するつもりはない。迷っているのは……うん、心配なのは、予想以上に警察が知っているんじゃないかってことなんだ。なあ、君には知り合いがたくさんいるだろう……」
「俺にしてほしいということか……内偵を?」
「その……どう思う?」
医師は少しだけ考えていたが、ついにこう言った。「君が調べた方がいいかもしれん。お役所連中と知り合いだろう。署長のタウンゼントとつきあいがあったはずだ」
「ああ」グレッグはしぶしぶ答えた。
「君なら対等に話ができる。それに被害者の雇い主だ。興味を持っても当然だろう」
「そうだな」
医師はグレッグが話してほしいと思っていたことを話し始めた。「今のところはアリスを警察に引き渡す必要はないだろう。おそらく絶対に。新しい事実が明らかにならないかぎりは、家族を騒がしい世間にさらす必要もない。やるべきなのは――ひとつ、警察が何をしているのか。ふたつ、アリスが被害者と何をしていたのか」
「わかった」深いため息をついて答えた。「わかったと思うよ。例えば、警察がとっくに犯人を見つけたとしよう? それでわれわれは自由だ」
「その通り。息子さんは何かそんなようなことを言っていなかったか? 容疑者がいるとか? 誰かを……何かを……見たとか? 例えば車なんかは?」
「言ってなかったよ。タクシー・ドライヴァーのことだけしか言わなかった。警察が運転手をどうやって突き止めたのかはわからない。もちろん息子さんは聞いてないだろうし。きっとその後なにかあったんだろう……」
「いいかい」医師が穏やかに口を挟んだ。「どうしてタウンゼントに電話しないんだ、グレッグ?」
「それは私が……?」落ち着きをなくしていた。
「代わりにやってもいいが」医師はよどみなく答えた。「それはちょっと……怪しくないか? 興味を持つのは不自然だ。ことによったら……もっと遅く……そうだな、遠回りすることになるかもしれない。わかるな?」
グレッグは頷いた。
「もちろん今夜は、アリスが打ち明けてくれるように説得できないかどうか確かめる。けっこう……気に入ってくれてるようだからな」ひとり悦に入って付け加えた。
Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 8 の全訳です。
Ver.1 05/01/05