デヴォン医師が一人で大部屋に戻ってきたときには、グレゴリーが電話をかけにホールに行ったのかと思ったが、いなくなっても心配はしていなかった。今はどんな気分でいるべきだろう? そう、アリスは厄介ごとのただ中におり、医師は話のわかる友人だ。そこでアリスはたっぷりと含みを持たせて苦しげな笑みを送った。
医師は改めて婦人たちに挨拶したが、絆がその場に割り込んだ。医師はアリスのそばに腰を下ろした。二人のあいだには一本の線があった。「何も心配することはない」医師が耳元でささやいた。
アリスは目を伏せた。
「カクテルはお召しになるでしょう、先生」老婦人がそう言うと、ホーテンスが足早に立ち去った。「奥さまはお元気?」
しばらくするとグレッグがやってきて、部屋の中に頷きかけると、医師が応えた。
途端にビーが喉から奇声をあげた。アリスが振り向くと、ビーはかんかんだった。
「もういいよ。何なの? 何なのさ?」
「何なのとは何のことだ?」グレゴリーはいらいらとたずねた。「マティーニを飲んでいるんじゃないか?」
ビーが怒りを爆発させた。「馬鹿にしてるわけ? そこらじゅうで頷いたり目配せしたり囁いたり!」
「ビアトリス……」レッドファーン夫人が声をかける。
「おばさん、構わないで。なんであたしたちはのけものなの。アリスは知ってるのに! なんでアリスが知ってるの?」
ホーテンスが戻ってきた。痩せた背を曲げ、長い首を伸ばして立っていた。「すぐにエレンが運んできます。何を知っているというんです?」
グレゴリーが声をかけた。「落ち着いてくれよ、ビー。二人とも頼む」
「やだ、落ち着くもんか!」もう手がつけられなかった。「子ども扱いしないでよ。あたしの父親だよ……デヴォン先生だよ……」(あたしのデヴォン先生、ビーの態度がそう洩らしていた。)
デヴォン医師はやめてくれというようにため息を漏らした。「君には本当に関係ないことなんだ、ビアトリス」
「じゃあ誰に関係あるの? アリス?」ビーの黒い瞳に涙があふれていた。「なんでそんなにアリスと関係あることばっかりなわけ? いつもいつもアリス! この家に来てからずっと……」
レッドファーン夫人が割って入った。「ビアトリス、大声を出すものではありません」
「その通りだ。そんな必要はない」医師はそう言って微笑みを浮かべた。
レッドファーン夫人が頭を上げたが、微笑んではいなかった。「大声を出す必要など一生ありません」冷たく言い放つ。「グレゴリー、何か問題があるのなら、すっかり話したほうがよいですよ」
「大丈夫です。心配させたくないですから……」
「アリスは孫の妻だし、お客様ですよ。アリスに関係があるのなら、心配しますとも。さあ、お願いですから……」
デヴォン医師はこの点についてグレゴリーに助け船を出すことにした。「たぶん」喉を鳴らす。「何の覚悟もなしに朝刊を読まない方がいい」
グレゴリーも不安げに同意した。「そうだろうな」
「悲しい出来事が起こりました」医師がしずしずと話を進めた。「お宅のピール夫人が……その、事故に遭いまして」
老婦人は話を理解すると、噛みしめ、よく考えたうえで、疑問を持ち始めた。
「そうなんです」目をそらさずに医師は続けた。「ピール夫人は亡くなりました」
「ああ――」ホーテンスが椅子に身体を投げ出した。
エレンがカクテルを二客お盆に載せて運んできた。男たちが手に取るあいだ部屋中が凍りついていた。
エレンが立ち去るとレッドファーン夫人が落ち着いてたずねた。「どのようなことが起こったんです?」
「階段から落ちたらしいんです」
「そう……」
「新聞沙汰にはなるだろうな」そう言うと、グレゴリーは絶望的なそぶりで肩をすくめた。
「続けてよ。続けて」ビーの目はきらきらと燃えていた。
「どうやら……殺人だと考えられる」この爆弾発言の直後に、アリスの方を振り向いた。「そこで考えたんですがね、アリスは昔からピール夫人を知っているわけだから、何か夫人について話ができるんじゃないかと思ったんです」
アリスはかぶりを振った。
ビーは納得しなかった。「アリスは知ってるよ! 驚かなかったもの。何もかも知ってるんでしょ?」
「ええ、でも……」
「なんで知ってるの?」
「私が話したんだ」グレゴリーが答えた。「ビー、頼むから……」
そんな言葉は無視をした。「あたし聞こえたからね」医師に向かって声をあげる。「さっき耳打ちしてたの聞こえたんだ。なんで心配しなくていいの? 何のことを心配しなくてもいいわけ?」
「ちょっと待ってくれ」医師はきっぱりと答えた。「ちょっとだけだ……」
「アリスは首を突っ込んでるわけ?」ビーの怒りはおさまらない。「あの掃除婦が何か知ってたのよ! アリスがやったのかも!」
グレゴリーの我慢もそこまでだった。娘に向かって冷たく言い放った。「静かにしないのなら、黙らせるだけだぞ」
「なんてことを」デヴォン医師が悲しげにつぶやいた。「ビアトリスは、かなり取り乱してるんじゃないか。情けない。レッドファーン夫人、何かお持ちしましょうか? ご気分がすぐれないようですが?」
レッドファーン夫人の顔からは血の気が引いていた。
アリスは胸が張り裂けそうだった。「お願いです、グレゴリーおじさん! ひどくなるだけです」
だがレッドファーン夫人の声からは落ち着きが消えていなかったし、貫禄も失われてはいなかった。「アリス、きちんと説明してくれたならよかったのに」
「でもだめなんです……」アリスは息を呑んだ。「約束したんです」
医師がこうべをめぐらせた。「約束したって? 誰と?」
アリスは目をしっかりと開いて答えた。「グレゴリーおじさんとです」
「ビーがああなってしまった。もういいよ。みんなすっかり聞いた方がいい」グレッグはビーを睨みつけた。
ビーは石のように静かに座っていた。
アリスは老婦人に向き直った。「ビーが言ったことは全然ちがうんです。たしかに今朝ピールさんのところには行きました。そのことでおじさんと、それに先生も心配させてしまって。いたのはほんのちょっとだけです。ピールさんは無事でした。警察の助けになるようなことは本当に何も知らないんです……でも……」
「警察ですって!」ホーテンスが声を絞り出した。
レッドファーン夫人がたずねた。「どうしてそんなところに行ったんです?」
「うん。すべて明らかにする時期じゃないかな……どうしてなんだい? どうしてあそこに行って三百ドル渡したんだい?」
ホーテンスが天を仰いだが、ビーはぴくりともしなかった。
「お話ししたとおりなんです。知り合いだったから。何度も説明しました。三百ドルあげてもいいような友だちがいない人ばっかりなんですか?」
心臓が全身を震わせていた。どうやって切り抜けよう?
レッドファーン夫人が小さな手で目元を押さえた。顔をうつむけるなんて、見慣れぬ光景だった。
医師ががばっと立ち上がると、言い聞かせるように口を開いた。「こんな大騒ぎを続けるのは馬鹿げてる。奥さんも仰ったじゃないか、必要ない、と。話すことがまだあるんじゃないかとグレッグが思ってるのなら、そしてアリスが打ち明けたくないというのなら……何を考えているかわかるでしょう? こんなときこそ私の出番ではないですかな」
医師は話を続けた。
「みなさんとはおつきあいさせてもらってる。任せてもらえるでしょうね。私の専門だ。仲裁者の役を買って出ましょう」アリスに顔を向けた。「わかってくれたまえ。みんな今なにをすべきなのか知りたいだけなんだ。だから、なぜピール夫人に会いに行ったのか、あるいは何を渡したのかを、誰かが正確に知る必要がある。どんな関係なのかということも、本当の理由についてもできるだけ口をつぐんできたのだろう。だが君は若い。それにここではまだまだ他人だ。無言で通すのは無理というものだよ。何をすべきかをグレッグが考えなきゃならんのはわかるだろう? 家族のためだ。トニーのためだ。それに君のためだ。たとえば、警察に知らせるという問題だが。この難局を任せてもらえないかね? 私ではみんなの不安を取り除けないかな?」
「みんなにはちゃんと安心してもらいました」アリスは口をにごした。
声を嗄らしてビーが言いつのった。「先生ならできる。最高じゃない。助けてもらいなさいよ」驚いたあまりいくらか興味を持ったようだ。
医師は明朗に答えた。「むろん手助けできる。みんなにだ。ひとつ聞いておこう。アリスが私にだけすっかり話してくれたあかつきには、やったことにはちゃんと事情があったのだということや、なぜ隠していたのかがすっかりわかったということを、みんなに話すつもりだが……それを信用してもらえるかな? 安心してもらえないかな?」
「いいと思うよ」グレッグが答えた。「いい考えだよ」
「アリス、職業柄、聞いた話は口外しないのだとわかってくれたまえ」
アリスは座ったままだった。
「みんなもそれでいいですか?」
ホーテンスが甲高い声をアリスに浴びせた。「詮索するつもりはないんですけどね、でもあまりにもおかしなことばかりですから! それにとうとう人が死にました! 説明すべきでしょう。ただ説明するだけで……」
ビーもかすれた声で同意した。「ホントにそう」
レッドファーン夫人が簡潔にたずねた。「アリスが話してくれた内容が、知っておいたほうがいいことだったなら、そのときは教えてくださるのでしょう?」
「いえ、それは駄目です。残念ですが。ですが私が判断して、助言できます。ですからみなさんを安心させることはできると思っておりますよ。そうだろう、アリス?」
そのとおりだ、とアリスは思った。この人はみんなを黙らせることができる。みんなをそのまま困らせておける。この人がひとこと言えば、みんなはわたしをのけ者にするだろう。すっかり『わかって』しまったら、この人はトニーを殺すのだろう! アリスの目から涙があふれた。
デヴォン医師が顔を近づけてなだめるような言葉をかけた。「こんな厄介な隠しごとをしたままじゃ苦しいだろう。とても辛いはずだ。肩の荷を預けてくれたまえ。誓ったよ、いいね? 考える必要はない……」
アリスの目から魔法のようにたちまち涙がひいた。だけどわたしもきっちりと誓っているのだ。
アリスは顔を上げた。みんなの注目を、なかでも医師の注目を浴びていた。今からしゃべることは、できるだけ本心に近くなければならない。
「ごめんなさい。あまり賛成できません」
誰もが無言だった。
アリスは立ちあがった。「わたしは誰も殺してません」
「待った、待った、すぐには信じ……」医師がつぶやいた。
「それに何も悪いことはしてません……ピールさんにお金を渡しただけです」
「何のために?」ホーテンスが声をあげた。
「わけを説明したくはありません」アリスはきっぱりと答えた。「話したくありません。しゃべるようなことじゃないんです……」声を落ち着かせるために一息ついた。「すっかり打ち明けるのが正しいんでしょうけど。でもときには秘密を守る権利もあると思うんです。尊厳を守る権利です」
「尊厳を奪ったりはしないさ」医師が喉を鳴らした。「同情している友だちに打ち明けるような安心感があるだけだ」
「ホント」ビーも言った。「ホントそう。助けてもらいなよ」
「ごめんなさい。でも『打ち明ける』ことに安心感が持てないんです」
「わかるとも。第一歩にすぎない」
「ここじゃ他人ですから。わたしのこと知らないひとばっかり。それはわかってます。みんなデヴォン先生を尊敬してる。昔から先生のこと知っている。デヴォン先生がピールさんか誰かに三百ドル渡したとしたらどう思いますか? 個人的な事情があって? どんな事情があるのか聞き出さなくちゃ、なんて言う人いますか?」
「いないだろうな」医師がつぶやいた。目が輝いている。この人だけが理解しているのだという恐ろしい印象が心に浮かんだ。
「それなら……」アリスは背筋をぴんと伸ばした。「みんなが言うように隠しごとがあるとします。過去に過ちを犯して、それを知られたくないのだとします。そんなふうに、過ちを犯していた場合でも、わたしなら間違いなくそれを理解しようとするだろうし、もう一度やり直そうとするだろうし、尊敬されるまで頑張るだろうと思います。自分で判断することや良心を働かせることが一番だと思ってますから」かすかに身体を震わせた。「ここじゃあわたし、一人だけ現代っ子ですから。どうせ今どきの子はとか言うんでしょう。レッドファーンさんみたいに神殿になんか住んでませんから。身を守る塀なんてないんです」軽く衝撃を受けている視線を受け止めた。スタフォード一家に向き直る。「だけど臆病なんかじゃない。みんなしっかり生きてます。わたしもそう。取り乱してなんかない。やりたいことをやるだけ。どうするのか決める権利があるし、それに――犯罪者じゃないかぎりは――自分で決める義務があります」
充分に時間をかけて気持を落ち着かせた。誰でもないアリス自身が話していた。「みんな礼儀正しいひとばかりでしょう。ですよね? ただプライヴァシーがほしいだけなんです……その方がよければ警察にも同じことを頼みます」
静寂。
ホールで電話がジリジリと音を立てたので、これ幸いとばかりにグレゴリーが急いで部屋を出た。デヴォン医師の目は閉じられていた。レッドファーン夫人はじっと両手を見つめて考え込んでいた。ビーはあっけにとられている。ホーテンスは息を呑むので精一杯だった。
ようやくグレゴリーがさっきよりも軽い足取りで戻ってくると、にこにこせんばかりにみんなに告げた。「タウンゼントからだった。容疑者がいるそうだ」
「ほう?」医師が即座に反応した。
「もしくは容疑者の手がかりかな」グレゴリーはすっかり安心している。「誰かがあの部屋のドアの陰にしばらく立っていたんだ。壁に指紋がついていた。隠れていた人がいたんだ。だからアリスは晴れて容疑の圏外だ」そう言って息をついた。
アリスは立ちすくんでいた。
改めて容疑の圏内だ……それはよくわかっていた。
アリスとデヴォン医師のあいだには、わななくような線が一本、張り詰めて震えていた。
ふたたび声を出したのはビーだった。「アリス、あんたそこにいたんでしょ。ドアのところに……誰か隠れていたりはしなかった?」
答えるアリスの口唇は氷のようだった。「わかりません。話せることはぜんぶ話しました。これ以上、質問しないでください。もう退がっていいですか」
「一歩も動いちゃ駄目」ビーが荒々しく止めた。
「ビアトリス……」医師の声だった。滑らかで、あふれる知性。「退がっていい、いや退がるべきだ。アリスは疲れてるんだ。行かせてあげなくては」医師が手を挙げた。これは命令だった。「部屋でおとなしく寝かせてあげなさい。アリスのためだ。みんなのためでもある。いいかね――精神的に必要なんだ」
無論、誰もが言いなりだった。
「ありがとうございます、先生」
アリスは絨毯の上を歩いて、廊下に出た。階段に着いた。爪先が当たった。
大部屋ではレッドファーン夫人がやや声を荒げていた。「ここが神殿だというのですか?」
「何をすればいいの?」ホーテンスがわめいていた。「何をすればいいの?」今度ばかりはレッドファーン夫人側に飛びつかなかった。
「夕食の準備が出来ました」エレンが告げた。
「下げてくれる」興奮状態のホーテンスが言った。「三十分したら……」
「かしこまりました」
「エレン、いいかな」デヴォン医師が口を挟んだ。「ホールの二階で待機していてくれないだろうか? お願いだ。ちゃんと……そう……ペイジさんが大丈夫だと確認できるまでだ。我々の助けが必要なときは――すっかり取り乱していたときには――呼んでくれるかい?」
エレンは目を白黒させながら退出した。
「これは大問題なんじゃないだろうか」医師が切り出した。
「ドアに隠れていたのはアリスだっていうの?」抜け目なくビーがたずねた。
「そうだったのかもしれない」悲しげに答えた。「そうだったのかも。だが守ってやらなくては――自分自身から――できるかぎり……」目は虚ろ。考えに沈んでいた。
アリスは窓際の床に座り込んだ。肌で肌を温めたくて、頬がむき出しの腕に触れた。山がすぐそばにひっそりとそびえている。夕闇が山の端に滑り落ちていた。
あの人たちには好きに言わせておこう。トニーのことはしゃべらない。絶対に。託されたのは沈黙だけ。沈黙と没交渉。
わたしはここに残るのだろう。今いるところに。ここに座っているのだろう。床の上に。そして山を見つめているのだ。トニーが戻ってくるまでは。
万が一、警察に連絡されたとしたら、そのときは牢屋で沈黙するだけ。壁を見つめていればいい。
警察のことは考えていなかった。デヴォン医師がそんなことをさせるとは思わない。アリスがしゃべらざるを得ない状況になることを恐れているはずだ。
だからじっとしている。沈黙を守る。デヴォン医師を恐れてはいなかった。医師は気を揉んでいるだろう。でも知ることはできないのだ。それに手を出すこともできない。
沈黙を守ってここに留まるのだ。
木曜日、メキシコ。最後にトニーはもう一度ビッグ・フランクに会った。情報を聞き及んでいたビッグ・フランクがトニーを責めた。どうして信用ならんやつらに近づいたのか? あんなひどい仕事をしなければならなかったのか? だからトニーはすっかり繰り返さざるを得なかった。そのとおりです、ご好意を仇で返してしまいましたが。仕事が必要でした。密輸業者から消費者へとわたる麻薬の流通ルートが完全に理解できたとほのめかした。トニーは祈った……
ビッグ・フランクが大笑いした。トニーにメキシコでの仕事を持ちかけた。ガキの遊び。安い給料。トニーは機嫌よく断わった。飛行機のチケットを買うことができて、もっと自分には上を目指すだけの値打ちがあることをわかっている人間のように。
二人のあいだには何のわだかまりもなかった。話を打ち切ると、思い出に耽った。
近づいた、とトニーは感じた。
大部屋では、医師が話を続けていた。
「何よりもまず、トニーをつかまえなくてはならない。それでいながら、アリスを守らなくてはならない。隔離すべきだ。解決の方法は見えている」
「うん、そうだな、トニーに連絡を取るよ」グレッグが言った。「アリスのことはどうすればいい? 次に何をしたらいいんだ」
「みんなのためだ」――医師の笑顔は不気味なほど優しかった――「アリスは隔離すべきだ。みんなの評判が崩れ落ちるのを防ぐためだ。あの娘自身のためだ。こんなことは何も知らないのに、いずれ聞かなくてはならないトニーを守るためだ。もっと大事なことがある、あの娘を危険から守る必要があるかもしれない」
「危険?」ビーが繰り返した。
「アリスがドアの陰にいたとしよう」
「危険……犯人からの?」
「その通り。アリスがあの部屋にいたということは新聞に載らざるをえないからだ。そうだろう?」せっかちに続けた。「殺人犯はまた殺すかもしれん。可能性はゼロか?」脅えた顔を見回して、実権を握っていることに喜びを覚えた。「わかってくれ、ことによると危険なんだ」
「どうすればいいの?」すっかり丸め込まれたホーテンスが声を震わせた。
「例えば……そうだ、ご飯を持っていくだろう?」
ふたたびレッドファーン夫人が背筋を伸ばした。それまではぴくりとも動かず耳を傾けていたが、きっぱりと口にした。「とうぜん食べなくてはなりません。あの娘は私の家にいるんです」
「では私が……」
ビーが割って入った。「アリスはちょっと動揺してるんじゃない、先生? かなり動揺してる。ぜんぶ話すべきだったのに。そうは……思いません?」ビーの目は医師の顔に納得の色を探した。
医師は抑揚をつけて悲しげに答えた。「そうは思わない。だが重荷を背負っている。さっきのヒステリーは精神的重圧によるものだ。胸に納めず話した方がいいという点では正しいな。誰かが行って助けなければ。一人きりにはできない」
「そんな」ビーが暗示にかかったように唱えた。「そんな。こんなのひどい」
「なんとかしてくれ」グレッグがたまりかねて口を出した。
「こんな考え方は独断的に見えるかもしれない。アリスのためを思えばこそだ。車に鎮静剤がある。できれば必要な量をご飯に混ぜた方がいいと思う……いやもちろん、少しも害にはならんよ。今夜、私立の病院に連れていかせてもらうだけでいい。そこは……うん……馴染みでね。それで警察の尋問を完全にシャットアウトできる」
「それがいい」グレッグがすがるように賛成した。
「それに、そこに行ってしまえば……役立つ薬がほかにもいろいろある、つまり反抗しなくなるような薬だ、わかるな? そいつの助けを借りれば、百パーセント聞き出せる。知っていることがわかりさえすれば……つまり心にのしかかっているものが、ということだが……どう対処すればよいかを教えてやれる」
「まったくその通り」ホーテンスが力説した。「すべてを打ち明けるような娘でなくてはいけないんです!」
グレッグが背筋を伸ばした。「だったら私がコックに話そうか? ウォルター、台所まで来てくれるかい?」
二人が立ち去った。レッドファーン夫人が声を出した。「誰か部屋まで手を貸してくれませんか?」
ビーがよろめきながら立ちあがって駆け寄った。「ジェラルディンおばさん……! 駄目よ……駄目……」
「夕食は無理のようです」老婦人が言った。「失礼してもかまわないでしょうね?」
「ああもう! こんなこと聞いちゃ駄目だったのに! あたしが部屋まで……」
医師はグレッグに話しかけていた。「三十分てとこだな。食事を運んでいったら、そのあとで私らも夕飯を取れるだろう? それから……」レッドファーン夫人がビーに支えられて通りかかった。医師は老婦人に笑顔を送ると優しく声をかけた。「安静になさることです。騒ぎになることなどないと信じてお休みになって下さい。世間に知られることはありません。うまく処理するとお考え下さい。万事問題ありません。こうした問題を扱うための最新の方法があるんです。あれこれ考えて気を揉むことはありませんよ」
「失礼してもよろしかったかしら?」老婦人は優雅に繰り返した。
「もちろんですよ」快く理解を示して医師が答えた。
階段を上りきったところで、レッドファーン夫人は腕を離した。「もう大丈夫だから」
「アリスったら、こんな騒ぎに巻き込むなんて何を考えてんのかしら? でも先生を信じて。先生はわかってるから……」
「もう一人でも大丈夫よ。見ての通り、しっかりしてるから」
木曜日、メキシコ。トニーが出発しようとしているときに、いつ町を離れるつもりなのかとビッグ・フランクがたずねた。トニーは日曜の便を取ったと答えた。
「出発前にどうだい?」ビッグ・フランクがたずねた。
「近いうちに」トニーが答えた。「でなけりゃ、お別れです……」
残りは二日だ。金曜日。土曜日。
まだ何かつかめるかもしれないとトニーは考えた。
アリスは長いあいだ虚ろな目つきで見るともなく山を見つめていたが、誰かがドアをノックした。「はい?」
「エレンです、ペイジさま。お食事をお持ちいたしました」
「ありがとう」アリスは立ちあがって鍵を開けた。「いただくわ。ほんとにありがとう」
「とんでもないです」エレンは目をまん丸にしてそう言うと、そわそわしながら立ち去った。
アリスは両手でお盆を鏡台まで運んだ。振り返って鍵を閉め直そうとした。だがトニーの祖母が戸口に立っていた。
「ごめんなさい。一人になるのが一番いいと思ったんです」
「行きなさい、エレン」
「奥さま、ここで待つように言われましたもので……」
「ここは私の家です。それにあなたと私は長いおつきあいでしょう。三十分ほどしたら、何一つ騒ぎはなかったと言いなさい。それだけしか言ってはなりません」
「はい、奥さま」
アリスはドアに手を伸ばしたが、レッドファーン夫人が手を出して閉めた。
「食事に鎮静剤が入っていることを伝えに来ました」
アリスは後ずさった。
「あなたを病院に連れて行こうとしています」
「病院ですか!」
「アリス?」
「何でしょう?」
レッドファーン夫人はまっすぐに立っていた。「これまで、私たちはうまくやってきました。個人の尊厳を守ることは大事なことだと思ってきたし、自分たちで責任を負ってきました」
「わたし――わたし、わかってもらえたら……」アリスは口ごもった。だが老婦人の目は静かで悲しげだった。
「今のが、知らせにきた理由です。こんなことを許すわけにはいきません。正しいことだとは思えないのです」
「それは……わたしを連れていくってことがですか?」
「ほかにも計画していました。薬はほかにもいろいろあるとデヴォン先生が言っていました」
「ほかの薬?」
「あまり反抗できなくなるそうです。すっかり打ち明けるようにさせて……ですから病院で無抵抗にされてしまったなら、先生の知りたがっていることをすべて話してしまうでしょう」レッドファーン夫人は小さな手を組んで握りしめた。倒れてしまいそうに見えたので、アリスは急いで駆け寄った。
レッドファーン夫人はアリスの腕に抱えられた。「グレゴリー、ホーテンス、それにビアトリスも……賛成しています。でも私は賛成できません」
「わたしに薬を……しゃべるまで?」恐ろしくなった。
「そんなの魂を犯すのと同じです!」老婦人の声は興奮で震えていた。目にショックが浮かんでいた。「いけないこと」レッドファーン夫人の小さな口が不意に歪んだ。「役割通りの役を演じる必要があるのです。ここが神殿だというのであれば、何かのための神殿であってしかるべきでしょう。あなたに対してこんな間違ったことをさせたりはしません。ですから私は知らせに来たのだし、あなたは逃げなくてはならないのです」
「わかりました」鼓動が速まっていた。「逃げます。ありがとうございます」
「ですけどどこに行くんです?」老婦人は不意に不安になった。「警察に行くつもりなの?」
「今は違います」アリスはゆっくりと答えた。「わたしの役通りに演じなくちゃいけないから」
「そうです。そうですとも。トニーのところに行くの?」
「トニーに連絡するつもりです」アリスは静かに答えた。
「お金は? 現金は持っていませんから、小切手ではどう?」
「ありがとうございます、でも必要ありません。五ドルありますから」
老婦人の目にがっかりしたような色が浮かんだ。
「なんとかします。わたしは……世間で暮らしてたんです。一人で……」
「でもまだ子ども……」
「うまくやります」アリスははっきりと言った。
「すぐに出かけるの? みんなは食事中です。先生は三十分と言っていましたから。エレンが見張っている予定でした」
「今すぐ行きます」
「でもどこに?」
「知らない方がいいと思うんです」きっぱりと答えた。
「まあひどい! 古くさいし! 拷問台を連想しましたよ。でももっと悪いのは――そんな機転を奪い取ることですよ! あなたの記憶を盗むことです! 個人の自由というものはどうなるのです? あるいは選択は? あるいは人間性は? 私はちゃんとあなたの権利を認めますよ、アリス。何をしようとも、ちゃんとその権利があるのですから」
「ありがとうございます……こんなに」
「あの人たちの計画に我慢がならないから知らせたのです」いつか震えが戻ってきていた。「隠しごとが何であるかなど知りません」
「みんなが思っているようなことじゃないんです」アリスは悲しげに答えた。「言えないんです」
「話してほしいだなんて頼みませんよ」老婦人は姿勢を正した。「アリス、何を間違ったにせよ」声が響き渡った。「必ずつぐないなさい」
アリスは息を呑んだ。「はい、わたし……ほんとにありがとうございます」
老婦人が後ろを向いた。アリスは戸口に急ぐと、ドアを開けた。老婦人が幽霊のように通りすぎた。とはいえ背を伸ばして。堂々と。
アリスはドアを閉めた。デヴォンの薬! あの嘘つきな笑顔! 悪魔だ! 身体をぼろぼろにし、魂を犯すのだ!
そうだ、行かなくちゃ。命を守るため、行かなくちゃ。薬を飲ませて隠しごとを二つとも聞き出していたなら、医師は難なく切り抜けていただろう……アリスはグレイのスーツに着替え、上着とバッグと五ドルを手にした。ベルトに靴を結びつけた。
ただ消えるだけ。あとはちゃんと……お願い、そんなにうまくいく?……アリスを探すだけでかなりの時間をつぶすはず……そうすれば、トニーが無事に戻ってこれる。そのときには打ち明けることができる。
部屋から抜け出た。ホールはがらんとしていた。レッドファーン夫人の部屋のドアは閉まっていた。玄関付近にたどり着くまでは螺旋階段を忍び足で降りた。食堂からかすかに声が聞こえた。止めどないグレゴリーのものだ。
外に出た。空からの明かりしかない。暗闇のなかへ慎重に足を運んだ。車道まで歩いた。門のところで靴を履いた。牧草地沿いに道を歩いた。深閑とした郊外に出ても歩き続けた。
三十分後、何一つ騒ぎはなかったし、知っているのはそれだけだとエレンが告げた。
だがアリスは消えていた。
グレゴリーは真っ赤になった。医師は口を引き結んで、まだ警察を呼んだりはしないよう求めた。グレゴリーはシカゴに電話をかけた。トニーの部屋では誰も出なかった。
医師は素早く助言を重ねた。今夜警察に連絡するのはいい判断とは言えない。レッドファーン夫人を驚かせるのもよくない。誰も驚かせてはならない。朝になったらトニーを探そう。それはそれとして、個人的な情報筋を持っている。ごく慎重に秘密裏の捜査を進められるかもしれない。信頼してくれと皆に声をかけた。困惑した少女が逃げ出したが、きっと見つけられる。
アリスは消えていた。
金曜日、朝早く、グレゴリーはシカゴに電話した。トニーの部屋は今度も応答がなかったが、事務所につながった。はい、ペイジですか? ええ、昨日遅くに来ましたよ。でももうロサンジェルスに飛び立った頃です。
インディアナにいるアリスの両親に電話をかけた。アリスはロサンジェルスにいるだろうという話だった。L.A.に友人がいるのかとたずねると、そうではなく旦那さんの親戚がいるのだという返答に加え、そちらはどなたですか?と言われた。臆病風が頭をもたげてきたせいで、言いつくろうと電話を切った。
不安から逃れたくてデヴォン医師に電話した。デヴォンもアリスを見つけてはいなかった。
アリスは消えていた。
Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 9 の全訳です。
Ver.1 05/01/05