レッドファーン夫人はその日ベッドから出なかった。 『事件』の刺激が強すぎたのだと嘘をついた。ホーテンスは側には寄らなかったものの、わななく幽霊のように付き添っていた。この家の騒ぎは、ホーテンスには刺激が強すぎた。愉快なものではなかった。
大おばの世話をしようとしたのはビーだ。ビーの好奇心は治まっていた。レッドファーン夫人は一人で横になり、何もしなくていいと伝えた。老婦人はアリスのことをたずねなかった。何もたずねなかったし――何も言わなかった。
アリスが消えたことを誰も伝えようとはしなかった。グレゴリーはといえば、アリスの失踪に逆上せてしまった。慎重にという言葉など聞く耳持たずに、タウンゼント署長に電話してすっかり伝えていた。
タウンゼントは警察官らしく落ち着いて話を聞いていた。頼もしかった。しかるべく警官に伝えるし、新聞には載らないようにする。探すのはアリス・ハンセン・ペイジ、二十歳、五フィート四インチ、黒い髪、薄藍の目、上品な顔立ち……
……当該の人物が失踪した。
グレゴリーは幾分か落ち着いた。デヴォン医師も落ち着いたと言っていたが、どことなく引きつっていた。
金曜日、メキシコ。トニーはその日を無為にすごした。仕事なんてくそくらえ。つまらない。一人シカゴで待っている恋人アリスのことを考えた。真摯なアリス、愛してる。
金曜の午後五時にかかってきた電話にホーテンスが出た。トニー・ペイジ宛だった。相手に向かい、申し訳ないけれどペイジは不在なのだと答えた。伝言はなかった。
土曜日。朝早くにデヴォン医師が電話で、トニーが戻ってきたかをたずねた。トニーはまだだった。電話も電報もなし。
「それにアリスはどこなんだ?」グレッグがわめいた。「トニーが到着したらそれを答えなくちゃならないだろう。警察は見つけられない。君もだ。それとも見つかるかい?」
「まだだろうな」
グレッグは急いで声をひそめた。「君はこの……殺人犯がアリスを探すぐらいのことはわかっているだろう?」
「犯人がどうやって見つけるというんだ?」相手をなだめた。「我々じゃなしに? 警察はどう言っていた?」
「知らないのか?」グレッグはかなりいらいらしていた。「警察は目撃者を探してるよ、グレイの服を着た少女が昼の十二時ごろに辺りを歩いていたのを見なかったか。たしか昼ごろ発見されたんだったね?」
「ああ……うん、たしかそうだった」
「アリスは殺人にからんで何かを知っている。いま言えるのはただ……アリスは脅えているということだよ。なんとかトニーと連絡を取って、一緒にいるんじゃないだろうか」
「それは思いつかなかった。可能性はあるな」
「トニーは予定より遅れてるんだ。どうやら昨日の夕方五時には家にいると考えていた人もいる」
「誰のことだ?」
「電話が来たんだよ。男だった。トニーはすぐに戻ってくるし、アリスも一緒なんだと祈るしかない」
「そう願おう。知らせてくれるか?」
「もちろんだよ。だけどウォルター、ぼくらはあの娘にちゃんとした扱いをしなかったんじゃないのかな。敵視していた」
「何のことだ?」医師はつぶやいた。「いいな、知らせてくれよ」
医師は電話を切ると荒々しくダイヤルを回した。「もしもし? 小娘だぞ、二十歳になったばかりのガキで、知り合いもいない、金もない。どうして見つけられない?」
「ムリ言うなよ、先生。オレらはサツじゃないし、この町はでかいんだ。なかにはオレらがまだ……」
「探すんだ」言い訳を切り捨てた。「そのあいだもペイジのことは忘れるんじゃないぞ?」
土曜日の午後五時きっかりに、レッドファーン家に男の声でトニー宛の電話がかかった。
「もしもし?」グレゴリーが声を大きくした。
「ペイジさんはいますか?」
「留守ですよ。あなた、居場所を知ってるんじゃないですか?」
電話が切れた。グレゴリーは頭を抱えた。タウンゼント署長が言うことには、残念ながら、記事になってしまったそうだ。朝刊に載ることになるだろう。
ビーがレッドファーン夫人に夕食を運んでいくと、夫人の顔はげっそりとやつれていた。
「少しよくなった?」
「疲れたよ」
夫人はアリスのことをたずねはしなかった。トニーのことも。誰のことも。ビーは何も言わず、静かに部屋を出た。
土曜日、メキシコ。午後五時。ビッグ・フランクがトニーを呼び寄せた。トニーは出かけた――不安がよぎらなかったわけではないが。朗報かもしれない。もしくは最悪。だがビッグ・フランクは腹を割ってくれた。二人は沢山のことを話したが、麻薬の話はしなかった。ロサンジェルスに着いたらどこかに電話をかけるんじゃないかと、ビッグ・フランクは最後に言った。そうかもしれないとトニーは答えてにやりとした。理性と精神が報われるだけ充分に報われた。ビッグ・フランクがやれるだけ充分にやったことはわかっていた。
日曜日、午後。ロサンジェルス国際空港のゲートをくぐった若者に声をかけた人物がいた。「トニー! おーい、トニー・ペイジ!」
「ハーブ・イネス! いやいや……」トニーは立ち止まって手を握った。「シカゴに電話していいかな?」
「シカゴにはいないよ」
「え?」
「いなくなったんだ」
トニーは相手の腕に爪を立てた。「聞かせてくれ」
「シカゴには来なかったんだ。わかっているのは……おばあさんの家を木曜の夜七時ごろに出たことだけだ。殺人に巻き込まれたらしい」イネスは新聞の切り抜きをはためかせた。「それで警察が探してるところだ……俺たちも探してるが……やばい奴らもどうやらアリスを探してるようなんだ」
トニーの身体に衝撃が走った。「殺人? どういうことだ?」
「目撃者、らしい」
「アリスはどこなんだ?」トニーは半狂乱だった。
「見つけるんだ。失踪についての身内の考えを聞き出したまえ」
「車は?」
イネスは支部の無線車に乗っていた。少ししてから真剣な顔のトニーに向かいたずねた。「探し物は手に入れたのか?」
「行きの切符をね」
「デヴォン行き?」
「さあね。どこかの誰か行きだ。電話番号が手に入った。取引の中身だよ。誰かがその梯子を登らなきゃならないだろうな。ぼくじゃない」
「続きは誰かにやらせるとも」イネスはぼそっとつぶやいた。「時間がかかるけどな」
「うん」トニーは冷静だった。
「その番号はオヤジさんにまかせよう」イネスが送話器を外した。
「そうしてくれよ。それと、アリスを見つけたあとで伺うからと伝えてくれるかな。それまでは無理だ」
トニーは一人で祖母の家に向かった。安堵の叫びで迎えられたが、壁に打ちつける波のように、その叫びが深刻な顔に打ちつけた。「アリスは?」前置きなしにそうたずねた。
グレッグが説明の役を買って出た。アリスの不可解な行動を語って聞かせた。ピール夫人の死。自分たちの努力。だがグレゴリーの舌鋒はいつもとは違っていた。終わりに近づくと、たどたどしくなった。「……行ってしまったんだ」
「……あなたも驚いたでしょう、トニー」ホーテンスがもっともらしく声をかけた。「それにジェラルディンおばさんも。ひどすぎます! 新聞記事ですよ!」
何を隠していたのか知っていたトニーには、脅迫の内容が推測できた。ああアリス、無言でそうつぶやく。掃除婦か! 「立ち去っただけだろう? 薬を盛られてどこかの病院に運び込まれないように?」
「でも……」
エレンがさえぎった。「トニーさま、レッドファーン奥さまがお呼びです」
「ばあちゃん? どこにいるんだ?」
「休んでるんだ。おばさんには何も話してない。トニー、頼むから……」
トニーは階段を駆け上がった。
祖母は小さな手ですがりついた。「あの娘はほとんどお金がないんです。だけどとても自信に溢れていました。うまくやると言っていました。みんなにあんなことさせられないじゃありませんか? 逃がしてやるしかなかったの」
「間違ってないよ」トニーは初めて笑顔を見せた。「ほかのみんなはばあちゃんがしたことを知らないんだね?」
「話さないと決めたのだから」祖母は自慢げに答えた。
「どこにいるかわからないの?」
「あなたに連絡すると言ってましたよ」
トニーの顔がふたたびかたまった。
「誰かが電話であなたに連絡を取ろうとしていました。毎日、五時に」夫人が姿勢を正した。「安全で快適なうちは、すすんでここに臥していると思われているのでしょう。『驚く』ことのないように、すすんで耳を塞いでいると思われているのでしょう。だけど我が家で何が起こっているのかはわかっていますとも。エレンが教えてくれます。大事なのはときどき……」
「横になって休むことだろう?」すっかり理解して言葉を継いだ。「わかったよ……毎日だって?」
「電話のこと? ええ、金曜日。それに昨日もまた。不思議だけど……」
「待ってみるよ」
「トニー、ごめんなさいね……この家で気ままに過ごしすぎたみたい。アリスは神殿と呼んでいましたから」
「アリス……」トニーは言葉を飲み込んだ。「アリスの話をしない方がよかったかな。いい探し方を考えるよ」
すぐに落ち着いた答えが返ってきた。「あの娘はうまくやりますよ」
「うん……そう思うよ。そう思う」
二人はがっちりと手を握り合った。
トニーは五時少し前に一階に下りた。ホールに行くと、エレンがデヴォン医師を出迎えているところだった。医師が手を差し出した。思いやりにあふれた微笑みを浮かべている。
「話したくありません。失礼」トニーはそっぽを向いて、電話機のそばに陣取った。
医師は大様な声を出した。「わかったとも」グレッグを大部屋に引っぱって励ますようにおしゃべりをした。だが医師もまた、耳を澄ませていた。
五時に、電話が鳴った。
「トニー・ペイジさんはいますか?」男の声がした。
「ぼくです。どなたですか?」
向こうでごちゃごちゃとやり取りがあったあと、アリスが出た。「トニー?」
「どこにいるんだ?」
アリスが答えた。
「行くよ」トニーは受話器を置いた。
「どうしたんだ?」グレゴリーがたずねたが答えはなかった。トニーはホーテンスの脇を擦り抜けると、ビーに話しかけた。「車のキーを借りるよ」ビーは机の抽斗を指さした。トニーは鍵をつかむとドアから飛び出した。
医師が口を開いた。「すまんが……」
「アリスかな?」
「わからん」医師の様子や声は少し苦しげだった。「予約があるんだ。すまんが失礼する」
あとを尾けている黄色い車に気づいた。顔をしかめた。無駄にする時間はないのに、渋滞の町を抜けるには五十分かかった。駐禁帯に車を停めた。切符など構うものか。トニーは看板に笑いかけた。
ジーグラー薬局
明かりと商品があふれていた。奥では白衣の店員が女性客の購入品を包んでいる。薬と口紅。混乱と夢。人に役立つ薬に囲まれたアリスは、薬局の仕事を熟知していた。優しく真摯な顔を上げると、声をかけられる前にトニーに気づいた。燦然と顔を輝かせる。
こうしてこの客は店員を抱きしめ、途端に店員は客の上着を涙で濡らした。苦労して待っていたから、隠れていたから、祈っていたから、脅えていたから。
アリスは抱きしめられたまま、洗いざらい話して聞かせた。
「デヴォンだ。もう間違いない。尾けられてた。いま外にいるよ」
「トニー、わたし言えるわけないの! オヤジさんの名前を知らないもの。だから言わなかった。でもあいつは知ってたの。わたしたちを殺すつもり?」
「殺したがってるだろうな」弱気な声。愛おしくて感に堪えず、右手でアリスの頬に触れた。
「トニー、あの人、やるつもりじゃない?」アリスは無茶をするつもりらしい。
「なんの。ラッキーなことにこの店には電話ボックスがあるからね」
ぐいと引っぱりアリスを押し込んで、自分の身体を悪人とのあいだに割り込ませた。オヤジさんの番号を回す。「話してしまえば、無意味だから。さっそく話しちまおう」
「デヴォンがそうでした」送話器の向こうに話しかける。「ピールという女性から何か聞き出そうとして、ぼろを出しました。突き落としたんです。妻が現場にいました。目撃者です。あいつが本ボシでした」
「殺しもそうなのか? よしよし!」
「あまりよくないんです。あいつが外にいて、ぼくらは……」
「わかってる。イネスが尾行していたからな。じっとしてろ。ちょっと待て。イネスに連絡する……」
トニーが生きている、トニーがここにいると実感して、アリスは息を吐いた。今この瞬間は、ほかには何も考えていなかった。
「デヴォンは追いつめられたことを自覚しているらしい」受話器の向こうの声が言った。「イネスが接近中だ。車で向かっている」
「ぼくは何を?」
「武器は?」
「ありません」
「やつは?」
「わかりません」
「店の奥にじっとしてるんだ」
「了解」
「それはそうと、よくやった」
「アリスのおかげですよ」
「そうだな」にこやかな声がした。「祝福を贈ってくれ」
トニーは電話を切ると、祝福のキスを贈った。
いつの間にか薬剤師がガラス戸の外で困ったような顔をしていた。トニーはボックスから出た。アリスも外に出て夫を紹介した。「ジーグラーさん、電話してくれてた相手はこの人なんです」
「金を貸していると言ってなかったっけ」
「それ嘘だったんです」朗らかに打ち明けた。「それと、辞めさせてください。ご恩は一生忘れません」
ジーグラー氏は悲しげな顔になった。そりゃそうだろうな。トニーは思った。アリスがいなくなるのを考えたら。目ではアリスの顔を見つめていたが、耳では通りに注意を払っていた。デヴォンが『追いつめられたと自覚した』とは信じられなかった。自棄になってこんな明るい場所に殴り込んでくる恐れもある。だからトニーは商品の山と自分を楯に、通りからアリスを隠した。そのとき、表で大きな音が轟いた。
道行く人々は、一人の男が黄色い車から降りるのを見た。とんでもなく道を逸れた黒い車の運転手と口論をするどころか、背を向けて歩き出した。
黒い車の運転手が叫んだ。「止まれ!」
デヴォン医師は立ち止まらなかった。
仕方なくハーブ・イネスは、かつて教わったとおり手際よく、医師の膝に弾丸を見舞って止まらせた。
サイレンがうなりをあげる。パトカーがやって来た。
ビーの車が邸内にたどりついた頃には、とうに夕餉の時間も過ぎていた。道中、為すべきことを話し合った。アリスには弁護士が必要だ。ある意味では事後従犯だ。本当にやばいとは思っていない。トニーは生きている。そしてビルの仕事に戻る。デヴォンは病院の囚人病棟にいる。もう二度と裏切れない。捕まえるのもすみやかに終わった。
車が止まると、アリスは言い訳するようにトニーの顔に視線を送った。「みんなにはどんなふうに見えたのか忘れないでね」
トニーは何も言わなかった。
エレンがドアを開けた。「トニーさま! それに……お嬢さまも!」
大部屋では、このとき緊張が走ったのに違いない。トニーは腕にしっかりとアリスを抱いて部屋に向かった。
そこには、グレゴリーと女性陣が、大きな絨毯沿いに居並んでいた。誰もがアリスの名前を口にしたように思えた。
「どうやって見つけたんだ? 見つかったことを警察は知ってるのか?」グレゴリーが市民的な態度を露わにした。
「警察はすっかり知ってます」トニーが答えた。
「隠しごとも知ってるの?」ホーテンスだった。
「ええ、そうですよ」
「トニーも知ってるんでしょ」ビーが素っ気なく口にした。
「そりゃあ知ってるよ。ぼくが教えたんだもの」
アリスが「ごめんなさい。この家でこんな騒ぎを起こしてしまって。本当にどうにも出来なかったんです。許してください」
「理解したいとは思うよ」距離を置いたままグレゴリーが答えた。
「それがね、簡単なことなんだ。アリスは約束したんだ。それだけのことだよ? 約束した。誓ったんだ。イヤリングのことを大ごとにしないってホーテンスが約束したように。誕生日のことを誰にも言わないってビーが約束したように。アリスをチェスに誘わないっておじさんが約束したように」
グレッグが怒りを爆発させた。「チェスがそんなに大事なのか?」
「あるいは約束が?」トニーの冷やかな怒りが響きわたった。
ホーテンスが口を挟んだ。「怒っているようだけど、そんな権利は……」
「怒らないでってアリスに頼まれたよ」トニーは答えた。「みんなにはどう見えたのかを忘れないでって頼まれた」
「何を約束したんです?」ホーテンスが声を張り上げた。「何を約束したんですか?」
トニーは冷やかに答えた。「隠しておこうと思ってる」
「トニー、そんな必要なかったのよ。トニーの居場所を誰にも言わないって約束しただけなんです。だけど難しくなって。たくさん失敗しました。嘘をつきました。疑われるようなことばかりしてしまった。だけどうまくできなかったんです」
「ぼくの命を守るには充分うまくやったよ。ばあちゃんは、ぼくら二人を守らなくちゃならなかったけど」
「命だって!」
「うん。犯罪者を追っていたんだ。いや、もう捕まえたよ」
「犯罪者? 何をやった?」グレッグが吠えた。
「ひどいことばかり。麻薬の密輸。殺人も。ふん、牢屋のなかさ!」
「だがどうして居場所を言えなかったんだ?」
「その犯罪者が家に出入りしていたから。居場所を知られてしまえば、ぼくはひどい目に遭っていた。そのうえ、アリスもだ」
みんな滑稽な顔をしていた。悲しげでもある。「ごめんなさい。どうしようもなかったんです。ピールさんに知られてしまったので、口止め料を払わなくちゃなりませんでした。だから知り合いのふりをしたんです。イヤリングをあげたんです。誰にも言えませんでした」
ビーが黒い目を恐怖に揺らしてたずねた。「犯罪者って?」
「うん、捕まえたよ。デヴォンは逮捕された。足の弾丸も一緒にね」弾丸の話を楽しんでいるように聞こえた。
「ウォルター・デヴォンが! 麻薬! 殺人犯!」グレゴリーが兎のように口をもごもごと動かした。ビーだけは驚いた様子を見せなかった。
「そうだったんだ」トニーは上機嫌に答えた。「隠しごとを聞き出そうとしてピールさんを殺したんだ。そこにアリスが居合わせた」
衝撃から立ち直ったグレゴリーが言いつのった。「だけど話してくれればよかったんだ」
「話せばよかったって?」大部屋のなかが静まりかえった。
「そういえば、しばらくは忙しいんだ」すぐにトニーが話を続けた。「警察とかなんかでね。でも今夜ラ・ホーヤに行こうと思ってる。一週間。アリスは怖い目に遭ったんだから」
「みんなもそうよ」アリスはつぶやいた。ビーの顔が真っ青だった。
レッドファーン夫人がかぼそい声を出した。「トニー、ラ・ホーヤに行ったら、お願いを聞いてもらえませんか?」
「もちろんいいよ」不意に、祖母の様子に違和感を感じた。「ぼくらを守ってくれたのは実はばあちゃんなんだから。木曜の夜にデヴォンがアリスに薬を盛っていたなら、ぼくは今でもメキシコにいた……アリスを逃がしてくれなかったら……」
スタフォード夫妻は黙りこくった。
殺人も、殺人から逃れることも、すっかりわかっているとでもいうように老婦人は頷いた。「ウォルター・デヴォンなどどうでもよいことです」声に力がこもった。「それに――何より――最新の方法というのも」頭を上げた。「ラ・ホーヤに行ったら、余裕を持った高齢者向きの住宅を見てきてほしいんです」
部屋に衝撃が走った。家が衝撃に揺れた。
「言うとおりにするよ」トニーは落ち着いて答えた。
「みなさん聞いてください。この大きくて無意味な家を売ろうと考えています」
ホーテンスが慌てふためいた。「おばさん! 駄目です……そんな、駄目です! 『住宅』に耐えられるわけがありません!」
「どうしてです?」老婦人は冷たく答えた。「ほかの方々はみんな快適に過ごしていますよ。私が世間を恐れているというのですか?」
「不動産はどうなるんです?」思わずグレゴリーが洩らしたが、すぐに顔を赤らめた。「その……申し訳ない」なくなる前に見ておこうとでもするように部屋を眺めまわした。
ビーは立ちあがって腕を伸ばし、震える両手を眺めていた。「犯罪者?」苦々しくつぶやいた。「たった一人の理解者が?」
「私も理解していますよ」レッドファーン夫人が素早く答えた。「しっかりと。この二日間、あなただけが良識に苦しめられもがいていたでしょう……おそらく第六感が……あの男が悪人だと告げていたのでしょうね」ビーは大おばを見つめていた。「ビアトリス、あなたは神殿のなかで育ちました。青臭くあってはならなかった。だからあの男が話したとき、苦しみもがいた……そうでしょう?……そのうえ、私に縛られたくないと思ったのですね? ビアトリス、もちろんそうです。これまでだって縛られてはいませんでした。ありがたいことに、あなたには何一つ非難されることはないのですから。あの男にも私にもです。自由になって羽ばたきなさい」老婦人は命じた。「自ら動かないかぎり、人を愛することなどできませんよ」
ビーが部屋から走り去った。
「ビーは駄目よ」ホーテンスは不安げだった。
「何とかするでしょう」レッドファーン夫人が断言した。「あなたとグレゴリーも何とかしなさい。私もそうします。アリス?」
「何でしょう?」アリスはトニーから離れて椅子に近づいた。「おばあさま?」ありったけの愛を込めて答えた。
「化粧箪笥のなかの小箱に」優しく自信に満ちた声だった。「イヤリングがあります」
「わかりました。ありがとうございます」
老婦人の目には恩着せがましいところはなかったし、感傷的な微笑みも見られなかった。話す口調には強さが……対等な相手と話し合おうとする決意があった。
「嬉しいことです」トニーの祖母は言った。「あれがよくできたお嬢さまのものになるなんて」
Charlotte Armstrong "THE GIRL WITH A SECRET" CHAPTER 10 の全訳です。
Ver.1 05/01/05