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1908 Orthodoxy 『正統とは何か』
 ・『異端者の群れ』(1905)への反論に対するアンサー・ブック。キリスト教「正統」に対する考えの表明であり、チェスタトン評論の代表作。
邦訳 『正統とは何か』(春秋社)安西徹雄訳

 正統とは何か 軽装版

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 一人独立した評論としてのみならず、チェスタトン作品を読むに当たって避けては通れない作品です。小説の愛読者なら、下に引用した部分を一瞥するだけでも、「ああこれはあの作品のあの部分か」と首肯する文章に行き当たるのではないでしょうか。

 あらすじの紹介に代えて、アフォリズムめいた文章の抜き書きに留める。
 

「いかにしてわれわれは、われわれの住むこの世界に驚嘆しながら、しかも同時にそこに安住することができるのか」

「本書で問題とするところは、厳然たる事実として、キリスト教信仰の核心が、現実生活のエネルギー源として、また健全な道徳の根源として、最善最上のものであることだという点を示すこと以外にはない。」

「何らかの研究を始めるに当たっては、まず事実から出発すべき」だが、「原罪を疑問視する連中がいる」以上、「脳病院」を「議論の出発点として利用」しよう。

「人間の行動でかりに原因のないものがあるとすれば、それは健康な人間が無意識にする瑣細な行動のほかにないのだ。たとえば、散歩しながら口笛を吹く。ステッキで草をさっとばかりになぎ払う。踵で地面を打ち鳴らす。(中略)狂人は、あらゆる物の中にあまりにも多くの原因を見る(中略)何の意味もないこういう行動に、狂人は必ず何らかの悪意ある意味を読み取り、陰謀が隠されていると思わずにはいられない。」

「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」

「まるで、木が実を結ぶのも、二本と一本で木が三本になるのと同じように必然的だといわんばかりの話しぶりなのだ。そんな馬鹿な話はない。おとぎの国の基準から見れば、この二つの事実の間には途轍もないちがいがある。おとぎの国では、すべてを想像力の基準によって判断するからだ。(中略)実がなるかわりに、金のローソク台がなったり、虎が尻尾で枝にぶらさがっていたりするというのは十二分に想像できるのだ。」

「巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。」「われわれが普段はそれを考えないで暮らしているのは、それが奇蹟であり、したがって起こりえないことであるからではなくて、それが奇蹟であり、したがって例外にほかならないからである。」

「人びとはローマが偉大であるから愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。」

「人びとはわざわざ勇気をつちかったのではない。彼らは神殿のために戦い、気がついてみると勇気を持っていたまでである。」

「ペシミストは神々や人間を責め立てるから悪いのではなく、自分が責め立てる相手を愛していないからこそ悪いのだ。ペシミストは、物にたいする第一義的にして超自然的な忠誠を持たぬから悪いのだ。」「オプティミストは、この世の名誉を守ろうとする熱心のあまり、守る値うちのないもの、守るべきではないものまで守ろうとする。オプティミストは、偏狭にして好戦的な愛国者なのである。」

「自殺は単に一つの罪であるだけではない。自殺はまさに罪の中の罪である。究極の悪、絶対の悪であって、生命の存在そのものに関心を持とうとせぬ態度にほかならぬ。生命にたいして忠誠の誓いを拒否することにほかならぬ。」

「キリスト教もまた、私と同じく、殉教者と自殺者とは正反対だと感じてきている。」

「一言で言えば、キリスト教は神と宇宙とを切り離したのである。」

「宇宙から来た数学者にしても、腕が二本、耳が二つあるのを見て、肩胛骨も二枚、脳も二葉あると推論するだけなら普通の数学者というものだ。しかしもし彼が、人間の心臓は左に一個あるだけが正しいのだと想像したとするならば、これはもう単なる数学者以上だと言わねばならぬ。ところで、私があの発見以来キリスト教の特技だと説くようになったのは、まさしくこのような能力にほかならない。」「つまり、キリスト教の教義に何かしら妙なところが見つかる時は、事実のほうでも何かしら妙なところが見つかる時だということである。」

「たとえば、自分の知らない男のことをいろんな人が噂しているのを聞くとしよう。その男は背が高すぎると言う人があるかと思えば、背が低すぎると言う人もあるとしよう。(中略)そういう場合、一つの説明の方法は、今まで見てきたのと同じ方法で、つまりその男はいかにも妙な恰好だろうと考えることである。しかしまったく別の説明の仕方もなくはない。(中略)途方もなく背の高い人なら、その男のことを背が低いと思うだろう。非常に背の低い人なら、その男のことを背が高いと思うだろう。」「結局、正気なのはキリスト教のほうであって、狂気なのは実は批判者の方ではあるまいか。」

「正統神学が特に力を込めて強調してやまぬところは、(中略)キリストは同時に二つのものであり、また完全に二つのものである存在、まさに人間中の人間であり、また同時に神である存在だと考える」

「民主主義の安っぽい批判を口にする連中は、しかつめらしい顔をして、自然界には平等は存在しないと教えて下さる。(中略)だが同時にまた、自然界には不平等も存在してはいないのである。」

「進化論は、二つの狂気の倫理の支柱には利用できるが、正気の倫理の支柱としてはたった一つを支えるのにも利用できない。」

「私も虎も同じ血縁の動物であるとなれば、虎にやさしくしてやることにも理屈はあろうが、虎に劣らず獰猛になることにも理屈はあろう。」

「釣合い、調和は、単に自動的な傾向で生まれるはずがない。偶然の結果か、さもなければ何らかの意図の結果だ。」

「たとえば白い杭を放っておけばたちまち黒くなる。どうしても白くしておきたいというのなら、いつでも何度でも塗り変えていなければならない――ということはつまり、いつでも革命をしていなければならぬということなのである。」

「自他の区別があればこそ愛が可能なのであって、もし自他の区別がつかなければ愛もまた不可能となる。」

「キリスト教の中心たる神は、人間をその中心から投げ出したけれども、その目的はただ、人間がその中心を愛することにある。」

「百姓が幽霊を見たと言う」「百姓は何でもすぐに信じたがるから当てにはできない」「なぜ何でもすぐ信じると言えるのか」「答えは結局、百姓は幽霊を見たと言うから、という以外にない。」

「奇蹟は、奇蹟を信ずる人にしか起こったことがない(中略)もし酔っぱらいから心理的な事実を引き出そうとしている時、お前は酔っぱらっているではないかとからかってばかりいるのは無意味なはずだ。」

(邦訳)
 『正統とは何か』(春秋社)安西徹雄訳 →[bk1 amazon


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