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翻訳者:江戸川小筐
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有象無象を弁護する

ギルバート・キース・チェスタトン

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愛国心弁護

 ここ一、二年のあいだ英国で愛国心が衰えているのは、嘆かわしく由々しき事態である。当節流行りの領土に対する欲望を、祖国に対する古くからの愛情と取り違えることができるのも、愛国心が衰えているからにほかならない。この世に一組の恋人のようなものが存在しなかったならば、愛情に関するあらゆる語彙が誰にも咎められずにもっとも安っぽくもっとも無意識的な欲求に転用される可能性も、想像に難くない。騎士道型の純化された情熱が姿を消してしまっていたならば、欲望には愛の印ひとつないこと、欲望は意地汚いが愛は憐れみ深かいこと、欲望は盲目だが愛は抜け目ないこと、欲望は自己満足してしまうが愛は飽くことを知らぬこと、そんなことを口にする人は一人も残ってはいないだろう。要するに、それは「都市に対する愛情」とともにあるのだ。すなわち、人間の原始的情熱と同じ石版上に赤い血で書かれていた気高く歴史ある知的情熱である。今日ではあらゆる場所で国に対する愛のことを耳にするが、実際にそうした愛を持っている者なら誰もが、その内容に戸惑うに違いない。昼に月が照っているとか夜に太陽が輝いていると話しているのを聞くようなものである。かれらは最終的にこう結論づけることだろう。話している連中は「愛」という言葉の意味を理解していないし、連中の言う国に対する愛というのは、神秘主義者の言う神に対する愛ではなく、子どもの言うジャムに対する愛のようなものなのだと。たとえば祖国を愛する人にとっては、ある国の戦争倫理にわれわれが無関心をひけらかすのは、意味不明で支離滅裂な行動に過ぎない。少年が殺人を犯したが心配いらない、やったのはあんたの息子だから、と人に告げるようなものだ。ここで「愛」という言葉が意味もなく使われているのは明らかだろう。繊細であることが愛の本質であり、それは切っても切り離せないものである。一方に反対を表明しているのであれば、もう一方には相手にされないのが当然のことだ。こうした繊細さ(ときには病的なほどに高まる繊細さ)は、ダンテのような偉大な恋人たちやチャタムのような偉大な愛国者たちの目印にほかならなかった。「正しかろうが間違っていようが、我が国(My country, right or wrong)」などとは、どんな愛国者であろうとぎりぎりの状況ででもないかぎり口にしようとは思わなかっただろう。「酔っぱらいでも素面でも、我が母」と言うようなものだ。実直な人間の母親がアル中になったとしたら、死ぬまで母と苦労をともにするのは間違いなかろう。しかし母親がアル中かどうかには興味がないかのような口を利くことなど、大いなる神秘を知る人々の言葉ではあるまい。

 耳も貸さずに騒ぎ立てるだけの盲目的愛国主義を挫き打倒するために本当に必要なことは、母国に対する愛を復活させることである。それが訪れたとき、あらゆる叫びはぴたりと止むことだろう。何よりもまず、愛の印とは真剣さであるからだ。愛は、偽りのおふれや言葉だけの勝利を受け入れぬだろう。どんなときでも、率直な助言者だけを最良のものだと考えるだろう。愛とは、あやまたぬ苦しみの力によって真実に導かれる。重病人のベッドの周りを十人の医師が楽天的に浮かれて踊っているのを見ても、愛する人には何の喜びももたらさない。

 そこで問題になるのは、最近の英国で起こっているこうした動きには、嘘偽りなく愛国心が復活しているように見えるにもかかわらず、愛国心の印(少なくとももっとも崇高な形の愛国心の印)が微塵も感じられないのはなぜか、ということである。この国の愛国者が質・状況だけならトップクラスであるにもかかわらず、ずいぶんと実利的でつまらない――貿易、実力行使、遠い辺境で小競り合いをし、遠い大陸で口出しする――のはなぜだろうか? 植民地は誇るべきものではあるが、祖国から見ればその末端を誇っているに過ぎない。言うなれば人間が自分の足を自慢しているようなものに過ぎないのだ。高度に重要で知的な愛国心、拳や靴先だけではなく、帝国の頭脳や心臓に対する愛国心がないのはなぜなのだろうか? 野蛮なアテナイの水夫であれば、アテナイの栄光は然るべきオールで船を漕ぐことにあるだとか、ニンニクをちゃんと供給することにあるだとか考えた可能性は充分にある。だがペリクレスは、それがアテナイの栄光だとは考えなかった。一方われわれに目を向けてみれば、チェンバレン氏の説く愛国心と、「今アイルランドをどう考えるのか?」と歌うパット・ラファティ氏の説く愛国心のあいだには、まったく違いがないのである。それはいずれも、些細で自明のものに対する、誠実で、単純で、大衆的な讃美なのである。

 その正否はともかくとして、今日の英国の愛国心がどうしてこれほどしみったれているのか、その主因の見当はついているので、これからそれを述べることにしよう。人間は自分の血筋や環境を愛するものであり、そこに褒めるべきものを見出すものだと考えられているのではないだろうか。だが、それが称讃すべきものであるか否かは、人が事実をどれだけ理解しているかどうかに左右されるだろう。言わせていただくならば、もしサッカレーの息子が父の名声と才能のことを知らずに育てられたとしたら、父親が六フィート以上あったという事実を自慢することもあり得ないことではなかろう。国として、われわれはまさしくこの架空のサッカレーの息子と同じ状態にあると、わたしには思われる。われわれはある単純な理由のために、愛国心にとって無知で浅薄な事実だけに頼りきっている。子どものころに自国の文学と歴史を教わらなかったのは、世界でもわれわれだけなのである。

 われわれは国として自国の長所を知らないというまことに異常な状態にある。われわれは世界の思想と感情の歴史上、偉大で華麗な役割を演じてきた。つねに最前線を走ってきた絶え間ない無血の戦いのなかで、殺すのではなく産み出してきたのだ。絵画と音楽の分野では、ほかの国々より劣っている。だが文学、科学、哲学、政治弁論の分野では、歴史を包括的に捉えるならば、われわれはどんな国にも負けることはない。だがこうした知的繁栄の大遺産がすべて、異教のように少年たちから遠ざけられているのだ。そうして少年たちは愚かで幼稚な愛国心を胸に、生き死にするよう定められた。それもこれもブリキの兵隊の入った玩具箱から教わったことである。ブリキの兵隊の箱のなかには何の害もない。それにブリキの博愛主義者の詰まった美しい箱を見て、兵隊の箱と同じように喜ぶ子どもがいるとも思えない。だがより精妙で洗練された英国の名誉が、発達する心と足並みを揃えるようにして提出されないという事実は大いに有害なのである。フランスの少年はチュレンヌの美名と同様にモリエールの美名を教えられる。ドイツの少年は古代の哲学者のことを学ぶ前に自国の偉大な哲学者のことを教えられる。その結果どうなるかというと、フランスの愛国心は熱狂的で高慢になることも多く、ドイツの愛国心は特異で衒学的になることも多いにもかかわらず、ベイコンとロックの国がなぜかよく陥ってしまうようには、愚かでも平凡でも無謀でもないのである。こういう事情のもとであれば、ごく自然であるどころか、ごくもっともですらある。英国人は何かのために英国を愛しているのに違いない。だからこそ、ドイツ人が音楽を讃え、フランドル人が絵画を讃えるのと同じように、英国人は貿易や懸賞ボクシングを讃えることが多いのだ。それが祖国で一番の美点だと心から信じているからである。領土を食らい尽くし君主を打ち倒すということをズールー族が誇らかに言い張っているのであれば、ちっとも驚くには当たらない。驚かざるを得ないのは、それがシェイクスピア、ニュートン、バーク、ダーウィンのいる国民の口から誇らかに出ているということだ。

 現代英国の愛国主義には奇妙なことに寛大さと繊細さがことごとく欠けているが、われわれが国文学研究の教育を目に見えて無視しているというこうした事実よりほかには、どう考えても原因がなさそうである。英国が他国民のためにどれほどのことをしてきたかを知っていれば他国民を見下すような愚かな真似はできまいに。文学上の偉人たちはどう転がっても人間的で普遍的であるのだから。我が国の学校に英文学の教育が欠けているというのは、考えてみると何とも驚くべき現象である。英語の直接教育に反対する学校長や伝統的教育支持者の主張を聞いていると、ますます驚かざるを得ない。例えば、膨大な数の英文法と英文学は、ラテン語とギリシア語を学ぶ過程で身につくそうである。紛れもなくその通りではあるが、この考えが本末転倒であることにはどうやら一度も気づかなかったらしい。赤ん坊がジャンプを学ぶ過程で歩くこつを身につけるだとか、アシャンティ語を学ぶプロシア人の手助けをしたおかげでそのフランス人もドイツ語を学べるかもしれない、などと言っているようなものである。紛れもないことだが、あらゆる教育の根本は、その教育を伝えるために用いる言語である。少年に一つのことしか学ぶ時間がないのであれば、それを学ぶに越したことはあるまい。

 われわれはこうした気高い国民感情の大遺産をことさらに無視してきたのである。公立学校というものを、英国の名誉をささやくことに対する頑丈な壁にしてきたのである。そうして以下のような奇妙で倒錯した事実にあるように、われわれは罰を受けてきたのである。愛国心という共通の意識は粗暴な野蛮人や薄汚い小市民を一つにまとめ上げることができるし、その生き方を最高のものにすることもできるというのに、われわれは――世界が認めた通り――いくら一人一人が人間らしく、正直で、真面目であっても、己の生き方を最悪のものにする愛国心しか持たないのだ。われわれは何をして来たのだろうか、われわれはどこをさまよって来たのだろうか? ソクラテスと話ができるような賢人を生み出し、ダンテとともに歩むことができるような詩人を生み出して来たというのに、まるで知的なことといえば植民地を作り黒人を蹴ることしかやって来なかったかのような口を利くわれわれは、いったい何を? われわれは光の子だが、暗闇に座っているのもわれわれだ。もしわれわれが裁かれるなら、それは他国を評価するのに失敗したという単なる理性的な罪のためではなく、われわれ自身を評価するのに失敗したという霊的で本質的な罪のためだろう。[*1]


G.K.Chesterton“The Defendant”より、‘A defence of Patriotism’の全訳です。


Ver.1 10/04/24

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更新履歴・訳者あとがき

*1. [われわれは光の子]。『エペソ』5:8。汝ら舊《もと》は闇なりしが、今は主に在りて光となれり、光の子供のごとく歩め。(あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。)[]

[註]
※翻訳にあたっては、英語原文のほか、George-A. Garnier による仏訳『Le Défenseur』「Défense du patriotisme」を参照しました。

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