もしも――会員制で知られる〈たヾしき十二漁師〉の一員が毎年恒例の晩餐のためヴァーノン・ホテルに入るところに出くわしたなら、コートを脱いだときに夜会服が黒ではなく緑であることに気づくだろう。もし(そんな人物に話しかけるほどの恐れ知らずの厚かましさをお持ちだとして)理由を尋ねたなら、給仕と間違われないためだという答えが返ってくるだろう。そこで打ちのめされて引き下がることとなる。だがあなたは未解決の謎と値千金の話を放り出したままになるはずだ。
もし(同じくありそうもない推測の鉱脈を追って)穏やかで勤勉なブラウンという名の神父に出会い、何が人生で一番の幸運だったかを尋ねたならば、一番の巡り合わせはヴァーノン・ホテルのときだ、通路で足音を聞いていただけで犯罪を防ぎ、おそらくは魂も救ったのだから、と答えることだろう。ひょっとすると神父は、この頓珍漢にも素晴らしき推理に胸を張り、話してくれることだってあるかもしれない。だがあなたが〈たヾしき十二漁師〉を見かけるほどの社交的身分になるだろうとは思えぬし、ブラウン神父を見かけるほどスラムや犯罪街に身を落とすこともありそうにないので、私からお聞かせしない限り、この物語を耳にすることは恐らくないだろう。
〈たヾしき十二漁師〉が例年の晩餐を催していたヴァーノン・ホテルは、礼儀作法のことで発狂しかけた寡頭政治社会にだけ存在し得るような施設だった。混乱の産物――「排他的な」営利企業なのである。つまり、人を引き寄せるどころか追い払うことで利益を得ている代物だ。金権国家の中心地にいる商人の小狡さときたら、客以上に世知辛いと言っていい。積極的に面倒ごとを作り出すので、金を腐らし暇をもてあそぶ客たちは、それを打破しようとお金と外交手腕を費やすことになる。六フィート以下の人間お断わりの高級ホテルがロンドンにあったなら、晩餐を開くため素直に六フィートの面々を集めたことだろう。経営者のただの気まぐれで、木曜の午後しか営業しない一級レストランがあったなら、木曜の午後には人が詰めかけることだろう。ヴァーノン・ホテルは、ほんの偶然といった風情でベルグレイヴィア地区の一角に立っていた。小さいうえに不便きわまりない。だが、まさに不便きわまりないからこそ、ある特定の階級を保護する城壁たると考えられていた。なかでも大事な一番の不便というのが、たかだか一度に二十四人だけしか食事できないことである。あるのは名高い大きなテラス・テーブル一つだけ、それがロンドン屈指の名苑を見渡せるベランダに、雨ざらしで置かれていた。こうしたわけで、この二十四席すらも暖かいときだけしか楽しめぬということになり、恩恵に与るのがいっそう困難になるにつれ、いっそう希望が増えるのである。現オーナーはリーヴァーという名のユダヤ人であったが、利用しづらくすることで百万近くを手に入れた。もちろん事業の規模をこうして制限するとともに、その質にも念入りに磨きをかけた。ワインと料理はヨーロッパならどこにも負けないし、接客態度は英国上流階級のしきたりを忠実になぞっていた。給仕のことなら自分の指のように把握していた。全部でたったの十五人。このホテルの給仕になるよりは、国会議員になる方がはるかに簡単だ。あたかも殿上の侍従のように、完璧な沈黙とそつのない接客をしつけられている。さらに驚くなかれ、食事中の殿方一人につき最低一人の給仕がつくのが当たり前なのである。
〈たヾしき十二漁師〉クラブは贅沢にも身内だけで過ごすことにこだわったので、晩餐をとるのはこうした場所に限られていた。ほかのクラブが同じ建物で同じように晩餐を取っていると考えただけで、大混乱に陥っただろう。年に一度の晩餐会では、家にいるみたいに、貴重な宝物を披露するのが慣例となっていたが、なかでも名高いフィッシュナイフとフォークのセットは、言ってみればこの団体の紋章みたいなもので、どれもが魚形の端正な銀細工をほどこされ、柄には大きな真珠が一つ嵌め込まれていた。魚料理の際には決まって並べられるのだが、この魚料理というのが極上の食事の中でも決まって最極上なのである。クラブには膨大な数の作法としきたりがあったが、歴史や目的は何一つなかった。これこそが非常に貴族的なところである。十二漁師の一人になるためには何もいらない。かなりの人物になっていない限り、耳にすることさえない。はや十二年。会長はオードリー氏。副会長はチェスター公爵だった。
もし私がこの驚くべきホテルの雰囲気をある程度でもお伝えすることができたとしたら、どうやって知ることが出来たのかと読者の方々が不思議に思われるのも当然だろうし、我が友ブラウン神父のような平凡な人物がどうやってそんな豪華船に居合わすことになったのかと頭をひねりさえするかもしれない。世の中には老いた暴動煽動家がいて、全人類は兄弟であるという扇情的なお達しを携えて隙のない隠れ家にも侵入するのだが、この蒼ざめた馬に乗った平等主義者のいる所どこにでもついていくのがブラウン神父の職業だった。イタリア人の給仕がその日の午後に卒中で倒れ、ユダヤ人の雇い主は馬鹿げた迷信に少々驚きながらも最寄りのカトリック神父を呼びにやることに同意した。給仕がブラウン神父にした懺悔の内容については関知しない、というのにも立派な理由があって、神父が心の中にしまってしまったからである。だが何かの伝言を伝えたり間違いを正したりするために、記録か報告書を書く必要が生じたのははっきりしている。そのためブラウン神父は、バッキンガム宮殿の中であっても改めぬであろう穏やかな厚かましさを見せて、部屋と筆記具を用意してほしいと請い求めた。リーヴァー氏は困り果てた。親切な人物ではあったのだが、厄介ごとも事件も大嫌いという親切まがいの人物でもあった。よりによってその晩ホテルに見知らぬ訪問者がいるというのは、きれいにしたばかりのものに汚れを付けられたようなものだ。ホールで待つ人もふらりと入ってくる客もいないのだから、ヴァーノン・ホテルには離れも控え部屋もなかった。十五人の給仕。十二人の客。その夜ホテルに見知らぬ客がいるというのは、朝食やお茶をとっている家族の中に見知らぬ兄弟がいるほどに驚くべきことだった。おまけに神父の見栄えは安っぽく、服は泥だらけ。遠くからちらりと見るだけで、クラブに恐慌を引き起こしかねない。ついにリーヴァー氏は、恥部を消し去れないのなら覆い隠そうという計画を思いついた。あなたがヴァーノン・ホテルに入ることがあれば(入ることはないだろうが)、薄汚くも高価な絵で飾られた短い廊下を通り抜け、メイン・ホールとロビーにたどり着くと、右には休憩室に通じる廊下が、左にはホテルの台所と事務所に通じる同じような廊下が道を開けている。左に行けばそこはガラス張りの事務所の片隅だ。ロビーと隣り合わせで――かつてそこにあったであろう古いバーと同様、家の中に家があるようなものだった。
この事務所には経営者の代理人が座っており(こうした地位にいる人間は、出来うる限り決して自分で現われたりはしない)、事務所の向こうの使用人部屋に行く途中には、殿方の手荷物預かり所があり、そこで殿方の領土は終わっている。だが事務所と預かり所のあいだには、出口のない小さな個室があり、公爵に千ポンド貸すとか六ペンス貸さないとかいうような、微妙で重要な用件があるときなどに経営者が使用していた。紙切れに書きとばすために、ただの神父によってこの聖域が三十分ばかし汚されるのを許可したというのは、リーヴァー氏のとびきりの心の広さの証である。ブラウン神父が書き留めた物語は、この物語よりも遙かによいものであったとは思われるのだが、決して明らかにはされないだろう。同じくらいの長さがあるうえに、最後の二、三段は興奮も魅力もゼロだったとだけは言える。
というのもそこにたどり着くころには、神父はとりとめのない考えに耽り出し、鋭い動物的嗅覚が目覚めようとしていたからである。夜と晩餐の時が近づいていた。放っぽり出された小部屋には明かりがなく、おそらくはよくあるように深まる闇が聴覚を鋭くしていたのだろう。ブラウン神父が書類の最後の一番どうでもいい部分を書いていると、列車の音に合わせてものを考えることがあるように、繰り返し外から聞こえるリズムに合わせて書いていることにふと気づいた。自覚した途端に何の音なのかわかった。ドアの前を通り過ぎるただのありふれた足音だ、ホテルでは特に珍しいものでもない。にもかかわらず、暗い天井を眺めながら足音に耳を澄ました。わずかばかりぼんやりと耳を澄ましていたが、立ち上がると小首をかしげて聞き入った。それからまた座り込むと両手に顔をうずめて、今度は聞くだけではなく、聞きながら考えていた。
ひとつひとつの足音はどんなホテルでも耳にするようなものだ。だが、全体として見ると、何やらすこぶる奇妙なところがある。ほかに足音はない。いつだって静かなところなのだ。というのもわずかばかりの馴染み客はすぐ部屋に行ってしまうし、よくしつけられた給仕は、呼ばれるまでは透明人間のようにしていろと命じられていたからだ。異例の事態を何一つ怖れずともよい場所がほかにあろうか。だがこの足音となるとあまりにも奇妙奇天烈なものだから、通例とも異例とも言いかねる。ブラウン神父は、ピアノ曲を練習している人のように、足音にあわせてテーブルの端を指で刻んだ。
初めは、すばしこい男が競歩で優勝しようとでもしているように、小刻みな足音が立て続けに起こった。ふとしたところで音が止んでゆっくりしたものに変わり、音の数は四分の一に満たないものの、同じ時間だけ足を踏みならしている。踏みならす響きが途絶えると、ふたたび軽やかな競走かさざ波のような、急ぎ足の音が聞こえてくるようになり、そしてまたふたたび重い地団駄になる。確かに同じ靴音だ、というのも一つには(先ほど述べたように)辺りにほかの靴音はなかったし、また一つには、小さいが聞き間違えようのない軋みがあったからだ。ブラウン神父は何が何でも頭を捻らずにはいられないタイプであったから、どう考えてもつまらないこの疑問にも、頭は割れんばかりだった。飛び上がるために走る人を見たことはある。滑り込むために走る人も見たことがある。だがいったいどうして、歩くために走ったりするだろうか? いやあるいは、なぜ走るために歩くのか? だが、この目に見えぬ妙ちきりんな一対の足にふさわしい表現など、ほかにはないだろう。件の人物は廊下の半分を果てしなくゆっくり歩くために、もう半分を大急ぎで歩いているのか。あるいは、帰り道を素早く歩くという歓喜に浸かろうと、行きをゆっくり歩いているのか。どちらの思いつきも、とても尋常には思われない。神父の脳みそは部屋と同様だんだん真っ暗闇になっていた。
しかし、じっくり考え始めてみると、部屋が真っ暗なおかげでいっそう頭が冴えたようだ。まるで幻覚のように、不自然とも象徴的ともいえる恰好で廊下を跳ね回っている奇っ怪な足が、目に浮かび始めたのである。異教徒が信仰している踊りであろうか? はたまた最新式の科学体操のようなものだろうか? ブラウン神父はいっそう念入りに足音の正体について自問し始めた。まずはゆっくりした足音を考える。間違いなく経営者の足音ではない。そういう人物は急ぎ足でよたよた歩くかじっと座っているかだ。指示を待っている使用人か雑用係でもない。そうは聞こえない。(寡頭政治における)貧困層は、飲み過ぎたときにはふらつきまわることもあるが、普段は、それもこうした豪華な場所では、圧倒されたように立っているか座っているかである。違う。あのずっしり重いのにはずむような足音は、無頓着に力を込めているらしく、別段に騒々しくもないのだが騒音に気を遣っているわけでもないといったものであり、こんな足音の持ち主は地上の動物では唯一無二だ。つまりは西ヨーロッパの紳士、それもおそらくは生活のために働いたことがない人物のものである。
こうして断固確信したかと思うや、足音は素早いものに変わり、鼠のようにせかせかとドアの前を走り抜けた。耳を澄ませていると、この足音が素早くはなったが、まるでつま先で忍び歩きしているように静かにもなっていることに気づいた。だが心に思い浮かべたのは、忍びごとではなく、何かほかのこと――だがその何かが思い出せない。こうしたうろ覚えのせいで自分がばかになったように思えて苛々していた。間違いなく、どこかへ向かうこの不思議な早足を聞いたことがある。頭に浮かんだ新たな考えに、とつぜん跳ね起きるとドアに向かった。この部屋には廊下に直接つうじる出口はなく、一方はガラス張りの事務所に通じ、もう一方は奥の手荷物預かり所に続いていた。事務所のドアを開けようとしたが鍵が掛かっている。それから窓を見ると、鉛色の夕闇に切り裂かれた紫の雲が四角い窓枠いっぱいになった頃合いであり、神父は束の間、犬が鼠どもを嗅ぎつけるように不吉な匂いを嗅ぎ取った。
理性的な部分が(より賢明であろうとなかろうと)全面復旧した。鍵をかけておくことになるがあとで開けに来るから、と経営者が言っていたのを思い出したのだ。単に考えつかなかっただけで外の奇妙な物音の解釈はいくらでもあるのだし、そもそもの仕事をやり終えるだけの明るさはやっと残っているだけなのだと言い聞かせた。荒れ模様の暮れ残りを求めて窓際に紙を持っていくと、決意も新たに完成間近の記録に身を入れ始めた。光が薄れるにつれて、少しずつ前かがみに紙に顔を寄せながら、二十分ばかりペンを走らせていた。とそのとき不意に身体を起こした。ふたたび奇妙な足音が聞こえたのだ。
今回は不思議な点が三つになった。先ほどまで未知の人物は歩いていたわけだし、無遠慮で素早く軽やかではあったが、歩いていた。今度は走っている。跳躍して逃げる豹の足のように、素早くしなやかに跳ぶ足音が廊下から聞こえてきた。走っているのが誰であれ、静かなるくせに興奮に駆られた、力強く機敏な男だ。それが密やかな旋風のように事務所に吹き抜けた音がしたかと思うと、もとのゆっくり堂々とした重い音に舞い戻ったのである。
ブラウン神父は書類を放り出すと、事務所のドアが施錠されているのはわかっていたのですぐに反対側の預かり所に向かった。折りしも係員は席を外していたが、おそらく唯一の客が晩餐中とあってはするべき仕事もないからであろう。灰色をした外套の森をかき分けてみると、その薄暗い預かり所は、傘を手渡したり引換券を受け取ったりするのによく似た、窓口だか受付だかといった態の明るい廊下に面していた。窓口の半円型アーチのすぐ上に明かりがある。ブラウン神父には光がほとんど当たっていなかったので、背後にある薄暗い日暮れの窓に黒い輪郭だけが見えていた。だが預かり所の外の廊下に立っている男には、舞台照明のように光を投げかけていたのである。
地味な夜会服姿の紳士であった。背は高いが威圧感はない。遙かに小さな男が目立ったり邪魔になったりする場所でも、影のようにすり抜けられるであろう。明かりのなかに放り出された顔は、日に焼けて健康的な外国人のものだ。なりは立派で態度も良く自信に満ちていた。悪く言える点といえば、黒い外套が、なりや態度からするとやや劣るうえに、奇妙なことに何か詰め込んだように膨れていることぐらいだった。夕暮れに浮かぶブラウンの黒い輪郭を認めると、紙の番号札を放って寄こし、堂々と愛想よく話しかけた。「帽子とコートを頼む。どうも急ぎなんだ」
ブラウン神父は無言で紙を受け取ると、素直に外套を探しに行った。雑用をするのは人生で初めてというわけじゃない。持ってきて窓口に置いた。奇妙な紳士の方はといえば、ベストのポケットを触りながら笑い出した。「銀貨がない。これでいいだろう」そして半ソブリン金貨を放り投げると外套を手に取った。
ブラウン神父の姿は黒く静かなままだったが、その時点で頭の中は真っ白だったのである。神父の頭はいつだって、真っ白なときこそ切れ味抜群だった。そんなときにはたった一人でも文殊の知恵であった。カトリック教会は(常識にこだわっているため)これにはいい顔をしないことが多い。神父自身もこれにはいい顔をしないことが多いのである。だがこれが真正の霊感であり――滅多にない危機に瀕した際に――頭の中が真っ白になったご当人が、頭の中身を救い出すときに重要なのである。
「ポケットの中に銀貨がおありだと存じますが」
背の高い紳士は睨みつけた。「ふざけるな。金貨をやったのに、何の不満がある?」
「金よりも銀の方が価値のあることもございますから」神父は穏やかに答えた。「つまり、山ほどあるときは」
未知の人物は穴の開くほど神父を見つめた。それから正面玄関の方を向くと、さらに念入りに廊下を見渡していた。それからブラウン神父に目を戻すと、荒れ模様の夕焼けに色づいた背後の窓に目を凝らした。心を決めたようだ。窓口に片手をついて軽業師のようにいともたやすく飛び越えると、神父の上にそびえ立ち、大きな手をカラーに押しつけた。
「動くな」短いささやき。「脅かしたくはないが――」
「わたしは脅かしたい」ブラウン神父は太鼓の轟くような声を出した。「蛆つきず、火も消えぬなりと脅したい」
「ふざけた係員だ」
「神父ですよ、ムッシュー・フランボォ。懺悔ならいつでもどうぞ」
相手はしばらく喘ぎながら立っていたが、やがて椅子に倒れ込んだ。
〈たヾしき十二漁師〉の晩餐は、最初の二皿までは平穏無事に進行していた。私の手元にメニューの写しはない。あったとしても、誰にもお伝えできない。料理人が使う特殊フランス語で書かれているのだが、フランス人にもちんぷんかんぷんなのである。オードヴルは気が触れそうなほど多種多様たれというのがクラブの伝統だ。晩餐やクラブ同様、正真正銘無駄であるからこそ、厳かに受け入れられていた。スープはあっさり控えめで――来たる聖魚のための簡潔質素な前夜祭たれという伝統もあった。交される話題は、大英帝国を支配するあの妙で些細な話であるが、密かに支配しているくせに、当たり前の英国人が耳にしても教わることなどほとんどないであろう。退屈のあまり心優しくも両党の閣僚がクリスチャン・ネームでほのめかされた。その搾取ぶりに、トーリー党がこぞって呪っていると噂される急進派の大蔵大臣が、ささやかな詩作や狩猟場の乗馬っぷりを賞賛された。自由主義者からは暴君扱いされて憎まれていると噂のトーリー党首が、議論の末に結果としては賞賛された――自由主義者として。どういうわけか政治家のことが話題らしい。ところが話題は政治のことではないのだ。会長のオードリー氏は、いまだにグラッドストン風のカラーをつけた、人当たりのよい初老の人物である。幻のようでいながら確固たる団体そのものといっていい。いまだかつて何もしたことがない――悪事一つもしたことがなかった。享楽的ではない。とりわけ裕福ですらない。単なる大物。それだけだ。氏を無視できる政党などないし、入閣したがれば間違いなく一員となっていた。副会長のチェスター公は、若手成長株の政治家だ。いうなれば、ぺったりした金髪、そばかすだらけの顔、適度な知性と莫大な財産を持った、気のいい若者なのである。公の場に姿を見せればいつでも大歓迎だったし、信条は単純すぎるほどだった。冗談を思いつけば口に出し、才人だと言われた。冗談を思いつけなければ、無駄にしている時間はないと言い、才子だと言われた。同階級のクラブのような私的な場では、ただただ子供のように楽しげであり、率直でたわいなかった。政治に身を置いたことがないオードリー氏の方は、もう少し重々しく考えていた。自由党と保守党のあいだには違いがあるといった言葉で、会員たちを困らせたこともあった。氏自身は、私生活までもが保守党だった。懐かしの政治家たちのように白い巻毛をカラーに垂らしたところを後ろから見ると、帝国が望むその人といった趣がある。前から見ると、オルバニーに居を構える穏やかで気ままな独身者のように見えたが――そのとおりであった。
前述したように、テラス・テーブルには二十四席あるが、クラブの会員は十二人しかいない。というわけで、向かいの席には誰一人なく、テーブルの室内側に居並んで、この時期にしてはやや不気味な夜が近づきつつあるとはいえ、まだまだ色鮮やかな庭を一望のもとに見下ろすという、贅沢きわまりないやり方でテラスに陣どることができた。会長は列の真ん中に座り、副会長はその右端だ。初めに十二人の客が席まで歩くときには、(理由は知らぬが)十五人の給仕全員が、王に捧げ銃する軍隊のように壁際に整列する習慣であり、太った経営者はといえば、今までにクラブの噂すら耳にしたことがないかのように、嬉しそうに驚いてお辞儀をした。だがナイフとフォークが音を立てるころには、この軍臣たちはかき消えて、死んだように口をつぐんで動き回り、皿を下げたり配ったりするのに必要な一、二人だけとなった。経営者のリーヴァー氏は、言うまでもなくとっくの昔に礼儀の発作を引き起こし消え去っていた。氏がふたたびはっきりと姿を現わしたというのは誇張であるし、そもそも非礼である。だがメインの魚料理が運ばれてきたときには、その場にいたのである――どう表現すべきであろう?――人格が投影された鮮やかな分身が、近くをうろついているのがわかるのだった。神聖な魚料理は(俗人の目には)大きさも形もウェディング・ケーキほどのばかでかいプディングであるのだが、その中では種々雑多おびただしい魚が、神より与えられし姿を完全に失っていた。〈たヾしき十二漁師〉の面々は、名高いフィッシュナイフとフィッシュフォークを手に取ると、あたかもプディングの一切れ一切れが、食べるのに使うフォークと同じくらい高価であるといわんばかりに重々しく近づけた。もしかするとそのくらい高価だったのだ。ひたむきかつ激しい沈黙のうちに、この料理は片づけられた。皿が空になりかけたところで初めて、若き公爵がお決まりの言葉を口にした。「ほかでは、こんな料理は無理だね」
「無理ですな」オードリー氏は横を向き、尊き頭を何度もうなずかせながら、深く低い声で答えた。「確かに、ほかの場所では無理ですな。例えばカフェ・アングレでは――」
ちょうどこのとき皿が片づけられたせいで話の腰を折られ、あたふたとさえしたが、実のある話の筋道をたぐり戻した。「カフェ・アングレでは同じものができるそうですが、これほどではないでしょう」首つり判事のごとく冷たく首を振りつつ言った。「これほどではない」
「褒めすぎだ」パウンド大佐なる人物が、(見た目で判断するに)数か月ぶりに口をきいた。
「でもどうかな」チェスター公は楽天家だった。「素晴らしいものもあるからね。ことに――」
給仕がきびきびと部屋を横切り、ぴたりと止まった。止まるのも、歩くのと同じく無音だった。だがぼんやり穏やかな紳士連ときたら、生活を取り巻き支えている見えざる機構が極めて滑らかに動くのに慣れていたので、予期せぬことをする給仕には驚きもし不快にも感じるのだ。無生物の世界が反乱を起こしたとしたら――椅子が逃げ出したとしたら――そんなときに我々が感じるようなことを、かの紳士たちは感じるのである。
給仕は立ったまましばらく見つめていたが、テーブルの面々には、現代の産み落とした奇妙な羞恥の表情が深まっていた。これが、金持ちと貧乏人の魂の狭間に開く恐ろしい現代的深淵と現代的人道主義が結びついたものだ。真に由緒ある貴族なら、給仕に何かを放っただろうし、それは空っぽの空き瓶に始まり、おそらくはお金で終わっただろう。真の民主主義者なら、同志に話しかけるような明るさで、いったい何をしているのだとたずねただろう。だがこれなる現代の富豪たちは、奴隷であろうと友人であろうと、そばに貧乏人がいることに我慢がならなかった。使用人が思い通りに行動しないのは、退屈で腹の立つ気まずさにすぎない。残忍でありたいとは思わないが、慈悲を迫られるのも恐れていた。どんなことでも終わってほしかったのだ。終わった。給仕は強硬症患者のようにしばらくカチコチになって立っていたが、くるりと向きを変えると、ものすごい勢いで部屋を飛び出していった。
ふたたび部屋に、というか戸口に現れた際には、別の給仕と一緒にいて、ラテン系の激しい身振りでささやきかけていた。やがて第一の給仕が第二の給仕を残して立ち去ると、第三の給仕とともに現れた。第四の給仕がこの緊急会議に参加するころには、気配りのためにも沈黙を破った方がいいとオードリー氏は考えた。議長が使うハンマー代わりに、大きな咳を一つして話し始めた。「ムーチャくんがビルマでやっている大仕事だが。ほかの国ではまず無理――」
第五の給仕が矢のように近づいて耳打ちをした。「たいへん申し訳ないのですが、一大事です! 主人とお話し願えますか?」
会長は取るものも取りあえず振り向くと、どたどたと急いでやって来るリーヴァー氏を呆然として見つめた。経営者氏の足取りはそれこそいつもどおりであったが、顔はいつもどころではない。普段は温厚な赤銅色であったが、今は弱々しい黄色である。
「お許しください、オードリーさま」息も絶え絶えに喘いでいる。「たいへん心苦しいのですが、魚料理の皿が、ナイフとフォークごと運び去られました!」
「運び去ってもらわないことにはね」会長は温かく答えた。
「ご覧になりました?」興奮したホテル経営者が息を切らせてたずねた。「片づけた給仕をご覧になりましたか? お知り合いですか?」
「給仕と?」オードリー氏は憤慨して答えた。「知っているわけがない!」
リーヴァー氏が苦痛のしぐさで手を広げた。「向かわせた覚えがないのです。現れた時間も理由も存じません。皿を片づけに給仕を向かわせたところ、皿はすでになかったのだそうです」
オードリー氏はすっかり当惑したままなので、帝国が望む人物にはとても見えなかった。誰一人くちが聞けなかったが、唐変木――パウンド大佐――だけは別で、おかしな火種に火をつけられたようだった。ほかの連中を座らせたまま、椅子から堅苦しく立ち上がると、片目に眼鏡を嵌め、しゃべり方をほとんど忘れてしまったような耳障りな小声で話し出した。「つまり、誰かが魚づくしの銀器を盗んだのか?」
経営者がいっそう無力なしぐさでまた手を広げると、着座していた誰もが、途端に立ち上がった。
「給仕は全員ここにいるのか?」低く耳障りな調子で大佐がたずねる。
「うん。みんないる。確かだよ」若き公爵は二人のあいだに幼い顔を突っ込んで叫んだ。「入るときにいつも数えるんだ。壁際に勢揃いしているのがやたらとおかしくてさ」
「だが正確に覚えてはおれぬものですぞ」オードリー氏が散々ためらって口にした。
「正確に覚えてるよ」公爵は興奮して叫んだ。「ここにはこれまで十五人だけしかいなかったし、今夜も十五人だけだった。それ以上でも以下でもない」
経営者は驚きで麻痺したように震えながら振り返った。「と申し――と申しますと」どもっている。「給仕を十五人ご覧になったのですか?」
「いつものようにね。何が問題あるってんだ!」
「何もございません」はっきり強調しながらリーヴァー氏は言った。「ご覧になったはずがないというだけです。なにしろ一人は二階で死んでいるのですから」
一瞬、室内に恐ろしい静寂が訪れた。(死という言葉があまりに超自然的であるため)この有閑人たちは一瞬だけ自分の魂を目の当たりにし、それが小さな乾し豆みたいであると悟ったのかもしれない。誰かが――公爵だと思うが――いかにもお大尽らしい大きなお世話を口にした。「ぼくらにできることは?」
「神父がおりますから」ユダヤ店主は心を動かされないでもなかった。
途端に、運命が轟いたかのように、自分たちの立場に気づかされた。不気味な一瞬のあいだ、十五人目の給仕は二階の死者の亡霊ではないかと信じていたのだ。亡霊というものは物乞いのようにわずらわしいものであるからして、気が滅入って貝になっていた。だが銀器のことを思い出すと、不思議な魔法も破れた。破れたのは突然のことであり、はっきりとした反応をともなっていた。大佐が椅子を蹴倒し、戸口に歩み寄った。「よしみんな、ここに十五人目の人間がいたのなら、そいつが泥棒だ。すぐに表玄関と裏口に行って鍵を掛けるんだ。話はそれから。我らが二十四個の真珠は取り戻すに足るぞ」
オードリー氏は初めのうち、こんなふうに急ぐのは紳士らしくないのではとためらっていたようだが、若さみなぎる公爵が階段を駆け降りるのを見ると、もっと円熟した動きであとに続いた。
それと同時に六番目の給仕が部屋に駆け込み、食器棚に魚用の皿が積んであるが、銀器は跡形もないと告げた。
大慌てで廊下に転がり出た客と給仕の群れは二手に分かれた。大部分の漁師は逃亡者の情報を求めて玄関まで経営者を追いかけた。パウンド大佐は、会長、副会長、その他二、三人とともに、十中八九逃げ道だとばかりに、使用人部屋に続く廊下に飛び込んだ。と見る間に、薄暗い小部屋か洞穴のような預かり所を通りかかると、使用人らしき小柄な黒外套の人影が、暗がりのやや後ろに立っているのが見えた。
「おーい、ちょっと!」公爵が呼びかけた。「誰か通らなかった?」
小柄な人影は質問には直接答えずに、ただこう言っただけだった。「たぶん、お探しのものはわたしが持っておりますよ」
ためらいながらも不思議に思って立ち止まったが、件の男は無言で預かり所の奥に向かい、両手にぴかぴかの銀器を抱えて戻ってくると、店員のように平然と窓口に並べた。するとそれは、典雅な形をした十二のフォークとナイフなのであった。
「あんた――あんたは――」大佐が言いかけたが、とうに落ち着きは剥ぎ取られていた。やがて暗い小部屋をのぞき込んで二つのことを確認した。一つには、その小柄な黒服の男が、神父のような服装であること。二つ目は、部屋の奥の窓が、誰かが乱暴に通り抜けたかのように破れていたこと。「預かり所に預けるには高価な品でしょうに?」神父の快活な声は落ち着いていた。
「き、きみが盗んだのかね?」オードリー氏は吃りながらじろじろねめつけた。
「だとしても」楽しげに神父が答えた。「少なくとも元に戻しております」
「だがあんたじゃない」破れた窓を見つめたまま、パウンド大佐が言った。
「実を言うとわたしじゃありません」面白そうに答えると、まじめくさって椅子に腰掛けた。
「だが、誰がやったか知っている」大佐が言った。
「本名は存じません」神父は落ち着いていた。「ですが体つきのことなら少しばかり知っておりますし、心の苦悩のことなら山ほど知っております。わたしの首を絞めようとしたとき体の見当がついたし、悔悛したとき心の方も見当がつきました」
「へへえ、悔悛したって!」若公爵が吹き出した。
ブラウン神父は両手を後ろにやって立ち上がった。「不思議じゃありませんか? 泥棒やごろつきが悔い改めるそのときに、金持ちや何不自由ない多くの人々が神や人間に報いもせずに、頑固で不真面目なまま過ごしているとは。だが失礼ながら、わたしの職分に少しばかり踏み行っていらっしゃる。悔悛の事実をお疑いでも、ナイフとフォークがありますよ。皆様方は〈たヾしき十二漁師〉であり、銀の魚をお持ちです。ですが主はわたしを、人間をとる漁師になさった」
「捕まえたのか?」顔をしかめて大佐がたずねた。
ブラウン神父はそのしかめ面をしっかと見据えた。「ええ、捕まえましたとも。目に見えぬその釣り針と糸は、世界の果てまで彷徨えるほど長いものではありますが、糸を引いて連れ戻すくらいはできます」
長い沈黙。ほかの人たちは、取り戻された銀器を仲間のところに運んだり、奇妙な状況について経営者と話し合ったりするために、散開していった。だが大佐だけは厳めしい顔をして窓口に身体を預けたまま、細長い足を揺らし、黒い口髭を噛んでいた。
ようやく穏やかに神父に話しかけた。「やつは賢かったに違いないが、もっと賢い人間がいるようだ」
「賢いやつでした」神父は答えた。「ですがあなたの仰るもう一人の方は、ちと見当がつきません」
「あんただよ」大佐は軽く笑いをあげた。「やつをぶち込む気はない。心配するな。だが銀のフォークなどどうでもいいから、あんたがどうやってこの事件に感づいたのか、それにどうやってやつから取り戻したのか、正確なことを知りたいんだ。あんたが一番、話がわかりそうだ」
ブラウン神父は、この軍人の陰気な率直さをどこやら気に入ったようである。「さよう」微笑みを浮かべた。「もちろん、やつの素性や経歴をお話しするわけにはまいりません。ですが個人的に見つけ出したうわべの事実を話してはならないという、特別な理由はありませんから」
驚いたことに神父は仕切りをひょいと飛び越えると、パウンド大佐の隣に座り、門に腰掛けた子供のような短い足をばたつかせた。クリスマスの暖炉を囲む旧友に話しかけてでもいるようにくつろいで話し始めた。
「ええとですね。書き物をするためにあの小部屋に閉じこもっていたんです。すると死者の踊りのような、奇妙な足取りの音がこの廊下に聞こえてきました。最初は素早くて妙な、小さな足音です。ちょうど誰かが賭け金をせしめようと爪先で歩いているようでした。続いてはゆっくりと慎重な、軋るような足音です。大物が葉巻をくゆらし歩いているというのがぴったりでしょうかな。ところがどちらの足音も、同じ足によるものだったのです。それが交互に聞こえてくるわけです。初めは走り、次に歩き、また走る。わたしは最初のうちはぼうっと考えておりましたが、なにゆえ一人の男が同時に二つの役を演じるのか、俄然ふしぎに思い始めました。一つは知っている足音です。ちょうどあなたのにそっくりでした。体格のいい御仁が何かを待ちながら、精神的に焦っているというよりは肉体的に張り詰めているゆえに歩き回っている足音です。もう一つの方も知ってはいるはずなのですが、思い出せませんでした。そんなへんてこりんな姿勢でつま先立って走る野生動物に、旅の途中で出会っただろうか? するとどこかで皿の鳴る音が聞こえたのです。ペテロ同様に、答えは目の前にありました【詳細不明】。それは給仕の歩き方でした――身体を前屈みにし、目を伏せ、爪先の先で床を踏み、燕尾服とナプキンをはためかせる歩き方でした。それからわたしは、さらに一分半のあいだ考えました。すると犯罪の仕組みが見えたんです。自分が手を下そうとしているみたいにはっきりとわかったんです」
パウンド大佐は神父をまじまじと見つめたが、語り手の穏やかな灰色の目は物思いに沈んで天井に据えられていた。
「犯罪も」神父はゆっくりと続けた。「ひとつの芸術です。びっくりすることはありませんよ。悪の巣から生まれる芸術が犯罪だけというわけでもない。ですが芸術というものは神がかり的であれ悪魔的であれ、おしなべてただひとつの特徴を備えているものです――根は単純というわけですな、見かけが遙かに複雑であろうとも。例えば『ハムレット』ですが、墓掘り人の不気味さや、狂える姫君の花、オズリックの派手な服装、亡霊の顔の蒼白さや髑髏の剥き笑いといったものはすべて、黒衣をまとったわかりやすい悲劇の人物を囲む、もつれた花輪のような賑やかしに過ぎません。さよう、これもまた」微笑みを浮かべてゆっくりと席を立った。「これもまた、黒衣の男によるわかりやすい悲劇でした。そうなんです」不思議そうに顔を上げる大佐を見ながら、神父は続けた。「この話のすべてが、黒い上着に端を発していました。『ハムレット』と一緒で、これにもロココ調の余計な装飾があったのです――例えばあなた方だ。亡くなった給仕がいますな、いるはずのなかった時間にいた人物です。テーブルから銀器を運び去ったまま消え失せた、目に見えぬ手があります。しかし、如何に巧妙な犯罪といえども、つまるところは単純至極のある事実に依って立っているわけです――事実そのものには何の不思議もありません。不思議に見えるのは、その事実が覆い隠され、人の気がそらされているからなんです。この大がかりで手の込んだ、(普通にいけば)大もうけできた犯罪は、殿方の夜会服と給仕の制服が同じであるというわかりやすい事実に基づいていました。あとは演技するだけです、それも途方もない名演でした」
「まだ――」大佐は立ち上がるとブーツをにらみながら言った。「はっきりせんな」
「大佐」ブラウン神父が答えた。「フォークを盗んだこの図々しくもけしからん天使めは、ランプの明かりに照らされて衆人環視のもと、この廊下を何度も行き来したのです。疑いの目で見られるような薄暗い隅っこには隠れませんでした。明るい廊下を動き回り、どこに行こうとさも当然の顔をしていました。どんな男だったかはおわかりのはずです。今夜のうちに六、七回、ご自身でご覧になったはずですから。皆さん方はそこの廊下の端にある、奥にテラスの付いた応接室で待っていたでしょう。あなた方の前に現れるときは、給仕のように素早い様子で頭を下げ、ナプキンをはためかせて飛ぶように現れました。テラスに飛び出してテーブル・クロスに向かって何やら行うと、事務所と給仕部屋の方へと舞い戻りました。事務所の係員や給仕の面前に現れるころには、身体の隅々から反射的な身のこなしに至るまで、別人になっておりました。お得意様に特有の、のほほんと横柄な態度で使用人のあいだを練り歩いていたのです。晩餐会の貴賓殿が、動物園の動物みたいに家のあちこちを歩き回るのはよくあることでした。歩きたいところを歩くといった流儀こそが、上流階級の特徴ですからね。やつは件の廊下を歩くことに飽き果てた途端、くるりと向きを変えて事務所を通り過ぎてテクテクと戻りました。そしてすぐそこの窓口の陰で、一陣の魔法みたいに変ずると、ふたたび〈たヾしき十二漁師〉のもとへ、従順な使用人として急いだのです。上流紳士が、居合わせた給仕をじろじろと見るわけがありますか? 給仕たちが、歩き回る高貴な紳士を疑うわけがありますか? 一度か二度、やつは恐ろしいほどの悪ふざけをやってのけました。喉が渇いたと言って、経営者の私室まであっけらかんとソーダ水のサイフォンを取りに来ました。自分で持って行く旨をにこやかに告げると、それを実行しました。職務中の給仕然と、あなた方の真ん前を迅速確実に運んで行ったのです。そりゃもちろん、いつまでも続けるわけにはいきませんが、とにかく魚料理が終わるまでは続ける必要がありました。
「いちばん危なかったのは、給仕が一列に並んだときでした。しかしそんなときでも、上手いこと隅っこの壁の辺りにもたれかかっていたので、この運命の一瞬のあいだ、給仕たちには殿方だと、殿方には給仕だと思われたのでした。あとは簡単です。席を立っているところを給仕が見ても、殿方がぶらついているのだと考えたでしょう。魚がさげられる二分前を見計らって、てきぱきとした給仕に変身し、自ら運ぶだけでよかった。皿を棚に置くと、銀器を突っ込んで上着のポケットふくらましたまんま、脱兎のごとくに走り出し(近づいてくるのが聞こえたのですが)預かり所までやって来ました。そこで再びお大尽になればよろしい――不意の仕事に呼び出されたお大尽にです。預かり所の係員に番号札を渡して、来たとき同様すましかえって出ていくだけでよかった。ところが――ところが偶然にも、その係員が私だったのです」
「君は何をしたんだ?」常になく激しく、大佐が叫んだ。「何を言ったんだ?」
「申し訳ありませんが」神父はきっぱりと答えた。「これが話の終わりです」
「次は面白そうな話の始まりだな」パウンドは呟いた。「やつのやり口はわかったつもりだ。だが君のはよくわからんようだ」
「もう行かなくては」
二人が廊下を通って玄関ホールまで歩くと、そばかすだらけの若々しいチェスター公の顔が見え、元気よく跳びはねてやってきた。
「いたいた」息を切らして叫んだ。「捜しまくってたんだ。晩餐はまた豪勢に始まってるし、オードリーさんときたら、フォークが無事戻ってきた記念に一席ぶつ羽目になっちゃった。何か新しいお祝いを始めたいな、つまり事件を記念して、ね。うん、実際モノは戻って来たんだし、何かアイデアは?」
「そうだな」やや皮肉めかして頷きながら、公爵を見つめたまま大佐が答えた。「今後は黒い夜会服の変わりに、緑のを着ることにしたらどうだ。あんまり給仕そっくりに見えると、どんな間違いが起こるかもわからん」
「やだなあ! 紳士が給仕に見えるもんか」
「給仕が紳士に見えることも、だろうな」パウンド大佐は、不機嫌に笑みを浮かべたままだった。「神父さん、ご友人はよほどうまく紳士に化けたに違いない」
ブラウン神父はごく普通のコートのボタンを首まで留めた、というのも、荒れ模様の夜だったからだが、次いで傘立てからごく普通の蝙蝠傘を取り上げた。
「さよう。紳士になるのはたいへんなことです。だがどうです、給仕になるのも同じくらいに骨が折れるのではないかと考えることもありますよ」
そして「さようなら」と言いながら、歓楽の宮の重いドアを押し開けた。背後で金色の門が閉まると、乗合バスを捜すため、暗く湿った通りを元気に歩いていった。
G.K.Chesterton "The Innocence of Father Brown" より 'The Queer Feet' の全訳です。
Vol. 1 04/06/19
Vol. 2 04/07/26