1936 |
The Paradoxes of Mr. Pond 『ポンド氏の逆説』 |
・チェスタトン自らが逆説集と銘打った晩年の作品。小柄なポンド氏、のっぽのガーガン大尉、外交官のウォットン卿が体験したり話を聞いたりした逆説の数々。 |
邦訳 |
『ポンド氏の逆説』(創元推理文庫)中村保男訳[bk1・amazon]
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「三人の騎士」(The Three Horsemen of Apocalypse)
――死刑執行命令の停止を通達する伝令が途中で死んでしまったため、囚人は釈放された。嘘でもパラドックスでもないと言い張るポンド氏の話を聞くと、確かにそれはあっけない事実なのであった。
物事をある方向から見るのと別の方向から見るのでは事実すらまるで違って見えてしまう(解釈されてしまう)という凄みを感じます。原題が「黙示録の三騎士」というだけあって暗くてシリアスな話。
素晴らしい作品ではあるのだが、人から聞いた話をポンド氏が別の人に話すだけという設定なので、狭義のミステリではないともいえる。そこらへんをマイナスと考える人もいるでしょう。本書中でも一、二を争う出来栄えの作品。
温厚な役人ポンド氏。顎髭を引っ張りながら魚のように口をぱくぱくさせる癖がある。泉水《ポンド》みたいに中にどんな生き物が潜んでいるかわからない。 |
「ガーガン大尉の犯罪」(The Crime of Captain Gahagan)
――大女優オリヴィアの夫が刺殺された。オリヴィアと親しくしていたガーガン大尉に容疑がかかる。事件の直前、大尉が三人の女性にそれぞれ別の行き先を告げているという証言が提出された。
これはちょっとなんと評価していいのだろうか、伏線もきちんと張られているし、女性の人間性に関する逆説も説得力があるし、ガーガン大尉の犯罪も現代にまで尾を引いている社会的問題を批判したものではあるのだが、いかんせんインパクトに欠ける。
「ああいうふうにのみこみがよくちゃ、何ものみこめやしません」という話なんですけどね。
ポンド氏は口をぱくぱくやるだけではなく、目も「ぎょろりとした魚のような目つき」らしい。 |
「博士の意見が一致すると……」(When Doctors Agee)
――二人の男が完全なる意見の一致を見たために、一人がもう片方を殺した。ハッギスとキャンベルは政敵同士だった。何もかも正反対の二人。ある日ハッギスが何者かに刺し殺された。キャンベルも招待されたグレノーキー邸のパーティで、事件のことが話題になるのも当然の成り行きだった。
「ガーガン大尉の犯罪」はリアルな人間性を利用していてそれはそれでいいのですが、本編みたいに形而上的・観念的な逆説の方が凄みがあって好みです。緊縮財政主義のハッギス、無神論者で公共主義者キャンベル、キャンベルの弟子で敬虔なクリスチャンのアンガス。三人の極端な個性がぴたりと事件を構成しています。
ポンド氏が小柄でフランス風(顎髭としゃべり方)という記述あり。 |
「道化師ポンド」(Pond the Pantaloon)
――「あれは割合に赤い鉛筆だった。だからこそあんなに黒ぐろと書けたのです」。官庁に遊びに(?)来たガーガン大尉はポンド氏からそんなとんちんかんなことを聞かされる。多くを語らないポンド氏に代わり、ウォットン卿が当時のポンド氏の活躍を話し始める。
機密文書を無事に届けるため、厳重な警備を施した。これで絶対に安心だ。だがポンド氏だけは不安がぬぐえないようだった……。
「折れた剣」式アイデアで文書を送ろうとするポンド氏なのであったが、敵もさるもの、たとえ木の葉を森に隠されそうになっても自分で探すことはない、自動的に自分の手元にやってくるように仕向ければよいのである。犯人とポンド氏の知恵比べの趣のある名作。そこにあるはずのない「もの」を使っていかにして犯行を成し遂げるか。
演劇作法に則った道化師による狂言回しがいい味だしてる。
「空の雲が駱駝のように見える」のと「空に駱駝が見える」のはまったく違うというポンド氏の言葉が印象深い。余談になるが以前に読んだ新聞のコラムを思い出した。
医学部教授が学生にアンケートを採った。「頭脳」と「心臓」、「こころ」とルビを振るならどっち? 結果は「心臓」の方が多かったそうな。で、件の教授はこの結果を嘆いているのでした。科学的な判断よりも情緒に流されるなんて……と。このコラムを読んだとき、笑うべきか怒るべきか怖がるべきか判断がつかなかった。この教授にとっては「どちらにルビを振るか?」という質問と「どちらにこころがあるか?」という質問はまったく同じ意味しか持たないのでしょう。こんな人たちにインフォームド・コンセントとか対話の必要性とか訴えてもわかってないんだろうなぁ……と情けなく感じたものでした。
ポンド氏が自分をポローニアスに喩えている。梟のような表情。 |
「名ざせない名前」(The Unmentionable Man)
――ある国の政府が好ましいよそ者を追放したがっていた。しかし全国民から好かれていたのに追放されなかった……。以前ポンド氏が訪れた国では、ムッシュー・ルイと名乗る人物が演説を行っていた。反体制的なその内容に、民衆は喝采し政府は顔をしかめた。だが男は逮捕されることもなかったし、追放されることもなかった。
邦題はちょっと違うような気がする。名前を「名指せない」のではなく、その人のことを「口にできない」アンタッチャブルな男、といったような内容の話です。
ポンド氏に言わせると言葉遣いからその人となりが判断できるそうだ。紀元五世紀の言葉を使う男とは何者か。古い言葉を使うから古い家だという普通なら乱暴な理屈も、架空の国を舞台にしたチェスタトンの筆致の前ではいくばくかの説得力を持ってくるから不思議。 |
「愛の指輪」(Ring of Lovers)
――ガーガン大尉は誠実な人だから、埒もない不必要な嘘をつく。明白に虚偽とわかるのなら、嘘とはいえない。そして嘘と真実にははっきりとした区別がある。「万事がきちんとまとまっていて、しっくりしないものがなにもないというとき、われわれはそれがこしらえものじゃないかと疑るのです」
ガーガン大尉が招かれた晩餐には、てんでばらばらな客が集まっていた。仲の悪い客を集めて喧嘩になるのを眺めるバークリーの小説のように。だが実際のところ主人は喧嘩させるどころかその防止につとめていた。主人の指輪が客のあいだを回されるうちに消失した。まるで推理小説のように。だが推理小説のように身体検査を拒むものはいなかった。コーヒーに毒が入れられていると小説のように主人が叫び、小説のように客の一人がくずおれたが……。
事実は小説とは違う、という小説を書くこと自体がパラドックスだったりするんですが、“小説とは違う事実”という小説が終わったところから、“小説のようなハッピーエンドな事実”という小説が書かれるあたり、凝ってます。実はタイトル(「恋人たちの指輪」)もダブル・ミーニングなのですネ。
見方を変えるだけで見えているものが百八十度くるりと変わってしまうという推理小説の醍醐味が味わえる好篇。単純なだけに効果的。
事件が終わったあとにガーガン大尉が気づく“ある事実”もかなり恐ろしいです。 |
「恐るべきロメオ」(The Terrible Troubador)
――ポンド氏の友人ポール・グリーン博士が驚くべき報せを告げた。ガーガン大尉が実は逃走中の殺人犯だというのである。大尉の殺人を目撃したというホワイトウェイ牧師の話を聞いたところ……。
どうやら大尉は牧師の娘に夢中らしい。画家エアーズとは恋敵。ある夜に牧師が窓から目撃したのは、ぼさぼさ頭に猫背のエアーズの影、そしてそれを追うガーガン大尉の影。やがて大尉が相手を撃ち、引きずって川に捨てるのが見えた。
「影法師を一番見誤りやすいのはそれが寸分の狂いもなく実物の姿をしているときだ」という逆説は、『ブラウン神父の知恵』所収の有名な短篇を連想します。でもこの逆説はちょっと強引かな。
影だから実物と違っていても当然だと人は思っている→寸分の狂いもなく実物のAの姿をした影が見えた→その影はBの実物と違ってはいるが似ていた→まさかAの実物だとは思わないし、影なんだから少しくらい実物のBとは違っていて当然だろうと思った→Aの影をBの影だと信じた――という理屈なんだろうけれど、説明部分が言葉足らずのため、何回か読まなければ理解できなかった。
真相にしても、進化論が伏線になっているとはいえナァ……。動機と行動のあいだの距離がはちゃめちゃ過ぎる。ポオの某記念碑的作品というよりはドイルの某作でしょうね。オマージュなのかパロディなのか。とにかく変な話。怪作。 |
「目だたないのっぽ」(A Tall Story)
――欧州大戦中イギリスにはスパイに対する猜疑が蔓延していた。ウォットン卿のもと対諜報活動に当たっていたポンド氏のところには、隣の家の老婦人から不安の声が届いていた。やれ大工が社会主義者っぽい、やれ家庭教師がドイツのスパイっぽい、やれ向かいの古道具屋が看板にドイツ人の名前を掲げている……。数日後ポンド氏の部下が事務所で殺され、書類が盗まれた。凶器は見たこともない形をした大振りの刀であった。
原題「A Tall Story」は「ほら話」と「のっぽの話」をかけています。
奇想。「ほら話」のタイトルどおりリアリティのかけらもないが、乱歩のような遊園地やおもちゃ箱みたいなトリックは忘れがたい。二十面相がこういうおバカなトリックで巨人を発明しているのが目に浮かぶ。
古道具屋がドイツ名前を掲げていた理由が分からない。これも逆説? |
G.K.チェスタトン著 / 中村 保男訳 東京創元社 (1989) ISBN : 4488110096 価格 : ¥462 通常2-3日以内に発送します。
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