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1996年 郵便局と蛇』 
 ・日本で唯一のコッパード短篇集。全9編。
 訳者の西崎氏は、「コッパードの作品は、キリスト教に関わるもの、村を舞台にしたもの、恋愛小説的なもの、ファンタジー、の四つに大別できるようである」ので、作品の選択には「あまり偏向がないように心がけた」と述べていらっしゃいますが、結果的にはファンタジー系の作品が多くなっているようです。そんなわけで個人的には嬉しい作品集となっております。


「銀色のサーカス」(Silver Circus)
――虎に扮してライオンと戦うはめに陥った男が檻の中で出会ったのは……。

 おそらく日本では、コッパードの作品中もっとも知られた作品かもしれない。虎の皮をかぶりライオンと闘うはめになった男の物悲しくも滑稽なコキュ譚。

 1928年の短篇集『Silver Circus』より。
 


「郵便局と蛇」(The Post Office and the Serpent)
 ――

 『Nixey's Harlequin』(1931)より。


「うすのろサイモン」(Simple Simon)
 『Black Dog』(1923)より。


「若く美しい柳」(The Fair Young Willowy Tree)
 『You Never Know, Do You?』(1939)より。


「辛子の野原」(The Field of Mustard)
 ――

 『The Field of Mustard』(1926)より。
 


「ポリー・モーガン」(Polly Morgan)
 ――ある秋の朝、葬列がアガサ伯母の家の方へと近づいてきた。一人の会葬者の姿も見えない。哀れに思って伯母は菊の花束を捧げた。けれど、それはしてはいけないことだったのだ。死んだ男は花束などに浪費しないよう厳しく言いわたしていた。そのせいで、伯母が生前の死者の情婦だったという噂が立った。それ以来伯母の様子がおかしくなった。幽霊などいないと思う。けれど……。

 「高い煙突がわざわざ道行く人を不作法にしゃがんで眺めさせるほどの好もしさを持つのは何故だろう」「私は月光が人間を傷つけると思う」等々、印象的なフレーズでとめどなく綴られる幽霊譚&恋愛譚。コッパードの幻想体質をすべて注ぎ込んだかのような静謐なゴースト・ストーリーです。

 作中人物に倣っていうなら「憑かれると決めこむことはそれを望むのと同じこと」です。これは、アガサ伯母とポリーの、二つの罪と罰の物語。「月光が人間を傷つけると思う」のに理由はない。迷信は信じないけれど、「雷が鳴る時、鏡を覆う」し「梯子の下は歩かない」のと同じこと。罪を犯せば罰が下る。同じ罰なら「気持ちよく、それに納得できる」方がいい。ポリー・モーガンが決めこんだ憑かれ方は、その時点でできる精一杯の「納得できる」取り憑かれ方だったのでしょう。死者が戻っては来ない以上、ポリーに残された道は、自分の中で罰という折り合いをつけることしかなかったのだと思います。

 『Silver Circus』(1928)より。
 


「王女と太鼓」(The Drum)
 ――キンセラは孤児だった。鳥捕りのレインズビーという老人と暮らしていた。幼い頃に時計職人の爺さんが予言したことがある――キンセラはいつの日か世界の頂に登りつめるだろうと。だからキンセラは旅立った。行くあてもなく。

 すっとぼけた語り口があいかわらずの、神話を夢見た少年の一夜の夢みたいな物語。王女になれない王女は、王女になるための教養を身につけようとはしない。太鼓を叩いて人民を困らせるばかり。だけど国内に留まるのが王女としての義務。――と、いうのが少年の成長(物語)に対する暗喩かなにかだと考えてもつまらない。ただただ予定調和のくつがえされるほんわかした神話を楽しみましょう。

 『Ugly Anna and Other Tales』(1944)より。
 


「幼子は迷いけり」(A Little Boy Lost)
 ――「男の子ってもんはクリケットのバットを持ってるもんだよ」エヴァにそう言われ、トムはデヴィッドにバットを作ってやった。それからエヴァがボールを。けれど息子はバットにもボールにも興味を示さなかった。両親が打ったり投げたりしているあいだ、ただぼんやり眺めているだけだ。「きっと見ているのが好きなんだ」そう思い、エヴァは望遠鏡を買ってやった。

 手術をして虚弱な息子はいなくなった(lost)。それは寂しくもあったけれど、陽気でもあるはずでした。デヴィッドは確かにいなくなりました。それまでは言葉も感情も描かれることのなかったデヴィッドの内面が初めて表現される場面はあまりにもほろ苦い。「デヴィッドは脆かった」。身体を手術しても、心が耐えられなかった。酸素が濃すぎると人間は興奮状態に陥ります。繊細な心にとって、この世はあまりにも大気が濃すぎました。大気を吸い過ぎぬよう心と体が膜を作っていたのに、外に触れざるを得なくなったとき、幼子はどうすることもできずに迷う(lost)しかありませんでした。これを体育会系の作者が書いたのかと思うと唖然とします。最後のシーンがいつまでも記憶に残ります。

 『Fishmonger's Fiddle』(1925)より。
 


「シオンへの行進」(Marching to Zion)
 ――私は女に道を尋ねた。「私はもうどのくらい来たのでしょう?」人は誰もが旅をしている。私はいろいろな人に出会った。修道士は偉大だった。罪を犯している者に遭ったから、修道士が打ち殺した。土を汚さぬように死体は井戸に捨てた。それからマリアに出会った。死を恐れず、夢を見て祈る浄い心の持ち主だった。私はマリアがいなくなってしまうのが怖かった。

 誰もが〈シオン(=神の国)〉に向かって旅しているというのなら、それは死に向かって歩むこと――つまりは人生のことにほかならない。悟りとか成仏とかいう発想はキリスト教にはないだろうけれど、でも“神の国に召される”ことを目指すというか祈るというか、死を望んでいるわけではないけれど死ぬのであれば“神の国に召されたい”という発想はどの宗教に限らずごく自然なものでしょう。誰もシオンへの道筋など知るわけもないし、どこにあるのかわかるわけがない。どうすれば行けるのかもわからない。語り手のミカエル・フィオンギサ、修道士、マリアは、三人が三人ともまったく違う信念(信仰?)を持っています。マリアが召されたのは、正しい心を持っていたからなのかもしれないし、ただ単に寿命が来ただけなのかもしれない。そもそも召されたのではなく、幻を目撃してその後に消えただけなのかもしれない。それは誰にもわかりません。

 冒頭こそ「うすのろサイモン」のようなユーモア路線かと思わせますが、どんどんどんどん解釈しがたい奇妙な話になってゆきます。

 『Adam and Eve and Pinch Me』(1921)より。
 

郵便局と蛇
A.E.コッパード著 / 西崎 憲訳
国書刊行会 (1996.6)
ISBN : 4336038325
価格 : ¥2,447


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