「犬にはみんなひと噛みする権利がある」――ニューヨーク最高裁判所上訴部の非公開の見解。
「ほらほら!」アプルボーイ氏がボートハウスから出てきた叫んだ。朝釣ったパーチをさばいていたのだが、隣人のタニーゲイト氏が生け垣を押し分け、アプルボーイ家のものである海岸沿いの乾いた芝生を横切ったのだ。「いいか、タニーゲイト。頼むからおれん家には入らないでくれ! 十二回は言ったはずだぞ! ほら、生け垣に穴を開けちまって! どうして道でおとなしくしてくれない?」
普段は温厚な顔にも怒りと汗があふれていた。タニーゲイト氏に対する苛立ちは臨界点に達していた。タニーゲイトは恩知らずな友人であり、アプルボーイ氏にとっては大いなる十字架であった。かねて二人は兄弟同様でいて口数も少ないといった、太った人間特有の友情をはぐくんでいた。あるいは巨大な天体が互いに引きつけ合うような引力であろう。というのも太った人間が互いに引きつけられ、おとなしく並んで吊るされたり浮かんでいたりするのは事実であるが、これなどはかれらが重いということの物理的結果に過ぎないのであろう。気まぐれな風に吹かれたのか、神秘的な動物磁気に惹かれたのか、こうしてアプルボーイとタニーゲイトは互いの勢力圏に侵入しあった。さらには二人とも、アイザック・ウォルトンによって神聖化された眠気を催す娯楽にのめり込んでいたために、ロング・アイランド・サウンドすなわち地質学的にはスロッグス・ネックの名で知られる近隣都市に属する海岸に、それぞれ手軽な神殿を建てていた。
夏の暑いあいだは毎朝アプルボーイがタニーゲイトを起こしたり、あるいは反対にタニーゲイトがアプルボーイを起こしたりして、漁業芸術に最適と思われる地点まで、自分の小舟をこぎ出して危なっかしく揺られていたものだった。そこで緑の日傘を二つ差し、二頭の白象の背中座席で揺られる二人の太った
「ふん! はずれだ!」
「ふん!」
「ふん!」
四十分間、無言。それから「ふん! 来たか?」
「んにゃ!」
「ふん!」
大概においてこれが交流のすべてである。しかしながらこれで充分だった。二人の魂は共鳴していたからだ。言葉には表せない真意、深遠な奥義以上に難解な哲学的謎、花々や詩歌、鳥の声や薄暮、そっとささやかれた宣言に込められたあらゆる意味合い、昇天間近な愛の恍惚の捕えがたいハーモニー、それがこのやり取りに含まれていたのである。
「ふん!」
「ふん!」
やがてこのエデンにも――もともとのアダムの場合とは違い、椎骨を摘出する必要はなかったとはいえ――女が発生した。もはや静寂ではなかった。空気は喧噪に裂かれた。というのも、アプルボーイとタニーゲイトは二人とも一と月のうちに妻をめとった。
しばらくの間は順調だった。ご婦人方がお互いの弱みを見つけるのには数週間かかるものである。だがやがて新婦のタニーゲイト夫人が――読者の文学的伝統に沿うように言えば――突然ではあるがあからさまに、蛇の牙、いや蝮の舌、あるいは悪魔の割れた蹄を見せ始めた。はっきりした理由などまったくないがアプルボーイ夫人に激しい憎しみを覚え、当の相手が無邪気にもそのことにどうしても気づこうとしないものだから、憎悪の棘はますます大きくなっていた。とうとうアプルボーイ夫人を臨戦態勢に引き込むのは難しいと見るや、すぐに作戦を変更し、アプルボーイの人生に重荷を背負わすというより実り多き活動に力を注いだ。
果てはそれこそマキャベリのごとき才能を発揮して、ありとあらゆる侮辱・嫌がらせ・迷惑行為を編み出し、マレーの呪術医もかくやと思われるあくどさで毒舌を注ぐことに身をやつした。アプルボーイ家の植木鉢が不思議なことにベランダに落ちていたり、櫂の受け軸が失せていたり、牛乳がなくなっていたり、アプルボーイ氏の釣り糸がぐるぐる巻きの有刺鉄線でしか見たことがないほどの混乱を呈していたり、餌のハマグリが腐っていたりしたのである! だが、きっとこうしたことには我慢できただろう。タニーゲイト夫人の悪意が頂点に達しなければ。アプルボーイ夫妻が子どものようにしきりと目をかけていた大事な芝生に侵入しなければ。
それはほんの二十フィート四方で、囲っているのは古くさいイボタノキの生け垣であったが、砂丘で草葉を育てようとしたことのある人間なら、タニーゲイト夫人の悪魔的所業をすっかり理解したであろう。もう先からそこにはひどい裂け目ができていた。夫人にそそのかされたタニーゲイト氏がかき分けて進んだのだ。どう見ても自然が草花を空っぽにしようとしていた場所に、アプルボーイ夫妻はちっぽけな緑地帯を作ろうともがいていたが、その見回りの手間を省いてやろうというわけだった。アプルボーイ家は海岸のこっちまでは所有していないのでは? タニーゲイト夫人に悪質な閃きがささやいたのは、アプルボーイ夫人が小さなじょうろで辛抱強く強情な葉っぱを世話しているのを見たときのことだったのは間違いない。所有地ではなかった――馬鹿馬鹿しいほど簡単なことだった。たいていの人たちと同じように、アプルボーイ家では敷地内ぎりぎりにポーチを作っていた。つまりタニーゲイト夫人が指摘したように、アプルボーイ夫妻は自分たちのものではないものの所有権を主張していたのである。こうしてタニーゲイト氏は日毎日毎に妻の言いなりになって、わざわざ生け垣をかき分けて海岸に向かい、日毎日毎にアプルボーイ夫妻の怒りは絶望に駆られるほどにまで大きくなっていたのである。
今やかつての友は小舟に腰掛け釣りをしていても、見下げたように無視し合うか、「ふん!」するときでも怒り狂った獣の唸りのように「ふんふん!」していた。なかでもひどかったのは、アプルボーイ夫妻には何一つ適切な行動が取れなかったことだ。タニーゲイト夫人が鼻で笑って指摘したように、タニーゲイト氏には生け垣をかき分け芝生を踏み歩く完全なる法的権利があったし、アプルボーイ家に何かを禁止する権利を認めるつもりもなかったのである。とんでもない!
それゆえに、アプルボーイ氏がタニーゲイト氏に向ってこの物語の始まりの言葉をかけたときに、タニーゲイト氏の方はアプルボーイ氏が地獄に落ちかねない言葉、態度、内容の無礼千万な返事をした。そのうえそばを通りしな、アプルボーイ夫人が意中のひとのように育てて移植した藻のかたまりにわざわざ蹴りを入れ、ほかの場所ではあらわだったり見え見えだったりする砂の表面にもっともらしさを与えようと目論んだ。アプルボーイ氏は我慢ならずに声をあげた。
「ああ!」自分の気持を余すところなく表現しようとして、出てきたのはそんな叫びだった。「ふうん、それにしたって意地が悪いな!」
ビンゴ! 十分すぎるほど当を得た言葉だった! タニーゲイトは意地が悪い――妻のデブカバに次ぐ意地の悪さだ。
それから、将来どうしようとか具体的な考えがあったわけではないのだから理由はわからないし、ただ何となくタニーゲイトを脅かしてびびらせてやろうとしただけだったのだろうが、アプルボーイ氏はさらにこう言った。「二度と生け垣を通り抜けるんじゃない! いいな――警告だ! もう一度やったらどうなっても知らないぞ!」
本気でないのはタニーゲイトにもわかった。
「ふん!」と鼻で笑って言い返した。「そっちこそ!」
アプルボーイ氏は小屋に入ってバタンとドアを閉めた。夫人はリビング・キッチンでいもの皮をむいていた。
「耐えられないよ!」アプルボーイ氏は弱々しく声をあげた。「あいつのおかげで狂ってしまいそうだ!」
「かわいそうに!」と一言なぐさめてから、アプルボーイ夫人は切れ目なく皮をむいていた。「ひどいことをされたのね? ほら! 腕とおんなじくらいの長さ」
親指と人さし指でいもの皮をつまんでぶらぶらさせたが、すぐに一声あげて夫の足許にぽとりと落とした。「苦しんでいるのはわかるわ!」とため息をついた。
突然のこと、二人とも目を見開いてかがみこんだ。床の皮にでも魅入られたようだった。
間違いない、そこに綴られていたのは「dog」だ!。二人は意味ありげに顔を見合わせた。
「これは啓示よ!」夫人が畏敬に打たれてささやくように息を吐いた。
「何であろうと、名案だ! 誰か知らないか? つまり――その――」
「言いたいことはわかるわ」夫人もうなずいた。「どうして思いつかなかったんだろう! でもどんな犬でもいいってわけじゃないでしょう!」
「うん、そうだ! 正真正銘の犬がほしい!」
「犬のことなら詳しいでしょう!」
「そうだがね」と額をぬぐった。「詳しく知っていればどうにかしているよ。ぴったりの犬を手に入れようとすれば、簡単じゃない」
「忘れてた、手に入るわ!」夫人が。「今はリヴォーニアにいるエリザおばさんが以前に飼ってたわ。いろいろと問題があって命じられちゃったの――行政委員に――処分するように、って。だけどおばさんはごまかしただけで――実際には殺さずに――まだ飼ってると思うんだけど」
「へえ!」アプルボーイ氏が息をこらしてたずねた。「どんな犬?」
「ブルドッグ! 大きくて白い顔の」
「ぴったりだ!」と、そのことを興奮気味に認めた。「名前は?」
「アンドリュー」
「犬の名前にしては変わってるな! とはいえ、どんな名前であろうと、ぴったりの犬なら問題はない! エリザおばさんには今夜のうちに手紙を書くだろう?」
「アンドリューが死んでいる可能性もあるでしょう」思い切ってそう口にしてみた。「犬なんだから」
「いや、きっとアンドリューは死んでないよ!」という希望を込めて答えた。「ブルドッグみたいにたくましい犬は長生きするもんだ。エリザおばさんにはどう説明するつもりだい?」
アプルボーイ夫人はドレッサーに向かい、メモパッドと鉛筆を棚から取った。
「そうね、たとえばこんな感じ」そう答えて、膝のメモパッドの上で鉛筆をぶらぶらさせていた。
「エリザおばさん
お元気ですか。海岸のこの辺りは寂しいし、乱暴者もたくさんいます。そこで友人役と防犯を兼ねて犬を探しています。どこの元気なわんちゃんたちにも負けないくらい、よい家庭に恵まれることは請け合っていただけると思います。近いうちにお会いしたいですね。
親愛なる姪、バッシュマスより」
「アンドリューをよこしてくれるといいが」アプルボーイは祈るような気持だった。
「きっと大丈夫!」バッシュマスが請け合った。
「なあに、あの立て札?」タニーゲイト夫人は怒り狂っていた。およそ一週間後のある朝、台所の窓からアプルボーイ家の芝生を眺めたときのことだ。「読める、ハーマン?」
ハーマンはカラーを合わせるのをやめてベランダに出た。
「『犬』がどうとか」ようやくそう言った。「犬ですって!」夫人が叫んだ。「あの人たちは犬なんか飼ってなかったでしょ!」
「そうだな。立て札によれば、『犬に注意!』 その上にも何かあるな。あっ! 『立ち入るべからず。進入禁止!』」
「図々しいったらありゃしない!」夫人は決めつけた。
「あんな人たち見たことないわ! 始めは自分たちのものでもない土地を手に入れようとして、今度は犬を飼ってるなんて嘘をついて。あの人たちはどこ?」
「今朝は見てないよ」
「たぶんもう出かけてしまって、通り抜けられないように立て札を立てたんだ。あれで足止めできるつもりらしい!」
「だとしたら大間違いね!」夫人は怒りに燃えて反論した。「そこらじゅうめちゃくちゃにしてきてもらおうじゃないの!」
「生け垣を引っこ抜けと?」タニーゲイト氏も願ったりと同意した。「いい機会だ!」
頬染めし花嫁の目にいいところを見せつけるにも、穴居人から受け継いだ――まさか相手が仕返ししようとは思わないだろうと踏んで、虐待してきた相手を徹底的に痛めつけようという――野蛮な本能を満たすにも、確かに最高の機会だと思われた。というわけでタニーゲイト氏はズボン吊りを留めると、悪魔のような喜びを目に光らせ、忍び足でベランダから降りて、穴を空けるべく生け垣をかき分けた。数百ヤード向こうの浜辺で裸足になって蛤を見つけている二人の人物と、半マイルほど先の畑で働いている男を除けば、誰も見えなかった。入り江は焼けるような八月の日射しできらきらと輝き、遠くの木立からはセミの鳴き声がじーじーと聞こえてきた。スロッグス・ネックは静かに燃えており、なかでも完全に静まり返っているのがアプルボーイの家だった。
空元気を見せてはいたが、わずかに鼓動が早まったタニーゲイトは、生け垣を分け入ってアプルボーイ家の芝生を軽蔑したように見やった。荒々しい激情が血脈に沸き立った。芝生! 何という図々しさ! この恩着せがましい俗人は、他人が満足するような完璧な浜辺にしようと、どんなことを考えたのか? 氏は見た。移された芝生の方にまっすぐと足を踏み入れた。不意にアプルボーイ家の台所のドアが開いた。
「警告したぞ!」異様に落ち着いたアプルボーイ氏が声をあげたが、疑わしければ誰であれ殴りつけるような含みもにじんでいる。
「ふん!」タニーゲイトは驚いたものの、こんなときにまったく感じてもいない無関心を装おうと努めた。「君がかい!」
「ああ、やりもしないことを口にしたことはなかっただろう!」
「ははん!」タニーゲイト氏は軽蔑したように叫んだ。
前もって慎重に計画し、疑うべくもない悪意に満ちて考えてあったとおりに、氏は近くの芝草をひとかたまり宙に蹴り上げた。勢いよく宙高く足を上げたため、少しバランスを崩した。途端にベランダの下から白い閃光が飛び出し、真っ赤な火かき棒のようなものが氏の身体の一番もろい部分に向かって勢いよく突き刺さった。
「あいた、た――た――うう!」苦悶のうめきをあげる。「うう!」
「おいで、アンドリュー!」アプルボーイ夫人が優しく呼んだ。「いい子ね! 来なさい!」
だがアンドリューは気にも留めない。離れる気などまったくないままタニーゲイト氏の身体にしっかりとくっついていた。犬は頃合いを見計らって、経験から得た確信と熟練の気配を漂わせながら解放した。
「うう! あ――た――た!」タニーゲイト氏はアンドリューに追われながら、激しく転がり生け垣をかきむしった。「うう! あう!」
タニーゲイト夫人は、遠巻きにする白い物体を引き連れて浜辺をのろのろと進む夫を見ると、ドアから飛び出した。
「どうしたの?」夫人は力なく呼びかけた。それからすぐに理解した。アプルボーイ夫妻。芝生に立ってこれ見よがしの無関心を装い成り行きを見守っている。
タニーゲイトが浜辺に逃げるにつれ、叫びは徐々に小さくなる。二人の蛤狩りが物珍しそうに氏を見ていたが、助けを求められているとはついぞ気づかなかった。平野の男は鍬にどっしりと寄りかかり、純粋に楽しんでいた。タニーゲイトはもはや遠くの砂浜の白いきらめきに過ぎなかった。叫びは消えていった。「う――あ――うう!」
「さあ、おれたちは警告したんだ!」アプルボーイ氏はバッシュマスに微笑んだが、かすかな不安の跡も潜んでいた。
「もちろんそうよ!」少ししてからやや心配そうにつけ加えた。「アンドリューに何か起こんなきゃいいけど!」
タニーゲイトは戻ってこなかった。アンドリューも戻らない。台所にこもっていたアプルボーイ夫妻は、自動車の音を聞き、タニーゲイト夫人が重大な儀式の準備みたいに、興奮して飾りたてているのをドアの隙間越しに見た。釣りの餌を掘っていたアプルボーイ氏は、四時に別の自動車が砂丘をのたのたと進んでいるのを見た。座席には縦に金網が取り付けられており、「N・Y・P・D(ニューヨーク市警)」の文字があった。前部座席に制服警官が二人座っている。アプルボーイは自分を呼びに来たんだなと直感的に悟った。気持ちは蛤の中に沈んだ。生け垣の外に停まっているワゴンのところへ、ゆっくりと戻った。
「やあ!」運転手が声をかけた。「アプルボーイかい?」
アプルボーイはうなずいた。
「上着を着て、一緒に来るんだ」もう一人が指示した。「令状がある」
「令状?」アプルボーイは眩暈を感じ口ごもった。
「どうしたんです?」バッシュマスがドアから出てきた。「何の令状?」
警官はゆっくりと車から降りると、アプルボーイに書類を手渡した。
「暴行だ」警官は答えた。「理由はわかってると思うがね!」
「誰にも暴行なんてしてません」アプルボーイ夫人は興奮して講義した。「アンドリューは――」
「裁判ですべて説明できるんだろうな」警官も言い返した。「さっさと服を着て車に乗るんだ。署で一晩すごしたくないのなら、保釈できるように家の権利書でも用意した方がいいぞ」
「でも誰の令状なんです?」アプルボーイ夫人も食い下がる。
「イノック・アプルボーイのだ」警官がうんざりと答えた。「読めないのか?」
「でもイノックはそんなことしてません!」夫人は言い張った。「アンドリューがやったんです!」
「そりゃ誰だ?」疑わしげに警官はたずねた。
「犬です」夫人が答えた。
「タットさん」型どおりの書類を手に共同経営者の部屋のドア枠に寄りかかって、タットが言った。「あなたの法律魂に火をつけるような事件が舞い込んだんですよ」
「そうかい?」年かさの弁護士はたずねた。「法律魂だろうとほかのものだろうと、自分の所有物に関しちゃ区別したことはないんだがな。だが君の言葉から察するに、我々が引き受けてきた事件というのは、とりわけ馬鹿げて古風なものか、法律的に面白いものだったわけか!」
「そうはっきりとはしてませんがね」タットは答えた。「だけど充分に面白いと思いますよ。ただはっきりとではないんですが――そこはかとなくと言いますか――法律、宗教、哲学がからんでいて、歴史の魅力がたっぷりとあります」
「よろしい!」タット氏は安葉巻を置くと怒鳴った。「どんな事件だ?」
「犬の事件です!」若い共同経営者は、書類を振った。「犬が人を噛んだんです」
「ほう!」タット氏はあからさまに喜んだ。「かのオリヴァー・ゴールドスミスの著名な哀歌が判例となるね。あの街で犬が見つかった。あらゆる犬。雑種も小犬も幼犬も猟犬も。そして卑しい野良犬も」
「ところが」タットが説明する。「今回は、男の噛み傷は完治したのですが、犬が死ぬのを拒否したんです!」
「すると犬を起訴したがってるのかい? 無理だね。ここ数世紀のあいだ、動物が法廷に訴えられたことはない」
「いえ、違うんです!」タットが口を挟む。「彼らは――」
「こんな事件があった」タット氏は懐かしそうに続けた。「あれは――ソヴィニーだったかな――一四五七年ころだ、子供を殺したかどで、一頭の母豚と三頭の子豚を裁判にかけようとしていた。裁判所は母豚に弁護人を指定したが、たくさんいた顧問弁護士たちと同様に、豚の利益になるようなことは何も言えないと弁護人は考えた。子豚に関しては、殺意は見られなかったと陳述した。親のあとに従っただけなんだとね。そして何よりも、子豚たちは未成年で責任能力がないという陳述だった。だが裁判所は全員の罪を認め、母豚は公的に市場に吊された」
「三匹の子豚はどうなったんです?」興味をひかれてタットはたずねた。
「極端に幼いということで恩赦された。そしてふたたび自由の身だ――警告つきでね」
「よかった!」タットは息をついた。「本当にあった事件ですか?」
「もちろんだ。ソヴィニーの記録で読んだのだ」
「なんてこった! 動物に個人的責任が認められるなんて知りもしなかった」
「ああ、もちろん認められるとも!」タット氏が言った。「なぜ違うと? 動物に魂があるのなら、行動に責任があって当然だろう?」
「でも動物には魂はありませんよ!」タットが抗議した。
「そうなのかな?」年配の弁護士は言った。「主人なんかよりよほど良心的な馬をたくさん見てきたぞ。一般的に考えて、ひどく横暴で罪深く無責任で気まぐれな主人に処罰をまかせるよりも、人を傷つけた危険な動物を扱う法律があった方がはるかに公正で慈悲深いと思わないかね?」
「処罰が少しは有益であるのなら――その通りです!」タットはうなずいた。
「さあ、どうかな?」タット氏は考え込んだ。「いくらか有益だったことがあるだろうか? だが人の行動における責任能力が、その人の知性の度合い次第だという点には、誰もが同意するだろう――その点から見ると、ほとんどの友人たちは羊よりも責任能力がないことになる」
「だけどあなたが賢明にも指摘したとおり、人が悪いことをした場合、その家族を処罰するのは理由に乏しいというのはどうでしょう、恩赦が悪用されるかもしれませんね! ジョンおじさんの行いが正しいとは思えないからって、甥っ子たちがおじさんを襲って袋だたきにすることが許されてしまう」
「ああ、それはもちろん法律は今でも、家庭内懲罰の権利は認めている。法令一〇五四項のもとでは、子供や使用人を法律に則ってしつけている最中なら、殺人さえも申し開きできる」
「未開時代のたいそうな名残だな!」タットが言った。「だけど子供はすぐに危険地帯を脱して、対等な陪審員によって罪を裁かれる権利を与えられます。動物にはそれがない」
「ああ、まあ確かに動物と対等な陪審員には裁かれないな」
「人間というよりは雌山羊みたいな陪審員もいますよ! 鵞鳥やウッドチャックの陪審員に裁かれる依頼人も見てみたいな」
「犯罪者の責任能力の領域とは、法律の真空地帯だ」タット氏は考えこんだ。「おおざっぱに言って、行動の本質を理解するには、知的能力は試金石だ。だが人間の場合にはその都度違ってくるし、ただの通過点に過ぎない。人は実際の知性とは無関係に、その行動に責任を負っているのだ。もちろんこれは論理的に不確かだ。高い知性の人間は、負うべき責任も高いものであるだろうし、友人も彼の行動に高い質を求めるだろう。だが二十一才を過ぎれば、狂人でない限り誰もが平等に責任を負うのだ。公正とは言えないな! 理論上、どんな人間も動物も、他人の都合で処罰されるような権力に支配されるべきではない――それが父親や主人でもだ。我々に動物を働かせる権利があるのだろうか、と考えることがある――まるで犯罪のように奴隷制を非難しているくせに、動物を奴隷として束縛してるんだからな。人間が競売にかけられているのを見たらぞっとするだろう。なのに動物の家族を引き離し、一生のあいだこき使い、頃合いを見て殺すんだ。なぜそうするかといえば、動物の知性は限られたものだし、処分するにもどんな差別的行動でもない、常に責任能力のない状態で、何の権利も持っちゃいないというわけだ。だが人間よりも利口な動物をたくさん見てきたし、動物よりも知性に乏しい人間もたくさん見てきた」
「確かに!」タットも認めた。「例えばスクラグスです。あいつは縞栗鼠より責任能力ないですよ」
「なのに法律はいつだって矛盾している」タット氏が言った。「知性の度合いに関する法律の立場はね、人間のあいだに区別を認めないのはもちろん、動物のあいだにも区別を認めないのだ。法律はみんなひっくるめて裁く。大も小も、野生も飼育も、哺乳類も無脊椎動物も」
「待ってください!」タットが叫んだ。「ぼくは法律をあまり知らないかもしれませんが――」
「一一二〇年から一七四〇年のあいだ、フランスだけでも九十二頭の動物が起訴された。最後のは牛だった」
「牛はあんまり知的じゃありませんね」
「蚤も起訴された」タット氏が言葉を重ねた。
「たくさん起訴したんだな!」若い相方が感じたことを口にした。「蚤を一匹知ってましたけどね、それが――」
「訴訟手続きを形式化したんだよ」蚤みたいな話をさっさと終わらせようと、タット氏は続けた。「驚くほどに専門的な正確さが守られていた。動物を一頭起訴するのなら、本人であれ代理人であれ可能だし、その種を起訴するのなら、昆虫であれ哺乳類であれ群れごと起訴できた。例えば街に鼠がはびこった場合には、まず顧問弁護士を任命し――代言者、と呼ばれている――そして被告には公的に三度、出頭が命じられた。三度目にも姿を見せないときは、欠席裁判となり、有罪に決まれば追放罪が適用され、期日までに街を出るよう命じられた」
「追放が決まるとどうなったんです?」興味を持ってタットがたずねた。
「悪魔の力の如何にかかってる」年上の弁護士は素っ気なく答えた。「ときには子を殖やし、さらなる破壊をもたらした。ときには即座に死に絶えた。一四五一年ローザンヌで蛭が起訴された。選ばれた蛭の代表者が法廷に呼ばれ、裁判にかけられ、罪を宣告され、期日までに立ち去るよう命じられた。おそらく自分たちの責務をまったく理解しちゃいなかったのかもしれんし、馬鹿にしたように振る舞っていただけかもしれん。だが蛭は立ち退かず、直ちに追放された。すぐに死んでゆき、やがてその地域には一匹もいなくなった」
「追っ払いたい鼠が何匹かいますよ」タットがうなる。
「十五世紀にはオータンで鼠が勝訴したよ」
「助けたのは誰です?」
「シャッサンセ氏だ。弁護人に任命された代言者さ。鼠はひどい迷惑ものだったから、法廷に出頭するよう命じられた。だが一匹も現われない。そこでシャッサンセ氏は申し立てた。出頭不履行だと見なすべきではない、というのもすべての鼠に出頭命令を出したのだから、なかには幼いのやよぼよぼのもいて、もう少し時間がかかる、というわけだ。裁判所は延期を認めた。だが期日になっても鼠は現われない。弁護人は今度はこう申し立てた。被告は身の危険を感じて出るに出られぬのです――街の猫のせいだ。そこで治安維持のため、まずは猫に法的措置を取るべきである! 裁判所はこの申し立ての妥当性を認めたが、市民は自分たちの飼い猫に責任を負わせることを拒否し、裁判官はこの訴訟を却下した!」
「シャッサンセはそれで何を得たんです?」タットがたずねた。
「誰が払ったのか、あるいは何を払ったのか、記録にはない」
「なかなかやり手の弁護士だな」タットが口にした。「鳥を訴えたことはありますか?」
「ああ、あるとも!」タット氏が答えた。「一四七四年にバーゼルで雄の鶏が訴えられた――卵を産んだ罪だ」
「なんでそれが犯罪なんです? ぼくならあっぱれと言いたいな」
「それなんだがね。雄の鶏の卵からは、コカトリスだかバジリスクだかが産まれるそうだ。その目で見られた者は、石に変わるんだと。そこで雄鶏は裁判にかけられ、有罪となり卵とともに火刑に処された。かくして雄鶏は卵を産まなくなった」
「喜ぶべきですか? 動物を訴えなくなったのはいつです?」
「二百年ほどまえだな」タット氏が答えた。「だがその後しばらくも、人間を傷つけたかどで無生物を訴え続けていた。第一機関車が人を轢いたかどで訴えられ、贖罪奉納物として王に没収されたそうだ」
「あなたがアンドリューに対する訴えを阻止できないとは不思議ですね」タットは思い切って口にした。「贖罪奉納物として誰かに没収するよう宣告されるかもしれないのに」
「贖罪奉納物とは〈神に捧げられた〉という意味だ」タット氏は説明した。
「なるほどね、神にアンドリューを捧げましょうか――神が欲しているならね」タットは信心をこめて言ってのけた。
「ところでアンドリューとは誰だ?」タット氏がたずねた。
「アンドリューは犬ですよ」タットが答えた。「タニーゲイトを噛んだんです。現在の大陪審は犬を起訴できないというのは、あなたの長ったらしい歴史の考察ではっきりしましたよ。でも犬の主人が起訴されたんです。イノック・アプルボーイ氏です」
「罪状は?」
「危険な武器による第二級傷害」
「武器とは何だ?」タット氏は簡潔にたずねた。
「犬です」
「何を言ってる? たわごとだ!」
「そうです、たわごとです!」タットも認めた。「それでもやっぱり訴えられたんです。自分で読んでみてください!」タット氏に起訴状を渡した。
「この起訴状によりニューヨーク州大陪審は以下の行動による第二級傷害の罪でイノック・アプルボーイを告発する。
「上記イノック・アプルボーイは、前述の都市ブロンクス区の住人であり、一九一五年六月二十一日、前述の区で、ハーマン・タニーゲイトを暴力を用い暴行し、近隣の州と住民の平和に対し、罪深くかつ故意にかつ不当に上記ハーマン・タニーゲイトの四肢に傷害を負わせたのであるが、危険な武器、すなわち一匹の犬によるものであり、型、種類、品種は『ブルドッグ』として知られる、『アンドリュー』という名の犬であり、上記イノック・アプルボーイの敷地内で、上記の犬、『アンドリュー』という名の生き物が、上記イノック・アプルボーイが罪深くかつ故意にかつ不当に煽動し刺激し助長し、上記ハーマン・タニーゲイトを噛ましめんとし、上記の犬『アンドリュー』を用いて、上記ハーマン・タニーゲイトの四肢に痛ましい咬傷を負わせ、上記イノック・アプルボーイは罪深くかつ故意にかつ不当に、上記ハーマン・タニーゲイトに切り傷、ひっかき傷、裂傷、打ち身を負わせんと、上記の犬『アンドリュー』を用いて前述のように罪深くかつ故意にかつ不当に、上記ハーマン・タニーゲイトに痛ましい肉体的損傷を負わせ、上記の事件を起こしたことにより法令に反し、ニューヨーク州の住民の平和と尊厳に反した」
「この文書は」眼鏡を拭きながらタット氏は言った。「国会図書館に保存しておくべきだな。誰が書いたんだ?」
「知りません。でも誰にせよ、ユーモアのある人ですね!」
「能なしだ。故意だという申し立てなどないではないか」タット氏は断言した。
「そうですか? 危険な武器でタニーゲイトを襲撃したと書いてます。故意に襲撃したと主張するにしても、危険な武器だとわかっていたと言い張る必要はありませんよ。ピストルで襲撃した被告が、自分のやったことをわかっていたと言って訴える必要もありませんよ」
「だが犬は別だ!」タット氏は結論づけた。「犬は本質的に危険な武器ではない。犬の死骸で殴りつけたという意味でない限りは――前後関係からそんなことをしてないのは明らかだが――その起訴状の一部は見るからにひどいもんだ、まるで意味をなしてない。ほかの箇所でも、犬をけしかけたというところだが――犬に悪意があり、アプルボーイがそれを知っていた、言い換えると故意であるという申し立てが欠けている。こう書いてあるべきなのだ、上記イノック・アプルボーイは上記の犬アンドリューの危険性、および猛獣が何をするのかを、充分に理解しており、仮りに煽動、刺激、助長して、上記ハーマンの四肢を噛ましめたのであれば――すなわち罪深くかつ故意にかつ不当に、上記アンドリューを煽動、刺激、助長して、云々」
「なるほど!」タットは夢中になって叫んだ。「もちろん故意の申し立ては必要です! 言い換えれば、あなたはこの起訴状が不十分だと異議を唱えたことになりますね?」
タット氏はうなずいた。
「こんな事件では、大陪審の前に出る前に、別の――ふさわしい何かを探すだけだ。裁判にかけて今回限りでこんな事件はたたきのめした方がいい」
「ふうん、アプルボーイ夫妻はあなたに会いたがってますよ」タットは言った。「ぼくの事務所にいます。ボニー・ドーンが地元の指導者から我々用の事件を仕入れたんです。そいつはアビシニア派の結社の会員で――ボニーは一年以上のあいだパープル・マウンテンの最高指導者だったんですが――あらゆることを引き込んでましたが、犬の事件はありませんでしたよ! きっとアプルボーイもアビシニア信徒ですね」
「会おうじゃないか」タット氏もうなずいた。「だが事件の訴訟は君にまかせるつもりだ。わたしは顧問としての範囲内で行動するだけだ。犬の裁判など性に合わん。そんなものは沽券にかかわる――エフライム・タットとしてはな」
アプルボーイ氏は青ざめてはいるが毅然として法廷に座っていた。隣にはアプルボーイ夫人が、これも青ざめているがさらに毅然として座っている。タットがうっかりしているうちに陪審員が選ばれてしまってはいたのだが、それでもなんとか後列にアビシニア信徒を、陪審六番の代わりに元ペット業者を滑り込ませることはできた。当該メンバーの中には東ヒューストン街の食料品店主もいたし、ゴム製品の販売人や配管工、『ベビー・ワールド』の編集者もいた。陪審長はアプルボーイ氏と同じくらい太っていたが、タニーゲイトのサイズも考えると、こいつは五分五分だ。タットが自信満々にアプルボーイ夫人にささやいたように、ほぼ願い通りのちょろい陪審団だ。
タットがなぜちょろい陪審員を欲しがるのかアプルボーイ夫人には理解できなかったものの、このささやきから我がことのように確信を得て、アプルボーイの手を勇気づけるようにきつく握った。なにしろアプルボーイ氏はその外見の落ち着きとはうらはらに、たいそうな恐がりで、たるんだベストのしわを隔てた心臓は、トム・トム太鼓みたいに打ち鳴らされていた。第二級傷害の罰則は十年の服役なのだから、タニーゲイト家の隣であってもバッシュマスと一緒ならば幸せだったと思えた。夏の太陽――おそろしく暑い夏――のもとで石を割るような、そんな考えは恐ろしかった。十年! 絶対に生き抜けない! それでも、正装をして法廷の前列に重々しく座っているタニーゲイト夫妻を見たときに、何度だって同じことをしてやるとつぶやいていた――そう、してやるとも! 当然の権利のために戦っただけだし、タニーゲイトの血は自分の頭――あるいはどこか――にあるではないか。そこで氏はバッシュマスの手を優しく握り返した。
裁判官のウィザースプーンは、メトロポリタン地区の長々とした犯罪カレンダーを抑える助けをするように、北部のどこかから任命されていたのだが、ジェニシー地区の妻への手紙を書き終えると、封をして椅子にもたれかかった。この法廷の老兵は、これまであらゆる種類の訴訟を取り扱ってきたが、起訴状に目を通すや苦労して笑いをこらえた。三十年前、自身が犬の事例を扱った。同じくブルドックとして知られる型、種類、品種だった。
「ではどうぞ、検察官殿!」裁判官が声をかけると、法律学校を出たばかりで検察局の最年少ペパーリルは、ぎょろ目で、小さな頭の両脇にべたべたと髪をなでつけ、くそまじめな態度で立っていたが、甲高い管楽器みたいな声で起訴状を読み上げ始めた。
それによると、一風変わった空前絶後の事件だった。被告人アプルボーイは危険で獰猛な犬を故意に手に入れ、何の罪もない原告人の通り道に放し、その結果、原告は噛み千切られるところであった。恐ろしく、卑劣で、驚くほど、残忍な犯罪であり、原告は陪審員諸君が前述の事項に則りその本分を貫くことを期待している。タニーゲイト氏自身の口から聞いていただきましょう。
タニーゲイト氏は足を引きずり苦労して証人席まで向かい、重々しく誓いを述べると席に着いた――半ケツで。それからぽかんとしている陪審員にそっぽを向くと、憤慨にあえいで自らの災難をまくし立てた。
「そのとき着用していたズボンを持っていますか?」ペパーリルがたずねた。
タニーゲイト氏はくそまじめにお辞儀すると、床から紙包みを取り上げて紐をほどき、中から今や歴史となったそのままの状態の衣服を取り出した。
「これがそうです」氏は劇的に告げた。
「これを証拠として提出します」ペパーリルは宣言した。「陪審員諸君には、慎重に調べていただきたい」
陪審員はそうした。
タットはズボンが手から手に渡り、持ち主のところに戻るまで待っていた。それからいつものように朗々と元気よく鳥のように、固い切り株に立ち向かうキツツキのような反対尋問を始めた。証人はアプルボーイ氏の親友でしたね? タニーゲイトはそれを認め、タットはふたたび木をつついた。悪いことはしたことがない? まあ特には。何です、何もですか? タニーゲイトはためらった。はあ、ええ、アプルボーイはみんなのものである公共の浜辺に柵を作ろうとしました。ふむ、それは証人に対する悪意によるものでしょうか? 証人はそうだと答えた。横切る権利があるのに、遠回りさせようとしたんです。ほう! タットは首を傾け陪審員を見た。何フィートあるんです? 約二十フィートです。それからタットはさらに激しく突っついた。
「ほんの数歩だけ余分に歩けば、簡単に浜辺に行けるのに、生け垣に穴を開け、芝生を踏みつけたんですか?」
「わた――わたしは、違法な障害を取り除こうとしただけです!」タニーゲイトは憤然と声を荒げた。
「アプルボーイ氏は立ち入らぬように頼みませんでしたか?」
「ええ――そうです!」
「あなたはそれを意地になって拒み通した?」
ペパーリル氏が「意地になって」に異議を唱え、削除された。
「通る権利のある場所から、遠ざけられたくなかったんです」証人が主張した。
「犬がいるという警告がありませんでしたか?」
「いいですか!」突如タニーゲイトが大声を出した。「何でもかんでも威張りやがって! アプルボーイはそれまで犬を飼ってなかったんだ。おれにけしかけるために犬を飼ったんだよ! 『犬に注意』って立て札を立てて、ただのはったりだっておれが思うことをわかってたんだ。罠さ、罠だったんだ! 生け垣に立ち入るや、あの犬がおれを噛み千切ろうとやって来た。それがどんなひどいことかわかるだろう!」
氏は息を切らして静まった。
タットは満足げにお辞儀をした。
「証人の言葉に動議を申し立てます。即刻削除していただきたい。第一に、答えになってません。第二に、無関係で不適切で重要じゃありません。第三に、世論や噂の趣があります。第四に、あまりふさわしいとは言えない悪態でした」
「削除するように!」ウィザースプーン裁判官が命じた。それからタニーゲイトに向き直った。「証言の要点は、被告が犬をけしかけたということですか? 証人は、以前は友好的な関係だった被告と口論をしましたね。犬に注意と警告された立て札があったにもかかわらず、被告が所有していると主張する敷地内に侵入したわけです。そして犬が証人を襲い噛みついたと? それが事実ですか?」
「はい、そうです」
「その犬を以前に見たことはありましたか?」
「いいえ、ありません」
「被告がどこから犬を手に入れたかご存じですか?」
「妻が言うには――」
「奥さまの言ったことは気にしないでください。証人はご存じですか?」
「犬をどこから手に入れたのか、その人は知らないわ、裁判官!」突然タニーゲイト夫人が座席から甲高い声で叫んだ。「だけどあたしは知ってます!」毒々しく言い添えた。「あの人の奥さんが――」
ウィザースプーン裁判官が感情のない裁判官らしい目を、冷たく夫人に向けた。
「できたら静かにしていただけますか、奥さま? お望みどおりたっぷりと証言する機会は与えますから。以上です。タット氏から何か質疑がありますか」
タットは馬鹿にしたように証言台からその証人に手を振った。
「ええ、証言したいですとも!」タニーゲイト夫人は完全武装で立ち上がり、キーキー叫んだ。
「こちらです、奥さま」職員が陪審席の後ろを回って案内した。夫人は重装備の小型帆船みたいにずっしりと沖合に押し寄せると、証人席に錨を降ろし、巨大な港で揺れる大型船の船首像のように、波打つ胸の上で顎を上げ下げしていた。
個人の特徴というものが、顔の解剖学的構造とか身体的構造あるいは頭蓋の形状といった、関連性のない特性によって、なぜ多少なりとも推論できるのか、今日でも完全に明らかにはされていない。確かではないかもしれないが、実のところ、非常にかすかな点からでも人の特徴を読みとることはできる――声の調子、目の表情、顔の輪郭線、あるいは知覚できない雰囲気からでさえ。罪の告発をされた人物は誰もが、不利な証人と対峙させられるはずである、ということに対する司法上の賢明な予防措置は、すぐに明らかになった。タニーゲイト夫人が証人台に立つと、固く結ばれた唇から何一つ言葉が発せられぬうちに、陪審員はいっせいに夫人をざっと見るや顔を背けた。女性の研究家も、既婚の冒険家も、配管工も、小鳥売りも、〈食料品店主〉も、ほかの誰もが見て、気づき、理解した。ここにいるのはまさに悪魔のような女だ――不平屋、性悪女、噂好き、生まれながらの厄介者。陪審員は震えおののき、夫人がタニーゲイトのものであって自分たちのものではないことを、神に感謝した。形定まらぬこうした感情を表わすのには、アレクサンダー・ポープの不朽の対句が一番である。おお、女よ、女! 汝の心の悪に傾けるとき、いかな穢れた悪魔も地獄にはあらず。
夫人は何も言わなかった。裁判官と陪審員のあいだにも何も交されなかったが、女性のこととなると一致する男性たちのご多分に漏れず、アルファ線といった神秘的な通信手段を通して、その考えは直ちに伝わり満場一致で認めていた。ここにいるのは確かにあばずれの魔女である!
アプルボーイが恥知らずにも違法に領土を望んだこと、妻の癇癪、夫の暴力的脅し、アプルボーイ夫人が犬襲撃の数日前に怪しげな手紙を送りに行ったこと、について証言したものの、陪審員には無意味だった。誰もが夫人を無視した。それでもタットが証言の信憑性を攻撃するため、適切な質問を浴びせようと反対尋問に立つと、陪審員は早々とそれとない告発に真実らしさを感じ取ったものの、証言の規則のもとでは夫人の否認によってがんじがらめにされてしまった。
突っつき一:「証人はアプルボーイ夫人の植木鉢をベランダにはたき落としませんでしたか?」タットは意味ありげにたずねた。
「いいえ! そんなことしてません!」夫人は激しく否定した。
だが陪審員は心の中では夫人がやったと思っていた。
突っつき二:「証人は牛乳瓶を盗みませんでしたか?」
「嘘です! 絶対に嘘です!」
それでも夫人がやったとわかっていた。
突っつき三:「証人は釣り糸をもつれさせたり櫂の受け軸を取り外したりしませんでしたか?」
「いいえ、してません! きちんとした女性にこんな質問をするなんて、あなたは恥ずかしく思うべきです!」
誰もが有罪を確信した。
「棄却を求めます、裁判官殿」証言の結びに対してタットは陽気にさえずった。
ウィザースプーン裁判官は首を横に振った。
「別のことを知りたい。被告人が住民に対して犬に注意という立て札を立てたという事実は、被告がその動物の危険性を理解していたという証拠として採用されるかもしれない。この証拠が否定されるか説明されるかしない限り、この訴訟は陪審員のもとにゆだねられることになるだろう。留意しておくように」
「わかりました、裁判官殿」タットは腹を叩くとうなずいた。「助言に従い被告人を呼びましょう。アプルボーイさん、証人席へ」
アプルボーイ氏がゆっくりと立ち上がったが、太った陪審員は誰もが、特に後列のアビシニア信徒は、氏にいたく同情した。証言を待つまでもなく改めてタニーゲイト夫人が女狐だと知れたし、アプルボーイが優しく温厚な人物である――どこか蛤に似ていなくもないが、危険は微塵もない――ことは理解できた。そのうえ氏が苦しんだこと、そして今も苦しんでいることは明らかだったので、誰もが氏に同情した。アプルボーイの声は震えていた。タニーゲイトとの旧交、釣りづきあい、平凡な結婚生活、スロッグス・ネックの社会に起こった突然の変化、土地に対する悪質な破壊、芝生に対するタニーゲイトの理不尽な侵入、そういったことを列挙するにつれ、身体も震えだした。陪審員は信用し、了解した。
それからダモクレスの剣のように、ペパーリルの鋼のような声が和やかな雰囲気を切り裂いた。「犬をどこで手に入れたんです?」
アプルボーイ氏は力なく辺りを見回した。あらゆる表情に苦痛が現われていた。
「妻のおばから借りました」
「どのようにして借りたんですか?」
「バッシュマスが手紙を書いて頼みました」
「ほう! 犬が送られてくる前から、その犬に関して何か知っていましたか?」
「あなたご自身の知識です」タットが鋭く口を挟んだ。
「えっ、いいえ!」アプルボーイが答えた。
「危険な動物だと知ってはいなかったんですか?」ペパーリルが鋭く挑みかかる。
「あなたご自身が知っていたか、です」タットがふたたび注意した。
「見たこともありませんでした」
「奥さまは犬について何か言いましたか?」
タットは跳ね起きて激しく腕を振った。
「異議あり。この問題に関し夫と妻のあいだで何が交されていようと、内密のことに属します」
「それが原則でしょうから」ウィザースプーン裁判官が笑みをもらした。「削除してください」
ペパーリルは肩をすくめた。
「一つ質問があります」『ベビー・ワールド』の編集者が口を挟んだ。
「どうぞ!」タットは大声を出した。
その編集者は、太った編集者だったが、恥ずかしそうに立ち上がった。
「アプルボーイさん!」
「はい!」
「はっきりさせたいことがあります。あなた方ご夫妻はタニーゲイト夫妻と口論しました。氏は前庭の芝生をむしり取ろうとしました。あなたは立ち入らぬよう警告した。氏は侵入し続けた。あなたは犬を手に入れ立て札を立て、氏がそれを無視すると犬をけしかけました。これは正しいですか?」
編集者は非常に友好的ではあったが、お脳が少し曇っていた。アビシニア信徒は上着の裾をきつく引っぱった。
「座るんだ」しわがれ声でささやいた。「君は何もかも台無しにしている」
「私はアンドリューをけしかけていません!」アプルボーイが抗議した。
「だけどすると、なぜ襲ったんです?」ベビー雑誌の編集者はたずねた。「誰かがけしかけたはずですよ!」
ペパーリルは狂ったように立ち上がった。
「異議あり! この陪審員は先入観を持っています。まったく不当です」
「私がですか?」太った編集者は怒ってまくし立てた。「私が言いたかったのは――」
「公正でありたい、そうでしょう?」ペパーリルが訴えた。「浜辺の生け垣に関して、アプルボーイ家には何の権利もないことを我々は証明いたしました!」
「へえ、へっ!」アビシニア信徒も立ち上がってあざ笑った。「だったらどうだと? 誰が気にします? タニーゲイトは当然の報いさ!」
「静粛に! 静粛に!」裁判官が厳しくいさめた。「席に着かないと、審理無効を宣言することになります。続けて、タットさん。次の証人を呼んでください」
「アプルボーイ夫人」タットが呼びかけた。「よろしければ席についてください」まるで脂肪のかたまりが母親のよく作るパイの製造に捧げてきたような、その細君は、落ち着き払って証人席に向かった。
「アンドリューが危険な犬だと知っていましたか?」タットはたずねた。
「いいえ!」アプルボーイ夫人は毅然として答えた。「知りませんでした」
おお、女よ!
「以上です」タットは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「それでは」ペパーリルが鋭くたずねた。「なぜ犬を送ってもらったんです?」
「寂しかったんです」臆面もなくバッシュマスは答えた。
「その犬がリヴォニアで悪名高い人を噛む犬だと知らなかったと、そう陪審員諸君に告げているわけですね?」
「そうです!」夫人は答えた。「エリザおばさんの犬だってことしか知りません。犬そのもののことは何も知りません」
「おばさんには手紙で何と報せたんです?」
「寂しいし、番犬がほしいと」
「犬がタニーゲイト氏を噛んでほしかったのではありませんか?」
「まあ、まさか! 誰も噛んでなんかほしくありませんでした」
ここで食料品店主がゴツゴツした手で配管工を突っつき、二人は幸せそうに笑みを交した。
ペパーリルは嫌なものを見るような一瞥をくれると、椅子にもたれかかった。
「以上です!」弱々しく叫んだ。
「よろしければ一つ質問があります、奥さま」ウィザースプーン裁判官が言った。「お許しいただければ――」法廷中を駆け抜けているくすくす笑いを鎮めようと咳をした。「それは――どうでしょうか――ええ――よろしいですか! 犬を手に入れるという考えはどのように浮かんだんです?」
アプルボーイ夫人は満月のような家庭的な顔を法廷に向けた。
「いもの皮がヒントでした!」夫人があっさり答えた。
「えっ!」ゴム販売人が声をあげた。
「いもの皮が――〈DOG〉の綴りになったんです」夫人は無邪気に繰り返した。
「おお!」ペパーリルが深いため息をついた。「なんて事件だ! もういい!」
「さて、タットさん」裁判官が言った。「この結果が陪審員に提出されるべきかどうかという問題について、何か言いたいことはありますか。なければ、告発も充分ですし判決に移りたいと思います」
タットは優雅に立ち上がった。
「告発に関する裁判官殿の判決には敬意を表しておりますゆえに、故意に関する質問を独り言ちるだけに留めましょう。もちろん、ほかの動因対象の行動――それが動物であれ――に関する犯罪責任において被告を告発する不当性について詳述してもかまいませんが――必要でしたら控訴裁判のために取っておきましょう。もしこの件で誰かが起訴されるようでしたら、それは犬のアンドリューであると思っております。いえ、冗談ではありません! そんな批判は役立たずだと言っているのは、あなたの表情からわかりますよ」
「まあそうだが」ウィザースプーンは答えた。「よければ続けてくれ」
「わかりました」タットは続けた。「この事件に関する決まりは、何の説明もいりません。モーセの時代から決まっていました」
「誰の時代?」ウィザースプーンがたずねた。「私と関係がある限りは、マーシャル裁判長より遡る必要はないと思うがね」
タットは一礼した。
「イギリス、アメリカ両国の慣習法により立証されています。何かの用途、楽しみや防犯のために、家庭で動物を飼うことは、まったく適切である。J・ダイクマンによって言われております。一〇四五年、ミュラーとマケッソンの争いです。『何かが危険な性向を有していることは、主人の知識とは無関係である』 人が犬やほかの動物を飼っているだけでは、その行動に関して責任を負わせることはできません。これが常に法でした。
「出エジプト記の第二十一章第二十八節には、このように書かれています。『牛が男あるいは女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺されねばならない。また、その肉は食べてはならない。しかし、その牛の所有者に罪はない。 ただし、もし、その牛に以前から突く癖があり、所有者に警告がなされていたのに、彼がその警告を守らず、男あるいは女を死なせた場合は、牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる』
「一二六四年二月某日、イギリスで起きたスミスとペアルの事例における、法廷の判決です。『過去に人を噛んだことのある犬がいて、そのことを主人が知っていながら犬を飼い、辺りに放したり戸口に居座らせたりした場合、噛まれた人の訴訟に対して判決はそれを支持する、たとえ犬の足をその人が踏んだ結果であっても。まず第一に、犬をつながなかったのは主人だからだ。王の家来の安全は、危うくされるべきではない』 いかにも法律じゃありませんか。だけど同じように面白い法律があるんです。『とある動物の邪悪な性向を充分に知っている人が、むやみに興奮させたり、その動物に関して自発的かつ無用に身を置いた結果、自ら傷を負うという結論に達した場合、補償する権利はない。このような事例において、動物を飼うことが、すなわち申し立ての主旨であるが、障害の原因であるとは、法律的に見て断言できない』
「さて当裁判では、まず犬のアンドリューが温厚柔和どころではないということを、被告人が知っていたかあるいは疑っていたという証拠がないことは明らかです。それに、故意であったかどうかという証拠もない。実のところ、今回の唯一の例外を除けば、アンドリューが人を噛んだことがあるという証拠もないのです。つまり、聖書の言葉を借りれば、被告人アプルボーイは免れたわけであり、我々自身の法廷の言葉で言えば、無罪であるのは間違いありません。さらに第二に、原告人は警告を受けたあとで、故意に犬のアンドリューの行く手に足を踏み入れました。陪審員諸君には、無罪の評決を求められんことをお願い申し上げます」
「動議を認めます」ウィザースプーン裁判官はうなずいて、ハンカチに鼻をうずめた。「犬にはみんなひと噛みする権利があると理解しました」
「陪審員諸君」事務員が呼びかけた。「いかがですか? 被告人は有罪ですか、無罪ですか?」
「無罪です」アビシニア信徒、『ベビー・ワールド』編集者などなどの証言を耳にしながら、陪審長がここぞと答えた。アプルボーイ氏は興奮のあまりタットの手を握った。
「閉廷!」裁判官が命じた。そしてアプルボーイ氏に手招きした。「こちらへ!」
おそるおそるアプルボーイ氏は壇上に近づいた。
「二度としないように!」裁判官殿は素っ気なく言った。
「はあ? すみませんが、つまり――」
「『二度としないように!』と言ったのだ」裁判官の目はいたずらっぽくきらめいていた。いっそう低い声でささやいた。「よいかね――私はリヴォニア出身でね。長いことアンドリューを知っていたよ」
タットはアプルボーイ夫妻を廊下まで案内し、そこで一行はタニーゲイト夫妻と出くわした。
「ふん!」タニーゲイトが鼻を鳴らした。
「ふん!」アプルボーイも言い返した。
Auther Train "TUTT AND MR. TUTT" -- 'The Dog Andrew'(1920) の全訳です。
Ver.1 03/09/21
Ver.2 03/09/24
Ver.3 05/08/24
Ver.4 09/10/11
[作品について・訳について]
作者のアーサー・トレイン(1875-1945)は、アメリカの弁護士・犯罪学者・小説家。弁護士のタット氏が活躍する『タットとタット氏』シリーズのほか、犯罪実話作品なども手がける。『タットとタット氏』は、『クイーンの定員』にも選ばれている短編集です。ベテラン弁護士タット氏と、若手弁護士タットの活躍譚。
[更新履歴]
「タットは特に注意もせずざっと陪審員を品定めしたが、後ろの列のアビシニア信徒と第六番の元愛犬家に対して、うまくチェックを入れた。出席者の中には東ヒューストン街の食料品店主もいたし、ゴム製品の販売人や配管工、『ベビー・ワールド』の編集者もいた。陪審長はアプルボーイ氏と同じくらい太っていたが、タニーゲイトとも五分五分のサイズだと見て取った。そこでタットは確信を持ってアプルボーイ夫人にささやいた。ものにできるつまらない陪審員だ、と。」
→「タットがうっかりしているうちに陪審員が選ばれてしまってはいたのだが、それでもなんとか後列にアビシニア信徒を、陪審六番の代わりに元ペット業者を滑り込ませることはできた。当該メンバーの中には東ヒューストン街の食料品店主もいたし、ゴム製品の販売人や配管工、『ベビー・ワールド』の編集者もいた。陪審長はアプルボーイ氏と同じくらい太っていたが、タニーゲイトのサイズも考えると、こいつは五分五分だ。タットが自信満々にアプルボーイ夫人にささやいたように、ほぼ願い通りのちょろい陪審団だ。」
・09/10/11 冒頭〜第二パラグラフ。▼「おそらくは神聖なる肉のかたまりを互いに背負い込んでいるという点に同種の魅力を感じたのであろうし、肥満による物理的結果に過ぎないのであろう。」 → 「あるいは巨大な天体が互いに引きつけ合うような引力であろう。というのも太った人間が互いに引きつけられ、おとなしく並んで吊るされたり浮かんでいたりするのは事実であるが、これなどはかれらが重いということの物理的結果に過ぎないのであろう。」に訂正。「celestial body」が「天体」という意味だと知らなかったこと、そのせいもあって「attraction」つまり「引きつける力」を「人を引きつける力=魅力」と捉えてしまったこと、構文を理解していないことなどが誤りの理由でしょう。
▼訳し洩れがあったので追加。→「気まぐれな風に吹かれたのか、神秘的な動物磁気に惹かれたのか、こうしてアプルボーイとタニーゲイトは互いの勢力圏に侵入しあった。さらには二人とも、アイザック・ウォルトンによって神聖化された眠気を催す娯楽にのめり込んでいたために、ロング・アイランド・サウンドすなわち地質学的にはスロッグス・ネックの名で知られる近隣都市に属する海岸に、それぞれ手軽な神殿を建てていた。」
・09/10/15 「ふん!」「ふん!」〜結婚まで。▼「ところがこのエデンにも――原初に椎骨の摘出によって、アダムの場合に起こってしまったのと同様に――女性が現われるや(中略)彼らに生き写しの妻である!」 → 「やがてこのエデンにも――もともとのアダムの場合とは違い、椎骨を摘出する必要はなかったとはいえ――女が発生した。(中略)
・09/10/20 「しばらくの間」〜「芝生に侵入しなければ」▼「its object's innocently obstinate refusal to comprehend or recognize it.」。「それ(=嫌がらせ)」を「理解すること」を「拒絶」したのはアプルボーイ夫人なので、「憎しみの対象を理解することも断固無邪気に拒絶したため」 → 「当の相手が無邪気にもそのことにどうしても気づこうとしないものだから」に訂正。▼「But these things might have been borne had it not been for the crowning achievement of her malevolence, the invasion of the Appleboys' cherished lawn, upon which they lavished all that anxious tenderness which otherwise they might have devoted to a child. 」。仮定法がうまく訳せていなかったので、「だがこうしたことに我慢できたとしても、これが悪意の最高点ではなかったのであり、アプルボーイ夫妻が子供に注ぐのもかくやというほどの愛情を注いでいた大事な芝生に侵入したのだった。」 → 「だが、きっとこうしたことには我慢できただろう。タニーゲイト夫人の悪意が頂点に達しなければ。アプルボーイ夫妻が子どものようにしきりと目をかけていた大事な芝生に侵入しなければ。」に訂正。
・09/10/22 「ほんの二十フィート四方」の段落。▼「has ever attempted to induce a blade of grass to grow upon」。「a blade of grass」をかっこにっくって読めてなかったので「induce」の意味もこじつけていたようです。「に育つ緑の芝生に誘われて侵入しようとした」 → 「で草葉を育てようとしたことのある」に訂正。▼「Already there was a horrid rent where Tunnygate had floundered through at her suggestion in order to save going round the pathetic grass plot which the Appleboys had struggled to create where Nature had obviously intended a floral vacuum.」。場面の状況を理解できていないので、芝生に穴が空いているとでも思っていたらしい。「floral vacuum」にしようとしたのは無論タニーゲイト夫人ではなく自然である。「save going round」もどこかに消えてしまった。「そこはとうにぽっかり穴が空いていた。アプルボーイ夫妻が額に汗して育てた自然の結晶である芝生から、草を消滅させるようにと妻に指示されたタニーゲイト氏の尽力によるものである。」 → 「もう先からそこにはひどい裂け目ができていた。夫人にそそのかされたタニーゲイト氏がかき分けて進んだのだ。どう見ても自然が草花を空っぽにしようとしていた場所に、アプルボーイ夫妻はちっぽけな緑地帯を作ろうともがいていたが、その見回りの手間を省いてやろうというわけだった。」に訂正。▼「Like many others they had built their porch on their boundary line, and, as Mrs. Tunnygate pointed out, they were claiming to own something that wasn't theirs. 」。「境界線上にベランダを建てていた」では意味がよく伝わらないので「敷地内ぎりぎりにポーチを作っていた」に変更。この「as」は「〜の時」ではなく「〜のように」でしょう。なぜか過去進行形を未来進行形で訳していたので訂正。「たいていの人のように、夫妻は境界線上にベランダを建てていたし、タニーゲイト夫人がそれを指摘したので、夫妻は自分たちのものではないものに対して権利を主張することになったわけだ。」 → 「たいていの人たちと同じように、アプルボーイ家では敷地内ぎりぎりにポーチを作っていた。つまりタニーゲイト夫人が指摘したように、アプルボーイ夫妻は自分たちのものではないものの所有権を主張していたのである。」に訂正。▼「So Tunnygate, in daily obedience to his spouse」。「obedience」は「服従」の意味だけど、タニーゲイトは別に尻に敷かれていたわけではないし、「こうして日毎に妻に服従していたタニーゲイト氏は」 → 「こうしてタニーゲイト氏は日毎日毎に妻の言いなりになって」に変更。
・09/10/26 「今やかつての友は」〜「それゆえに」の段落まで。▼「Huh-Huhed!」「Huhs!」は「Huh!」の過去形(!)と複数形(!)なのでそう改めた。▼「Moreover, as he went by Mr. Appleboy he took pains to kick over a clod of transplanted sea grass, nurtured by Mrs. Appleboy as the darling of her bosom, and designed to give an air of verisimilitude to an otherwise bare and unconvincing surface of sand. Mr. Appleboy almost cried with vexation.」の文章を、まったく文意がとれていなかったので、「そうなると、アプルボーイ夫人が意中のひとのように慈しんで育てた芝生がはぎ取られた土の上で、タニーゲイト氏はアプルボーイ氏に蹴りを入れられたので、ほかにも疑わしい地表や砂地があるんだぞという思わせぶりをほのめかした。」 → 「そのうえそばを通りしな、アプルボーイ夫人が意中のひとのように育てて移植した藻のかたまりにわざわざ蹴りを入れ、ほかの場所ではあらわだったり見え見えだったりする砂の表面にもっともらしさを与えようと目論んだ。」に訂正。
・09/11/06 「ああ!」とアプルボーイ声をあげるところ〜アプルボーイ夫人の立て札。▼「mean」の形容詞と動詞の区別が出来ていなかったので訂正。「へえ、そんなことか!」他 → 「それにしたって意地が悪いな!」他。
▼「have got another think comin'」は「間違った考え方をしている」なので、「だったらほかの手を考えてるわよ!」 → 「だとしたら大間違いね!」
▼ひどい。「blushing bride」は「赤ら顔の花嫁」ではなく「恥じらいの花嫁」「頬染めし花嫁」。ここの文章は文法的にあまりに適当で、訳語をくっつけただけだったので、「赤ら顔の花嫁の目にアピールするにも、破壊の限りを尽くした穴居時代のご先祖さまから受け継いだ邪悪な本能を満足されるのにも、確かに最高の機会だと思われた――ご先祖さまは恨みを晴らしたがったことなどなかっただろうが――かように我々はご先祖さまを誤解しているのだ。」 → 「頬染めし花嫁の目にいいところを見せつけるにも、穴居人から受け継いだ――まさか相手が仕返ししようとは思わないだろうと踏んで、虐待してきた相手を徹底的に痛めつけようという――野蛮な本能を満たすにも、確かに最高の機会だと思われた。」に訂正。▼「locust」は「イナゴ」の意味もあるけれど、ここは「セミ」でしょうね。