オリヴァー・ディアドラ卿は、書物や辞書にある〈神〉という単語を〈力〉に置き換えるべしという提案をしてイギリス国内にその名を知られた。無神論者だったというわけではなく、つまるところは信徒をあまり信用せずに、心霊現象を実証科学的に説明することに全力を傾けているのであった。卿によれば死者というのは屈折率が変化してはいるが生きている生者にほかならず、卿が発明した諸々の機器を使えば検知可能な浮動体の形を取るのだという。
もっとも、オリヴァー卿は学者とは正反対の顔をしていた。大柄で逞しく、スコットランド人譲りの水色の双眸は仮面に空いた孔に似て、そのせいでぼんやりとした表情や、腹に一物あるような顔つきに見えることもある。だが顎から伸びた白く見事な山羊髭が不意に揺れて、あらゆる情熱が心を震わせていることを知らせてくれる。いつもオペラハットを――書斎の中でさえ――かぶっていたが、それでもなお卿の言葉にはひとかたならぬ重みがあった。多くの精神科医や超自然学者がベヴァリッジ・ヒルまで長旅に訪れるのも、卿と話をしたり実験室を訪れたりしたいがためである。オリヴァー卿の昔なじみであるフレッチャー夫人のプディングを味わった者なら、再訪することさえ珍しくない。フレッチャー夫人は髪も肌も服も真っ白な、やせっぽちの老婦人で、幽霊のような浮動体かとまがうほどにひょろりとしていた。だがその手から生まれたケーキやシャトリ[※原註1・原文フランス語]たるや、フランボウのようにこの世の現実に夢中な野暮天の味覚をも魅了してしまうのであった。なにゆえにこの探偵がベヴァリッジ・ヒルにおびき出され、また友人であるだんご頭のちび司祭がくっくいてきたのであろうか? プディングの魅力というのでは――とりわけブラウン神父の単純な味覚を知っているものにとっては――まったく説明がつかない。説明し得るのはただ一人、フレッチャー夫人の娘マギーであろう。マギーは若々しさにあふれ、ベヴァリッジ・ヒルに産み落とされた黄金色の乙女の詩である。体つきは豊かで、産毛の生えた薔薇色の顔は、肩口を覆う白い襟のせいで熟した苺のようであった。大きなるものが小さきものから生まれたことを生物学的に説明しがたい以上は、かかる突然変異が転生説になにがしかの説得力をもたらしたことを認めざるを得ないし、その学説がディアドラ氏の口から勢いよく放たれたとあってはなおさらである。よくあることだが大柄な人ほど極度に内気で繊細であるため、オリヴァー卿が望みを口にすると、規律と従順に心をいたす若い魂が脅えるのももっともであった。こうしたわけで、名高いディアドラ卿と形而上学的論争をかまえるというもっともらしい口実のもとにベヴァリッジ・ヒルに何日か滞在してほしいと、寄宿舎の友人を通してブラウン神父に求められたのである。ブラウン神父は、言葉の定義に不利益なばかりで真理にとって無益なその種の議論があまり好きではなかった。そのうえ、このちびの神父ときたらひどくぼんやりしていたから、相手の顔を見つめるのに一生懸命なあまり議論のテーマをあっというまに忘れてしまったし、相手の怒声を聞き取ろうと夢中なあまり、言うことは間が抜けて、答えることは的外れな愚答になる始末であった。オリヴァー・ディアドラ卿はすぐさまそこに飛びついて、カトリック教徒たちがブラウン神父ごときくだらぬちび司祭に告解するのは見込み違いだと考えた。いったいどんな宗教的利点があれば、不格好な蝙蝠傘をしょっちゅう手から滑り落としたかと思うと、腹の立つほど不器用に詫びながら足で受け止めることにわずらわされているような人間の忠告に期待しうるというのだろうか? ディアドラ卿がフランボウの方を気に入っていたのは、背の高さと礼儀正しさが理由だった。主人の話に耳を傾けるフランボウは、フレッチャー夫人が忘れずにお茶を注ぎ足しケーキを手元にたっぷり置いておきさえすれば、突拍子もない理論にも肯定的な答えを返したのである。そのおかげでフランボウは、ブラウン神父の無言の叱責をとっさに避けるはめになった。とどのつまりは涅槃なるものは仮説として優れているし、肉体の復活という子どもっぽい信仰よりはよほど愉快だと友人が認めるのを耳にするや、神父は大粒の汗をかいていたのだ。もちろん、瘴気に侵されたベヴァリッジ・ヒルの空気を吸い込んだわけであるし、マギー嬢は鉄網を前にした勇気ある聖ラウレンティウス以上に立派であり、異端性のかけらもなかったのであるが。ブラウン神父はベヴァリッジ・ヒルがあまり好きになれなかったし、そもそもウォルター・スコットの城館めいた中世的な邸宅があまり好きではなかった。小説めいた生活や版画めいた家には、悪魔が跋扈する。神父はそう考えていたが、特に根拠があるわけではなかった。
どこに通ずるともない小径で線を引かれた、禿げ山を想像していただきたい。禿頭の上には鐘楼・砲塔・尖塔・石落としが、荒れ狂う空に姿を消している。目の前に現れるのは厳めしくも笑える姿をしたこの奇妙な住まいであるが、あからさますぎる外観は夢見がちな思い込みのたまものであった。城館の内側も外側といい勝負である。薄暗い大部屋の数々、不気味でこそないが不敬な響きを増幅させる廊下、宗教判事なら(国教徒の空想中にでも)探したがるような暖炉、そして、部屋から部屋へと音も立てずに滑り歩く召使い頭、ジョン・フリンの不気味な影。前から見るとずんぐりした小猿のよう。横から見ると痩せた哀れな傴僂だった。それゆえ主人の気分に応じて見せる向きをかえることができるのであった。疑わしそうなそぶりを見せられて、ブラウン神父はひどく心を痛めていた。ジョン・フリンとしては、ミス・ハリカンに対し育んでいる感情を、ブラウン神父が知らぬはずがないとでも思ったのであろうか? ぺしゃんこの鼻をしたこの小男にしてみれば、たとえロミオが悪魔のようにどす黒く歪んでおり、お相手が五十路過ぎの入れ歯だったとしても、恋愛それ自体は罪でないと思ったのであろうか? つまるところ召使い頭が雇われ女と結婚したがること以上にまっとうなことがあるだろうか? とはすなわち、ベヴァリッジ・ヒルではまっとうなことなど何一つないということであるのだが、そうはいってもブラウン神父が当地で地下道や地下牢、果ては砕けた骸骨を見つけたという話は寡聞にして知らぬ。しかしオリヴァー卿の山羊髭が顎の先で妖精のように踊るのを防ぐことはできなかったし、フレッチャー夫人の言動が吹きゆくそよ風のごとく希薄であるのを防ぐことも、マギーの怯えが不安に変わるのを防ぐことも、ジョン・フリンの影がルイス・キャロル産のキノコそっくりなのを防ぐこともできはしなかった。そのうえフランボウまでが、フレッチャー夫人の名料理の甲斐もなく、むっつりと押し黙ってしまった。放心している一同の気を晴らそうと、オリヴァー卿が交霊会への参加を呼びかけた。プロディコスなる十五世紀のアテネ人から告白を引き出そうと目論んでいるのだそうである。
ブラウン神父は辞退したし、オリヴァー卿もしいて引き留めようとはしなかった。だがフランボウは刺激的なことが嫌いではなかったし――波乱に満ちた生涯のあいだじゅうその好みは変わらなかったので――参加を快諾した。
フレッチャー夫人はテーブル・ターニングに心酔していたから、丸テーブルが手の下で音を立てて震え出すと、陶然として目を閉じた。マギーは母に付き合ってやむを得ず参加したものの、交霊術などトンデモ科学に過ぎぬと自分では思っていた。回転盤など回転するわけがないし、好ましからぬ言葉で嫌なことを告げるからというしごくもっともな理由からである。おまけに明かりが弱くなるや眠りがちになるものだから、力の抜けた両手の重みで盤の揺れを妨げてしまい、オリヴァー卿の山羊髭が暴動を起こし耳を塞ぎたくなるような小言を頂戴するはめになった。ミス・ハリカンは霊力も仕事のうちと考えていたから、交霊会に力を貸していたものの、いたって冷やかであった。
ジョン・フリンは心霊実験に参加したことがない。ドアはしっかり密閉されているか、明かりはきちんと弱められているかを確認するのが仕事である。オリヴァー卿としては、心霊協会会長ハリー・カステアズ卿も及ばぬほど完璧な実験結果を引き出だすのだと自負していたのである。卿に言わせればちゃんとした理由もあって、空気中に含まれる微弱な電流でさえ、紫煙のようなエクトプラズムを拡散させてしまうため、具現化させるのは非常に困難なのであり、明かりが強すぎると湯気のようにぼやけてしまうとともに燐光もしぼんでゆくのである。こうした観測にはつねに曖昧さがついてまわるため、ペテンを企む無知な輩が足りなくなることもない。フレッチャー夫人も場合によっては有能な霊媒であったが、ミス・ハリカンこそまれに見る逸材であった。ミス・ハリカンとしては第二の人格を持つなど卑しいことだと思ったし、第二の自分と知己を得ようという気はまるでなかったから、長いこと誘いを断っていた。しかしついには折れて承諾したため、つい先日、オリヴァー卿は生涯最高の交霊会を催したのであった。もっとも、霊の振る舞いはお決まりのものであった。参加者の髪を引っ張り、頬をつねり、耳に冷気を吹きかけ、マギーが瞼を降ろさぬように強烈な平手打ちを喰らわしたのである。オリヴァー卿は苦もなく浮揚現象にありついた。戸棚から飛び出た小皿が、身軽な月のようにシャンデリアの下を飛び回った。ふいごが飛び交いフレッチャー夫人に灰と煤を吹きつけた。食堂のレリーフに描かれた犬が吠えるのが聞こえた。仕上げに、季節はずれの菫の花束がミス・ハリカンの膝に落ちてきた。目を覚ましたミス・ハリカンは、心神喪失状態でありながら騒ぎを引き起こしたことに気分を害したらしく、花束を受け取ることを拒んだため、話し合いのうえ菫はマギーに手渡された。この記念すべき夜以来、オリヴァー卿の名声はいっそう高まり、霊魂の固まりというものを巻雲、積雲、層雲、乱雲の固まりに喩えるようになった――ここから、天体エネルギーにおける霊的電気の発生地というとんでもない仮説が生まれ――ベヴァリッジ・ヒルには興味深い固まりなど存在しなかったので、オリヴァー卿はフランボウを懐柔しようと熱意を燃やした。
今回も食堂が会場に選ばれた。部屋の寸法が黄金数に一致しており、対角線の交わる場所つまりシャンデリアの真下に回転盤を置けば、ベヴァリッジ・ヒル中に散らばった霊力が――ブラウン神父のものは含まれていないだろうが、これは無視してよろしい――回転盤に詰め込まれるということに気づいたのだ。フランボウは輪に加わり、隣の人の――より正確を期すなら隣の女性の――というのもマギーとその母親に挟まれていたからであるが――手に触れた。なんともバーレスクめいたところに気づかされる。大邸宅の中を突風が吹きつけうなりを上げて鳴き叫ぶなど、まるでサバトの夜ではないか。
神父が文学を危ぶむのももっともだわい、とフランボウは考えた。こんなおかしなやつらがどんな恐ろしい陰謀を企んでいるか知れたものか?
フランボウがいるせいで気の進まぬげなミス・ハリカンの抗議を無視して、卿は強い催眠術をかけた。深い息をついて老嬢の首が垂れた。オリヴァー卿は瞼を押し上げ脈を取ると、ご満悦の態で髭高々と座り直した。
「何から始めればよいかね?」声をひそめるとフランボウに火のような視線を向けた。「物体移動か? 霊媒の空中浮揚か? 物質化か?」
ところが突然ミス・ハリカンが甲高い軋むような声で切れ切れにしゃべり出したために、卿の話はぷっつり途切れた。言っている内容はよくわからない。ほかのメンバーよりは別世界からの言伝を読み解くのに慣れていたオリヴァーが通訳した。
「ロード・コールズウェル。一五五二年に亡くなった、この城の所有者だ。いらいらしているようだな。我が家に――」言葉をとぎらせた卿の顔は、恐ろしくこわばっていたが、やがて肩をすくめた。「――フランス人とカトリックの神父がいることに……」
フランボウはとっさに全神経を張り詰め、ミス・ハリカンとその不明瞭な言葉を翻訳するオリヴァー卿とを同時に観察していた。
「……ロード・コールズウェルが言うには……フレッチャー夫人が……」新たなしかめ面。「不愉快なお節介の当事者だそうだ。目にもの見せてくれようと言っておる」
オリヴァー卿は両目を見開き真っ青になった。口を開いたが、言葉を継ぐ暇はなかった。というのも、ざらざらしたものが足をこすっていったのである。マギーが悲鳴をあげ、フランボウが丸テーブルをはねのけしゃがみ込んだ。と同時に、ジョン・フリンが頑張っているはずの食堂の扉が大きく開かれ、部屋に光があふれた。ブラウン神父がためらいがちに、丸テーブルの一団へと近寄った。
「神よ」叫んだが手遅れだった。
手の上に頭をのせて祈っているようなフレッチャー夫人の姿が見えた。両肩のあいだにナイフの柄が光っている。ブラウン神父が指さす先を目にするやオリヴァー卿は、蝮に咬まれたように飛び上がって逃げ出した。
「亡くなっております」ブラウン神父は悲しげに口にすると、まん丸な顔をしかめたまま絨毯を見つめていた。
傷を負った老兵のようにうちひしがれたマギーを、フランボウが慰めていた。二人が食堂から立ち去るあいだ、ちびの神父はミス・ハリカンを介抱していた。鉛色の顔は、死んだフレッチャー夫人以上に生気がない。だが苦しげな息づかいが、催眠の終わりを告げていた。案の定やがて意識を取り戻したが、目はまだ朦朧と濁っていた。ゆっくりと辺りを見回して、深刻な顔をした丸っこいちび神父の姿を間近に目にしたときも、それほど驚いているようには見えなかった。立ちあがろうとしたものの、つまずいてふたたび椅子に舞い戻った。戻ってきたフランボウには、コールズウェル卿に――いやむしろ卿の幽霊に――フレッチャー夫人が刺し殺されたと報せる仕事が待っていた。その報せは確かにミス・ハリカンを悲しませた。だが悲しみに追い打ちをかけたのは、いわば自分が意識を失ったまま幽霊に手を貸したという思いであった。フランボウに質問を浴びせては、答えを聞くごとに怯えを募らせ、挙句の果てに絶望の叫びをあげると、ブラウン神父が引き留める間もなく走り去った。
馬を用意して助けを呼んでこいと、フランボウがジョン・フリンに申しつけた。
「こんなオカルトじみたことなど信じられないな」ナイフの柄を念入りに調べていたブラウン神父に向かい、フランボウが話しかけた。「なのにぼくはフレッチャー夫人のすぐ隣にいた。誰も刺すことはできなかった」
「悪魔は狡猾、でしたかな。あなたのお国ではそんなふうに呼んでいたと思いましたが」
「悪魔を信じてるんですか?」フランボウが声をあげた。
「では福音書を読んだことはないのですか?」神父は静かに答えた。
「真実ですよ」フランボウが苛立たしげに言った。「ぼくが知ってるのは真実です。やったのはオリヴァー卿ですね、そうじゃなければ召使い頭が背中めがけてナイフを投げたんだ。だってそうでしょう、空から降って湧いたわけじゃあるまいし……」
「そうかもしれませんな」
神父はため息をつくと、さっきまでフランボウが座っていた席に着いた。それから顔を上げておそるおそる話を続けた。
「わたしは悪魔を信じていますから、オカルトじみたことなど何一つ見えなかった」
フランボウはあやうく癇癪を起こしそうになったが、二つの問いを聞いた途端いらだちが呆れに変わった。
「ふいごのことはどう考えていますか?」
「ふいごですって? おかしなことを思いつきましたね……」
「では菫の花については?」
「考えたこともありませんよ、菫だなんて……」
ブラウン神父はポケットに手を突っ込んで菫を二本丸テーブルに置いた。
フランボウは口を開いたが、何も言えずにそのまま閉じた。
神父はマントルピースの下からふいごを取り出すとフランボウに差し出した。
「動かしてごらんなさい」
フランボウは勢いよく空気の束を吹き出した。
「何が見えます?」
「何も」フランボウが答えた。
「それがわたしの言いたかったことです」ブラウン神父はつぶやくや、頭を垂れて食堂から出て行った……。
フランボウは図書室にいるオリヴァー・ディアドラ卿を見つけた。大判の神秘学辞典を調べているところを見ると、すっかり動揺から立ち直ったらしい。フレッチャー夫人の死にはたいへんな打撃を受けているのだろうが、死とは要するによくあることであり、賢人ならば厳しい目で糺さねばならぬし、学者であればなおのことである。オリヴァー卿はこの犯罪の不可解な面に肝を潰し、真っ先に考えたのは五芳星を身につけることだけであった――指摘するまでもないが、魔力と祟りを防ぐ魔よけの印である。次にトムスン&デイヴィー編纂の辞書を調べたが、事件に曙光を投げかける先例には事欠かなかった。目に見えぬ襲撃など山ほどあり、そのほとんどが死亡事故だと聞いてフランボウは驚いた。顔を赤く染め目を血走らせている卿はどこか悪いのではないのかと心配になる。しゃべりながらたえず右手を振り回すのを見れば見るほどその思いは強くなるし、ましてや突き出したままの小指と人さし指が威嚇する一対の角のように見えるとあってはなおさらである。ところが折よくやってきたブラウン神父には、その懸念が伝染しなかったようだ。卿の身振りをみて微笑みさえ――暗く曇った笑みではあるが――したのであるが、当のオリヴァー卿は慎みも忘れて足をたたくと、ちび司祭に向かい、魔法であることだけは一目瞭然ではないかと尋ねた。
「魔法とは――」ブラウン神父はそっと口を開いた。「乏しい想像力をならず者につけこまれたものですよ。そして乏しい想像力は――」卿を怒らせぬようフランボウに向き直った。「――信仰心のないところに生まれると相場が決まっております」
議論がきな臭くなるのを防ごうと、フランボウはオリヴァー卿に質問をした。
「ナイフはどこから現れたんでしょう?」
「知らんな。城では似たようなものは見たことがないし、奇妙な形からするとあの世のもののようだが」
「そうでしょうか」神父が小さくもらした。「わたしにはむしろ、柄が燃やされた短刀のように見えますが。燃やされたために、柄が刃と同じくらい薄くなったのでは」
ディアドラ卿の頬が怒りに震えた。蝙蝠の装丁がなされた赤い革表紙の本を手に取ると、ブラウン神父の鼻先に振りかざした。
「ヴァン・エルモントも同じ現象を体験しているのだ。それにナイフの柄が黒こげになっただけではない、強い硫黄の匂いも広がっていたではないか!」
フランボウがあわてて話題を変えた。
「ジョン・フリンはあなたの目の前だったし、ぼくも目を離さなかったから、疑うわけにはいきませんね。ナイフを投げるのは無理だ。オリヴァー卿はミス・ハリカンの方に寄っていたし、両手はテーブルの上だった」
「明らかではないか」卿が決めつけた。「この犯罪を行い得る人間はいない……」
「考えてみたのですよ」そのとき神父が無邪気な声で口を開いた。「なぜわれわれをベヴァリッジ・ヒルから追い出したがっていたのか。ロード・コールズウェルの亡霊が口にした理由は一五五二年であればなにがしかの意味があるでしょうが、現在では……」
オリヴァー卿がぷっと吹き出し反論した。
「あんたがたカトリックの坊さんたちは、別世界の謎をあまりよく知らないようですな。情念は涸れるどころか、降霊を重ねるうちに霊的成長を遂げるのだ。これで唐突な配置換えを説明できる……」
さらにあれこれ言われてフランボウは真っ赤になったが、ブラウン神父は何かに夢中なせいでまったく聞いていなかった。ようやく我に返ったらしく、フランボウに質問を投げた。
「確かにざらざらしていましたかな?」
「ざらざらしてたらどうだというのだ?」ディアドラ卿が山羊髭をコンマ記号のように曲げてたずねた。
だがフランボウは相棒の考えを理解した。
「確かにざらざらしたものが、丸テーブルの脚をこするように走ってきましたよ。ズボンを引っ張られたというか、引っかかれました。いやな感触でしたね」
「一番最初にしたことは?」
「怪しげなものを確かめようと屈んだところに、あなたがやって来ました」
ブラウン神父は不意に顔を輝かせ、新たに会の用意はできないかとオリヴァー卿にたずねたときの声は陽気と言ってよかった。この申し出に卿は大喜びし、ローマン・カトリックの坊さんは恐ろしく感情的なくせに、ときには常識の光を持っているわいと御みずから認めたのであった。翌日は一日じゅう諸事万端で忙しくなるし、夜を待たねばならないだろうとフランボウが指摘した。その通りであった……。
フランボウは休むことなく頭の中で問題を反芻し、夕食後にブラウン神父を見つけたときにはひそかに喜んだものである。神父はひとり公園で黒い小型本を読んでいた。
「この事件は無茶苦茶だ」フランボウは近づきながら声をかけた。
ブラウン神父は物思わしげに、雪解け水の流れる小径を見つめていた。まるでそこに考え事の原因があるようなそぶりで、返事はゆっくりと途切れがちだった。
「いっそう……無茶苦茶です……前もって結果はわからないのですから」
「何の結果です?」
「まだわからないのですか?」おだやかにたずねた。
二人は葉の落ちた並木の中を少しだけ歩いた。
「……わからないのですか? 犠牲者は二人必要なのです」
フランボウはびくっとした。
「わたしですよ」神父はいたって無頓着であった。
背後にはでたらめな建築様式の城がそびえており、ブラウン神父は物思わしげに一瞬それを見つめた。
「その通りですよ。なんということだ! あまりに単純な計画を、ごちゃごちゃと複雑なものが覆い隠していたのです」
風が激しさを増したので、邸に戻って夜まで閉じこもることにした。
夕食の席で、フランボウは改めてオリヴァー卿にいくつかの質問をぶつけた。
「心霊実験に食堂を選ばれたのには何か理由が?」
オリヴァー卿はもじゃもじゃの眉をつり上げた。
「すでにお答えしたと思いますがな。この部屋の寸法は、この種の研究にお誂え向きなのです」
「ほかの場所で行うのは無理ですか?」
「いや、もちろんそんなことはない。だが条件はあまりよくない。特に明かりが役に立たん。霊媒と仕事をするときには一時たりとも目を離さぬことだ。第一に不正を防ぐため、第二に金縛りの進捗状況を見張って事故から守るため」
「霊媒の両手は自由なんですか?」
「ああ、だが両手はテーブルの上だから見張るのは簡単だ」
「でも夕べ、足許を通り過ぎたものを確認しようと屈み込んだでしょう。霊媒ならそのときこっそりフレッチャー夫人を刺せたと思うんですよ」
オリヴァー・ディアドラ卿の視線がフランボウに突き刺さった。
「わたしは一瞬たりとも目を離さなかった。ミス・ハリカンは両目を閉じてぐったり伸びていた。でたらめにナイフを投げるはめになるし、いずれにせよ向かいにいる人間の“背中に”当てることなどできはしない」
ブラウン神父は無言のまま、ベヴァリッジ・ヒルから遙か遠くにいるかの如く指でパンくずを丸めていた。知ってか知らずか席を立ったのは一番最後だった。そばを通りしなフランボウに耳打ちをした。
「クッションがほしい」
しばしのち会が始まった。初めに、五人をどう席割りすべきかで押し問答があった。黙々と事件を忠実に再現しようと努めるフランボウが、フレッチャー夫人の席にマギーを――面倒ではあったが、若い娘をかき口説くことなどお手のもの――座らせると、ブラウン神父をその隣に座らせた。オリヴァー卿は興奮をものともせずにミス・ハリカンを一発で眠らせた。ブラウン神父はうっすら笑みを浮かべた。椅子と首のない法衣に埋もれて滑稽きわまりない。心霊学者の山羊髭、司祭の極端な団子鼻、忘れ形見マギーの口周辺に生えた産毛は、こうした状況でなければ笑いを引き起こしてもおかしくはなかったが、誰一人として面白がるものはいなかった。不安で息苦しくさえなるあまりブラウン神父が不意に立ちあがると、微動だにしない石膏面のようなミス・ハリカンを除いて、ロボットのように誰もがそれに倣った。ちょっとしたパニックのようなものが過ぎて座り直した途端、高まった霊媒の声は、静けさの中に奇妙に軋んでいた。ふたたびオリヴァー卿がメッセージを翻訳した。
いかめしく目をぎょろつかせると、こう告げた。「ロード・コールズウェルだ。復讐が遂げられなかったと言っている。マギーが……しなければならないのは……追い払うことだ……好ましからぬ客人どもを……」
誰かが叫びをあげた。テーブルの下を正体不明の何かが動き出し、足をかすめてめったやたらに駆けまわった。
「明かりを」フランボウが叫んだ。
ミス・ハリカン以外は立ちあがっていた。うつぶせのままテーブルに手を投げ出した人影。
「ブラウン神父だ」オリヴァー卿がぽつりと言った。「刺し殺されている!」
背中に突き刺さった短刀の柄が見えた。フランボウが駆け寄ったがぴたりと立ち止まった、というのは丸く穏やかな神父の顔は死人のものとはほど遠かったからだ。それどころか天真爛漫に微笑み、無邪気な声で口をきいたのだ。
「テーブルを持ち上げてもらえますかな。わたしは足をつかんでおく」
フランボウはそうした。ブラウン神父はミス・ハリカンの足首をしっかりとつかんでいた。
「クレープ・ソールのゴム靴ですよ」そう言ってさらに注意を促した。
それから意識のないミス・ハリカンの足を静かに床に置いた。これがもっとも不思議なことだった。ミス・ハリカンは周りで起こった出来事に気づかないほど深い催眠状態に陥っていたのだから。それとき、神父が耳元でささやいた。
「ジョン・フリンがすべて白状しました」
そう言うと狂ったように笑い出した。ナイフの柄がぴょこぴょこ跳びはねるのを見て、オリヴァー卿の額に汗がにじんでいた。そのときだった。ミス・ハリカンの穏やかな顔が突如ぎょっとするほど醜く引きつった。目を飛び出させ、極度のヒステリーを起こして床に倒れた。ジョン・フリンを呼ぶことは出来なかった。とうに姿を消しており、二度と見ることはなかったのである。
「説明してください」フランボウが言った。
ブラウン神父はしごくあっさり背中から短刀を引き抜くと、服の下に仕込んでおいたクッションを取り外した。
「ミス・ハリカンはジョン・フリンと結婚するつもりでおった。でも老後に不安があったのでしょう、遺産を掠め取るために夫人と娘の殺害を企てたのです。二人の考え出した計画はきわめて優れたものでした。ミス・ハリカンは自分が優秀な霊媒であるとオリヴァー卿に売り込むことに成功しました。ジョン・フリンは表舞台に出ることなく、我々が目にした怪異を担当していました。この仕事をうまくこなすためにできることは、ディアドラ卿の難解な著作を読むことでした。悪意を込めて、フレッチャー夫人の顔に煤と灰を吹きつけ、娘のもとに菫の花束を投げつけたのです。南側の花壇に同じ菫がありましたよ。われわれがやって来たのが、犯人の計画にとっては厄介な問題でした。ところが考え直してみれば、ロード・コールドウェルの怨念という、探し求めていた動機が見つかったのです。たとえ動機が不充分でも、もっと強い嫌疑がオリヴァー卿にはかかります。そこで二人はフレッチャー夫人を殺害しました」
「でもどうやって?」
「ナイフの形に気づきませんでしたかな? ご覧なさい」
ブラウン神父がナイフを高々と放り投げた。くるりとひっくり返ると、空気を切り裂いて落ちてきた。刃が深々と床に突き刺さった。
「同じようにやってご覧なさい」
今度はフランボウがナイフを投げた。今度も刃先を下にして落下し、深々と突き刺さった。両手で引き抜かねばならないほどだった。
「好きなだけ高く放り投げてご覧なさい」ブラウン神父が続けた。今度も刃先が下になって落ちてきた。刀身が柄よりもかなり重いのである。鉄芯とのバランスが崩れるように、柄は焼かれていた。
「だけど誰が投げたんです?」
「誰も。そうじゃありませんかな」
「つまり?」
「つまり、文字どおり空から降ってきたのですよ、フランボウ。あなたが捜査当初から言っていたとおりにね」
ブラウン神父は椅子を使って丸テーブルの上に登ると、電球で鈴なりの枝をつけた金属幹製の巨大なシャンデリアを指し示した。
「真ん中の管の継ぎ目が弁のようなものでふさがれております。これこそジョン・フリンによるまこと独創的な芸術ですよ。電線に沿って管に通した紐が、弁を動かすのです。紐はスイッチまでつながっています。弁を開いて短刀を落とすには、軽く引くだけで充分でした。ずしりと重い短刀が、背中深くを突き刺して計画は成功です」
「だけど被害者が都合よく振る舞いますか?」フランボウがたずねた。
「出席者の緊張がピークに達したころを見計らって、ミス・ハリカンが靴で足許をこすったんですよ。誰もが驚きのあまり、この化け物を追い払おうとして思わず屈み込む。この好機を待って、ジョン・フリンは弾丸を放出したのです」
「じゃあ交霊会がここで行われなかったなら?」フランボウが異議を唱えた。
「黄金数をお忘れですぞ! いつも丸テーブルがシャンデリアの真下に置かれていたから、ミス・ハリカンは計画を考えついたのでしょう。念を入れてわたしが素早くマギー嬢と入れ替わっていなければ、マギー嬢は今晩、母と運命をともにしていたはずでした。しかし犯人も興奮していると見込んでおりましたし、事実入れ替わりに気づかれなかった」
「ミス・ハリカンを疑いだしたきっかけは?」
司祭はため息をつくと絞り出すように答えた。
「眠る水ほど危険なものです」
怒り狂ったオリヴァー卿がきびすを返し、無言で図書室に閉じこもるところだった。
二か月後、フランボウはブラウン神父に『デイリー・リフォーマー』紙から切り抜いた記事を見せた。
『……著名な学者であるオリヴァー・ディアドラ卿が、さきごろ心霊協会の会長に選出された。その業績を評価した協会が、ハリー・カステアズ卿の後継者に推したのである』
「どう思います?」フランボウがたずねた。
「アーメン」
ブラウン神父はつぶやくと、ふたたび聖務日課書に取りかかった。
Le Crime du Fantôme,Thomas Narcejac 〜『Usurpation D'identité』より〜
ver.01 06/08/03
[訳者あとがき]
トーマ・ナルスジャック『贋作展覧会』より、ギルバート・キース・チェスタトンの贋作をお届けいたします。
チェスタトンの贋作というのは珍しい。文体といいロジックといい独特のものがありますから、真似しやすい反面、猿真似どまりになってしまうのがほとんどなのではないでしょうか。
ナルスジャックによる本篇は、こと文体にいたってはさすがの舌を巻くうまさです。チェスタトン独特のひねくれた言い回しが随所にあって、読んでいるあいだじゅう楽しくてにやにやしてしまいました。
オカルトに対するブラウン神父の態度も、いかにも神父らしい。チェスタトンの代名詞ともいえる逆説もそこかしこに描かれます。
チェスタトンのトリックは、トリックだけ取り出すと他愛のないものが多くても、あの文体とロジックと雰囲気に包まれると途端に生き生きと輝き出すから不思議です。残念ながら本篇のトリックは、トリックだけ独立して存在している感じで、輝きのない他愛ないものになってしまっています。まあそれも考えようで、『新青年』か島田荘司かといったこのトリックにもなかなか捨てがたい味があります。
特筆すべきは犯人の頭のよさ・機転です。不測の事態を逆に利用して自らの益にしてしまうあたりは、『ブラウン神父』ものの傑作でよく見られた光景です。詩的な犯罪「飛ぶ星」ほどではありませんが、犯人の機知が光ってます。
欲を言えば、逆説とトリックとロジックが一体となっていたら……と思うのですが、それは贅沢な注文でしょう。
せっかくのフランス人による贋作なのだから、原典では改心以後すっかり影の薄くなってしまった同国人フランボウの頭のよさをもうちょっと描いてくれてたらなぁなんて思ったりもしました。
[翻訳について]
やっぱりチェスタトンはむずかしい。日本語にしづらい文章です。といって、文章を短く区切ったり言葉を補ったりすると今度はチェスタトンらしくなくなる。つくづくチェスタトンの翻訳には向いていません。
内容から言えばタイトルは「霊魂の犯罪」とでも訳すべきかもしれませんが、通りのいい「幽霊の犯罪」としました。
誤訳がたくさんあるでしょうけれどご容赦ください。
[更新履歴]