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翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第八十三章 伝令

 晩の六時のこと。

 読者諸兄には既にお話ししたことのあるサン=クロード街の寝室で、覚醒しているロレンツァの隣に坐ったバルサモが、どれだけ懇願しても応じないロレンツァのかたくなな心を解きほぐそうと骨を折っていた。

 だがロレンツァは、アイネイアスの旅支度を見つめるディドーのように、まともには目を合わせぬまま、口を開くのは非難する時だけで、手を伸ばすのは押しのける時だけだった。

 捕虜であること、奴隷であること、もはや息もつけないこと、もはや太陽を拝めないことをなじった。卑しい人間や、鳥や花を羨んだ。バルサモを暴君呼ばわりした。

 怒りを込めた非難が治まると、孤独を紛らすようにと与えられた布の山をずたずたに引き裂いた。

 バルサモの方ではロレンツァに穏やかに話しかけ、愛おしげに見つめていた。このか弱く癇性な女が、バルサモの人生とまでは行かずも心の中で巨大な地位を占めているのは明らかだった。

「ロレンツァ、どうしてそんな風に敵意と反抗心を剥き出しにするのだ? 言葉では言い尽くせぬほど愛しているというのに、どうして優しく献身的な妻となって俺と一緒に暮らせないんだ? そうすれば望むものなどすべて手に入るのに。そうすれば、先ほど話しかけていた花のようにいつだって太陽に顔を向けることが出来るし、おまえが羨んでいる鳥のようにいつでも翼を広げることが出来るのに。何処にでも二人で出かけられるのに。それほど焦がれている太陽に再びまみえることはもちろん、この国の女たちが太陽のように着飾った集いにも出られるのに。おまえはおまえで幸せになり、俺は俺のやり方で幸せになれるのに。どうして幸せになりたがらないんだ? おまえほどに美しく、おまえほどに裕福であれば、女という女たちの嫉妬心を掻き立てられるだろうに」

「あなたのことが嫌いだからです」ロレンツァは凛として答えた。

 バルサモはロレンツァに、怒りと憐れみのないまぜになった目を注いだ。

「では定めに従って生きるがいい。それだけ偉そうにしているのなら、不満を洩らすな」

「一人にしてくれれば不満など言いません。無理に口を利かそうとしなければ不満など洩らしません。お願いだからそばに寄らないで。せめて、この檻に来ても何も言わないで。籠に閉じ込められた南国の鳥と一緒。みんな死ぬんです、歌を忘れた後で」

 バルサモは何とか自制した。

「いいか、ロレンツァ。落ち着け、諦めろ。一度俺の心を読んでみろ。何よりもおまえを愛しているのだ。本でも読むか?」

「いいえ」

「何故だ? 本を読めば気も晴れよう」

「退屈のあまり死んでしまいたいんです」

 バルサモは微笑んだ。否、微笑もうとした。

「馬鹿は言うな。死なぬことぐらいわかっているだろう。たとい病気になろうとも俺がここにいて看病をし、治療する限り、おまえは死なん」

「そう? このショールを使って窓の鉄格子で首をくくってしまえば、助けられないでしょう」

 バルサモはおののいた。

「いつかその日が来れば」ロレンツァは怒りに駆られて続けた。「このナイフを開いて私の心臓に突き立てるから」

 バルサモは青ざめ、冷たい汗を流してロレンツァを見つめると、脅しをかけた。

「いいや、確かにその日が来てもおまえを助けることは出来ないが、生き返らせてみせる」

 ロレンツァは怯えて声をあげた。バルサモの力が何処まで及ぶものなのかわからない。ロレンツァは、脅しを信じた。

 バルサモは救われた。

 ロレンツァは新たに絶望の種が増えるとは思ってもみなかった。絶望に沈みながらも、果てしない拷問の輪に閉じ込められたことを、ぐらついた理性で悟っていた。その時、フリッツが引いた呼び鈴の音がバルサモの耳に届いた。

 音は素早く三度、同じように鳴らされた。

「伝令か」

 直後、もう一つ音が届いた。

「急ぎだな」

「だったら早くここから出て行って!」ロレンツァが叫んだ。

 バルサモはロレンツァの冷たい手を取った。

「もう一度言う。これが最後だ。仲良く生きようじゃないか。俺たちは運命で結ばれてるんだ。運命の奴と友だちになろう、死刑執行人ではなくな」

 ロレンツァは無言だった。目は虚ろで、永遠に離れてしまった思いを無限の中まで追いかけているように沈んでいた。探し疲れたのだということに、恐らくは気づいてはいなかった。闇の中で過ごした後で探し求めていた光を目の当たりにして、太陽に目が眩んだのに似ていた。

 バルサモはつかんだ手に口づけしたが、何の反応も返って来ない。

 バルサモが暖炉に向かって足を踏み出した。

 途端にロレンツァの放心が解け、バルサモに熱い眼差しを送った。

「そうか。俺が何処から外に出るのか知りたいんだな。陽射しの下に出たい、言葉通りに逃げ出したいというわけか。だから目覚めた、だからそんな目つきをしているのか」バルサモは呟いた。

 それからまるで苦役を課されたように額を手で拭うと、ロレンツァに向かってその手を伸ばし、矢のような視線をロレンツァの胸と目に投げつけ、手を鋭く動かしてこう言った。

「眠れ」

 この言葉が口にされるや、茎の先で揺れる花のように頭を揺らしたかと思うと、がくりと首を垂れて長椅子に突っ伏した。くすんだ白い両手は絹の部屋着をかすめて脇にだらりと下がった。

 バルサモが近寄り、美しさを確認すると、その美しい額に口唇を押し当てた。

 するとロレンツァの顔が晴れた。キューピッドの口唇から洩れる息吹きが、かんばせを覆っていた雲を吹き払ったわけでもないだろうに。口を半開きにして震わせ、快楽の涙の海に目を泳がせ、天使のように吐息をついた。創造の第一日目に天使たちが人の子らに愛を注ぐために洩らしたような吐息だった。

 バルサモはちらりとそれを眺めただけで、目を奪われそうになるのを堪えた。ここで再び呼び鈴が鳴り響いたため、急いで暖炉に向かい、バネを押して花の背後に姿を消した。

 フリッツが応接室に控えていた。伝令の恰好をして長い拍車つきの長靴を履いた男と一緒だった。

 汚らしい顔つきはどう見ても庶民だが、遙かに知的な存在から授かりでもしたように、瞳にだけは聖なる火の欠片が潜んでいる。

 左手を短くごつい鞭に当てたまま、右手で合図をした。ちょっと見ただけでバルサモはそれと察し、無言のまま、人差し指で額に触れて合図を返した。

 すると御者の手が胸に上がり、部外者にはわからぬ文字を胸になぞった。ボタンをつけるような仕種に似ていた。

 この合図に対して、バルサモは指に嵌めた指輪を見せて答えとした。

 この絶対的な印を前に、使者は膝を突いた。

「出身は?」

「ルーアンです、親方マスター

「何をしている?」

「ド・グラモン夫人の伝令をしております」

「そこには誰の紹介で?」

「大コフタの御意です」

「その仕事に就いた際にどんな命令を受けていた?」

「親方には隠しごとをするなと」

「向かった先は?」

「ヴェルサイユです」

「運んでいたのは?」

「手紙です」

「宛先は?」

「大臣です」

「寄こせ」

 伝令は背中に結わえてあった革袋から手紙を取り出し、バルサモに手渡した。

「待機していた方が?」

「ああ」

「ではお待ちします」

「フリッツ!」

 ドイツ人が現れた。

「セバスチャンを事務室に連れて行け」

「はい、ご主人様」

「私の名をご存じなのですか!」会員は魔法でも見たようにぎょっとして、うわずった声を出した。

「ご主人様は何でもご存じです」フリッツはそう言ってから案内に立った。バルサモが一人残された。手のつけられていない厚い封印を見つめた。伝令は懇願するような目つきをしていた。あれは出来ればこのままにしておいて欲しいと頼んでいたのだろう。

 それからのろのろと、考え込みながら、ロレンツァの部屋まで戻って連絡扉を開けた。

 ロレンツァは眠り続けているが、これは虚脱状態から来る疲労と消耗によるものだ。バルサモが手を取るとぴくりと身動きした。バルサモは封印されたままの手紙をロレンツァの胸に押し当てた。

「見えるか?」

「はい、見えます」ロレンツァが答えた。

「俺は手に何を持っている?」

「手紙を一通」

「読めるか?」

「読めます」

「では読むんだ」

 ロレンツァは目を閉じたまま胸を波打たせ、手紙の文章を一語一語読み上げた。バルサモがそれを次々に書き留めた。

 

 ――兄君様

 かねがね考えていた通り、追放されるのも何かの役に立ちそうです。今朝、ルーアンの法院長と別れて来ました。私たちの味方ですが、臆病な方です。お兄様の名前を出して圧力を掛けましたところ、遂に決意を固め、一週間のうちにはヴェルサイユに建言するはずです。

 私はすぐにレンヌに発ち、眠っているカラデュとラ・シャロテをちょっと起こして参ります。

 コードベックの役人がルーアンにおりましたので、会って来ました。イギリスには留まる気はありません。ヴェルサイユの政府に辛辣な通告を突きつけるつもりのようです。

 作るべきかどうかXが伺いを立てに参りましたので、許可しました。

 最新の諷刺小冊子パンフレットをご覧下さい。テヴノ、モランド、デリルたちがデュ・バリーを批判しております。

 悪い噂を耳にしました。噂では失脚したそうですね。ですがあなたからそのような手紙を受け取ってはおりませんので、笑い飛ばしました。ですが曖昧なままにせず、伝令に返事を預けて下さい。

 お返事はカーンで受け取ります。カーンには信仰に篤い人たちがおります。

 神のご加護を、愛を込めて。

 ド・グラモン公爵夫人――

 

 ロレンツァは読み上げるのをやめた。

「ほかには何も見えないのか?」バルサモがたずねた。

「何も見えません」

「追伸はないのか?」

「ありません」

 手紙が読み上げられるに従い表情をゆるめていたバルサモだったが、ここでようやく公爵夫人の手紙をロレンツァから離した。

「面白い手紙だ。千金に値する。それにしても、こんな手紙を書くとはな! 偉い男の足を引っ張るのはいつも女だ。敵や陰謀が束になってかかっても倒されなかったあのショワズールが、女の優しい一吹きで吹き飛んだか。そういうものさ、俺たちは女の裏切りや弱さのせいで滅びるのだ……俺たちにも心があって、その心が感じやすかろうものなら、お終いだな」

 そう言ってバルサモは愛しむようにロレンツァを見つめた。ロレンツァの胸が波打っている。

「俺の思っていることは事実だろう?」

「いいえ、事実ではありません」ロレンツァがむきになって答えた。「おわかりのはずです。理性も優しさもない女たちのようにあなたを傷つけるには、あなたのことを愛しすぎてます」

 バルサモはロレンツァの腕に抱かれるがままにした。

 突然フリッツの呼び鈴が二つ、二度鳴り響いた。

「お客さんが二人か」

 激しい鈴の響きが止むと、フリッツの伝言が届いた。

 バルサモは腕を振りほどくと、ロレンツァのことは眠らせておいたまま部屋を出た。

 途中で伝令に出くわした。命令を待っていたのだ。

「ほら、手紙だ」

「どうすればよいのでしょうか?」

「宛先に届けてくれ」

「それだけですか?」

「それだけだ」

 会員は封筒と封印を確認して、元のままであるとわかると、嬉しそうに闇に消えた。

「ああいう署名を手元に保管しておけないとは残念だな!」バルサモが独り言ちた。「それに、信頼できる手を通じて国王の手に渡すことが出来ないのも残念だ!」

 その時、フリッツが現れた。

「誰だ?」

「ご婦人と紳士です」

「ここに来たことがある人間か?」

「いいえ」

「見たことは?」

「ありません」

「若い女か?」

「若い美女です」

「男の方は?」

「六十代前半かと」

「何処にいる?」

「応接室です」

 バルサモは部屋に足を踏み入れた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXXIII「Le Courrier」の全訳です。


Ver.1 11/01/15
 


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[註釈・メモなど]

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