この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百五章 肉体と魂

 代表者のそばに最後まで残っていたのは、外科医のマラーだった。

 マラーは真っ青な顔をして、おずおずと全能の演説者に近づいた。

親方マスター、私は間違いを犯したのでしょうか?」

「大きな間違いを、な。最悪なのは、間違ったとは思っていないところだ」

「仰る通り間違いを犯したとは思っておりませんし、むしろ適切な話だったと思っております」

「自惚れるな! 自惚れは身を滅ぼすぞ! 病人の血に潜む熱病や、水中や大気中の疫病とは戦おうとするくせに、心の奥深くに根づいた自惚れは摘出できなくなるまで育つに任せておくのが人間というものだ」

「非道いことを仰いますね。すると私は同志の一員とは認めてもらえないほど無価値な人間なのでしょうか? 発言のたびに無智のそしりを受けなければならないほどに、功績を立てて来られなかったのでしょうか? 信条を疑問視されるほど不真面目な会員なのでしょうか? たといそれだけの人間だとしても、せめて神聖なる大義に尽くすことで貢献して来たつもりでした」

「いまだに善悪の葛藤を続けていて、いつか悪に流されてしまいそうに見えるから、その病根を正してみせようというのだ。もし成功の目があり、まだ自惚れに侵蝕されていなければ、一時間後には正してみせよう」

「たった一時間で?」

「そうだ。一時間借りるぞ?」

「もちろん構いません」

「場所は何処にする?」

「決めていただければ従います」

「では、お前の家で」

「確かに約束しましたからね。私はコルドリエ街の屋根裏部屋に住んでいます。いいですか、屋根裏です」マラーの言葉からは簡素ながら威厳を取り繕おうとしているのが感じられたし、貧しいながら虚勢を張っているのが伝わって来た。「ところがあなたの方は……」[*1]

「俺の方は?」

「宮殿に住んでいるという噂です」

 バルサモは肩をすくめた。巨人が遙か高みから見下ろして、小人の怒りを推し量っているようにも見えた。

「まあいい。屋根裏に邪魔しよう」

「日にちは?」

「明日」

「時刻は?」

「朝」

「夜明けには解剖講堂に行って、そのまま病院に向かうことにしています」

「それこそ望むところよ。そっちから言ってもらえなければ、連れて行ってくれと俺の方から頼もうと思っていた」

「早朝ですよ。私は睡眠が短い質ですが」マラーが言った。

「俺は睡眠を取らん」バルサモが答えた。「では夜明け頃に」

「お待ちしています」

 既に出口に移動していた二人は、そこで別れを告げた。入って来る時には賑やかで人通りのあった街路も、今は深閑として薄暗い。

 バルサモは左に向かい、瞬く間に姿を消した。

 マラーも同じように細長い足を右に向けた。

 バルサモは時間に正確だった。翌朝六時にはコルドリエ街にある古家の最上階、扉が六つ並んだ長い廊下の真ん中にある扉を叩いていた。

 来賓を迎え入れても恥ずかしくないようにマラーが一晩中用意していたのは明らかであった。みすぼらしい胡桃材の寝台や木製天板の張られた整理箪笥がピカピカと輝いているのは、掃除女がこれら虫食いだらけの家具を襤褸雑巾で懸命に磨き上げたからであろう。

 掃除女だけに任せたりはせず、数少ない装飾品である青い陶器の花瓶に、力なく萎れた花をマラー自ら生けている最中だった。

 小脇に雑巾を挟んでいるため、花を生けたのは家具磨きを手伝った後だというのがわかる。

 扉に鍵が差しっぱなしになっていてバルサモがノックもせず部屋に入って来たので、作業中のマラーは不意を打たれた。

 親方マスターの姿を目にしたマラーは、克己心のある人間とは言えぬほど顔を真っ赤にした。

 マラーはいけしゃあしゃあと証拠物件の雑巾をカーテンの陰に放り投げた。「見ての通り、家庭的な人間でしてね、このおばさんを手伝っていたところでした。花を生けるのを選んだのは、平民の仕事とは言えないでしょうし、さりとて大貴族の仕事では絶対にないからです」

「貧乏で綺麗好きな若者の仕事に過ぎん」バルサモは吐き捨てた。「すぐに用意は出来るか? 俺は忙しいんでな」

「いま上着を羽織ります……グリヴェットさん、上着を……グリヴェットさんには門番をお願いしているんです。そのうえ召使いも料理人も会計係も兼ねて、月一エキュでやってもらっています」

「倹約するのはいいことだ。倹約こそ貧者の財産であり、富者の叡智だからな」

「帽子とステッキを」とマラーが言った。

「手を出せ、帽子だ。そばにあったステッキもお前のだろう」

「これは恐縮です」

「準備は出来たな?」

「出来ました。グリヴェットさん、時計を」

 グリヴェット夫人はあちこち見回すものの返答はない。

「時計はいらんだろう、解剖講堂と病院に行くだけなんだ。長々と捜していては遅くなってしまう」

「しかしですね、非常に気に入っている時計なんです。とてもいい時計で、随分と貯金して買ったものなのですから」

「出かけている間にグリヴェットさんが捜しておいてくれるだろう」バルサモが笑いかけた。「しっかり捜しておいてくれるから、戻って来る頃には見つかってるさ」

「そうですよ」とグリヴェット夫人も同意した。「見つかりますとも。余所で落としたんなら別ですけどね。ここから消え失せるなんてないんですから」

「そういうわけだ。出かけるぞ」

 マラーはそれ以上は意地を張らず、ぶつぶつ言いながらも従った。

 外に出たところでバルサモがたずねた。

「まずは何処だ?」

「解剖講堂に行っても構いませんか。夕べ急性髄膜炎で死んだはずの『被検体』を移動させておいたのですが、脳を調べたいので他人に取られたくないんです」

「では解剖講堂に行くとしよう」

「講堂はすぐそこですし、病院とも隣り合わせですし、行って戻って来るだけなので、入口で待っていて下さっても構いません」

「いや、一緒に行きたいね。『被検体』について意見を聞きたい」

「健やかだった頃のですか?」

「いいや、死体になってからだ」

「そいつはいい」マラーは破顔した。「あなたに一泡吹かせてあげられそうだ。私の専門分野ですし、これで解剖の腕はいいと言われているんです」

「自惚れ、自惚れ、また自惚れか!」バルサモが呟いた。

「何ですって?」

「見に行こうと言ったのだ。さあ入るぞ」

 マラーが初めに狭い通路に足を踏み入れた。そのまま進むとオートフィーユ街(rue Hautefeuille)の端にある解剖講堂にたどり着く。[*2]

 バルサモも躊躇うことなく後を追い、細長い一室に入った。大理石の台上に、死体が二つ安置されている。女のものと男のものだ。

 女の遺体は若者のものだ。男は年老いて禿げていた。二人とも粗末な屍衣にくるまれていたが、顔だけはほぼ見えていた。

 二人揃って冷たい寝台に並べられてはいるものの、恐らくこの世では会ったこともなかっただろう。だから常世に旅立つ二つの魂は、隣に自分と似たような死体があるのを見て驚いているに違いない

 遺体を覆っていた襤褸布を、マラーがひと息ではぐって投げ捨てた。死んでしまえば外科医のメスの前では対等だ。

 どちらの遺体も裸だった。

「死体を見ても嫌な気分になりませんか?」マラーの声はいつもと変わらず偉そうだった。

「悲しい気分になるよ」

「慣れとは恐ろしいものですね。毎日のように見ているせいで、悲しくも嫌な気分にもなりません。現場の人間の生活は死者と共にありますから、死者があったからといって日常が止まることもありません」

「医者というものの悲しい性だな」

「だいたい、私には悲しくなる理由も嫌な気分になる理由もありません。悲しまないのは脳で思考しているからであり、嫌悪を抱かないのは慣れによるものです」

「説明してくれ。俺にはよくわからん。まずは思考の方から」

「いいでしょう。私には怯える理由もありませんし、動かぬ肉体を恐れる理由もありません。岩石や大理石や花崗岩ではなく肉体で出来た彫刻を恐れる理由がないのです」

「死体には何もないということだな?」

「ええ、一切何もありません」

「確かだな?」

「絶対に確かです」

「では生者の肉体には?」

「生命活動が」マラーは自信たっぷりに答えた。

「魂はどうなんだ?」

「これまでメスで身体をさばいて来ましたが、そんなものは見たことがありませんから」

「死体しか調べたことがないからでは?」

「まさか。生きている人間を手術したことだって何度もあります」

「それでも死体と同じく何も見出せなかったのか?」

「そりゃあ痛みなら見出せましたが、あなたの言う魂とは痛みのことですか?」

「では信じていないのだな?」

「何を?」

「魂を」

「信じていますよ。場合によっては生命活動と呼ぶことも出来るのがいい」

「それならいいさ。魂を信じているかどうかを尋きたかったのだ。信じているなら結構」

「少し話し合いませんか。いくらなんでも話が大きくなり過ぎです」マラーはニヤリとした笑みを浮かべた。「私たち現場の人間は実際にあるものしか信じないんですよ」

「二人とも今はすっかり冷え切っているが、生きていた頃の女は美しかっただろうな」バルサモが思いを馳せるように口にした。[*3]

「そうですね」

「この美しい肉体には美しい魂が似合っただろうな」

「創造主の手違いですね。鞘こそ美しいが刀身は醜いものです。この死体はサン゠ラザールでお勤めを終えたばかりのいかがわしい女のもので、脳炎に罹って施療院でその一生を終えました。何処までも恥ずべき経歴が連なっている女ですよ。この女を動かしていた生命活動を魂と呼ぶのは、同じ核を有する我々の魂を愚弄することになる」[*4]

「治療の必要な魂だったのであれば、然るべき医者がいなかったから道を過ったのではないのか。魂の医者が――」

「またそれですか。医者というのは肉体を治すために居るんです」マラーは呆れたような笑みを見せた。「あなたが口になさっているのはモリエールの喜劇でよく使われるような台詞ですよ。あなただって笑っていらっしゃるじゃありませんか」[*5]

「いいや、違うな。俺がどうして笑っているのかもわかっちゃいない。それはともかく、この死体は空っぽだということでいいんだな?」

「空っぽ且つ無感覚です」マラーは女の頭を持ち上げてそのまま落としたが、音を立てて大理石にぶつかっても身体は微動だにしなかった。

「いいだろう。では病院に向かおう」

「その前に、胴体から頭を切り離してもいいですか。これが欲しかったんです、興味深い疾患の根だったわけですから」

「好きにしろ」

 マラーは道具入れからメスを取り出し、傍らにある血の染みがついた大きな木槌を手に取った。

 そうして手際よく首に沿って切開し、首の肉と筋肉を切り離した。骨まで到達すると、脊椎と脊椎の間にメスを入れ、勢いよくメスに木槌を叩きつけた。

 頭が台上を転がり、そのまま床に転がったので、血塗れの手で拾い上げなくてはならなかった。

 バルサモはマラーを喜ばせまいとしてそっぽを向いた。

「近いうちに――」マラーはバルサモの弱みをつかんだと信じて口を開いた。「多くの人間が生について考えるように、博愛主義者たちが死について考えるようになり、これまでの処刑方法では出来ないような、一瞬にして頭部を切り落とし即死させることの出来る装置を思いつくことでしょう。車責めや四つ裂きや縛り首などは野蛮人の拷問であって、文明人のやることではありません。フランスのような文明国でおこなわれるべきなのは、刑罰であって憂さ晴らしではないのです。車責めや縛り首や四つ裂きは、社会が犯罪者に死という罰を与える前に責め苛んで憂さ晴らししているだけであって、それはやり過ぎだと思うんです」

「それには同意しよう。で、どういった器械のことを考えているんだ?」

「法そのものであるような、冷たく感情のない装置のことを考えていました。処刑人とて同胞の姿を目にすれば動揺するし、シャレー伯爵やモンマス公爵の時のようにしくじることも間々あるでしょう。木で出来た二本の腕で刀をふるうような装置であれば、そんな失敗などするはずがありません」[*6]

「後頭部のすぐ下と僧帽筋の間を雷の如き速さで刃が通過するから、死も一瞬のことで、痛みもあっと言う間に過ぎるというのか?」

「死が一瞬で訪れるのは間違いありません。人体を動かしている神経が刃によって一撃で断ち切られるのですから。痛みも一時いっときのことに過ぎません。感覚の大本である脳と、生命の源である心臓が断ち切られるのですから」

「斬首刑はドイツに存在するぞ」

「それは剣を用いたものでしょう。先ほど言ったように、人の手は震える可能性があるんです」

「似たような装置ならイタリアに存在するぞ。装置を作動させる本体は木で出来ていて、マンナイアと呼ばれている」[*7]

「そうなんですか?」

「そうだ。処刑人に首を斬られた殺人犯が、首のないまま椅子から立ち上がり、そこから何歩か先でよろめいて倒れるのを俺は何度も見て来た。マンナイアの下に転がった頭を拾い上げたことも何度もある。お前がいま髪を摑んでいるその頭を、さっき大理石の台の下から拾い上げたようにな。耳許で洗礼名を呼びかけてやると、閉じていた瞼が開いて、目玉がぎょろりと動いた。常世への旅路のさなかに地上から呼びかけるのは誰なのかを確かめようとでもしているようだったぞ」

「ただの神経反応じゃありませんか」

「神経は感覚器官ではないのか?」

「それがどうしたんですか?」

「罰として殺す装置ではなく、殺さずに罰する方法を見つけるべきだというのだ。その答えを見出せた社会こそ、このうえなく啓かれた社会となるはずだ」

「また理想論ですか! 理想論ばかりだ!」

「今回ばかりはお前が正しいのかもしれんな。いずれ時が明らかにしてくれるだろう……それはそうと病院だったな?……行くとしようか」

「行きましょう」

 マラーはポケットから出したハンカチで女の頭部をくるみ、しっかりと四隅を縛った。

「これでよし」マラーはほくそ笑んだ。「あいつらはせいぜいおこぼれでも手に入れればいい」

 二人は施療院に向かった。夢想家と実践家は並んで歩いていた。

「随分と落ち着いて手際よく首を切り離したじゃないか。生きている人間の場合には死人の場合よりさらに冷静になれるのか? それとも苦しまれる方が何の反応もない時より心乱れるのか? 死体よりも生きた肉体に憐れみを感じるのか?」

「いいえ、それでは動揺した処刑人と同じ過ちを犯してしまいます。不器用に腿を切るのも不器用に首を切るのも、人を殺してしまうという点では同じこと。優秀な外科医なら心ではなく手で手術しなくてはなりません。もちろん心の中ではわかってはいるんですよ、一瞬の痛みと引き替えに何年もの命と健康をもたらすことになるのは。そこはこの職業のいいところではありませんか?」

「まったくだ。だがそうなると、生きている人間の身体の中で魂に出くわしたりはしないのか?」

「ええ、魂というのが生命活動や肉体の感覚のことだというのであれば、その通り、出くわしていますし、厄介というほかありません。外科医のメスよりたくさんの患者を殺してしまうのですから」

 施療院の入口に着いた二人は中に入った。頭部を持ったままのマラーに導かれて、バルサモは手術室に潜り込んだ。そこには外科主任と外科医生たちがいた。

 先週大型馬車に轢かれて足を砕かれた青年が、看護婦たちによって運び込まれて来たところだった。麻痺した足に施した応急処置が不充分だったため、痛みが急速に広がり、一刻を争って切断手術をする必要に迫られたのだ。

 患者は寝台の上から痛みに苦しみながら、虎をも同情させるような恐怖を浮かべて見つめていた。目の前には、苦悶の瞬間を、恐らくは断末魔の瞬間を今か今かと窺っている一団がいた。背後に死というおぞましい現象を潜ませている生命という驚異的な現象を科学するのが目的なのだろう。

 患者が期待していたのは、外科医や学生や看護婦たちの慰めや微笑みや優しさだったのだろう。だがいずれを見ても目に入ったのは、期待に反して冷たさであり、鋼のように見つめ返す眼差しだけであった。

 わずかに残った勇気と自尊心によって、声をあげるのは留まった。間もなく痛みで絶叫することになるのだから、力はすべてその時のために取っておけ。

 だが看護婦の手がなだめるように肩にずしりと乗せられたのを感じ、学生たちの腕がラオコーンに絡みつく蛇のように絡みつき、外科医が「しっかり!」と声をかけたのを耳にすると、患者は思わず沈黙を破り、呻くような声でたずねていた。

「かなりつらい手術になるのでしょうか?」

「そんなことはない。気を楽に」マラーが作り笑いを見せた。それは患者にはいたわるような笑みに見え、バルサモには皮肉に見えるような笑みだった。

 バルサモに意図が伝わったのを見て、マラーは近寄って囁きかけた。

「手術自体が難しいのです。骨が粉々で、激しい痛みを伴うでしょう。怪我のせいではなく痛みのあまり死んでしまいます。今は生きているこの患者に、魂がもたらすものがこれなんですよ」

「ならどうして手術をするんだ? 穏やかに死なせてやればいいじゃないか」

「たとい絶望的でも、助けようとするのが医者の務めですから」

「つらい手術になると言ったな?」

「それはもう」

「魂のせいでか?」

「肉体に寄り添いすぎる魂のせいです」

「だったらどうして魂に手術しない? 魂を安らかにしてやれば、肉体だって救われるだろう」

「私がしたのもそういうことです」マラーがそう言っている間にも、患者は順調に固定されていった。

「既に魂に触れておいたと?」

「ええ」

「どうやって?」

「もちろん言葉によって。魂や、智性や、感覚や、ギリシアの哲学者に『痛みよ、汝は悪ではない!』と言わしめたものに対して、それに相応しい言葉を掛けておきました。『つらい手術にはならない』と伝えたのを聞いていたでしょう? 後は魂に出来るのは苦しまないことだけです。魂の問題に関して、これがそれまで知られていた治療法でした。まやかしもいいところだ! どうして魂って奴はこんなにも肉体(corps)に縛られているんでしょう? 先ほど首を切り落とした時、肉体は悲鳴一つあげませんでした。それなのに切断したことで重大な事態を引き起こしたのです。何ということか、あなたがた精神主義者の言う通りに、動きは止まり、感覚は失せ、魂は飛び去ってしまいました。それ故に切り落としている間も首は何も言わず、切り離されている間も身体(corps)はそれを止めようとしなかったのです。それに引き替え、この患者の肉体にはまだ魂が宿っています。残された時間はわずかとは言え、確かにまだ宿っているのです。魂が宿っている限りは、間もなく肉体は恐ろしい悲鳴をあげることになるでしょう。耳を塞いだ方がよくはありませんか? 魂と肉体の結びつき方を気にしておいでのようですし、魂から肉体を分離できるその日まで、あなたの理論は永久に息の根を止められてしまいますよ」[*8]

「そんな日は来ないと思っているのか?」

「確かめてご覧になればいい。いい機会なのですから」

「そうだな。いい機会だ。是非やってみよう」

「確かめてみると?」

「ああ」

「いったいどうして?」

「この若者をつらい目に遭わせたくない。気になってな」

「確かにあなたは偉大な指導者ですが、父なる神でも子なる神でもない以上は、痛みから解放させられるとは思えません」

「痛みを感じなければ助かると思うか?」

「可能性はありますが、明言はしかねます」

 バルサモは得意げな眼差しをマラーに向けると、若い患者の前に立ち、恐怖に怯えて涙ぐんでいる目を見つめた。

「眠れ」その言葉を発したのは口だけではない。眼力と意思と、ありったけの血のたぎりと全身の霊気の込められた言葉だった。

 外科医が患者の腿に触れ、怪我の状態を医学生たちに確かめさせているところだった。

 だがバルサモが命じると、患者は身体を起こし、学生たちの腕の中で震えた後で、頭を垂れて目を閉じた。

「気絶してしまった」マラーが言った。

「そうではない」

「意識を失ったのがわからないのですか?」

「眠っているだけだ」

「眠っている?」

「そうだ」

 この飛び入りの医者を思わず見つめる者たちの目には、狂人を見るような色が浮かんでいた。

 マラーの口唇に疑わしげな微笑がよぎった。

「気絶している人間が会話を交わすことが出来るか?」バルサモがたずねた。

「出来ませんね」

「では何かたずねてみろ、答えが返って来るはずだ」

「もしもし!」

「そんな大声を出さずともよい。普通の声で話してみろ」

「どうなさったのか教えてもらえますか?」

「眠れと命じられたので、眠りました」と患者が答えた。

 その声は極めて穏やかで、直前に聞いた声とは実に対照的だった。

 医者たちが顔を見合わせた。

「自由にしてやってくれ」

「無理だ」外科医が答えた。「ちょっとでも動けば、手術は失敗してしまう」

「動いたりはしない」

「保証できない」

「俺と患者が保証する。本人に訊いてみればいい。自由にしても構わんな?」

「構いません」

「動かないと約束してくれるか?」

「動くなと命じられれば、約束します」

「では、命じよう」

「それだけ断言されると試してみたくなってきたな」外科医が呟いた。

「そうすればいい。恐れることはない」

「自由にしてやってくれ」

 外科医の指示に医学生たちが応じた。

 バルサモが枕元に移動した。

「今この瞬間から、命令があるまで動いてはならん」

 墓上に横たわる彫刻とて、この命令を聞いた患者ほどこちこちにはならなかったであろう。

「では手術を始めてくれ。患者の準備は整った」

 外科医はメスを握ったものの、いざ使おうとしたところで躊躇いを見せた。

「切れ。いいか、切るのだ」バルサモの声には、啓示を受けた預言者のような響きがあった。

 とうとう外科医も、マラーや患者や学生たちと同じく圧倒され、メスを皮膚に近づけた。

 皮膚が大きく口を開いたが、患者は息一つ吐かず、身動き一つしなかった。

「出身は?」バルサモがたずねた。

「ブルターニュです」患者は微笑んで答えた。

「故郷が好きか?」

「いいところですよ!」

 外科医はこの間も輪切り状に切開を続けていたので、だんだんと骨が露わになって来た。

「小さい頃に離れたのか?」

「十歳の時です」

 切開が終わり、外科医は骨に鋸を近づけた。

「バッツの浜子が仕事上がりに口ずさむ歌を歌ってくれないか。出だししか覚えてないんだ。

 灰汁の浮かんだおいらの塩に、というやつだ」[*9]

 鋸が挽かれた。

 だが患者はバルサモの頼みに応えて微笑むと、抑揚をつけてゆっくりと歌い始めた。それもまるで恋する人か詩人かのようにうっとりとした表情を浮かべて。

 

 灰汁の浮かんだおいらの塩にぃ
 空の色したおいらの海にぃ
 煙る泥炭をおいらの窯にぃ、
 おいらの蜜入り焼き菓子にぃ、

 おらが女房と、老いた親父にぃ
 おいらの愛しい子供らにぃ、
 香る金雀枝エニシダに見守られて
 眠りについてるおっ母の墓にぃ、

 幸あれかし! 仕事も終わって
 ねぐらに着けば、
 苦労の後にゃあ喜びがある
 我が家に戻りゃあ愛がある。

 

 足が手術台に落ちても、患者はまだ歌っていた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CV「Le corps et l'âme」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月15日・16日(連載第104回・105回)。


Ver.1 11/06/25
Ver.2 22/05/29

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[註釈・メモなど]

 ・メモ

[更新履歴]

・22/05/22 「Si je dois y réussir, si l'orgueil ne l'a pas déjà emporté en vous sur tout autre sentiment, j'y réussirai en une heure.」従属節二つと主節なので、「上手く行けば、自惚れに襲われることは二度とあるまい。一時間で済む」 → 「もし成功の目があり、まだ自惚れに侵蝕されていなければ、一時間後には正してみせよう」に訂正。

・22/05/22 「je vais à mon amphithéâtre,」の「amphithéâtre」とは、ここでは「解剖講堂」のこと。旧パリ医学部の解剖講堂。「教室に行って」 → 「解剖講堂に行って」に訂正。

・22/05/22 「à la porte du palier」の「palier(英語のlanding)」は間違いやすい単語として有名で、「踊り場」ではなく「階段を上った/下りたところにある水平な場所」のことなので、「バルサモは正確だった。翌朝六時には踊り場の扉を叩いていた。コルドリエ街にある古ぼけた家の最上階、扉が六つ並んだ長い廊下の真ん中だ。」 → 「バルサモは時間に正確だった。翌朝六時にはコルドリエ街にある古家の最上階、扉が六つ並んだ長い廊下の真ん中にある扉を叩いていた。」に訂正。

・22/05/22 「commode à dessus de bois」この「dessus」は名詞で、ここでは「天板」の意であろう。「木製の台に乗った整理箪笥」 → 「木製天板の張られた整理箪笥」に訂正。

・22/05/23 「à la vue de ~」=「~を見て」なので、「親方に目撃されて」 → 「親方の姿を目にした」に訂正。

・22/05/29 「pourquoi m'effrayerais-je ?」、主語は「私」なので、「どうして人は動かない肉体を恐れるのでしょうか?」 → 「私には怯える理由もありませんし、動かぬ肉体を恐れる理由もありません。」に訂正。

・22/05/29 「– J'y crois, parce que je suis libre de l'appeler le mouvement, si je veux.」の「être libre de 不定詞」は「自由に~できる」の意味なので、「信じています。出来ることなら、生命活動と呼ばれるものから自由でいたいですから」 → 「信じていますよ。場合によっては生命活動と呼ぶことも出来るのがいい」に訂正。

・22/05/29 「– Une belle âme eût certes bien été à ce beau corps.」。「avoir été = être allé」で通常「行った」の意味になるが、ここでは「avoir bien été = être bien allé」として「似合った」の意味で用いられていると判断し、「美しい魂がこの美しい肉体に宿っていたのではないか」 → 「この美しい肉体には美しい魂が似合っただろうな」に訂正。

・22/05/29 「Marat fut obligé de la ressaisir de ses mains humides.」。「humide」とあるが、単に濡れているわけではなく、血に濡れているのであろう。「濡れた手で拾い上げなくてはならなかった」 → 「血塗れの手で拾い上げなくてはならなかった」に変更。

・22/05/29 「Elle sera la meilleure et la plus éclairée des sociétés, croyez-moi, la société qui aura trouvé ce moyen-là. 」の主語「Elle」は、長い主語「la société qui aura trouvé ce moyen-là」を受けている。「そうすれば社会はさらによくなり、さらに啓かれることだろう。俺たちの社会でならそうした方法を見つけることが出来ると信じている」 → 「その答えを見出せた社会こそ、このうえなく啓かれた社会となるはずだ」に訂正。

[註釈]

*1. [コルドリエ街]
 rue des Cordeliers。現在のrue de l'École de Médecine。セーヌ川の南、第6区、旧パリ第五大学に面する。[]

*2. [オートフィーユ街]
 rue Hautefeuille。サン゠ミッシェル街と並行し、コルドリエ街及び旧パリ第五大学にぶつかる。[]

*3. [二人とも今はすっかり……]
 新聞連載時はこの章は分載されており、ここから翌日(1847年10月16日)連載分になる。[]

*4. [サン゠ラザール]
 当時サン゠ラザールには監獄があった。[]

*5. [モリエールの喜劇でよく……]
 モリエールには『恋の医者』『いやいやながら医者にされ』『病は気から』等、医者を諷刺した作品が多い。[]

*6. [シャレー伯爵/モンマス公爵]
 シャレー伯爵 Henri de Talleyrand-Périgord, comte de Chalais(1599-1626):ルイ十三世の家臣。リシュリュー暗殺とルイ十三世退位を計画するシュヴルーズ公爵夫人に雇われるも、実行前に発覚し、斬首される。処刑人が未熟だったため斬首には二十回以上の斬撃が費やされた。
 モンマス公爵 James Scott, Duke of Monmouth(1649-1685):英国王チャールズ二世の庶子。ジェームズ二世の即位を不服として叛乱を起こすが果たせず、斬首される。手際が悪いことで知られる処刑人ジャック・ケッチによって処刑され、何度も斧を打ち下ろされた挙句に最後にはナイフで首を切断されたと伝えられる。[]

*7. [マンナイア]
 mannaja, mannaia イタリア語。16世紀頃イタリアで用いられていた、ギロチンの原型となった処刑装置。ギロチンのように刃が斜めにはなっていない。もともとは長柄の大斧、特に死刑執行人の斧を指す。[]

*8. [痛みよ、汝は悪ではない]
 「Douleur, tu n'es pas un mal !」。苦痛を悪としたエピクロス派に対し、ストア派は必ずしも悪とは限らないと説いた。デュマは『モンテ・クリスト伯』第22章でも同じ文章を引用している。「痛みよ、汝は悪しきものならず(泉田武二訳)」。[]

*9. [バッツの浜子/おいらの塩に]
 Batz。ロワール゠アトランティック県にある町。隣接するゲランドともども塩で有名。[]

*10. []
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*11. []
 []

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