この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百二十一章 仮死

 既にお伝えした通り、アンドレはひと息に倒れたわけではない。どのような段階を踏んで倒れたのかは、これから明らかにしていくつもりだ。

 独り取り残されたアンドレは神経系を激しく揺るがされて身体の内側から寒気に襲われていたが、やがて癲癇発作のように痙攣を始めた。

 ジルベールはその場から動けず、前のめりに身を乗り出して硬直したままアンドレを凝視していた。だが催眠磁気のことを知らないジルベールには、眠っているようにも無理強いされているようにも見えなかった。バルサモとアンドレの会話はまったくと言っていいほど聞こえなかった。そうは言ってもアンドレがバルサモの呼び出しに応じるのはタヴェルネに続いて二度目だったから、何らかの謎めいた影響を受けているのは間違いない。要するにジルベールにとってはすべてはこの一言に集約された。『アンドレ嬢には恋人がいるか、少なくとも恋している男がいて、夜中に逢い引きをしているのだ』と。

 アンドレとバルサモの間で交わされたやり取りは小声ではあったものの諍いのように聞こえた。バルサモは絶望に駆られた恋人のように、尋常ではなく取り乱して飛び出して行った。アンドレは見捨てられた恋人のように、一人きり無言で立ちつくしていた。

 アンドレが揺れ出したのはこの時だった。腕をよじって身体を捻ると、潰れた胸を引き裂くような、声にならない喘ぎを幾つか洩らした。アンドレがというよりはその本能が、横暴な霊力の塊を外に吐き出そうとした。催眠にかかっている間中、前の章でご覧にかけたあの千里眼がもたらしていた霊力だ。

 だが本能は敗れ、バルサモの置き土産を振るい落とすことは出来なかった。しっかりと縛り上げられた、人の理解の及ばぬ錯綜した結び目を、ほどくことが出来なかった。むしろ抗おうとしたせいで、かつて三脚台に坐した巫女ピュティアたちが神殿に押し寄せる人々の前で神託を受けた時のように、ひきつけを起こし始めた。

 アンドレはよろめき、痛ましい呻きをあげると、今しも天穹を引き裂いた雷に打たれたかのように、砂利道に向かって倒れ込んだ。

 だがその身体が地面に触れるよりも早く、ジルベールが虎の如き勢いで飛び出していた。両腕で支えた肉体の重さなど意に介さず、アンドレがバルサモから呼び出されるまで過ごしていた寝室に運び込んだ。乱れた寝床の傍らには、まだ蠟燭が燃えていた。

 扉はどれも開けっ放しだった。アンドレが開けたまま外に出たのだ。

 中に入ると長椅子にぶつかったので、ごく当然のように、冷たく意識のないアンドレの身体をその上に横たえた。

 意識のない身体に触れてからというもの、ジルベールは全身が熱くなっていた。神経が震え、血がたぎった。

 それでも、真っ先に頭に浮かんだのは汚れのない純粋な思いだった。何を措いてもこの美しき生ける彫像の息を吹き返さなくてはならない。アンドレの顔に水を掛けようと思い、水差しを目で探した。

 だがその時だった。震える手を水晶壜の細首に伸ばした瞬間、迷いのない忍びやかな足取りが、アンドレの部屋に通じる木と煉瓦の階段を軋ませているような気がした。

 断じてニコルではない。ボーシール氏と逃げたのだから。バルサモでもない。ジェリドに乗って全速力で走り去ったではないか。

 ということは見知らぬ人間だ。

 見つかればジルベールは追い出されるだろう。ジルベールにとってアンドレとは、たとい命を救うためであっても臣下が触れてはならないというイスパニア王妃のような存在だった。

 こうした様々な思いが、吹き荒れる雹のように激しい音を立ててジルベールの心に降り注いだ。それは運命を握る足音が次の段を踏む間すらないほどの一瞬の出来事だった。

 その足音は、だんだんと近づきつつあるというのに、どのくらい離れているのかの判断がつきかねた。それほどまでに空では嵐が唸りをあげていたのだ。だがジルベールは何処までも冷静だし慎重だった。持ち前のそうした性格に囁かれて、その場に留まるべきではないし何よりもまず姿を見られてはまずいと直感した。

 アンドレの部屋を照らしていた蠟燭を素早く吹き消し、ニコルが寝泊まりしていた小部屋キャビネに飛び込んだ。そしてそこから扉のガラス越しに、アンドレの部屋と控えの間に同時に目を凝らした。

 控えの間の飾り台コンソールの上で常夜灯が燃えている。初めジルベールは、これも蠟燭と同じく吹き消そうと考えたが、その暇がなかった。足音が廊下のタイルで鳴り、息を詰めたような呼吸が聞こえ、戸口に人影が現れると、躊躇いがちに控えの間に入り込み、扉を押し戻して閂を掛けた。

 ジルベールはニコルの小部屋に飛び込んでガラス窓のついた扉を引くのがやっとだった。

 ジルベールは息をひそめてガラスに顔を押しつけ、耳をそばだたせた。

 群雲の奥で嵐が厳かな唸りをあげ、大粒の雨が寝室や廊下の窓ガラスに打ちつけた。開いたままだった廊下の窓が蝶番を軋ませ、吹きつける風に徐々に押し戻されて、大きな音を立てて窓枠にぶつかった。

 だが自然の猛威や戸外の物音が如何に恐ろしいものであっても、ジルベールには無関係だった。気持ちと命と魂のすべてを懸けて見ることに意識を集中させ、侵入者から目を逸らすことはなかった。

 侵入者は控えの間を通り抜け、ジルベールの眼前を横切って、迷いなく寝室に入り込んだ。

 侵入者は探り探りアンドレの枕元まで進み、寝床が空なのに気づいて驚いたような動きをした拍子に、テーブルに置いてある蠟燭に腕をぶつけた。

 蠟燭が倒れ、テーブルの大理石の上で水晶の受け皿が割れる音が聞こえた。

 すると、二度にわたって怯えて人を呼ぶ声がした。

「ニコル! ニコル!」

 ――ニコルだって? とジルベールは隠れ場所の奥で自問した。――アンドレの名を呼ぶならともかく、どうしてニコルを呼んでいるんだろう?

 だが応える声がないので、侵入者は床から燭台を拾い上げ、控えの間の常夜灯から火を貰おうとした。

 ジルベールはここぞとばかりに奇怪な夜の訪問者に意識を集中させ、壁を射抜こうとするほどの強い意思を持って目を凝らした。

 途端にジルベールは震え出し、既に隠れているというのに、さらにまた後じさった。

 二つの炎が重なった薄明かりの中で、ジルベールは驚きのあまり震えて意識が飛びかけていた。明かりを手にしている人物のうちに、国王の姿を認めたのである。

 これですっかり説明がつく。ニコルが逃げ出したこと、ニコルとボーシールがやり取りしていたお金のこと、扉が開けっ放しだったこと、リシュリューのこと、タヴェルネのこと、謎めいたあくどい陰謀のこと、そのすべての中心にはアンドレがいたのだ。

 国王がニコルの名を呼んでいた理由もわかった。今回の悪事を仲立ちし、にこやかな顔で主人を裏切り引き渡したユダだったのだ。

 だがそんなことよりも、国王が寝室に何をしに来たのか、これから目の前で何が起ころうとしているのかを考えると、目の前が真っ白になり正気を失いそうだった。

 声をあげて叫び出したかった。だが相手がフランス国王と称される威信に満ちた人物であることを考えると、恐怖という本能的で身勝手な抗い難い感情に囚われて、舌も喉の奥に貼りついてしまった。

 そのうちにルイ十五世は蠟燭を持って寝室に戻って来た。

 寝室に入った国王は、すぐに白モスリンの夜着を羽織ったアンドレに気づいた。アンドレはほとんど何も身につけておらず、頭は長椅子の背にもたれ、片足はクッションに上げられ、もう片方の足は強張って靴も脱げて絨毯に投げ出されていた。

 国王はそれを見て微笑んだ。蠟燭がその翳った笑みを照らした。と思う間もなく、国王の笑みと同じくらい陰鬱な笑みがアンドレの顔を照らし出した。

 ルイ十五世が何事かを呟いた。それはジルベールには愛の囁きに聞こえた。国王はテーブルに灯りを置いて、振り返って燃えさかる空に目を走らせてから、アンドレの前にひざまずき、その手に口づけした。

 ジルベールは額に流れる汗を拭った。アンドレは微動だにしない。

 国王はアンドレの冷たい手の感触に触れ、自らの手で包み込んで温めながら、反対側の腕で美しく柔らかな身体を抱き寄せ、顔を近づけると、眠っている娘の耳に囁くのに相応しいような睦言を耳許に囁いた。

 その瞬間、国王の顔がアンドレの顔に触れそうなほど近づいた。

 ジルベールは身体を探り、上着のポケットに入れてあった剪定用ナイフの柄に触れて息を洩らした。

 アンドレの顔は手と同じように冷たかった。

 国王は身体を起こし、シンデレラのように白く小さな、靴の脱げた足に目を落とした。両手で足を摑んだ国王は、震えだした。アンドレの足は大理石のように冷たかった。

 ジルベールは目の前にさらけ出された美しい身体を見て、まるで自分のものを盗まれるかのように国王の色欲に脅かされて、歯軋りして、それまで畳んであったナイフの刃を開いた。

 だが国王は既にアンドレの足を放していた。触れた手を放した時も近づけた顔を離した時も目を覚まさなかったことが怖くなっていた。初めのうちこそ、アンドレが目を覚まさないのはうわべだけ貞淑ぶっているのだと思っていた。だが身体の隅々まで死んだように冷え切っていることに気づいて、手足や顔がここまで冷たいとなると、果たして心臓がまだ動いているのかどうかが気になり出した。

 アンドレの夜着をはだいて真っ白な胸を露わにし、びくびくとしながらも大胆に、白く引き締まった丸みを持つ石膏のような冷たい肉体に、手を当てて鼓動を確かめたが、応えはなかった。

 ジルベールはナイフを持って飛び出しそうになった。目を見開き、歯を食いしばって、国王がこれ以上こんなことを続けるつもりなら、ナイフで国王を刺してから自分も刺して果てようと心に決めた。

 不意に恐ろしい雷鳴が部屋中の家具を震わせ、ルイ十五世がうずくまっていた長椅子にも震えが走った。次いで金色の差した紫色の稲光が煌めき、アンドレの顔に青白い鮮やかな光を放った。その顔からは血の気が失せ、ぴくりとも動かないうえに声も立てないため、怯えたルイ十五世は尻込みして呟いた。

「間違いない。死んでいる!」

 死体を抱いていたのだと思うと全身の血も凍る思いだった。国王は蠟燭を取り、アンドレのところに戻って来ると震える光の中でよく確かめた。口唇が紫色で、瞳が黒く澱み、髪が乱れ、胸が呼吸でふくらみもしないのを見て、国王は叫びをあげた。灯りを落としてよろめき、酔っ払いのようにふらつきながら控えの間に転がり込み、恐怖のあまり壁にぶつかった。

 やがて慌ただしい足音が階段を降り、庭の砂を踏むのが聞こえて来た。だがすぐに、虚空で渦を巻き野ざらしの木々をたわませていた風が、荒々しく力強いその息吹で以て、物音も足音も掻き消してしまった。

 そこでジルベールはナイフを手にしたまま、物も言わず暗澹たるさまで隠れ場所から抜け出した。寝室の前まで来ると、深い眠りに沈んでいるアンドレをしばらくじっと見つめていた。

 その間も、床に落ちた蠟燭が絨毯に倒れたまま燃え続け、美しい死体の上品な足首や整ったふくらはぎを照らしていた。

 ゆっくりとナイフを畳んでいる間に、ジルベールの顔に避けようのない決心がうっすらと浮かんだ。決心を受けて、ジルベールは国王の出て行った扉から耳を澄ませた。

 まるまる一分以上にわたって耳を澄ませていた。

 それから国王と同じように、扉を閉めて閂を掛けた。

 そして控えの間の常夜灯を吹き消した。

 それが終わるとなおもゆっくりと、目に暗い光を湛えたままアンドレの部屋に戻り、床に流れ出していた蠟燭を踏みつけた。

 不意に訪れた暗闇が、ジルベールの口唇に浮かんだ恐ろしい笑みを掻き消した。

「アンドレ! アンドレ! 言ったはずだろう。三たびこの手に転がり込んで来たら、これまでの二度とは違って逃れられないと言ったはずだ。アンドレ! アンドレ! 僕が書いたと言って貶した小説には、恐ろしい結末しか残されていないんだ!」

 ジルベールは腕を伸ばし、アンドレが横たわっている長椅子に向かって真っ直ぐと進んだ。今も冷たいまま身動きもせず、感覚を奪われたままのアンドレに向かって。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXI「Catalepsie」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月10日(連載第121回)


Ver.1 11/10/01
Ver.2 24/11/27

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[註釈・メモなど]

・メモ
 本章の章題「Catalepsie」は「カタレプシー」「強硬症」などと訳されますが、意味や症状よりわかりやすさを優先して「仮死」としました。

[更新履歴]

・24/11/27 le pas cria sur les carreaux du corridor, une respiration un peu oppressée se fit entendre, la forme d'un homme apparut sur le seuil, se glissa timidement dans l'antichambre, et repoussa la porte, qu'il ferma au verrou. 部屋に入る→扉を押す→閂を掛けるという流れのなかでおこなっている動作をわかりやすくするために、「廊下の舗石で足音が鳴り、息を詰めたような呼吸が聞こえ、戸口に人影が現れると、しずしずと控えの間に入り込み、扉を押して閂を掛けた。」 → 「足音が廊下のタイルで鳴り、息を詰めたような呼吸が聞こえ、戸口に人影が現れると、躊躇いがちに控えの間に入り込み、扉を押し戻して閂を掛けた。」に変更した。

・24/11/27 「」 → 「」

[註釈]

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