バルサモが立ち去ったところまではご覧いただいた通りだ。
ジェリドはバルサモを乗せて閃光のようにひた走った。苛立ちと恐怖で真っ青になっているバルサモは、揺れる鬣に身を伏せて、小さく開けた口から空気を吸い込んでいた。ひた走る船の舳先で水が別れるように、空気は駿馬の胸先で二つに割れていた。
夢でも見ているように、木々や家々が置き去りにされてゆく。車軸の上で軋みをあげているずしりとした荷馬車と通りがけに行き会おうものなら、重さに喘ぐ五頭の馬たちは生身の流星が飛んで来るのを見て怯え、よもやそれが自分たちと同じ種族であるとは思いもしなかったに違いない。
バルサモはそのようにして一里近くを進んだ。火が出るほどに頭を悩ませ、目を爛々と輝かせ、灼熱の息吹を轟々と鳴らしているのを、当今の詩人たちが見れば、火と蒸気の妖精の群れが煙を吐く重い機械を動かし鉄路を飛ばす様子になぞらえたことだろう。
ジェリドとバルサモは瞬く間にヴェルサイユを通過した。通りをうろうろしていた住人が僅かに、光の矢が通り過ぎるのを目にしただけだった。
さらに一里を駆けた。その二里を走破するのにジェリドは十五分もかけなかったが、バルサモにはそれが一世紀にも思えた。
不意にバルサモはある思いに駆られた。
足を強張らせて、鋼の筋肉を持つ駿馬を急停止させた。
ジェリドが後脚を折り曲げ、前脚を砂にめり込ませた。
バルサモとジェリドは束の間息を吐いた。
呼吸を整えつつバルサモは顔を上げた。
ハンカチをびしょびしょのこめかみに押し当て、風の流れに鼻をふくらませ、闇の中でこんな言葉を洩らした。
「どうかしちまったのか! いくら馬を走らせようと、いくら思いを募らせようと、雷や電光ほど速く進めるわけもないのに。だが間違いなく、頭上にぶら下がっている災厄を避けるためには必要なことなのだ。あの足が動き口が開くのを止めるためには、即効性、瞬発力、無敵の強さが必要なのだ。だから遠くまで催眠を効かせなければ。そうすれば鎖を断ち切った囚われ人を連れ戻すことが出来る。いずれ俺の手の内に取り戻せたら……」
バルサモは絶望に身をよじらせて歯軋りした。
「糞ッ、いくら念じても無駄だよ、バルサモ。いくら走ってももう遅い。ロレンツァはとっくに到着して何もかもぶちまけるところだろうさ。ことによるともうぶちまけた後かもしれない。糞ッたれめ、どんな罰を与えても足りないくらいだ」
バルサモは眉を寄せ、宙を睨み、顎に掌を当てた。「いいだろう、科学とはただの言葉か、それとも現実か。実現可能なのか、ただの空論なのか。やってやろうじゃないか……さあどうだ……ロレンツァ! 俺はおまえを眠らせてやる。ロレンツァ、何処にいようとも、眠れ、眠るんだ。頼むから眠ってくれ!」
「いや、違う」バルサモは力なく呟いた。「違う、今のは噓だ。信じちゃいない。頼みにするなんてどうかしている。俺にはやっぱり意思しかないんだ。やはりこの俺が、断固として望むのだ。俺という存在の持てる力のすべてを懸けて望むのだ。空気を切り裂いて進め、人智を越えた俺の意思よ! 邪魔する意思や無関係な意思の流れを蹴散らして進め。弾丸のように壁を貫いて進め。何処までも追いかけてゆけ。打て、叩きのめせ! ロレンツァ、ロレンツァ、眠るんだ! ロレンツァ、その口を閉じておけ!」
バルサモは狙いを定めてしばし思念を巡らせ、弾みをつけてパリに飛ばす準備でもするかのようにその思念を脳に刻み込んだ。こうして霊妙な施術をおこなえば、あらゆるものの神と主と支配者に生命を与えられた神聖なる原子が力を貸してくれる。そのあとバルサモはまたも歯を食いしばり、拳を固め、ジェリドの手綱を取ったが、今度は膝で挟んだり拍車で打ったりすることはなかった。
バルサモは自分自身を納得させたがっているように見えた。
どうやらジェリドは無言の指示を感じ取り、緩やかに脚を進めた。名馬の血筋に相応しく優雅に、重さなどないくらいにほとんど音も立てずに舗道に脚を置いて歩いていた。
もっとも、一見するとその間じゅう放心しているように見えるバルサモだったが、その実、対抗策をしっかり練っていたのである。ジェリドがセーヴルの舗道を踏んだ時には答えが出ていた。
公園の鉄門の前まで来ると、馬を停めて、待ち人でも捜しているように周囲に目を走らせた。
なるほど、間もなく正門の下から人影が現れ、バルサモに近づいて来る。
「お前か、フリッツ?」
「そうです」
「確認は終わったか?」
「はい」
「デュバリー夫人はパリとリュシエンヌどちらにいる?」
「パリです」
バルサモは勝ち誇ったように天を仰いだ。
「此処にはどうやって?」
「シュルタンに乗って来ました」
「今は何処に?」
「あの宿屋の中庭です」
「鞍はつけてあるな?」
「つけてあります」
「よし、準備してくれ」
フリッツはシュルタンの綱を解きに行った。忠実で気性のいいことで知られるあのドイツ馬である。無理をさせられれば多少の不満は表すものの、肺に空気がなくなったり乗り手が拍車を休めたりしない限り、前に進むことをやめようとはしない。
フリッツが戻って来た。
バルサモは街灯の下で何か書き記していた。偶蹄税の徴税吏たちが税処理のために一晩じゅう灯してある街灯だ。[*1]
「パリに戻ってくれ。デュバリー夫人が何処にいようとも、直接この手紙を渡すんだ。三十分やる。そのあとサン゠クロード街に戻って、シニョーラ・ロレンツァを待っていろ。必ず戻って来る。何も言わず何の邪魔もせずに通してやるんだ。では行け、忘れるなよ、
「心配ご無用。必ずや刻限までに」
こう答えてバルサモを安心させるや否や、シュルタンに拍車と鞭をくれた。するとシュルタンはいつになく荒々しい合図に驚いたように、痛ましいいななきをあげて走り出した。
バルサモはというと、少しずつ落ち着きを取り戻しつつパリへの道を進み、四十五分後には冷やかにも見える顔でパリに入った。目は穏やかというよりは物思いに沈んでいた。
バルサモは正しかった。砂漠の申し子であるジェリドの足がどれだけ速くとも間に合わない。牢獄から逃げ出したロレンツァに追いつけるのは意思の速さだけだ。
サン゠クロード街から出たロレンツァは、大通りに行き当たり、右に曲がるとやがてバスチーユ要塞が見えた。だがずっと閉じ込められていたロレンツァにはパリのことがわからない。それに、逃げることが第一だったのだ。牢獄としか思えないあの忌まわしい家から逃げることに比べれば、復讐は二の次だった。
そうしてわけもわからず大急ぎでフォーブール・サン゠タントワーヌに駆け込んだところで、若い男に声をかけられた。ロレンツァの様子を不審に思ってしばらく前から追いかけて来たらしい。
なるほどロレンツァはローマ近郊のイタリア人であったので、当時の習慣や服装、それに流行から外れた独自の生活をずっと営んで来た。だから着る服も欧州の女ではなく東洋の女のようだった。つまり、決まってゆったりとした、着ぶくれしたような衣服を纏っており、雀蜂のように腰を絞った人形みたいな娘たちとはあまり似ていなかった。揺れ動く絹やモスリンの下には現実の肉体などないかのように見せたがっている娘たちとは、あまり似ていなかったのである。
だからロレンツァが処分せずに採り入れていたフランスの流行り物は、二プスのハイヒールだけであった。足を反らせ足首を上品に見せるこの耐え難い代物のせいで、神話らしいところなどないこの世紀に於いても、アルペイオスに追いかけられたアレトゥーサは逃げることが難しかった。[*2]
つまり件のアルペイオスが我らがアレトゥーサに追いつくのは容易かったのである。繻子とレースのスカートから伸びた見事な足、髪粉のつけられていない髪、頭から首まで覆ったケープから覗く異国の炎に燃えた瞳。そんなロレンツァを見て、さては変装して仮装舞踏会か逢い引きに向かう途中に違いない、辻馬車が見つからず歩いて郊外の家まで行くつもりなのだと考えたのも無理からぬことである。
そこで男はロレンツァのそばまで寄って帽子を取った。
「お待ちなさい。そんな歩きづらい靴を履いていては、とても遠くまでは行けませんよ。馬車のあるところまで腕をお貸ししますから、どうかご案内させて下さい」
ロレンツァは慌てて振り返り、たいていの女性には無礼に感じられそうな申し出を口にした男を、黒く吸い込まれそうな目で見つめると、立ち止まったまま答えた。
「お願い出来ますか」
若い男が慇懃に腕を差し出した。
「どちらまで?」
「警察長官の邸まで」
若者が震え上がった。
「サルチーヌ氏のところに?」
「名前は知りません。ただ警察長官とお話ししたいんです」
若者は考え込み始めた。
若くて美しいご婦人が、異国風の服装をして、夜の八時に腕に小箱を抱えてパリの街路を走り、警察長官の邸をたずねていながら、反対方向に向かっているのがどうにも疑わしい。
「警察長官の邸はここらへんではありませんよ」
「では何処に?」
「フォーブール・サン゠ジェルマンです」
「フォーブール・サン゠ジェルマンにはどうやって行けばいいのでしょう?」
「ここからなら――」若者の昂奮は収まっていたが、丁寧な態度は崩さなかった。「馬車を拾った方がいいでしょう……」
「馬車。仰る通りね」
若者はロレンツァを大通りまで連れて戻ると、辻馬車を見つけて声をかけた。
馭者が合図に応えてやって来た。
「どちらまで、マダム?」
「サルチーヌ氏の邸まで」若者が答えた。
若者は最後まで礼儀を忘れずに、いや、驚きを隠せずに扉を開け、ロレンツァにお辞儀して乗り込むのに手を貸してから、馬車が遠ざかってゆくのを夢か幻でも見ているように見つめていた。
馭者はその名前に恐れを成して、馬に鞭をくれて目的地に向かって走らせた。
ロレンツァがロワイヤル広場を通り抜け、アンドレが催眠状態の中で見聞きしたロレンツァの行動をバルサモに知らせていたのは、こうした時であった。
二十分後、ロレンツァは邸の門前にいた。
「待っていましょうか?」馭者がたずねた。
「お願い」ロレンツァは機械的に答えた。
そして軽やかに、立派な邸の正門をくぐり抜けた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXII「La volonté」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月11日(連載第122回)
Ver.1 11/10/15
Ver.2 24/12/28
[註釈・メモなど]
・メモ
※バルサモの足取り:ヴェルサイユ→セーヴル(Sèvres)→パリ。
※公園:サン=クルー公園?(Parc de Saint-Cloud)?
[更新履歴]
・24/12/28 Balsamo fit ainsi une lieue à peu près, avec un cerveau tellement enflammé, des yeux si étincelants, un souffle si embrasé et si sonore, que les poètes de ce temps-ci l'eussent comparé aux redoutables génies gros de feu et de vapeur qui animent ces lourdes machines fumantes, et les font voler sur un chemin de fer. 「ce(s) temps-ci」は、「当時の」ではなく「近ごろ、最近」の意なので、「バルサモはそのようにして一里近くを進んだ。頭を燃え上がらせ、目を爛々と輝かせ、音を立てて燃え上がるその喘ぎを見れば、当時の詩人なら、煙を吐く巨大な機械を火と蒸気の恐ろしい怪物たちが動かして鉄路を疾走させている光景と比較したことであろう。」 → 「バルサモはそのようにして一里近くを進んだ。火が出るほどに頭を悩ませ、目を爛々と輝かせ、灼熱の息吹を轟々と鳴らしているのを、当今の詩人たちが見れば、火と蒸気の妖精の群れが煙を吐く重い機械を動かし鉄路を飛ばす様子になぞらえたことだろう。」に訂正。
・24/12/28 Celui-ci écrivait sous la lanterne que MM. les commis du pied fourché tenaient allumée toute la nuit pour leurs opérations fiscales. 「commis aux aides」で「徴税人」、「droit du pied fourché」で「偶蹄税」。偶蹄税とは、アンシャン・レジーム下で、牛・羊・豚などの偶蹄目の畜産家畜がパリなどの市に入る際に市門で課せられた税金。「家畜店の店員たちが税金を計算するために一晩中灯している街灯の下で、バルサモは何か書いていた。」 → 「バルサモは街灯の下で何か書き記していた。偶蹄税の徴税吏たちが税処理のために一晩じゅう灯してある街灯だ。」に訂正。
・24/12/28 Lorenza n'avait donc conservé ou plutôt adopté du costume des Françaises d'alors que les souliers à talons de deux pouces de haut, cette impossible chaussure qui faisait cambrer le pied, ressortir la délicatesse des chevilles, et qui, dans ce siècle tant soit peu mythologique, rendait la fuite impossible aux Aréthuses poursuivies par les Alphées. 冠詞なしの「peu」なので「少ししか~ない」である。「この耐え難い靴ときたら足も反るしくるぶしもすぐ痛くなるしで、この神話じみた世紀にあってアルペイオスたちに追われて逃げるアレトゥーサたちに耐え難い思いをさせていた。」 → 「足を反らせ足首を上品に見せるこの耐え難い代物のせいで、神話らしいところなどないこの世紀に於いても、アルペイオスに追いかけられたアレトゥーサは逃げることが難しかった。」に訂正。
・24/12/28 「」 → 「」
・24/12/28 「」 → 「」
・24/12/28 「」 → 「」
[註釈]
▼*1. [偶蹄税]。
偶蹄税とは、アンシャン・レジーム下で、牛・羊・豚などの偶蹄目の畜産家畜がパリなどの市に入る際に市門で課せられた税金。[↑]
▼*2. [アルペイオス/アレトゥーサ]。
ギリシア神話。河の神アルペイオスはニンフのアレトゥーサに恋をした。追いかけられたアレトゥーサは汗とともに水となって流れ落ち、やがて泉となった。[↑]
▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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