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翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第百二十九章 愛

 バルサモにとって新しい人生が始まっていた。それまではこれほど生き生きとして胸が苦しく豊かな生活など知らなかった。三日前から怒りも不安も嫉妬もなく、三日前から政治の話も陰謀の話も謀叛の話も耳に入れなかった。ロレンツァのそばを一瞬たりとも離れずに、外の世界のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。感じたことのないこの激しい恋情は、人間の世界の遙か上空を飛んでいたと言ってもいい。恍惚と神秘に満ちた、幻のような恋――というのも、優しい恋人を容赦ない敵に変えるにはたった一言あればいいという事実から目をそらすことは出来なかったから――自然と科学の不思議な気まぐれのおかげで憎しみから剥がれ落ちたこの恋は、忘我と熱狂にまみれた幸福のうちにバルサモを引き込んでいた。

 この三日の間、幾度となく、恋の麻薬に満たされたまどろみから目醒めては、微笑みを絶やさずいつも陶然としている恋人を見つめていた。今後ロレンツァは、恍惚という偽りの眠りがもたらす偽りの人生から、バルサモが作り上げた存在に生まれ変わったのだ。バルサモは穏やかで淑やかで幸せそうなロレンツァが、とろけそうな名前で何度もバルサモに声をかけ、官能的な歓びを声に出して夢うつつに呟いているのを見つめては、幾度となく自問していた。神の秘密を盗もうとした現代の巨人に、神は気を悪くしやしなかっただろうか。警戒を解くために嘘で丸め込んでしまえという考えを、神はロレンツァに吹き込まなかっただろうか。警戒が解かれれば逃げ出して、復讐の女神エウメニデスとして舞い戻って来ればいいとそそのかさなかっただろうか。

 そんなことを考えていると、古代から連綿と受け継がれて来た証拠と云っては目の前の実例しかない、この科学の叡智に懐疑を覚えた。

 だがやがて、そうした絶え間ない炎、触れ合いを求める思いによって、むしろ落ち着きを取り戻し始めた。

「ロレンツァが本心を隠し、逃げようと考えているのなら、俺を遠ざける機会を窺って、一人になる口実を作り出すはずだ。だが現実にはそんなことなく、ロレンツァの両腕は鎖のように俺にしがみついているじゃないか。それに燃えるような目が『行かないで』と訴えているし、優しい声は『ここにいて』と囁いているじゃないか」

 こうしてバルサモは己自身と科学に対する自信を取り戻した。

 実際のところ、バルサモの力の源泉である魔術の極意が、何の予兆もなしに突然、思い出せなくなった記憶や火の消えた後の煙のように、吹けば飛ぶような幻になってしまったということがあり得るだろうか? ことバルサモに関して、ロレンツァがこれほど冴え渡り、これほど物事を見抜いたことはなかった。頭の中に形作られる思考と、心を震わせる感情を、ロレンツァは瞬時に再生していた。

 ロレンツァが鋭いのは透視力ではなく共感しているからに過ぎないのかどうかは今のところわからない。バルサモとロレンツァの外側、光に溢れた二人の愛によって縁取られた輪の外側で、新たなエヴァの堕落前にあれほど鋭かった心の目が、以前と同じように闇を射抜くことが出来るかどうかは今のところわからない。

 バルサモは敢えて確認しようとはせず、希望を持ち続けていた。希望を抱いている限りは、自らの幸せの上に星の王冠を輝かせていられる。

 時々、ロレンツァがうっとりするような愁いをたたえてバルサモに声をかけた。

「アシャラ、ほかの女のことを考えているでしょう。金色の髪をした、青い目の北部の女。いつもあなたの頭の中で私のそばを歩いているその女は誰なの?」[*1]

 バルサモが優しい眼差しを向けた。

「では俺の心が見えるのか?」

「ええ、鏡に映すようにはっきりと見える」

「だったら俺がこの女を愛しているかどうかもわかるだろう。ほら、俺の心を読むんだ、ロレンツァ!」

「嫌よ」ロレンツァは首を振った。「それはわかってるの。だけどあなたは考えていることを今も二人で共有させているでしょう? ロレンツァ・フェリチアーニがあなたを苦しめていた頃と同じように。今は眠りに就いていて、あなたが目覚めさせたがらない、あの生意気なロレンツァの頃と同じように」[*2]

「違う、そうじゃない。少なくとも心の底から考えているのはおまえのことだけだ。確かめてくれ、何もかも頭から追い出したんだ。幸せが訪れてからは、研究も政治も実験も、何もかも捨て置いたんだ」

「それが間違ってる。私も実験を手伝えるのに」

「何だと?」

「言った通り。以前なら一日中研究室に閉じ籠もっていなかった?」

「確かにな。だが無駄な努力はやめた。それだけの時間が割かれていては、その分おまえに会えないからな」

「だったらどうして、愛だけじゃなく仕事にも付き合わせてくれないの? 幸せだけじゃなく、力を与えることも出来るのに」

「おまえが美しいのは確かだが、日々を研究に捧げて来たわけではないからだ。美と愛は神が生み出したものだが、科学を生み出すのは日々の研究のみなのだ」

「魂になら何もかも見通せます」

「つまりおまえは確かに魂の目でものを見ているんだな?」

「ええ」

「賢者の石の探究に貢献できるんだな?」

「そのつもりです」

「いいだろう」

 バルサモはロレンツァの腰に腕を回し、研究室に連れて行った。

 四日前から何の管理もされずにいた巨大な炉からは火が消えていた。

 窯の上の坩堝もすっかり冷えてしまっている。

 こうした奇怪な道具類を――つまり錬金術という消えゆく技術の最後の化合物を見ても、ロレンツァには驚いた様子もなかった。まるで用途を知っているかのような落ち着きぶりだ。

「黄金を作ろうとしているの?」ロレンツァが微笑みをたたえてたずねた。

「そうだ」

「坩堝ごとに調合を変えて試薬を入れているのね?」

「すべて火は消え、無駄になった。だが惜しくもない」

「それはそうでしょう。あなたの黄金とやらは、色のついた水銀にしかならないもの。固体にすることは出来ても、成分を変えることは出来ない」

「それでも黄金を作ることは可能なんだろう?」

「いいえ」

「だがトランシルヴァニアのダニエル(Daniel de Transylvanie)は、卑金属の精錬法をコジモ一世(Cosme Ier)に二万デュカートで売ったのだぞ」[*3]

「トランシルヴァニアのダニエルはコジモ一世を騙したんです」

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「ではサクソンのペイケン(le Saxon Payken)はどうだ。チャールズ二世に死刑を宣告されたものの、鉛の塊を金塊に変えて命を買い戻したのだぞ。その金塊からは四十デュカート取れただけでなく、腕利きの錬金術師を讃えるメダルを鋳造するだけの黄金が取り出せたのだ」

「その腕利きの錬金術師は腕利きの奇術師でした。鉛の塊を金の塊とすり替えたに過ぎません。確実に黄金を作ろうと思ったら、アシャラ、あなたがやったように、信奉者に世界中から集めさせた財産を鋳つぶすしかないんです」

 バルサモはじっと考え込んでいた。

「では金属の性質を変えることは不可能なのか?」

「不可能です」

「だがそれならダイヤは?」バルサモは思い切ってたずねた。

「ダイヤは別です」

「ではダイヤを作ることは出来るんだな?」

「ええ。ダイヤを作るのは成分を変えるわけではないもの。元々ある元素の組み立て方を変えるだけでいいんです」

「ダイヤが何の元素で出来ているのかも知っているのか?」

「もちろん。ダイヤモンドとは純粋な炭素の結晶です」

 バルサモは呆然としたままだった。驚くほどにまばゆい光が目に浮かび、その光に目が眩んだかのように両手で顔を覆った。

「ハハッ! 噓だろう? あまりにも出来過ぎで、怖いくらいだ。神よ、どれほどの指輪を海に捧げれば、嫉妬せずにいてくれますかね? 充分だよ、ロレンツァ、今日はもう充分だ」

「私はあなたのものではないの? そうしたいのなら、命令するだけでいい」

「そうだな。来るんだ」

 バルサモはロレンツァを研究室から連れ出し、毛皮の部屋を通り抜け、頭上から聞こえる軋み音は無視して、鉄格子のついた部屋に戻った。

「どう? あなたの望むロレンツァだったでしょう? バルサモ」

「むう!」

「何を恐れていたの? 教えて」

 バルサモは両手を組んでロレンツァを見つめた。バルサモの顔には恐怖の色が浮かんでいたが、心を読めない人間ならばようやく気づくか気づけないかというほどの表情でしかなかった。

「糞ッ! 俺はこの天使を殺すところだったのか。絶望で死なせてしまうところだったのか。幸せであると同時に全能の力も手放さないという問題の解決を諦めるところだった。俺としたことが忘れていたよ。可能性の限界ってヤツは、現状の科学によって引かれた境界の壁をいつだって超えてゆくものだってことを。真実ってモノの多くは、現実だとわかる前には、いつだって初めは妄想のように見なされるものだったってことを。俺はすべてを知っているつもりだったが、何一つ知らなかったのだ!」

 ロレンツァが神々しい微笑みを浮かべた。

「嗚呼そうとも、ロレンツァ。こうして造物主のあの人智を越えた計画は実現したのだ。男の肉体から女を生み出し、その二人に一つだけ心を与えると言った通りだった。エヴァは俺のために甦り、エヴァの命は俺が摑んでいる糸に懸かっているんだ! 畜生、一人の人間には重すぎるぜ。恩恵の重みに押しつぶされてしまいそうだ」[*4]

 バルサモはひざまずいて、天使のように美しいロレンツァを敬うように抱きしめた。ロレンツァはこの世のものとは思われぬ微笑みを浮かべていた。

「もう何処へも行くんじゃないぞ。闇を貫くおまえの眼差しの下でなら、俺は安心して生きて行ける。困難な研究もおまえが助けてくれる。いや、おまえが言ったように、それを完成させられるのはおまえしかいないんだ。ひとこと言ってくれるだけで、いとも容易く実りが生まれるはずだ。おまえなら、黄金を作れないのは、黄金とは均質物であり基本元素だからだと教えてくれるし、神がそれを何処に隠したのかを教えてくれる。広い海の底に何百年も飲み込まれたままの宝が何処に眠っているのか教えてくれるだろう。おまえの目を借りれば、真珠貝の中で真珠が玉になるのを見ることが出来るし、人間の思考が肉体という泥の層の下で大きくなるのを見ることが出来る。おまえの耳を借りれば、ミミズが地面に掘っている穴の音も聞くことが出来るし、近づいて来る敵の足音を聞くことも出来る。俺は神のように偉大になり、神よりも幸福になれるんだ。何せ神は天国に対等な仲間も恋人もいない。いくら神が全能でも、一人きりで神性を纏うしかなく、神を神たらしめる全能の力を神聖な仲間と分かち合うことも出来ないのだからな」

 ロレンツァは微笑みを絶やさぬまま、熱烈な愛撫を返した。

「それでも――」まるでバルサモの頭を覗いて、脳の神経が不安に震えているのを読み取ったように囁いた。「それでもやはり不安なのね、アシャラ。あなたが言ったように、私たちの愛が一線を越えても、私から千里眼が失われないかどうかはわからない。でも私が駄目でもあの女がいると思って考え直したんでしょう」

「どの女のことだ?」

「金髪の女。名前を言った方がいいかしら?」

「ああ」

「確か……アンドレ」

「ああ、そうだ。俺の考えを読んだんだな。最後に一つだけ気になっていることがある――おまえの目はどんな空間でも飛んで行けるのか? 物理的な障碍などは無いも同然なのか?」

「試して頂戴」

「手を貸せ」

 ロレンツァはバルサモの手を力強く握り締めた。

「俺について来られるか?」

「何処へでも」

「来るんだ」

 バルサモは頭の中で、ロレンツァを連れてサン゠クロード街を出た。

「ここが何処だかわかるか?」

「山の上です」

「正解だ」バルサモは喜びに震えていた。「何が見える?」

「前ですか? それとも左に? 右に?」

「前だ」

「森と町に挟まれた大きな谷が見えます。その真ん中を川が流れていて、大きな城館の城壁に沿って、地平線の向こうまで続いています」

「間違いない。それはベジネ(Vésinet)の森だ。町はサン゠ジェルマン、城館はメゾン城(château de Maisons)だ。中に入るぞ。真後ろの棟から入ろう」

「入りました」

「何が見える?」

「控えの間に、おかしな恰好をした黒ん坊がいて、お菓子を食べています」

「ザモールだな。先に進もう」

「立派な家具のある広間です。誰もいません。戸口の上には女神とキューピッドが象られています」

「誰もいないんだな?」

「ええ」

「よし、どんどん進むぞ」

「女性用の寝室に着きました。着色されていない花飾りの付いた、青い繻子張りの閨房です」

「ここも空か?」

「いいえ、長椅子に横たわっているご婦人が一人」

「誰だ?」

「少し待って」

「以前に見た覚えはないのか?」

「いえ、デュバリー伯爵夫人でした」

「そうだそうだ。わくわくして来たぞ。何をしているところだ?」

「あなたのことを考えています」

「俺のこと?」

「はい」

「すると、伯爵夫人の考えを読めるのか?」

「ええ。あなたのことを考えていると言ったでしょう?」

「何でまた俺のことを?」

「あなたが約束したから」

「うむ。具体的には?」

「ウェヌスがサッポーに復讐するためパオンに与えた、あの美の水を約束しました」[*5]

「そうだ、まったくその通りだ。それで、考えた結果どうなったんだ?」

「決心しました」

「何を?」

「待って下さい。呼び鈴に手を伸ばしました。呼び鈴を鳴らすと、別のご婦人が現れました」

「茶髪か? 金髪か?」

「茶髪です」

「背は高いか? 低いか?」

「小柄です」

「伯爵夫人の姉妹きょうだいだ。その話を聞き逃すなよ」

「馬車に馬を繋ぐように言っています」

「行き先は?」

「ここです」

「間違いないか?」

「命じた通りになりました。馬と四輪馬車が見えます。二時間後にはここに来るはずです」

 バルサモがひざまずいた。

「二時間後に伯爵夫人が実際にここに来たとしたら、神よ、あなたに望むことなどもう何もない。俺の幸せを憐れんでくれるだけでいい」

「可哀相に。怖がっていたのね?」

「ああ、そうだ」

「何を恐れるというの? 物理的な生活を満たすだけでなく、精神的な生活も成長させるのが、愛というものなのに。溢れる情熱にも等しい愛があれば、神に近づくことも出来るし、神の光を一身に浴びることだって出来るんです」

「嗚呼ロレンツァ、喜ばせてくれるじゃないか」

 バルサモはロレンツァの膝に頭を預けた。

 そうしてバルサモは、幸せに瑕一つないことを証明する新たな証拠を待ち続けた。

 新たな証拠とは、つまりデュバリー夫人の来訪である。

 二時間はあっという間だった。時間の感覚はすっかり失われていた。

 不意にロレンツァが震え、バルサモの手を握った。

「まだ疑っているのね。伯爵夫人が何処にいるか知りたいんでしょう?」

「ああ。その通りだ」

「大通りを全速力で駆けているところ。こっちに来ている。サン゠クロード街に入って、門の前で停まり、戸を叩いています」

 二人が閉じ籠もっている部屋は音の届かない奥まったところにあったので、銅のノッカーで敲く音がここまで聞こえることはないはずだ。

 それでもバルサモは片膝を立て、僅かな物音も聞き逃すまいとした。

 フリッツからの合図に、バルサモは飛び上がった。覚えておいでだろうか、二度叩いたのは重要な来客だという報せだ。

「本当だったのか!」

「確認して来るといいわ、バルサモ。でもすぐに戻っていらして」

 バルサモが暖炉に駆け寄った。

「階段口までお見送りさせて頂戴」

「来るんだ」

 二人は毛皮の部屋まで戻った。

「この部屋から離れるつもりはないな?」

「ええ、ここで待ってる。心配しないで。今の私はあなたを愛しているロレンツァだもの。あなたが恐れているロレンツァとは別人。何なら……」

 ロレンツァは口を閉じて微笑んだ。

「何だ?」

「私とは違って、あなたには私の魂が見えないのでしょう?」

「もちろんだ」

「何なら、戻って来るまで眠るよう命じて頂戴。長椅子の上でじっとしているよう命じてくれたら、眠りに就いてじっとしてるから」

「いいだろう。眠れ、ロレンツァ。戻るまで待っていろ」

 ロレンツァは睡魔に襲われながらも、もう一度バルサモと口づけを交わし、ふらふらしながら長椅子に向かい、ひっくり返るようにして倒れ込んだ。

「後でね、バルサモ、また後で」

 バルサモが手を挙げて応えたが、ロレンツァは既に眠っていた。

 それにしても何と美しく清らかなのだろう。結われていない長い髪、かすかに開いた口唇、火照ったように赤らんだ頬、潤んだ瞳――神と見紛うばかりのその姿を見て、バルサモはロレンツァのそばに引き返し、手を取って腕や首筋に口づけをしたが、敢えて口唇には触れずにいた。

 再び二度の合図が鳴った。伯爵夫人が待ちきれないのか、フリッツが気を回してバルサモに聞こえていないのではと考えたのか。

 バルサモは戸口に急いだ。

 扉を閉めた際、先ほどと同じ軋むような音が聞こえた気がしたので、扉を開けて確かめたが、何も見えなかった。

 ロレンツァが横になり、愛の重さに喘いでいるだけだ。

 バルサモは扉を閉めて応接室に急いだ。何の不安も恐れも予感もなく、心は楽園のように満ち足りていた。

 だがバルサモは間違っていた。ロレンツァの胸を押しつぶし、喘がせていたのは、愛だけではなかった。

 それは死と隣り合わせの昏睡に陥っているせいで見たと思しき、夢のようなものであった。

 ロレンツァは夢を見ていた。陰鬱な夢想を映した醜い鏡の奥で、深まり始めた闇の真ん中に、木楢の天井が丸い形に開くのが見えたような気がした。大きな薔薇窓のようなものが外れて、止まることなくゆっくりと滑らかに、悲痛な音を鳴らして降りていた。その丸い物体に押しつぶされそうな気がして、だんだんと息苦しさを感じていた。

 いよいよその落とし戸の上に、蠢くものが見えたような気がした。『テンペスト』のキャリバンのような醜いもの、人の顔をした怪物――年経た人間だった――目と腕だけに生命が宿っているかのように、その恐ろしい瞳でロレンツァを見つめ、その痩せ細った腕を伸ばして来た。

 ロレンツァは身をよじったがどうすることも出来なかった。逃げることも能わず、どのような危険が迫っているのか察することも出来なかった。感じることが出来たのは、命ある二本のかすがいに締めつけられ、かすがいの先端で白い部屋着を摑まれ、長椅子から引き剥がされて落とし戸に乗せられたことだけだった。落とし戸はゆっくりと上昇を始め、鉄と鉄が擦れる悲痛な金属音を立てながらゆっくりと天井に戻って行った。ぞっとするような甲高い笑い声が、人間の顔をした怪物の醜い口から洩れた。そうしてロレンツァは滞りもなく苦もなく天井に運ばれた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXIX「Amour」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月30日(連載第129回)


Ver.1 11/11/12
Ver.2 25/04/13

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[註釈・メモなど]

・メモ
▼トランシルヴァニアのダニエル(Daniel de Transylvanie)、コジモ一世(Cosme Ier=Cosimo I。トスカーナ大公)。Charles II(シャルル?チャールズ?)、le Saxon Payken。

 

[更新履歴]

・25/04/13 Depuis trois jours, pour lui plus de colères, plus d'appréhensions, plus de jalousies ; これは ne の省略だと思われるので、「三日前から怒りや不安や嫉妬が増し、」 → 「三日前から怒りも不安も嫉妬もなく、」に訂正。

・25/04/13 car désormais, dans l'existence qu'il venait de lui créer, il la reposait de sa vie factice avec l'extase, sommeil également menteur ; et, quand il la voyait calme, douce, heureuse, l'appelant des noms les plus tendres et rêvant tout haut sa mystérieuse volupté, plus d'une fois il se demanda si Dieu ne s'était point irrité contre le titan moderne qui avait essayé de lui ravir ses secrets ; 偽りの人生〝の中で〟休むのではなく、偽りの人生〝から(de)〟休むのである。また、quand が係るのは「plus d'une fois il se demanda」の前までであり、carme, douce, heureuse, l'appelant ~, rêvant はすべて la に係るので、「これからはバルサモが作り上げた家庭の中で、恍惚として偽りの眠りに就いたまま作り物の人生を過ごすことになる。バルサモは落ち着いて淑やかで幸せそうなロレンツァを見つめては、そのとろけるような名前を呼び、官能的な歓びにうっとりとしながら、何度となく自問していた。」 → 「今後ロレンツァは、恍惚という偽りの眠りがもたらす偽りの人生から、バルサモが作り上げた存在に生まれ変わったのだ。バルサモは穏やかで淑やかで幸せそうなロレンツァが、とろけそうな名前で何度もバルサモに声をかけ、官能的な歓びを声に出して夢うつつに呟いているのを見つめては、幾度となく自問していた。」に訂正。

・25/04/13 – Et tu as tort, dit Lorenza ; car dans ces travaux je puis t'aider, moi. バルサモをなじっているわけではなく、言葉通りアドバイスしているだけだと思われるので、「嘘ね。あなたの仕事には私が必要だもの」 → 「それが間違ってる。私も実験を手伝えるのに」に訂正。

・25/04/13 ce seraient autant d'heures retranchées de mon existence – car pendant ce temps je ne te verrais pas. autre ではなく autant de だし、前後の繫がりもおかしかったので、「その分の時間をほかのことに割くつもりだ。そうなるとその間はおまえに会えなくなるな」 → 「それだけの時間が割かれていては、その分おまえに会えないからな」に訂正。

・25/04/13 Deux coups frappés par Fritz le firent bondir ; deux coups, on se le rappelle, étaient le signal d'une visite importante. フリッツが飛び跳ねたのではなく、フリッツの合図がバルサモを飛び上がらせたのである。「フリッツが二度、飛び跳ねた。覚えておいでだろうか、二度というのは重要な訪問者が来たという合図だ。」 → 「フリッツからの合図に、バルサモは飛び上がった。覚えておいでだろうか、二度叩いたのは重要な来客だという報せだ。」に訂正。

・25/04/13 「」 → 「」

・25/04/13 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [金色の髪をした、青い目の北部の女]
 第五章によれば、アンドレの髪は栗色がかった金色(des cheveux d'un blond châtain)。また、第一章、第三章、第四章によれば、タヴェルネの城館はメッスやナンシー辺り Bar-le-Duc、Pierrefitte の近く、つまりパリと同じくフランスのかなり北に位置する。[]
 

*2. [ロレンツァ・フェリチアーニ]
 ロレンツァがかつての自分のことをロレンツァ・フェリチアーニとフルネームで呼んでいるのは、今の自分はロレンツァ・フェリチアーニではなくロレンツァ・バルサモだということを表しているものと思われる。[]
 

*3. [トランシルヴァニアのダニエル]
 『USUFUR, Ein List- und Lustiger Betrug(ウスフール:狡猾で愉快な詐欺)』(1637)によると、Daniel von Siebenbürgen(トランシルヴァニアのダニエル)なる人物がウスフールなる奇跡の粉末を喧伝し、トスカーナ大公コジモ一世(Cosimo I, 1519-1574)の前でトリックを用いた黄金精製をおこない、二万デュカートをせしめた。
 サクソンのペイケン(le Saxon Payken)については未詳。[]
 

*4. [その二人に一つだけ心を与える]
 未詳。創世記 2:24か?「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。」。[]
 

*5. [ウェヌスがサッポーに……]
 ギリシア神話の渡し守パオン(ファオン)は、美の女神アプロディーテ(ローマ神話のウェヌス)に見初められ、肌を美しくする香油を与えた。後代、レスボス島の詩人サッポー(サッフォー)がパオンに捨てられ崖から身を投げたという創作が生まれた。本文にあるような、ウェヌス(アプロディーテ)がサッポーに復讐するため美の水をパオンに与えたというエピソードの典拠は不明。[]
 

*6. []
 。[]
 

*7. []
 。[]
 

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