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翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百二十八章 葛藤

 バルサモは痛ましい思いを胸にして立ち止まった。

 感じていたのは痛ましさである。もはや激しさは失せていた。

 アルトタスと修羅場を演じたことで、恐らくは人間界の無常に気づき、怒りは何処かに追いやられてしまったのだ。哲学者のしきたりに倣って、ギリシアのアルファベットを最後まで暗誦しようとした。黒い髪をしたアキレウスの巫女の神託を聞く準備だ。

 それから、ロレンツァが横たわっている長椅子の前で、しばし心を静めて無言の瞑想をおこなった。

「こういうことだ。悲しいことだが態度を決めて現状とはっきり向き合わなくては。ロレンツァは俺を憎んでいる。俺を裏切ると脅して、言葉どおりに裏切った。俺の秘密はこの女の手に委ねられて、風に乗せてばらまかれちまった。まるで虎挟みに掛かった狐だな。肉と皮を残して骨だけ引き抜いたはいいが、翌朝には狩人に『狐はこの辺りにいるな。生きているか死んでいるか、一つ確かめるとしよう』と言われるのが落ちか。

「絶体絶命だな。アルトタスには理解できないだろうと思ったから、話しはしなかったが、この国の希望は粉々に砕け散ってしまう。この世の魂であるフランスの希望は、ここに眠っている女、甘い笑顔をした彫像のように美しいこの女に懸かっているんだ。俺はこの黒い天使のせいで屈辱や破滅に見舞われ、いつか逮捕、亡命、死という目に遭うに違いない。

「要するに――」とバルサモは吹っ切れたように呟いた。「損得を勘定すれば、ロレンツァは有害なのだ。

「ああ蛇よ、巻かれたとぐろは優雅だが、それで人を絞め殺すことも出来るのだ。喉は黄金色に輝こうとも、そこには毒が詰まっているのだ。だから、頼むから眠っていてくれ、目を覚まされると殺さなくてはならなくなるんだ!」

 バルサモは薄笑いを浮かべてゆっくりとロレンツァに近づいて行った。すると、向日葵や朝顔が朝の陽射しに顔を向けて花開くように、愁いを帯びた目がバルサモの動きを追った。

「糞ッ! だがこの目を永久に閉じなければならんのだ。今こうして愛おしげに俺を見つめているこの目を。愛しさが消えると同時に炎が燃え上がるこの美しい目を」

 ロレンツァは嫋やかに微笑み、真珠のように美しく滑らかな歯を見せた。

「だが――」と、バルサモは身をよじらせた。「俺を憎んでいるこの女を殺すということは、俺を愛している女も殺してしまうことになるんだぞ!」

 胸のうちでは深い悲しみと形にならない願望が奇妙に混じり合っていた。

「いや、無理だ。誓ったのも無駄だった。脅してみても無意味だった。駄目だ、俺には殺せない。この女はこれからも生きていくんだ。ただし目を覚まさずに眠ったままで。だがそんな作り物の人生を生きてゆく方が、ロレンツァにとっては幸せなはずなんだ。さもなくば絶望が待っているのだから。俺にならロレンツァを幸せに出来るんだ! 重要なのはそれだけだ……これからのロレンツァは一つのためだけに生きてゆく……俺の手になる存在として、俺を愛している存在として、今この瞬間に生きている通りの存在として」

 バルサモはロレンツァの愛しげな眼差しに優しい目を向け、ゆっくりと頭に手を置いた。

 すると、ロレンツァは本を読むようにバルサモの考えを読んだらしく、深い息を吐いて静かに身体を起こし、気だるげな仕種で白く滑らかな腕をバルサモの肩に伸ばした。香しい呼気が口唇のそばをかすめた。

「駄目だ! 駄目だ駄目だ駄目だ!」バルサモは顔を覆った。額は焼けつくように熱く、目は眩んだように回っていた。「無理だ、こんな風に魅入られたような状態でいては身の破滅だ。とてもじゃないが抵抗できない。こんな誘惑者、こんなセイレーンと一緒にいては、栄光も権力も不死の力も手に入れ損ねてしまう。やはり、ロレンツァの目を覚ますよりほかはない」

 無我夢中で押しやると、ロレンツァは影のようにヴェールをはためかせて、雪の一片のように長椅子に倒れ込んだ。

 手練れの悪女でも、恋人の目を引くために、これ以上に効果的な姿勢を選んだりはしなかっただろう。

 バルサモはそのままさらに離れることも出来た。だがオルフェウスのように振り返り、オルフェウスのように罠に嵌ってしまった!

「だが目覚めさせれば、また争いが始まるのは目に見えている。目が覚めればまた死のうとするか、俺を殺そうとするか、俺に殺させようとするに違いない。

「底なしじゃないか!

「この女の運命はもう決まっている。火で書かれた文字が読めるようだよ。死と愛か!……ロレンツァ! ロレンツァ! おまえに定められているのは愛することと死ぬことなんだ。ロレンツァ! 俺はこの手におまえの命と愛をつかんでみせる!」

 答える代わりにロレンツァは立ち上がり、バルサモのところまでまっすぐ近づいてひざまずき、催眠と快楽に溺れた目を向けた。そしてバルサモの手を取り胸に当てた。

「死を!」珊瑚のようにつやつやと湿った口唇から、低い声が洩れた。「死を、ではなく愛を!」

 バルサモはぎょっとして後じさり、頭を仰け反らせて、手で目を覆った。

 ロレンツァはひざまずいたまま、喘ぎを洩らして後を追った。

「死を!」うっとりするような声で繰り返した。「ではなく愛を! 愛を! 愛を!」

 それ以上は我慢できなかった。バルサモの心が炎に包まれた。

「もう充分だ。人間の歴史と同じくらい長い間、俺は戦って来た。おまえが未来において悪魔なのか天使なのかは知らん。だがどちらであってもおまえはそれを受け入れなくてはならないんだ。俺はもう長いこと、この身体のうちに渦巻いている熱い熱い情熱を、利己心や誇りのために犠牲にして来たんだ。畜生! そんな馬鹿な話があるか。心の奥で醸されるただの人間らしい感情に、どうして抗わなくちゃいけないんだ。俺はこの女を愛している。愛しているんだ。それなのに、この俺の激しい愛が、この世で一番の憎しみ以上にひどい結果を生むなんて。愛のせいでこの女を殺すのか。臆病者め! 俺は気違いだ。欲望と折り合いをつけることも出来ないのか。俺がいつか神の御許に向かうことになっても――詐欺師でもあり偽予言者でもある俺が、至高の審判者の前で欺瞞と偽善のマントを脱ぐ時が来ても、俺には告白すべき寛大な行いの一つもないし、永遠の苦しみを和らげてくれるような楽しい思い出の一つすらないのか!

「駄目だ、ロレンツァ。おまえを愛せば破滅することはよくわかっている。この女をこの腕に抱いた途端に、告発の天使が天まで報せに行くのはよくわかっている。

「だがロレンツァよ、おまえはそれを望むのか!」

「ああ、あなた!」とロレンツァが息を吐いた。

「ではおまえは、本当の人生を捨てて、作り物の人生を受け入れるのか?」

「ひざまずいてお願いします。この人生を、この愛を、この幸せを与えて下さい」

「俺の妻になればそれが叶うんだぞ? 何物にも増しておまえを愛しているのだから」

「わかっています。あなたの心を読みましたから」

「今後は人を前にしても神を前にしても、自分の意思や心を裏切って俺を告発するようなことは二度とないな?」

「二度とありません! それどころか人の前でも神の前でも、愛を与えてくれたことに感謝し続けます。あなたの愛こそこの世で唯一の幸せ、唯一の真珠、唯一のダイヤですから」

「自分の翼で決めたことだ、悔いはないな、白鳩よ? かつて予言者たちの顔を照らした黙示の光を探しに、エホバのおわす、輝きに満ちた場所に行くことも二度とないのだぞ。俺が未来を知りたがったり、人を操ったりする時にも、畜生! もはやおまえの声が答えることもないんだぞ。これまでのおまえは俺の最愛の女であると同時に守護天使でもあった。これからはその一つきりになるんだ、それに……」

「信じてないのね! 信じてないんでしょう! 心に疑いがあるのが、黒い染みのようになって見えるもの」

「いつまでも俺のことを愛してくれるか?」

「ずっといつまでも!」

 バルサモは額に手を当てた。

「いいだろう。だが……」

 しばし考え込む。

「だが、この女でなくては駄目なのか? 替えの利かない人間なのか? この女を選べば俺は幸せになれるだろうし、別の女を選べば富と力を手にすることが出来るだろう。アンドレもおまえと同じく神に選ばれた千里眼なのだからな。アンドレは若く、清らかで、男を知らない。俺はアンドレを愛してない。それでもアンドレは眠っている間は、おまえと同じように従順なのだ。アンドレはいつでもおまえの代わりに犠牲に出来る。俺にとってアンドレとは、医者の実験台のようなもので、あらゆる経験に活かすことが出来るだろう。アンドレなら遠くまで、もしかするとおまえよりも遠くまで、未知の闇の奥まで飛んで行ける。アンドレ! 俺の王国のためにお前を手に入れておこう。ロレンツァ、この腕の中に入れ。俺の妻として恋人として守ってやる。アンドレといれば俺は無敵。ロレンツァといれば俺は幸せだ。たった今この時より、俺の人生は完璧なものとなるのだ。不死ならずとも、アルトタスの夢を実現し、不死ならずとも、神と等しくなったのだ!」

 そしてロレンツァを起こして腕を広げると、ロレンツァはその胸の中に飛び込み、二人は木に絡まる蔦のようにしっかりと抱き合った。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXVIII「Lutte」の全訳です。


Ver.1 11/11/12

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