バルサモが如何なる感情を胸にロレンツァの部屋に入ったかはご存じの通りである。
そこでロレンツァを正気づかせ、胸中にくすぶっている怒りをぶつけよう、怒りに囁かれるままに罰を与えてやろうと決意した時、天井が三度にわたって揺れた。帰宅を待ちかまえていたアルトタスが、話をしたいと知らせているのだ。
だがバルサモは動かなかった。間違いではないのか、たまたまではないのかと念じていたのだが、焦れたように合図は繰り返された。こうなると、以前にもあったようにアルトタスが降りて来るのではないか、相克する霊力によってロレンツァが目覚めさせられ、政治上の秘密にも劣らぬ重要な新事実に気づかれてしまうのではないか、と気を揉み始めた。そこでバルサモは、こういう言い方が許されるならば、新たな霊力の帯でロレンツァを包んでから、部屋を出てアルトタスの許へと向かった。
ぎりぎりのところだった。天井の落とし戸がずらされ、アルトタスが車椅子から離れて、上り下りのために作られた床の開口部に屈み込んでいたのだ。
バルサモがロレンツァの部屋から出て来たのを見て、アルトタスはしゃがみ込んだまま恐怖と嫌悪の入り混じった感情を浮かべた。
その白い顔に――まだ生きているらしきこの顔の一部に――怒りで朱が差した。骸骨のように細く骨張った指が、音を立てて震えた。奥まった目玉が眼窩の奥でぷるぷる揺れているようにも見え、バルサモでさえ聞いたことのないような激しい悪態がその口から撒き散らされた。
バネを動かすために椅子から降りた姿は、まるで二本の腕だけで生きて動き回っている、細くくねった手脚を持つ蜘蛛のようだ。バルサモを除けば何人も入ることを許されないその部屋から、アルトタスは下の階に降りようとしているところだった。
体力も衰え足も利かぬ老人が、容易く動くために利用していた車椅子を離れようとしていたのも、世間並みの行動を取ろうとしていたのも、不安と苦痛を覚えてまで習慣を変えようとしていたのも、それだけ昂奮していたからに違いない。思索的な生活を離れて現実の生活に戻ろうとするほどとは相当なものだ。
それを目撃したバルサモの驚きや如何。初めこそ呆気に取られたが、徐々に不安が兆し始めた。
「ふん、そちか! 怠け者の恩知らずの卑劣漢が、師匠をほったらかしにしおって!」
バルサモはいつものように出来るだけ心を静めて穏やかに話しかけた。
「ですが
「
「先生、臟を煮えくり返らせ血を上らせては、お身体に障ります」
「身体に障る? 笑わせおって。儂が身体を壊したことなど一度でもあったか? そちが汚らしい境遇にある惨めな者どもに関わらせた時くらいじゃろう。身体を損ねるどころか、この儂は身体を治す側だというのを忘れたのか?」
「何はともあれこうして参上したのですから、時間を無駄にするのはやめましょう」バルサモは冷静に言い返した。
「さよう、そちを呼んだのはほかでもない。時間、時間じゃよ。そちが急かしているその時間という代物、人間一人一人に合わせて作られたその風呂敷は、儂にとっては終わりも果てもあってはならぬのだ。確かに儂の時間も流れておる。儂の時間も失われておる。儂の時間も他人と変わらず刻一刻と永遠の彼方へと消えておる。永遠に続くべき儂の時間がその始末なのじゃぞ!」
「とにかく先生」バルサモは自制を続けた。落とし戸を床まで下げて傍らに降ろすと、バネを動かしてまた階上に戻した。「何のご用でしょうか? 腹を空かせていると仰いましたが、四十日間の断食の最中ではありませんでしたか?」
「さよう、さよう。若返りの準備には三十二日前から取りかかっておる」
「でしたら何が問題なのでしょうか? 雨水の入った水差しはまだそこに幾つかありますし、まだ一つしか飲んでないようですが」
「さよう。だがな、儂は芋虫ではないのだぞ、若返りと生まれ変わりという大仕事を儂独りで出来ると思っておるのか? もう力もないというのに、儂独りだけで生命の霊薬を作れると思っておるのか? 横たわったまま渇きを癒す水だけ飲んで衰弱しているような状態で、そちの助けなくして、きちんと頭が回るとでも思っておるのか? 若返りという作業には神経を使うのだぞ、儂の力でどうにかしようにも、協力者の助けなくしては作業できぬことがわからんか?」
「此処にいるから安心して下さい」バルサモは醜い子供をあやすように、うんざりしながらアルトタスを椅子に坐らせた。「どうしたんですか。蒸留水が足りないわけじゃない。まだ水差し三つ分あるんですよ。五月にしっかり溜めておいたんですから。大麦と胡麻の乾パンもある。既に二回目の刺絡も済ませているし、十年間毎日、あなたが処方した白い水薬も投与しているじゃありませんか」
「さよう。だが霊薬じゃ! 霊薬が完成しておらぬ。そちはいなかったのだから知らぬじゃろうな。そちの父御の頃の話じゃわい。そちよりよほど師匠思いであったぞ。五十年前には、一月前に霊薬が完成しておった。儂がアララト山に籠もっていると、ユダヤ教徒がその重さの銀と引き替えにキリスト教徒の乳呑み児を用意してくれたものじゃ。儂はしきたり通りに血を抜き、最後の三滴を採取した。こうして欠けていた成分が埋まり、半刻後には霊薬が完成した。このようにして、五十年前には見事に若返ることが出来たのだ。至福の霊薬を飲み下すと、身体が痙攣して髪も歯も抜け落ちたが、すぐに新しく生えて来た。歯は完全とはいかなかったがの。それというのも喉の奥に霊薬を流し込むのに、ついつい金の管をあてがうのを怠ってしまっての。だが髪と爪は若さを取り戻すと同時に生え替わり、十五歳の頃のように力が漲って来た……だが儂は再び老い、最期の時が迫って来た。霊薬が用意できなければ、この壜に満たされなければ、心して調合に努めなければ、一世紀に及ぶ科学知識は儂と共に滅び、儂が手に入れた崇高なる奥義は、儂と共に神に触れ儂を通して神に近づく人類から失われてしまうのじゃぞ! よいか、儂がしくじったら、間違ったら、やり損じたとしたら、アシャラよ、そちじゃ、原因はそちにある。覚えておくがいい、儂の怒りは容赦ないぞ。ただではおかぬ!」
老人はこの最後の脅し文句と共に、生気の失せた瞳から鉛色の火花をほとばしらせるや、小さく身体を震わせてから激しく咳き込み始めた。
バルサモは大慌てで必死に介抱した。
咳はどうにか治まったが、青白かった顔色はますます蒼白になり、今回の発作で体力を奪われ死に近づいているのが目に見えるようだった。
「先生、どうぞ何でも仰って下さい」
「儂は……」アルトタスはバルサモをじっと見つめた。
「はい……」
「儂の望みは……」
「何でも言って下さい、出来ることであれば何でも言う通りにします」
「出来ること……出来ることだと!」嘲りの声が洩れた。「出来ぬことなどないのだぞ」
「そうなのでしょう。時間と科学さえあれば」
「科学は手にしておる。時間だ。儂を打ち負かそうとするのは時間なのだ。薬は順調に服用して来た。体力はほとんど無くなった。白い水薬のおかげで古い組織は半ば排出された。若さとはの、春先に木々が老いた樹皮の下で新鮮な樹液を溜め、古い森を刷新するようなものじゃ。徴候ははっきりしておるから、アシャラよ、そちも気づくであろう。声は弱まり、視力は半分以下に落ち、理性が飛ぶことさえある。寒暖の変化には何も感じなくなってしまった。だから大急ぎで霊薬を完成させなくてはならんのだ。そうすれば、再び五十年目が訪れるその日には、迷うことなく百歳から二十歳に若返ることが出来る。霊薬に必要な準備はもう出来ておるし、金の管も作り終えた。ほかに足りないのは血が三滴だけなのだ」
バルサモは思わず嫌悪を露わにした。
「もうよいわ。子供は諦めた。難しいというのならもう探さんでいいぞ。好きなだけ恋人と乳繰り合っておればよい」
「ロレンツァは恋人ではありません」
「ほっほっほっ、そうかそうか。世間だけでなく儂にもそう言い張るつもりか。汚れなき人間だと思わせたいのかもしらんが、そちも男じゃろう!」
「誓って言いますが、ロレンツァは聖母のように清らかだし、俺は愛も欲望もこの世の快楽も何もかも犠牲にして身も心も捧げて来たんです。というのも、俺には改革という為すべき務めがある。しかも変わるのは俺だけじゃない。全世界を新しく作り替えてみせます」
「キ印め! こやつと来たら、そのうち蚤の動乱や蟻の革命について話し始めかねんぞ。こっちは永遠の命や若さの話をしておるというのに」
「恐ろしい犯罪と引き替えにしないとそれを手に入れられないうえに……」
「要は信じておらんのじゃろう、愚か者め!」
「そうじゃありません。でも子供を諦めるのなら、どうするおつもりなのですか?」
「無垢な人間が手に入り次第じゃ。男でも女でも構わんが、やはり生娘に越したことはない。異性間の相性が原因で、そうなるらしい。急いで見つけて来てくれ、後一週間しかない」
「わかりました。検討するし探してもみます」
アルトタスの目に、先ほどよりも恐ろしい光がよぎった。
「検討するし探してもみるだと! それがそちの答えか。まあわかっておったわ。驚きもせん。いったいいつからちっぽけな被造物が造物主にそんな口を利けるようになったのだ? 儂が力なく横たわって頼んでおるのがわからぬのか。そちは当てにならぬほど愚鈍なのか? ウイかノンじゃよ、アシャラ、躊躇いや噓は持たぬことだ。儂にはそちの心が読めるのだからな。きっと見定めて懲らしめてくれよう」
「先生、あまり怒ると身体に毒です」
「答えろ!」
「先生に噓をつけるわけがないでしょう? 俺たち二人が身体を毒することも破滅することもなく、先生の望んだものを手に入れられるかどうか、それを検討するというんです。先生が必要としている生娘を売ってくれる人を探すというんです。でも罪を犯すつもりはありません。今ここで言えるのはそれだけです」
「なかなか厄介じゃの」アルトタスが冷笑を浮かべた。
「事情はご説明いたしました」
アルトタスはかなり無理をして、椅子の肘掛けに腕を置いて立ち上がった。
「ウイかノンじゃ!」
「先生、見つかればウイ、見つからなければノンです」
「儂を殺すつもりか。儂のためにけちな生き物から血を三滴いただくのを惜しむばかりに、儂のような完璧な人間が永劫の深淵に沈むことになるのじゃぞ。もうよい、アシャラよ、そちにはもう何も言わん」老人は見るからにぞっとする笑みを浮かべた。「何一つ頼まん。待つことは待つとしよう。じゃがの、言うことが聞けぬというのなら、一人で何とかするまでだ。見殺しにするというのなら、自力で切り抜けてみせるわい。わかったか、のう? さっさと行け」
バルサモは脅しには反応せず、老人に必要なものを調えた。つまりは水と食べ物を手の届くところに置き、忠臣や孝行息子が主君や父親に払うような気配りに徹した。それからアルトタスとは別のことに頭を悩ませながら、落とし戸を降ろして下に向かった。バルサモが気持ちと心を向けている先に、アルトタスも嫌らしい目つきを送っていたことには気づきもせずに。
アルトタスが悪鬼のような笑みを浮かべるなか、バルサモは眠り続けるロレンツァの許に戻った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXVII「L'élixir de vie」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年11月18日(連載第127回)
Ver.1 11/10/29
Ver. 25/03/07
[註釈・メモなど]
・メモ
・[je vous ai déjà saigné deux fois sur trois et à chaque jour de décade,] je vous ai moi-même administré les gouttes blanches que vous avez prescrites. の[ ]内の部分は初出・底本になく、後の版のみ。「[既に二回目の刺絡も済ませているし、十年間毎日、]あなたが処方した白い水薬も投与しているじゃありませんか」
[更新履歴]
・25/03/07 「」 → 「」
・25/03/07 「」 → 「」
[註釈]
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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