時間というのは手を繋いだ不思議な姉妹のようなものだ。不幸な人間のところには遅々として留まり、幸福な人間のところは矢のように通り過ぎる。時間は今、溜息と嗚咽に満ちた部屋の上に、重い翼を畳んで静かに降り立った。
一方には死、一方には苦悶。
その中心に絶望(le désespoir)があった。苦悶のように耐え難く、死ほども深い、絶望があった。
喉から叫びを絞り出してしまうと、バルサモの口からはもはや何の言葉も出て来なかった。
衝撃的な事実を暴露して、残忍な喜びに浸っていたアルトタスを打ちのめして以降、バルサモは微動だにしていなかった。
そのアルトタスはと言うと――神が人間に造り給うた当たり前の人生に荒々しく投げ返されて、未知の環境に沈んでいる様子は、鉛弾を撃たれて雲間から湖に落ちた鳥が、翼を広げることも能わず湖面でもがいている姿を思わせた。
見る影もない鉛色の顔に浮かんだ呆けた表情に、その絶望のただならぬ大きさが表われていた。
アルトタスはもはや考えることすらやめていた。岩のように揺るぎないと信じて進んでいた終着地が、ついさっき目の前で煙のように掻き消えてしまったのだ。
光も声もなく絶望しているその姿は、まるで抜け殻のようであった。滅多に自分の心を覗かない人間には、声も出さないのは考え込んでいる印に見えたことだろう。だがバルサモには――アルトタスを見ることさえしなかったが――バルサモには、それは力と理性と命が断ち切れる間際の苦悶に思えた。
アルトタスは割れたフラスコから目を離さなかった。それは無惨にも砕けた希望そのものだった。粉々に割れて散らばった破片を数えているようにも見える。それだけの日々が人生から失われてしまったのだ。床にこぼれた貴重な――不死の
時折り、落胆の波が激しい苦痛を引き寄せると、老人は火の消えた瞳を上げてバルサモを見つめ、それからロレンツァの死体に目を移した。
その姿は、罠に掛かった獣のようだった。足を挟まれているのを朝になって猟師が見つけ、ねちっこく踏みつけても振り向きもしなかったというのに、狩猟用ナイフや銃剣を突き刺そうものなら、憎悪と復讐と非難と驚愕の籠った真っ赤な目で睨み上げる獣のようだった。
『あり得ぬ』と、虚ろながらも目は雄弁に物語っていた。『これほどの災難、これほどの失敗が儂に降りかかろうとは。しかも目の前にうずくまっているこんなつまらぬ男のせいで。死んだ女の死体というくだらんもんの足許にすがりついているこんな男のせいで。自然や科学や道理がひっくり返ったも同然ではないか? 下司な弟子の分際で尊き師匠をもてあそびおって。言語道断ではないか? 気高く疾走していた、止まることを知らぬ無敵の戦車が、砂粒一つで急停車させられるとは』
バルサモはぼろぼろに打ちひしがれ、声もなく身動きもせず、生きている形跡すら見えず、脳内を覆った血塗れの靄の向こうからも、人間らしい感情はまだ何一つ現れては来なかった。
ロレンツァ、愛しいロレンツァが! ロレンツァ、妻であり、偶像であり、天使であり恋人である大切な女性、ロレンツァ、歓喜と至福、現在と未来、力と信仰。ロレンツァ、バルサモがすべての愛を捧げ、すべての欲望を捧げ、何を措いてもそばに置いておきたかった存在。そのロレンツァが、永遠に失われてしまった!
バルサモは泣きもせず、叫びもせず、溜息すらついていなかった。
驚く間もなく、恐ろしい災難に襲われたのだ。明かりを消して寝ているさなか、洪水に襲われたようなものだ。水に沈んだ夢を見て目を開ければ、頭上には波がうねっており、死が近づくのを感じつつも叫び声をあげる間すらない。
バルサモは三時間にわたって死の淵の底に飲み込まれていた。尽きることない苦しみに溺れながら、自分の身に起こったことは死者たちが見る忌まわしい夢のようなものだと、静寂に包まれた墓地をいつまでも覆う夜に訪れるおぞましい幻覚のようなものだとしか思えずにいた。
もはやアルトタスも、憎しみも復讐もなかった。
もはやロレンツァも、生も愛もなかった。
ただ眠りと、夜と、無だけがあった!
時間はこうして音もなくしめやかに終わりも知らず部屋の中を流れていた。時間と共に血は温かさを失って行った。豊かな命の輝きを請われるがままばらばらの原子に譲り尽くしてしまったのだ。
突如、夜の静寂を破って、呼び鈴が三度鳴った。
バルサモの居場所を知ったフリッツが、アルトタスの部屋の呼び鈴を鳴らしたのだろう。
だが荒々しい音は三度とも無為に響くだけで、鈴の音は空中に散った。
バルサモは顔を上げようともしなかった。
数分後、再び呼び鈴が鳴らされたが、一度目と変わらずバルサモを夢想から引き剥がすことは出来なかった。
同じように時間を置いて、ただし一度目と二度目の間よりも間隔は短く、三たび呼び鈴が鳴り響いた。割れるような音が、催促するように部屋を揺るがせた。
バルサモは慌てもせずゆっくりと顔を上げ、墓から抜け出した死者のように無表情なまま、虚空に目を彷徨わせた。
三度にわたってキリストに呼びかけられたラザロは、きっとこんな目をしていたのだろう。
呼び鈴がやむ気配はなかった。
音の力はますます大きくなり、遂にバルサモの理性を目覚めさせるに至った。
バルサモは遺体の手から手を離した。
バルサモからは体温がすっかり奪われていたが、その奪われた温もりがロレンツァの冷たい身体を温め直すことはもちろんなかった。
「火急の報せか危急の事態だな」バルサモは呟いた。「危急の事態だとすれば……!」
遂にバルサモは立ち上がった。
「とはいえ、応える必要などあるのか?」その声は薄暗い穹窿の下、死の漂う部屋の中で陰鬱に響いたが、それには気づかず独白を続けた。「これからはもう何かを気にしたり恐れたりする必要があるだろうか?」
急かすように呼び鈴が鳴り、青銅の内側を鈴の舌がけたたましく打ちつけたため、鈴の舌が外れてガラスの蒸留器の上に落ち、ガラスが乾いた音を立てて砕け散ると、粉々になって床の上に散らばった。
バルサモはもはや抗わなかった。大事なのは誰も――フリッツでさえバルサモのいるところまでは追っては来ないということだ。
バルサモは落ち着いた足取りで歩き、バネを押して揚げ戸に上がった。揚げ戸はゆっくりと下降し、毛皮の部屋の真ん中で停まった。
長椅子のそばを通った時、ロレンツァの肩から落ちたケープにぶつかった。死にも劣らぬ無慈悲な老人が二本の腕でロレンツァを攫った時に落ちたものだ。
本人に触れた時よりも一層の生々しさを感じて、バルサモは刺すような震えに襲われた。
バルサモはケープを手に取り、叫びを押し殺すように口づけした。
それから扉を開けて階段に出た。
一番上の段にはフリッツがいた。青ざめて息を切らし、片手に明かりを、片手に呼び鈴の紐を握って、怯えて苛立ったように何度も何度も紐を引っ張り続けてバルサモが出て来るのを待っていた。
バルサモの姿を見て安堵の叫びをあげたが、それはすぐに不安と恐怖の叫びに変わった。
だがバルサモはフリッツが叫んだ理由に気づかず、ただ無言で問いかけた。
フリッツは何も言わずに、いつものように恭しく主人の手を取り、ヴェネツィア製の大鏡の前まで案内した。それはロレンツァの部屋に通じる暖炉の上に飾られていた。
「ご覧下さい、閣下」フリッツは鏡に映る姿を指さした。
バルサモがびくりと身を震わせた。
それから微笑みを――永遠に治まることのない無限の苦しみの果てに生み出された死んだような微笑みを、口唇に浮かべた。
フリッツが怯えるのももっともだ。
バルサモは一時間で二十歳も年老いていた。目の輝きも消え、肌の血色も衰え、顔からは機智も智性も失われ、口唇には血の混じった泡が浮かび、白いシャツには大きな血の染みがついている。
バルサモは鏡を見るもそれが自分だとは思えずにいたが、やがて鏡に映る見知らぬ人物の目をじっと覗き込んだ。
「そうだな、フリッツ、お前の言う通りだ」
それから、忠実なフリッツが不安そうにしているのに気づいてたずねた。
「ところで何の用だ?」
「そうでした! あの方たちです」
「あの方たち?」
「はい」
「あの方たちとは誰のことだ?」
「閣下」フリッツはバルサモの耳許に口を寄せて囁いた。「五人の
バルサモが身震いした。
「全員か?」
「全員です」
「今いるんだな?」
「いらっしゃいます」
「五人だけか?」
「いいえ、武装した従者を一人ずつ庭に待たせております」
「五人は一緒だったのか?」
「一緒にいらっしゃいました。かなりお腹立ちのようでしたから、あれほど強く何度も呼び鈴を鳴らした次第でございます」
バルサモは血の染みをレースの胸飾りの襞で隠そうともせず、乱れた身なりを整えようともせず、来客がいるのは応接室か書斎かをフリッツに確認してから、足を動かし階段を降り始めた。
「応接室でございます、閣下」とフリッツは答えてバルサモの後を追った。
だが階段を降りたところでバルサモを呼び止めずにはいられなかった。
「閣下、何かご指示はございますか?」
「何もないよ、フリッツ」
「ですが閣下……」フリッツは言い淀んだ。
「何だ?」バルサモは怖いほど穏やかにたずねた。
「武器も持たずにお会いするつもりですか?」
「ああ、武器は持たない」
「剣も?」
「どうして剣が必要なんだ、フリッツ?」
「どうしてと言われましても」フリッツは目を伏せた。「思いますには、私としては、不安が……」
「わかった、退っていいぞ、フリッツ」
フリッツは言われた通りに足を進めかけてから踵を返した。
「聞こえなかったのか?」
「閣下、一言申し上げておきますと、二連式の拳銃は金の円卓にございます黒檀の箱に入っております」
「いいからもう行くんだ」
バルサモはそう言い捨てて応接室に入って行った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXII「L'homme et Dieu」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年12月3日(連載第132回)
Ver.1 11/11/26
Ver.2 25/06/15
[註釈・メモなど]
・メモ
[更新履歴]
・25/06/15 Son désespoir morne et silencieux avait quelque chose de l'hébétement. Pour un esprit peu accoutumé à mesurer le sien, ce silence eût peut-être été un indice de recherche ; pour Balsamo, qui, du reste, ne le regardait même pas, c'était l'agonie de la puissance, de la raison, de la vie. 「le sien」とは「son désespoir」ではなく「son esprit」であり、un esprit が不定冠詞であることから、これはバルサモやアルトタスのことではなく「~という人」一般であろう。また、「du reste, ne le regardait même pas,」の部分は挿入句な文章なので、「絶望に打ち沈み物も言わず、意識は既に朦朧としていた。絶望に縁のなかった精神にとって、物を言わぬこととは即ち何かを考えている印だったのだろう。さらに、絶望を垣間見たことすらないバルサモに至っては、これは力と理性と命の断末魔に等しかった。」 → 「光も声もなく絶望しているその姿は、まるで抜け殻のようであった。滅多に自分の心を覗かない人間には、声も出さないのは考え込んでいる印に見えたことだろう。だがバルサモには――アルトタスを見ることさえしなかったが――バルサモには、それは力と理性と命が断ち切れる間際の苦悶に思えた。」に訂正。
・25/06/15 Il ressemblait alors à ces brutes, surprises au piège, que le chasseur trouve le matin, arrêtées par la jambe, et qu'il tourmente longtemps du pied sans leur faire tourner la tête, mais qui, s'il les pique de son couteau de chasse ou de la baïonnette de son fusil, lèvent obliquement leur œil sanglant, tout chargé de haine, de vengeance, de reproche et de surprise. 「et qu'il tourmente longtemps du pied sans leur faire tourner la tête,」の主語 il は「le chasseur」のことなので、「その姿はまるで脚を罠に挟まれているのを朝になって猟師に見つかった野獣のようだった。首を巡らせもせずじっと脚の痛みに耐え、狩猟用の刀剣や銃剣を突き刺されようものなら、憎しみと復讐と非難と驚きの詰まった真っ赤な目を上げて横目で睨みつける獣のようだった。」 → 「その姿は、罠に掛かった獣のようだった。足を挟まれているのを朝になって猟師が見つけ、ねちっこく踏みつけても振り向きもしなかったというのに、狩猟用ナイフや銃剣を突き刺そうものなら、憎悪と復讐と非難と驚愕の籠った真っ赤な目で睨み上げる獣のようだった。」に訂正。
・25/06/15 – Est-il possible, disait ce regard encore si expressif dans son atonie, est-il croyable que tant de malheurs, que tant d'échecs viennent à moi, 〜」 「disait ce regard encore si expressif」の主語はアルトタスではなく、「ce regard」である。「あり得ぬ」虚ろではあったが目にはまだ力があった。「これほどの不幸、これほどの手違いが儂に降りかかることなど信じられるか? 〜」 → 「『あり得ぬ』と、虚ろながらも目は雄弁に物語っていた。『これほどの災難、これほどの失敗が儂に降りかかろうとは。 〜」に訂正。
・25/06/15 Mais Balsamo, ignorant la cause de ce double cri, ne répondit que par une muette interrogation. この「ignorer」は「無視する」ではなく「知らない」の意なので、「だがバルサモは叫びを無視し、無言で問いかけただけであった。」 → 「だがバルサモはフリッツが叫んだ理由に気づかず、ただ無言で問いかけた。」に訂正。
・25/06/15 「」 → 「」
[註釈]
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▼*2. []。
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▼*3. []。
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▼*4. []。
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▼*5. []。
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▼*6. []。
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