この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第百三十二章 人と神

 時間というのは手を繋いだ姉妹のようなものだ。不幸な人間のところには遅々として留まり、幸福な人間のところは矢のように通り過ぎる。時間は今、溜息とすすり泣きに満ちた部屋の上で、重い翼を畳んで静かに羽根を休めていた。

 一方には死。一方には断末魔。

 間には、断末魔にも等しい苦しみと死ぬほどの重みを持つ絶望。

 喉から叫びを絞り出してしまうと、バルサモの口からはもはや何の言葉も出て来なかった。

 衝撃的な事実を暴露して、残忍な喜びに浸っていたアルトタスを打ちのめして以来、バルサモは微動だにしていなかった。

 そのアルトタスはと言うと。神が人間に用意した普通の人生に荒々しく投げ返されて、未知の環境に沈んでいる様子は、鉛弾を撃たれて雲間から湖に落ちた鳥が、もがけばもがくほど翼を傷めることを知りもしないで湖面でもがいている姿を思わせた。

 鉛色に染まった行き場のない惚けた表情が、その絶望のただならぬ大きさを表していた。

 アルトタスはもはや考えることすらやめていた。目的に向かって順調に進み、岩のようにしっかりとしていると信じていた確信が、ついさっき煙のように掻き消えてしまったのだ。

 絶望に打ち沈み物も言わず、意識は既に朦朧としていた。絶望に縁のなかった精神にとって、物を言わぬこととは即ち何かを考えている印だったのだろう。さらに、絶望を垣間見たことすらないバルサモに至っては、これは力と理性と命の断末魔に等しかった。

 アルトタスは割れたフラスコから目を離さなかった。それは無惨にも砕けた希望そのものだった。粉々に割れて散らばった破片を数えているように見える。それだけの日々が人生から失われてしまったのだ。床にこぼれた貴重な――不死の基だと束の間だけ信じていた液体を、目で吸い上げようとしているように見えた。

 時折り、落胆の苦しみが大きくなると、老人は火の消えた瞳を上げてバルサモを見つめた。それからロレンツァの死体に目を向けた。

 その姿はまるで脚を罠に挟まれているのを朝になって猟師に見つかった野獣のようだった。首を巡らせもせずじっと脚の痛みに耐え、狩猟用の刀剣や銃剣を突き刺されようものなら、憎しみと復讐と非難と驚きの詰まった真っ赤な目を上げて横目で睨みつける獣のようだった。

「あり得ぬ」虚ろではあったが目にはまだ力があった。「これほどの不幸、これほどの手違いが儂に降りかかることなど信じられるか? 死んだこの女のようなくだらんもんの足許に、目の前でひざまずいているそちのようなちんけな存在のせいで、こんなことになるとはの。自然や科学や道理がひっくり返りおったわ。下司な弟子の分際で尊い師匠をもてあそびおって。たった一粒の塵のせいで、全速力で何処までも飛ぶように走っている戦車が止まってしまうとは、とんでもないことではないか?」

 バルサモはぼろぼろに打ちひしがれ、声もなく身動きもせず、生きている形跡すら見えず、脳の中に広がっていた血塗れの靄の向こうからは、人間らしい感情が何一つ現れては来なかった。

 ロレンツァ、愛しいロレンツァ! ロレンツァ、妻であり、偶像であり、天使であり恋人である大切な女性、ロレンツァ、喜びと栄光、現在と未来、力と信仰。ロレンツァ、バルサモがすべての愛を捧げ、すべての欲望を捧げ、何を措いてもそばに置いておきたかった存在。ロレンツァが永遠に失われてしまった!

 泣きもせず、叫びもせず、溜息すらついていなかった。

 驚く間もなく、恐ろしい災難に襲いかかられたのだ。寝ている間に洪水に襲われ、闇の中に流されたようなものだ。水に沈んだ夢を見て目を開ければ、頭上には波がうねっており、もはや叫び声すらあげることも出来ずに、黙って死を待つしかない。

 バルサモは三時間にわたって死の底に飲み込まれていた。無限の苦しみに沈んだまま、自分に起こったことは死者たちが見る不吉な夢のようなものだと、永遠の闇や墓地の静寂に包まれた死者たちの夢のようなものだとしか思えなかった。

 もはやアルトタスも、憎しみも復讐もなかった。

 もはやロレンツァも、生も愛もなかった。

 ただ眠り、夜、無があるだけだった!

 こうして時間は音もなくしめやかに絶え間なく部屋の中を流れていった。そうして原子に請われるように生命の素を受け渡してしまうと、血はすっかり冷え切っていた。

 突如、夜の静寂を破って、呼び鈴が三度鳴った。

 バルサモの居場所を知ったフリッツが、アルトタスの部屋の呼び鈴を鳴らしたのだろう。

 だが荒々しい音は三度とも無為に響くだけで、鈴の音は空中に散った。

 バルサモは顔を上げようともしなかった。

 数分後、再び呼び鈴が鳴らされたが、一度目と変わらずバルサモを夢想から引き剥がすことは出来なかった。

 やがて計ったように、それほど間を置かずに、三たび呼び鈴が鳴り響いた。割れるような音が催促するように部屋を揺るがせた。

 バルサモは慌てもせずゆっくりと顔を上げ、墓から抜け出した死者のように無表情なまま、目を彷徨わせた。

 三度にわたってキリストに呼びかけられたラザロは、きっとこんな目をしていたのだろう。

 呼び鈴がやむ気配はなかった。

 音はますます大きくなり、ついにバルサモの理性を目覚めさせた。

 バルサモは遺体の手から手を離した。

 身体の熱はロレンツァに伝わることなく、すっかりバルサモから奪われていた。

「重大な報せか重大な危機だな」バルサモは呟いた。「恐らくは重大な危機の方か!」

 バルサモはすっかり立ち上がっていた。

「とはいえ、応える必要などあるのか?」その声が薄暗い穹窿の下、死の漂う部屋の中に陰鬱に響いたが、それには気づかず独白を続けた。「これからはもう何かを気にしたり恐れたりする必要があるのか?」

 急かすようにまたもや呼び鈴が鳴り、青銅の内側を鈴の舌がけたたましく打ちつけたため、鈴の舌が外れてガラスの蒸留器の上に落ち、ガラスが乾いた音を立てて砕け散り、粉々になって床の上に散らばった。

 バルサモはもはや抗わなかった。大事なのは誰も――フリッツでさえバルサモのいるところまでは追っては来ないということだ。

 バルサモは落ち着いた足取りで歩き、バネを押して揚げ戸に上った。揚げ戸はゆっくりと降り、毛皮の部屋の真ん中に停まった。

 長椅子のそばを通った時、ロレンツァの肩から落ちたケープにぶつかった。死のように無慈悲な老人が二本の腕でロレンツァを攫った時に落ちたものだ。

 本人に触れた時よりも一層の生々しさを感じて、バルサモは刺すような震えに襲われた。

 バルサモはケープを手に取り、叫びを押し殺すように口づけした。

 それから階段に通じる戸口に向かった。

 一番上の段にはフリッツがいた。青ざめて息を切らし、片手に明かりを、片手に呼び鈴の紐を握って、怯えたように何度も何度も紐を引っ張り続けてバルサモが出て来るのを待っていた。

 バルサモの姿を見て安堵の叫びをあげたが、それはすぐに不安と恐怖の叫びに変わった。

 だがバルサモは叫びを無視し、無言で問いかけただけであった。

 フリッツは何も言わずに、いつものように恭しく主人の手を取り、ヴェネツィア製の大鏡の前まで案内した。鏡はロレンツァの部屋に通じる暖炉の上に飾られていた。

「ご覧下さい、閣下」フリッツは鏡に映る姿を指さした。

 バルサモがびくりと身を震わせた。

 それから微笑みを――永遠に治まることのない無限の苦しみの果てに生み出された死んだような微笑みを、口唇に浮かべた。

 フリッツが怯えるのももっともだ。

 バルサモは一時間で二十歳も年老いていた。目の輝きも消え、肌の血色も衰え、顔からは機智も智性も失われ、口唇には血の混じった泡が浮かび、白いシャツには大きな血の染みがついている。

 バルサモは鏡を見たが、それが自分だとは思えなかった。やがて鏡に映る見知らぬ人物の目をじっと覗き込んだ。

「そうだな、フリッツ、お前の言う通りだ」

 それから、忠実なフリッツが不安そうにしているのに気づいてたずねた。

「ところで何の用だ?」

「そうでした! あの方たちです」

「あの方たち?」

「はい」

「あの方たちとは誰のことだ?」

「閣下」フリッツはバルサモの耳元に口を寄せて囁いた。「五人の親方マスターの方たちです」

 バルサモが身震いした。

「全員か?」

「全員です」

「今いるんだな?」

「いらっしゃいます」

「五人だけか?」

「いいえ、武装した召使いを一人ずつ庭に待たせております」

「五人は一緒だったのか?」

「一緒にいらっしゃいました。かなりお腹立ちのようでしたから、あれほど強く何度も呼び鈴を鳴らした次第でございます」

 バルサモは血の染みをレースの胸飾りの襞で隠そうともせず、乱れた身なりを整えようともせず、来客たちが応接室にいるのか小部屋にいるのかをフリッツに確認してから、足を動かし階段を降り始めた。

「応接室でございます、閣下」とフリッツは答えてバルサモの後を追った。

 そして階段を降りたところでバルサモを呼び止めた。

「閣下、何かご指示はございますか?」

「何もないよ、フリッツ」

「ですが閣下……」フリッツが口ごもった。

「何だ?」バルサモが怖いほど落ち着いてたずねた。

「武器も持たずにお会いするつもりですか?」

「ああ、武器は持たない」

「剣も?」

「どうして剣が必要なんだ、フリッツ?」

「どうしてと言われましても」フリッツは目を伏せた。「思いますには、私としては、不安が……」

「わかった、退っていいぞ、フリッツ」

 フリッツは言われた通りに進んでから戻って来た。

「聞こえなかったのか?」

「閣下、一言申し上げておきますと、二連式の拳銃は金の円卓にございます黒檀の箱に入っております」

「いいからもう行くんだ」

 バルサモはそう言い捨てて応接室に入って行った。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CXXXII「L'homme et Dieu」の全訳です。


Ver.1 11/11/26

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