この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百五十四章 決意

 ジルベールがどうやって部屋に戻ったのか、どうやって苦しみと怒りで息絶えることなく苦悶の夜を耐えたのか、どうやって目覚めた時に白髪にならずに済んだのか、読者諸氏に説明しようとは思わない。

 陽が昇ると、ジルベールはアンドレに手紙を書きたくなった。夜の間に脳から湧き出て来た誠実で確かな弁明を伝えたかったのだ。だがアンドレが頑固なことは様々な状況の許で承知していたから、もはや期待はしていない。手紙を書くというのは便宜に過ぎないし、誇りが許さない。手紙が読まれもせずに丸められて放り投げられるところを想像してみろ。しつこくて頭の悪い奴が後を追っていると知らせる役にしか立たないと考えてみろ。手紙は書かないのが賢明だ。

 こうなると父親の方から取りかかった方がいいのではないか。父親の方なら金に汚く野心に燃えている。兄の方は誠実な人間だ。素早い決断力だけに気をつければよい。

 ――だけど、男爵やフィリップから認めてもらっても、アンドレから「あなたなんか知らない!」といつまでも責められ続けては何の意味もない……。あんな女のことは忘れちまえ。僕らを結びつけている絆を断ち切ることしか考えてないんだぞ。

 そう独り言ちながら、呻吟してマットレスの上をのたうち回り、激情に駆られてアンドレの声や顔を一つ一つ思い出していた。独り言ちながら、耐え難い拷問に苦しんでいた。狂おしいまでにアンドレを愛していたのだ。

 太陽がとうに地上高く顔を出し、屋根裏に光が射し込む頃、ジルベールはふらつきながらも起き上がった。アンドレが庭や館にいるのが見えないかと最後に期待を掛けたのだ。

 今もなおそれは不幸の中にあって唯一の喜びであった。

 だが不意に、悔しさと後悔と怒りが苦い波となって頭の中に浸み込んで来た。アンドレが自分に示した嫌悪や軽蔑の数々が思い起こされる。肉体が意思から荒々しく命じられ、屋根裏の途中で立ち止まった。

「もうないんだ。もうあの窓を見つめることもない。もう入り込むこともなく、死ぬほどの毒に耽ることもない。残酷な女め、何度ひれ伏したって、一度も微笑んでくれたことはないし、慰めや親しみの言葉をかけてくれたこともない。まだ無垢で純粋な愛に満ちていた心臓を、爪で押しつぶして楽しむような人なんだ。守るものも信じるものもなく、子供に向かって父親という支えを否定し、哀れな子供を見捨てたり冷たくしたりもしかすると死なせたりするような人なんだ。それもこれもその子が受胎して母胎を汚したからというわけか。そうさ、ジルベール、お前が犯罪者だろうと、恋人だろうと卑怯者だろうと関係ない。あの天窓まで歩くことも、館の方に目をやることもやめよう。あの女の運命を憐れむのも、過ぎたことをくよくよ考えて魂をくじけさせるのもやめよう。働いて、欲しい物を満たして、獣のように命をすり減らせ。侮辱と復讐の真ん中を時間をかけて流れるくらいなら、その時間を使ってしまえ。体面を保ち、この高慢な貴族たちを見下ろしていたいと思うなら、あいつらより上になるしかないということを覚えておけ」

 青ざめ震えて、気持に引きずられて窓に向かって引き寄せられながら、頭脳の出す命令に従っていた。足に根が生えたようにのろのろと、一歩一歩階段に向かって歩いてゆくではないか。やがてジルベールはとうとう外に出てバルサモの家を目指した。

 だが慌てて思い直した。

「何て粗忽者なんだ! 復讐の話をしておきながら、どうやって復讐するつもりだったんだろう?……アンドレを殺すのか? そんなことをしたっていっそう喜ばすだけだ。ここぞとばかりに罵倒されるだろう。辱められたことを世間に広めたらどうだろう? 卑劣にもほどがある!……そこはあの人の心の中で一番敏感なところだ。針で刺されても剣で刺されたように感じるはずだ……屈辱に違いない……僕以上に誇り高い人だからな。

「屈辱か……僕が……どうやって? 僕は何物も持たず、何者でもないし、あの人は姿を消してしまうだろう。僕が存在したりしょっちゅう現れたりするだけで、軽蔑と挑発の眼差しで僕を残酷に罰するに違いない……母としての情けを持たない人だ。妹としても冷酷になれるだろうから、兄に僕を売り渡すに決まってる。だけど、理を説いたり手紙を書いたりすることを覚えたように、殺人を覚えたって、邪魔する人もいまい? フィリップを投げ飛ばし、降参させ、侮辱した相手を笑うように復讐しに来た相手の鼻先で笑っても、誰も止めたりはすまい? いや駄目だ、こんなのは芝居の筋書きに過ぎない。神も偶然も当てにしないあの人の才気と経験を頼みにするなんて……僕が一人で、この裸の腕と、空想をそぎ落とした理性と、自然が与えてくれた筋肉の力と頭脳の力で、あの可哀相な人たちの計画を無に帰してやる……アンドレは何がしたいんだ? 何を考えてるんだ? 自分を守り僕を辱める為に、何を持ち出すつもりだろう?……見つけなくちゃ」

 ジルベールは壁の出っ張りの先に身体を預けて、一点を見つめたままじっと考え込んだ。

「アンドレは僕の嫌いなことを喜ぶだろうな。だったら嫌いなものをぶち壊してしまえばいいのか? ぶち壊すだって! 出来ない……復讐はしても悪には染まるもんか! 剣や火器を用いざるを得ないような羽目にはなるもんか!

「じゃあほかにどうすればいい? そうだ。アンドレがどうして強気に出られるのか理由を見つければいい。どんな鎖で僕の心と腕を留めておくつもりなのか確かめるんだ……いや、もう会えないんだ!……もう見つめてもらえることもない!……誇らかに美しく微笑んで子供を抱いていても、そばを通り過ぎるだけなんて……アンドレの子供は僕を知らずに大きくなるのか……神も世もないじゃないか!」

 ジルベールは憤慨して壁にこの言葉の拳を打ちつけ、天に向けてはさらに恐ろしい呪詛を放った。

「子供か! 所詮表向きには出来ない子だ。この子をアンドレのところに置いておくわけにはいかないし、アンドレにもジルベールという名前をいつまでも憎んでもらっても困る。早い話が、むしろこの子がアンドレという名前を憎みながら大きくなることはよくわかってるはずだ。結局アンドレはこの子を愛したりはしないだろうし、きっと辛く当たるだろうな。心の冷たい人だもの。この子は僕を永遠に苦しめることになるだろう。アンドレはこの子に二度と会えないし、この子を失って仔を取り上げられたライオンのように吠えなくちゃならないんだ!」

 ジルベールは怒りと残酷な喜びも露わに堂々と立ち上がった。

「そういうことだ」アンドレの住処に指を向け、「あんたは僕のことを恥辱と孤独と悔恨と愛情を種に責め立てたけど……こっちこそあんたを実りない苦しみと孤独と恥辱と恐怖とぶつける当てのない憎しみで苛ませてやる。僕を探そうとしたって、逃げ出してやるさ。再び子供に会えたら引き裂いてでも取り戻そうとするに違いない。だけど少なくとも激しい思いがあんたの魂に火をつけることになるだろうし、柄のない刃があんたの胸に突き刺さることになるだろう……そうだ、子供だ! 子供を手に入れてやるぞ、アンドレ。あんたは自分の子供だと言ったけれど、僕の子供でもあるんだ。ジルベールは我が子を手に入れてみせる! 貴族を母に持つ子供だぞ……僕の子だ!……僕の子なんだ!……」

 ジルベールは昂奮してだんだんと歓喜に酔いしれて来た。

「もう庶民だからといって悔しい思いをしたり田舎者の自分を愚痴ったりせずともいいんだ。必要なのはよく出来た計画だ。もうアンドレの家を探ろうとして気を配らなくていい。僕の力と魂のすべてをかけて、絶対に計画を成功させることだけを考えて監視していればいいんだ。

「これからはずっと見張ってやるぞ、アンドレ!」ジルベールは厳かに呟き、窓に近づいた。「昼も夜も休むことなく監視してやる! あんたの行動はすべて監視されることになるんだ。苦しみにあげる叫びも、今よりもっと辛いものになるはずだ。微笑みを浮かべるのは、僕が皮肉と嘲りを込めて笑った時だけになるだろうな。あんたは僕のもんだ。あんたの一部は僕のもんだよ。目を逸らすことなく監視してやる!」

 天窓に近づくと、館の鎧戸が開いているのが見えた。アンドレのシルエットが、恐らくは鏡に反射して、カーテンや天井を動き回っている。

 それからフィリップが見えた。朝早くから起きてはいたのだが、それまではアンドレの部屋の奥にある自分の部屋で忙しくしていたのだ。

 二人はかなり激しく言い合っているようだ。間違いない。話題はジルベールのこと、前夜のことだ。フィリップが困ったように歩き回っている。ジルベールが現れたせいで、ここで暮らすはずだった計画に変更が生じたのだろう。何処か別の場所に平和と隠棲と過去の消去を求めに行くことになったのだ。

 そう考えたジルベールの目に光がきらめいた。館を燃やし、地の中心まで貫きかねない光だった!

 ところがまもなく使用人の娘が庭から入って来た。何か言伝があったらしい。アンドレは言伝を受諾したらしく、ニコルが使っていた部屋に衣類を置いた。それから家具、日用品、食糧を見て、兄妹で静かに暮らしているのだとジルベールは確信を固めた。

 フィリップが念入りに庭の扉の錠を改めている。ニコルからもらった合い鍵で侵入したのではないかと考えているのだろう。それで錠前屋が錠前を新しくしたのだ。

 これまでの中で一番嬉しい出来事だった。

 ジルベールはにやりと笑った。

「可哀相に。二人とも無邪気な人たちだな。鍵のせいにしているなんて。よじ登る可能性すら思いつかないのか!……見くびられているらしいな、ジルベール。ありがたい! アンドレめ、こっちは鍵が掛かっていようと、入ろうと思えばいつでも入れるんだ……とうとう僕にも運が向いて来た。あんたなんかもう構ってやるもんか……気が向いたら別だけど……」

 ジルベールは宮廷の遊び人を真似てくるりと回転した。

「そうだとも……」辛そうに呟いた。「僕にはもっと相応しいものがある。もうあなたはいらない!……安らかに眠り給え。あなたをものにするよりも楽に苦しめる方法があるんだ。眠るがいいさ!」

 天窓から離れて衣服に目を走らせた後で、階段を降りてバルサモの家へ向かった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLIV「Résolution」の全訳です。


Ver.1 12/06/30

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