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翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

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第二十章 セバスチャン・ジルベール

 プランシュ=ミブレー街(rue Planche-Mibray)の端で辻馬車を見つけたので、ジルベール医師は馬車を停めて乗り込んだ。【現在のサン=マルタン街の一部。ジェーヴル河岸とヴィクトリア通りの間の区域。ヴァンリー街を西に真っ直ぐ進むと、ちょうど rue Planche-Mibray と rue des Arcis の境目にぶつかる。coin de la rue Planche-Mibray とはその境目のことだろう。】

 ビヨとピトゥも隣に腰を下ろした。

「ルイ=ル=グラン学校(collège Louis-le-Grand)まで!」ジルベールは馬車の奥に腰を据えてじっくりと考え込み始めた。ビヨとピトゥはこういう時には邪魔しないようにしていた。【サン=マルタン街を南下し、ノートル=ダム橋を渡ってそのまま真っ直ぐ進めば、サン=ジャック街の左手(東側)に collège Louis-le-Grand がある。】

 ポン=ト=シャンジュを渡り、シテ街、サン=ジャック街を進むと、ルイ=ル=グラン学校に到着した。【Pont-au-Change は、ノートル=ダム橋の一本向こう、サン=マルタン街の一本向こうのサン=ドニ街から通じる橋である。rue de la Cité は、ノートル=ダム橋から通じてシテ島を貫きサン=ジャック街に通ずる通りである。】

 パリ中がおののいていた。最新の報せが駆け巡っていた。グレーヴで虐殺がおこなわれたという噂が、バスチーユを奪い取ったという輝かしい物語と一緒くたになっていた。心に感じて洩れ出した魂の輝きが様々な表情となって人々の顔に浮かぶのが見えた。

 ジルベールは窓に顔を向けることも、口を利くこともなかった。喝采する民衆というものには馬鹿げた側面がある。ジルベールは己が凱旋をそちら側から見ていた。

 こぼれて撥ねた血の滴を、流さずに済む方法が何かあったはずだ。

 ジルベールは学校の門前で馬車を降り、ビヨにもついてくるよう合図した。

 ピトゥは辻馬車でおとなしくしていた。

 セバスチャンはまだ医務室にいた。ジルベール医師到着の報せに、校長自ら案内に立った。

 如何に目が曇っていようと、父子の性格を承知していたビヨは、目の前で繰り広げられている光景を注意深く観察した。

 セバスチャンは落ち込んでいると弱々しく苛立ち神経質になりながらも、嬉しい時には穏やかで控えめな姿を見せた。

 真っ青な父を見て、言葉を失った。口唇がぷるぷると震えた。

 やがて悲鳴にも似た歓声をあげて父の首にかじりつき、無言のうちに両腕できつく抱きしめた。

 ジルベール医師も同じく無言の抱擁で応えた。ただしその後、嬉しいというよりは悲しそうな微笑みを浮かべて、長々と息子を見つめた。

 ビヨが熟練した観察眼の持ち主であれば、この父子の間には不幸か事件が起こったのだ、と考えたことだろう。

 セバスチャンはビヨに対してはそれほど感情を押し殺しはしなかった。父だけに向けられていた注意がようやくほかのものにも向けられるようになると、農夫に気づいて首筋に飛びついた。

「ああ、ビヨさん、何て凄い人なんだ。約束を守ってくれたんですね、ありがとうございます」

「いやいや、これがまた大事おおごとだったんだ、セバスチャンさん。お父さんはしっかり閉じ込められていたもんだから、外に出すのは一苦労だったんだ」

「セバスチャン、元気だったかい?」医師が心配そうにたずねた。

「ええ。医務室にいますけど、大丈夫です」

 ジルベール医師は微笑んだ。

「医務室にいる理由は知っているよ」

 微笑むのは息子の番だった。

「欲しいものはないかい?」

「おかげさまで何も」

「だったらいつもと同じく、言うことは一つだけだ。勉学に励むといい」

「わかりました」

「これが無意味でつまらない言葉だとは思っていない。もしおまえがつまらないと感じるのなら、これからは口にするのはよすよ」

「お父さん、それに答えるのは僕ではなく校長先生のベラルディエさんだと思います」

 医師がベラルディエ氏を見ると、ちょっと話があるという合図が返って来た。

「では待っていてくれ、セバスチャン」

 医師は校長に近寄った。

「ビヨさん、ピトゥに何かあったんですか? 一緒にいませんけど」セバスチャンがたずねた。

「門のところにいますよ、辻馬車の中です」

「お父さん、ビヨさんにピトゥを連れて来てもらっても構いませんか? 会えば気持もほぐれると思うんです」

 ジルベールがうなずき、ビヨが出て行った。

「ご用件とは?」ジルベールがベラルディエ院長にたずねた。

「この子に必要なのは勉強ではなく、気晴らしなのです」

「何ですって?」

「それはもう素晴らしい若者です。誰からも、息子のように、兄弟のように愛されています。ですが……」

 院長は言い淀んだ。

「だが何だと?」

「ですが注意深く見てあげなくては、いずれこの子を殺してしまうものがあるのです」

「それは?」

「あなたの助言にあった『勉学』ですよ」

「勉強が?」

「ええ、勉強です。書見台の前で腕を組んだり、辞書に鼻を突っ込んで目を落としているのをご覧になれば……」

「それは勉強しているんですか、空想に耽っているんですか?」

「勉強です。適切な言い回しや、古典的な表現、ギリシア語やラテン語の文型を、時間があればあるだけ、考えてばかりいるのです。現に今も……」

 なるほど父親がほんの数分離れているだけのうちに、ビヨが扉を閉めたか閉めなかったかのうちに、若きセバスチャンは恍惚とした表情を浮かべて自分の世界に入っていた。

「しょっちゅうああなんですか?」ジルベールが不安そうにたずねた。

「いつものことだと申し上げるべきでしょう。あの様子をご覧下さい」

「仰る通りだ。あんなところを見つけたら、気晴らしさせざるを得ませんね」

「残念な話ですが。何しろこの勉強の成果が、いずれルイ=ル=グラン学校に最大の名誉をもたらしてくれる結晶なのですから。断言しておきます、三年後にはあらゆる試験を総なめにすることでしょう」

「とは言うものの、先生がご覧になったようにセバスチャンがああやって考えに耽っているのは、強さではなく弱さの証、健康ではなく不健康の徴候……先生が仰った通り、この子にはあまり勉強を勧めるべきではありません。いずれにしても、せめて勉強しているのか空想しているのか区別をつけられるようにしておかなくては」

「あの子が勉強しているのは間違いありません」

「あんな状態の時にですか?」

「ええ。あの子は宿題を終わらせるのが誰よりも早い。口唇が動いているでしょう? あれは課題を繰り返しているのです」

「でしたら、あんな風に繰り返しているのを見たら、気晴らしさせるようにしてもらえますか。もっと上手く課題をこなせば、もっと具合も良くなるでしょうし」

「そうお考えですか?」

「もちろんです」

「そうなのでしょう。お知りおきいただきたいのですが、コンドルセ先生もカバニ先生も仰っていたのですよ、これほど優れた人間は見たことがないと」

「一つだけお願いします。夢から引き出す時には注意してもらえますか。初めは小さな声で話しかけて下さい」

「なぜですか?」

「離れていた心を少しずつこの世に連れ帰るためです」

 院長は驚いて医師を見つめた。気が狂ったのかと言わんばかりだった。

「どういう意味なのかすぐにご覧になれますよ」ジルベールが言った。

 ちょうどビヨとピトゥが戻って来たところで、ピトゥがほんの数歩でセバスチャンに近寄った。

「ボクを呼んでくれたんですね、セバスチャン」ピトゥが腕を取った。「気を遣ってくれてありがとうございます」

 そう言ってでっかな頭を土気色の顔に近づけた。

「ご覧なさい」ジルベールが院長の腕をつかんだ。

 なるほどセバスチャンはピトゥに優しく触れられて、不意打ちで夢から引き出されてよろめき、くすんでいた顔色は白っぽく変わり、襟がふやけたように首が落ちた。胸から痛ましい溜息が洩れると、頬が鮮やかに赤く染まった。

 セバスチャンは首を振って微笑んだ。

「ああ、ピトゥか。そうなんだ、僕が呼んだんだよ」

 それからピトゥを見つめ、

「じゃあ君は戦いに参加したんだね」

「そうさ、たいした子だよ」ビヨが言った。

「どうして僕を連れて行ってくれなかったんですか?」声には非難の響きが含まれていた。「僕だって戦ったのに。父のために何かしていたのに」

「セバスチャン」ジルベールが近づき、息子の頭を抱き寄せた。「父親のために戦わなくとももっと父親のために出来ることはあるじゃないか。助言に耳を傾け、実行し、素晴らしい人間になってくれればいい」

「お父さんのようにですね?」セバスチャンは誇らしげに問うた。「そうなんです、僕はお父さんみたいな人間になりたいんです」

「セバスチャン、こうしてビヨとピトゥと抱擁を交わし、感謝の言葉を伝えたんだ、これから庭で一緒にお喋りしに行かないか?」

「もちろんです。お父さんと二人きりになれたのは二、三回しかなかったけれど、その時のことは細かいところまでしっかりと覚えていますよ」

「院長先生、いいですか?」ジルベールが確認した。

「もちろんですよ」

「ビヨ、ピトゥ、何か欲しいものはあるかい?」

「そりゃもう! 朝から何にも食べてないんですよ。きっとピトゥも同じように腹を空かせてると思いますよ」

「実を言うと、あなたを水から引き上げるちょっと前に、丸パン一つとソーセージを何本か食べていたんです。でも泳ぐとお腹が減るのも事実ですから」

「では食堂へいらっしゃい、昼食(dîner)がご用意できるでしょう」ベラルディエ院長が言った。

「うわ!」ピトゥは声をあげた。

「学校の献立では不安かね? ご安心なさい。客人としておもてなししますよ。それに――」と院長は続けた。「見たところ、胃が空っぽなだけではないようですね、ピトゥさん」

 ピトゥは真っ赤になって自分の身体を見下ろした。

「よければ食事と一緒にキュロットも……」

「よろしくお願いいたします、院長先生」ピトゥが答えた。

「ではいらっしゃい、キュロットと食事をご用意いたします」

 院長がビヨとピトゥを案内している間に、ジルベール父子も部屋を出ていた。

 二人は休憩用の中庭を過ぎ、教師用の小庭に着いた。その日陰の涼しい一隅で、ベラルディエ院長はしばしばタキトゥス(Tacite)やユウェナリス(Juvénal/Decimus Iunius Iuvenalis)を繙いていた。

 ジルベールは牡丹蔓クレマチスや蔦で陽射しを遮られた木製ベンチに腰を下ろしてから、セバスチャンをそばに招き、額に垂れていた長い髪を掻き上けた。

「また会えるとはね?」

 セバスチャンは天を仰いだ。

「主の奇跡のおかげです」

 ジルベールは微笑んだ。

「奇跡というものがあるとすれば、起こしてくれたのは勇敢なパリ市民だよ」

「神様のことも邪険にしないで下さい。お父さんに会えた時、真っ先に感謝したのは神様にだったんですから」

「ビヨには?」

「ビヨは神様の次です。カービン銃がビヨの次なのと一緒です」

 ジルベールはよく考えてみた。

「そうだね、神はすべての中心にいる。だがそれよりもおまえの話に戻ろうか。また離ればなれになる前に少し話をしておこう」

「また離ればなれになるというのですか?」

「長くはならないと思うがね。貴重な書類の入った小箱がビヨの家から消えてしまった頃、私がバスチーユに入れられたんだ。私を牢屋に入れ、小箱を盗んだ人間を見つけなくてはならない」

「わかりました。また会えるように、上手く見つかるといいですね」

 セバスチャンはため息をついた。

「辛いのかい、セバスチャン?」

「ええ」

「なぜ?」

「わかりません。僕の心はほかの子たちとは違う作られ方をしているんじゃないかと思うんです」

「何を言おうと……?」

「真実です」

「説明を頼む」

「みんなは楽しんだり喜んだりしているのに、僕はそんなことないんです」

「楽しんだり喜んだりしたことがないというのかい?」

「そうではなくて、僕ぐらいの年齢に相応しい遊びに楽しみを見出せないんです」

「いいかいセバスチャン、そんな性格ではいけない。輝かしい未来をもたらしてくれる心というものは、成長中の果実のようなものだ。初めのうちこそ苦く、酸っぱく、渋くとも、成熟すれば甘美なる喜びが待っている。青臭いのは悪いことじゃない」

「若々しさに欠けていようとも、僕のせいじゃありません」セバスチャンは弱々しい笑みを見せた。

 ジルベールは息子の手を両手で包み込み、しっかりと目を見つめた。

「おまえはまだ種の段階なんだ。詰め込まれたものが芽を出すにはまだ早い。十四歳にしては真面目すぎる。自惚れか病気だよ。元気かとたずねたら元気だと答えたね。自惚れているのかとたずねても、違うと答えてくれるだろうね」

「安心して下さい。僕が辛いのは病気だからでも自惚れているからでもなく、悲しいからです」

「悲しいからだって? おまえの年で何を悲しむというんだ、教えてくれ」

「今はよします。急いでいると仰っていたので。十五分しかないんですから、こんな馬鹿げたことではなくほかのことを話しませんか」

「心配したまま立ち去ることなんか出来ないよ。悲しみの原因を教えなさい」

「言えません」

「何を恐れているんだ?」

「お父さんの目には妄想狂と映るかもしれないし、お話ししたら悲しませることになるかもしれないからです」

「話しなさい」

「出来ません」

「セバスチャン、いっぱし一人前のつもりかい」

「だからこそなんです」

「さあ、勇気を出すんだ!」

「実は、夢のことなんです!」

「夢に怯えているというのかい」

「そうでもありそうでもありません。夢を見ている最中には怖いとは感じずに、別世界に連れて行かれたような感覚なんです」

「説明を頼む」

「幼い頃にはこれと同じ幻覚を何度も見ました。ヴィレル=コトレの森で迷子になったことが何度かあったでしょう」

「そうらしいね」

「僕は亡霊のようなものを目にしていたんです」

「つまり……?」ジルベールは怯えたような目を我が子に向けた。

「こういうことなんです。ほかの子たちのように村で遊んでいた時のことです。村でほかの子たちと一緒にいる時には何も見えません。ところが一人になって村はずれの畑を過ぎると、衣擦れのような音が聞こえるんです。布をつかもうとして腕を伸ばしても、空を切るだけでした。ところが衣擦れが遠ざかるにつれて、入れ替わりに亡霊が姿を現すんです。初めは雲のように霞んでいるだけでしたが、徐々に靄は濃くなり、やがて人間の形を取りました。女性のような身体つきをしたその靄が、歩くというよりは滑るようにして森の暗い奥深くに進むにつれて、その姿はますますはっきりとして来ました。

「人智の及ばぬ抗いがたい力に引かれて、僕は女性の後を追いました。腕を伸ばして、そのひとのように声も出さずに追いかけました。声をかけようと思ったことも何度かありましたが、声になりませんでした。追いかけても追いかけても立ち止まってはくれず、追いつくことが出来ないまま、現れたのと同じように不思議な出来事が起こってそのひとはいなくなってしまったのです。だんだんと姿が見えなくなり、靄のようになったかと思うと、ぱっと消えてしまい、それっきりでした。僕は疲れ果てて、そのひとが消え失せた場所に倒れ込みました。そこに倒れているのをピトゥがその日のうちに見つけてくれることもあれば、翌日になってようやく見つけてくれることもありました」

 ジルベールはますます心配して我が子を見つめ、指で脈を取っていた。セバスチャンにも父親の気持は痛いほど理解できた。

「心配しないで下さい。現実ではないとちゃんとわかっていますから。あれはただの幻覚です」

「どんな女なんだ?」

「王妃のように堂々としていました」

「顔は見えたかい?」

「ええ」

「いつから?」ジルベールは震えながらたずねた。

「ここに来てからです」

「パリにはヴィレル=コトレのように木々に覆われた鬱蒼とした森はないじゃないか。沈黙も、孤独も、亡霊を見る原因になるようなものは何もない」

「あるんです、そのすべてが」

「何処に?」

「ここです」

「ここだって? ここは教師用の庭じゃないのか?」

「でもここで何回かあのひとが見えたんです。そのたび後を追いましたが、閉ざされた扉の前で立ち往生するばかりでした。作文の出来がよかったご褒美にベラルディエ院長から欲しいものを尋かれたので、時々この庭を一緒に散歩して欲しいとお願いしたところ、お許しをいただきました。僕はここに来て、ここでまた幻覚を見たんです」

 ジルベールはぞっとした。

 ――何てことだ。でもこの子のように繊細な質ならあり得ないわけじゃない。「顔を見たんだね?」

「ええ、お父さん」

「忘れてはいないね?」

 セバスチャンは微笑んだ。

「近づいてみたと言ったね?」

「ええ」

「手を伸ばしてみたとも」

「手を伸ばした瞬間に、姿が見えなくなったんです」

「この女は何者だと思う、セバスチャン?」

「お母さんなのではないでしょうか?」

「母親だって?」ジルベールの顔から血の気が引いた。

 ジルベールは止血する時のように胸に手を押し当てた。

「いいや、これは夢なんだ。私の頭もおかしくなってしまったらしい」

 セバスチャンは何も言わず、物思わしげに父を見つめた。

「何だったかな?」ジルベールはたずねた。

「あれはですね、夢だとしても、実体は存在していたんです」

「どういうことだい?」

「聖霊降誕祭の後半、ヴェルサイユに近いサトリー(Satory)の森に散歩に連れて行かれた時も、僕一人だけは夢を見ていたんです……」

「同じ幻覚を見たんだね?」

「そうなんですが、今回は立派な四頭の馬に曳かれた馬車に乗っていたんです……しかも今回は現実でした。生きていたんです。気が遠くなりそうでした」

「どうしたんだ?」

「わかりません」

「今度の亡霊を見てどう思った?」

「夢で見たのはお母さんではなかったのだと思いました。今度のひとは亡霊と同じ姿をしていましたし、お母さんは死んでいるのですから」

 ジルベールは飛び上がって額を叩いた。異様な眩暈に襲われていた。

 セバスチャンもそれに気づき、真っ青になった顔を見てぎょっとした。

「ああ、お父さん、こんな馬鹿げた話をするんじゃありませんでした」

「そんなことはない。もっと話してくれ、会うたび話してくれ。二人して快復させようじゃないか」

「どうして快復しなくちゃならないんです? 僕はもうこの夢に馴染んでしまいました。もはや生活の一部なんです。このひとに恋してしまいました。避けられても、時には拒まれたように感じても。だから快復なんてさせないで下さい。お父さんはまた出かけるかもしれないし、またしても旅に出るかもしれないし、アメリカに戻るかもしれないじゃありませんか。この亡霊と一緒なら、独りぼっちというわけじゃありませんから」

「そうか」

 医師は呟き、セバスチャンを抱き寄せた。

「今度会う時には二度と離れるもんか。旅立つ時は一緒だ、何とかするよ」

「お母さんは綺麗な人でしたか?」

「ああ、綺麗だよ!」医師は喉を詰まらせた。

「僕がお父さんを愛しているのと同じくらい、お母さんのことを愛していたんですね?」

「セバスチャン! 母親のことは二度と口にしないでくれ!」

 医師は最後にもう一度額に口づけするや、庭から飛び出した。

 セバスチャンは後を追いもせずに、がっくりと打ちひしがれてベンチに坐り込んだ。

 ジルベールは中庭でビヨとピトゥに合流した。二人ともすっかり良くなり、バスチーユ攻略の様子をベラルディエ院長に話している最中だった。ジルベールはセバスチャンについて新たに助言してから、二人を伴って辻馬車に乗り込んだ。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XX「Sébastien Gilbert」の全訳です。


Ver.1 14/05/24

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