※翻訳に当たって、『モード』の抜粋が収録されている岩波文庫『対訳テニスン詩集』(西前美巳編)[bk1・amazon]を参考にしました。
目次
第一部
I 小さな木の裏にある忌まわしい洞穴が嫌いだ、
II 長いあいだ憧れていた安らぎを。そろそろ見つけさせたまえ!
III 冷たく整った顔よ、どうしてそれほど残酷に穏やかになれるのだ、
IV 幾万のエメラルドがルビー色のライムの蕾からこぼれ落ちる、
V 杉の木のそばで声がする、
VI 荒れ模様の青白い夜明けが訪れ、
VII まどろみのなか聞きしか?
VIII あのひとは村の教会を訪れ、
IX わたしは一マイル歩いていた、
X 病んでいる、わたしは嫉妬の恐怖に病んでいるのか?
XI ああ固い大地の
XII 屋敷《ホール》の庭で鳥たちが
XIII 蔑んでいる奴に蔑まれることが、
XIV モードの庭には薔薇や百合が
XV 闇は我が心の内に暮らし、
XVI 目方の減るにしたがい軽くなる
XVII 去るなかれ、幸せな日よ、
XVIII あのひとを家に送ってきた。想い人。ただ一人の友。
XIX あのひとの兄が今夜戻って来る、
XX 妙な話だ、こんなにも朗らかな気分だなんて。
XXI 小川はわたしの住まいを越えて、
XXI 庭にいらっしゃい、モード、
第二部
I 「間違ったのはわたしだ、間違ったのは――」
II 何と素敵な貝殻だろう、
III 喝! 哀れな石の心よ!
IV 嗚呼できるものならば
V 死よ、長き死よ、
第三部
VI わたしの命は翼の折れたまま長いあいだ這い続けてきた
1
小さな木の裏にある忌まわしい洞穴が嫌いだ、
穴のうわべりに開いた口には血のように赤いヒースが撥ね、
赤い筋のついた岩棚は血のような無言の恐怖で濡れ、
こだまは何をたずねられても、ただ「死死死」と答える。
2
なぜならそのおぞましい穴のなかでずいぶんと前に死体が見つかったのだ、 5
わたしに命を授けたのはそいつなのか――父よ! 神よ! そうなのか?――
地面のなかで押しつぶされ、ぺしゃんこにされ、砕かれ、ひしゃげられているのが。
今でもまだそこには、死体とともに落ちた岩が眠っている。
3
みずから身を投げたのか? わかるものか。大きなヤマを外して、
絶えず不平を洩らし怒りを見せ、絶えず絶望に蒼ざめていたし、 10
堕ちた俗物そのもののような音を立てて風がすすり泣き、
うらぶれた山林から金が逃げ出し空中を駆け抜けるなかを、歩きまわっていたのだから。
4
あれは忘れもしない、髪が根元から震えていた
引きずった足音のせいで、ずしりとした重さのせいで、ぞっとするようなささやきのせいで、
それに心臓が衝撃を受けて血管という血管が門を閉じていた 15
母の甲高い悲鳴が震える夜を切り裂くのが聞こえたせいで。
5
どこかで悪事が! 誰の? 人が言うには、わたしたちは揃って悪人だそうだ。
あいつは違う。あいつが正直だという評判は、せめてわたしだけでも忘れずにいよう。
だがあの老いぼれ、今や広い土地と
わたしたちを骨抜きにして干涸らびさせた企みから、たらふく貪って身を引いた。 20
6
なぜ軽々しく平和のありがたさを口にするのだろう? わたしたちが呪いをかけてやったというのに、
他人のものをくすねたくてその手をうずうずさせている掏摸たちめ。
カインのような心根で、他人のものを欲しがるのは、
戦時中に暖炉の前でぬくぬくと野次を飛ばしている市民の心よりも、ましだろうか、悪しかろうか?
7
だがそれも進歩の日々であり、賢い人間のおこないだ、 25
愚か者以外の誰が商人の壺や言葉を信じるというのだろう?
それは平和なりや戦争なりや? わたしが思うに、内戦であり、それも卑怯な
堂々と剣を佩いたりしないような、とりわけ卑しい戦争だ。
8
遅かれ早かれわたしも黄金時代の痕跡を
手にするのだろう――いいではないか? わたしには期待するものも信じるものもないのだ。 30
心を石臼のように固め、顔を火打ち石のように強張らせて、
騙し騙され、死ぬかもしれない。違うと言えるか? わたしたちは灰と塵なのだ。
9
平和はオリーヴの下で休み、日々が過ぎ去るのにも知らん顔だ、10
そして酸っぱい狂気がチンピラの頭のなかで飛沫をあげる、
足を踏み鳴らすおかみさんの怒鳴り声が不潔な横丁に響き渡り、
パンの代わりに白堊と
殺意が生きる手だてのなかにも忍び込むまで。 40
11
そして眠りの最中も警戒を解くことはない、なぜなら悪人の回し錐が
こすられるのが、月のない夜のしじまのなか眠れぬ耳に届くからだ、
別のところでは病人から断末魔を盗み取っている人間が、腰を下ろして
緋色の光のかげで、毒入りの毒をすりつぶしている。
12
強欲な母親が葬式代ほしさに赤ん坊を殺し、 45
強欲なティムールが積み上げられた子どもたちの骨を見てほくそ笑むとき、
平和なりや戦争なりや? 断然、戦争だ! 陸でも海でも激しい戦争を、
幾千もの戦闘が起こり、幾百もの玉座が震えるような戦争を。
13
なぜなら信じているのだ。敵の艦隊が丘を回って向こうからやって来たなら、
そして鋭い弾丸がわたつみに浮かぶその三層甲板艦から音を立てて飛んで来たなら、 50
澄まし顔をした獅子鼻のごろつきも勘定台と現金入れの向こうから飛び越え、
チャンスさえあれば、ごまかしに用いてきた物差ししか持たずとも、攻撃するだろうと。ずばりと――
14
嗚呼! 父が激怒したようにわたしも一人激怒しているのか?
わたしも洞穴まで這いずり、身を投げ出し、死なずにはいられぬのだろうか?
砕かれた手足の恐ろしさや浅ましいペテン師の嘘のことを 55
二度と考えまいとして、自分で作った約束事にこだわるよりも。
15
わたしのために悲しんでくれる人はいるのだろうか? 激しい嗚咽には愛があった、
墓に急ぐという過ちを犯した物言わぬものへの愛が――
マントに包まれているのを見ると、もしや起きあがって口を利き
嘘と嘘つきに向かって怒鳴り散らすのではないかと思われた、ああ神よ、かつてよく怒鳴っていたように。 60
16
留まるべき理由は? ここにいれば今よりうまい機会が訪れるとでも?
そら、苦しむ勇気だけでなく行動する勇気を持っているのであれば、
この場所と穴と恐怖から逃れた方が賢明だと言えぬだろうか?
17
あの暗く古くさい場所も百万長者の手で金ぴかにされるのだろう。
どこでだったか忘れたが、モードがひどく美しいと耳に挟んだ。
子どもだったころ遊んだときに、綺麗でいるとモードは誓った。
18
モード、大胆に駆け上るかと思えば転落し、子どもっぽく逃げ出す、
モード、村の輝き、
モード、わたしの父が葡萄を見せたときの愛らしくすぼめた口、
モード、わたしの母に愛された娘、村中から愛された丸顔――
19
今はどうしているのだろう? いやな予感がする。モードは災いをもたらすのではないか。
いいや、葦原にはもっと肥えた獲物がいる。わたしのことなど放っておくだろう。ありがたいことに、悪魔は誰よりも知っているのだから。女だろうと男だろうといっそうひどいということを。 75
わたしは自分に閉じこもり、悪魔は自らのために笛を吹くだろう。
長いあいだ憧れていた安らぎを。そろそろ見つけさせたまえ!
モードにも安らぎを破ることはできない、興趣も機知もないのだから、
だが馬車が通ったときに見た、冷たく整った顔は、
完璧に美しかった。それは認めることにして。欠点はどこだ? 80
わたしが見たのは(モードは見られぬように目を伏せていたから)
瑕になるほど瑕のない、氷のように整った、見事なほどに特徴のない、
死のように完全なもの、ただそれだけ。運よく移動中に見た
青白い肌や、薔薇の命のはかなさや、
熟れすぎてぽってりしすぎと言われかねない下唇や、 85
繊細な鼻の細やかならざらぬ鷲のようなカーブがなければ、ほかには何もなかった。
そうしたものから心を残さず逃げてきたのだ、憂鬱ならざらぬ気持を抱いて。
冷たく整った顔よ、どうしてそれほど残酷に穏やかになれるのだ、
メランコリックな痴れ者がどっぷり浸かっていた眠りを破ってまで。
青ざめた頬の上で黄金色に輝く睫毛は微動だにせず、 90
情熱もなく、青ざめた、冷たい顔は、まるで深い闇に浮かぶ星の輝き。
女らしいことだ。一時の誤解のためにそこまで執念く恨みを晴らすとは
あなたの美しさに対する空想でしかなかったのに。昔と変わらず青ざめたまま
わたしに向かって音もなくそそり立て消え失せそそり立て
光まばゆく、宝石のように、幽霊のように、死のように、長い夜の半ばを 95
わたしが限界を迎えるまで、そそり立て消え失せそそり立てるなんて。
やがて耐えきれず立ち上がり、暗い庭の地面にただ一人、
今や所狭しと暴れ船を沈める潮のうなりに耳を傾けたかと思えば、
今は波に引かれて狂える浜辺の叫びに耳を傾け、
ぞっとするようなかすかな光を頼りに冬の風に吹かれて歩けば、
見つけたのは輝かしい水仙の朽ち枯れと、墓に眠るオリオン座。
1
幾万のエメラルドがルビー色のライムの蕾からこぼれ落ちる、
わたしの座っている木立のなかで。――どうしてわたしにはできないのだろう、
明るい季節に存するもののように、実り多く穏やかな季節のようにしていることが。 105
遙か遠くの船の帆が穏やかな地方の風に吹かれて、
海に浮かぶ三日月のように青い花となってあてどなく動き回り、
陸地の結婚指輪のように音もなくサファイア色に輝いているというのに。
2
ほらあそこ、わたしの下に村がある。見たところ平和で小さな村のようだ!
それなのに都会と変わらず、噂、醜聞、悪意が泡をなして溢れている。
そして酒場の椅子ではジャックがツァーリのようにたくさんの嘘を吐く。 110
そしてそこ、陸地側にある赤い岩のそばに、ぼんやりと
そして屋敷の庭に行くと、あのひとが光のように通り過ぎるのが見える。
だがたとえその光がわたしを導く星だとしても、わたしは悲しみに囚われるのだ!
3
皺くちゃ頭のあのひとの父に挨拶したのはいつのことだっただろう?
今日は兄と一緒のあのひとに会ったが、兄に挨拶をしたわけではない。 115
葦原を馬で歩いているその妹に挨拶をしたのだ。
だが浅ましい自尊心の炎があのひとの美しい顔を染めた。
嗚呼ばかな子だ、きみは自分の美しさを損ねている、そんなに驕り高ぶって。
きみの父はひどく裕福で、わたしは名もなき貧乏人というだけではないか。
4
わたしには下男と下女しかいない、いつでも陰口と盗みをするような奴らだ。 120
それがわかっているから、強張った笑みを浮かべるんだ。禁欲主義者のような、あるいは
もっと賢い快楽主義者のような。それで放っておけばいい。
なぜなら自然には強奪がつきものであり、説教師にも治せない病だからだ。
カゲロウは燕に引き裂かれ、雀は百舌に突き刺され、
わたしの座っている木立はどこも掠奪と捕食の世界なのだ。 125
5
わたしたちは操り人形、誇りにあふれた「男」と、花に囲まれた可憐な「美女」。
わたしたちは自力で動いているのだろうか、それとも見えざる手で動かされているのだろうか?
他人の成功を横目に、ゲームのボードから押し出されているのだろうか?
嗚呼それにしても、一時間のあいだここで優しくしあうことさえできない。
どれだけ勇敢に振る舞おうとも、わたしたちは取るに足らない人種なのだ。
6
巨大なイモリがかつて地球の神であり主であった、
イモリは空高く太陽を燃やし、波打つ川を走らせ、
自らが自然を統べる種族であることを、その力のうちに感じていた。
九か月が過ぎて月満ちた赤子が生まれるように、 135
幾千という年月を過ぎ経て人類が作られてきた。
人は今や頂点に立ったが、底辺ではないのだろうか? それほど卑しくはないと言えるだろうか?
7
科学者はひとり栄光を求めるが、果たせず、
目は自然を熟知し、魂は不幸にも縛られていた。
詩人の情熱的な心は愚行と悪徳に踊らされた。 140
わたしはどちらにも驚いたりせず、冷静を保っていた。
できるものならば、何かを求めも崇めもせぬ方が
香草の庭でそのかみのスルタンのごとひねもす歩くことに勝るがゆえ。
8
何となれば創造主の本意は見えず、さながらヴェールの下の女神イシス。
世界の仕組みを誰が知ろう、神は如何にしてそれを作りたもうのか? 145
わたしたちの星は一つ、太陽は多く、世界は広い。
ポーランドが敗れれば泣くべきなのか? ハンガリーの失敗を嘆くべきか?
あるいは幼い文明が杖や鞭で統制されていたら?
世界を作ったのはわたしではない、世界を作りたもうた神が導くことだろう。
9
静かな森のなかで哲学者のような生活を送りたいものだ、 150
愉快にやれないのなら喜怒哀楽のない平穏を選ばせてほしい、
嘘つきたちのつく嘘の馬鹿騒ぎから遠く逃れて。
ぎゃーぎゃーわめいてばかりいる世間の首長鵞鳥たちから遠く逃れて。
何しろ本性が卑しく、本人が気づいていようとなかろうと、
そこでは誰もが有毒の虻の群れに頭を突っ込んだまま歩いているのだから。 155
10
なかんずくわたしは愛という残酷な狂気から逃げ出すことになる、
毒草に潜む蜜や、果てしのない病の数々から。
ああモード、乳白の子鹿、あなたには人の妻など似合わない。
あなたの母は墓のなかで黙して語らぬ、墓上の大理石の像のように。
あなたの父はずっとロンドンだから、あなたは自由に歩きまわれる。 160
あなたが口にするのは薔薇だけであり、横たわるのは生の白百合のしとねだけ。
1
杉の木のそばで声がする、
あのひとが歌っているのはわたしのよく知っている歌、
勇ましく陽気で、情熱的なバラッド、 165
喇叭の音のような戦争の歌!
命の夜明けに一人きり歌っているのは、
命と五月の幸せな夜明けに
歌っているのは、戦いの隊列を取り、
心の準備も手元の用意も整い、 170
旗と喇叭と横笛を掲げて、祖国のため
死に向かって進軍する男たちの歌。
2
モード、その繊細な顔、
その野性的な声は曇りなき空に響き渡り、
その足は曇りなき宝石のようにイギリスの草原を踏む、 175
モードが若さと雅の光に包まれて、
死と、死を知らぬ名誉を歌っているのを聞けば、
いくらでも涙を流せるだろう、けちで卑しい時代と、
物憂くさもしい自分自身のために。
3
静かにしてくれ、美しい声よ! 180
おとなしくしてくれ、心を掻き乱すだけなのだ
心弾むことなき喜びでさいなみ、
見つからない栄光で彩って。
おとなしくしろ! もう聞きたくはない、
あなたの甘い声を聞いてわたしにできることは 185
牧草地に向かい、芝生の上のあなたの
足の前にひれ伏して、崇めることだけだ、
あのひとをではない、気品も優しさもない
あのひとをではない、あのひとではなく、あの声を。
1
荒れ模様の青白い夜明けが訪れ、 190
太陽ではなく、青ざめた光が
色のない雲のまにまに洩れ、
芽吹いた木々の梢が
突風に殴られて頭を垂れる。
きっと晴れるに違いないと、考えていたのに。 195
2
モード以外の誰に会おうというのだ
昨夜、村の通りの先にある
花咲き乱れる妻壁の表面で
夕焼けが燃えているときに
モード以外の誰に会おうというのだ? 200
モードは艶然としてわたしの手に触れ
畏くも償いをおこなったのだ
返ってこなかった挨拶の見返りに。
3
こうして真っ赤に増した
優美なきらめきが 205
夜のあいだじゅう光を投げかけ
わたしの夢の核で温もりを保ち続け、
色づいた炎のなかでいつでも燃え立とうとしていた。
やがてついに夜明けが訪れると
雲のなかに、光は色褪せ、もはや 210
灰色にくすんだ喜びにしか見えなかった。
4
いったい何だというのか。曇りなき髪をした、
冷ややかなほどに曇りなき微笑みを浮かべたあのひとが、
わたしに媚びてごまかし
罠を仕掛けようとしたところで。 215
そのかみのクレオパトラのように
出会ったときにわたしを絡め取ろうとし、
絹の網のなかにライオンを這いつくばらせ
おとなしく足許にひれ伏させようとしたところで。
5
五十になったらどうなるのだろう? 220
母なる自然はわたしを生かし続けるのだろうか?
たかだか二十五歳にして
この世の苦みを知ってしまったというのに。
だがあのひとがペテン師ではないのだとしたら、
モードが見たままの通りなのだとしたら、 225
あの微笑みが夢見た通りのものだとしたら、
この世はさして苦くはない
微笑みが甘く変えてくれるはずだ。
6
何だというんだ、あのひとの目が
優しくしてくれそうに見えたからといって。 230
何だというんだ、あのめかした暴君、
あの宝石の散りばめられた婦人帽、
あのてかてか光った縮れ毛のアッシリアの牡牛、
麝香と傲慢の匂いをぷんぷんさせた
会いたくもないあのひとの兄が、 235
自分の利益のためでしかないとはいえ
のっぺりした笑顔の下に残忍な嘲笑を
隠すための、高度な戦略に欠けているからといって――
何だというんだ、あいつが昨朝あのひとに語ったところで。
自分の甘く香しい利益のために 240
見せかけに過ぎない穏やかな顔や、
乾いた目のなかの湿った妄想が、いかに素晴らしいかを語ったところで。
そして腐敗した選挙台が一月後に
あいつの図太い嘘に震えたとき、
浅ましい賛成票が投じられたところで。 245
7
わたしの横で、いつも鴉が鳴いているから、
警戒セヨ警戒セヨ、気ヲツケヨ気ヲツケヨ、
サモナクバ貴様ハ彼奴ラノ道具トナラン。
そのうえ、自分からも自分を守らねばならない、
その人自身の激しい自惚れも 250
道化の鈴つき帽のようなものなのだから。
8
恐らくあの微笑みも柔らかい声も
人を憐れむ女らしさのたまものなのだ。
なぜならわたしはここで一人
何年も夏を過ごしてきたのではないのか? 255
あれほど優しく善良だった母が死んで以来。
輝く森のなかで隠居同然に、
空っぽの家で独り暮らしていると、
真昼に死者がうめき、
羽目板から鼠がキーキー鳴きながら飛び出し、 260
わたしの悲しい評判が隅々で立てられたのが聞こえる。
そのとき木の葉が震えて踊りながら
震えの反響する広い部屋に舞い落ちる。
やがてぞっとするような憎しみと恐怖が
わたしのほとんど交わったことのない世間で成長し、 265
毒性の苔が心を蝕み
なかば石化した心の上に根を張るまで。
9
ああ石の心よ、おまえは肉の心ではないのか?[*1]
飽くまで抗うと誓ったことに囚われているのか?
それ以外の何のために心のなかに作られたというのだ? 270
宝石のようにきらびやかな、あのひとの手が、
神聖な手袋からするりと擦り抜けるのを目にし、
太陽の光があのひとの口唇から洩れ出したときに
わたしの言葉を吃らせつまずかせた
あの愛という新しくむせ返るような葡萄酒は? 275
10
子どものころにはあのひとと遊んだものだった。
こうして会っている今もあのひとはそれを覚えている。
ああそう、そう、そうだ、わたしは騙されているのかもしれない
媚びに欺かれているのかもしれない。
だが、あのひとがペテン師ではないのだとしたら、 280
モードが見たままの通りなのだとしたら、
あの微笑みが夢見た通りのものなのだとしたら、
この世はさして苦くはない
微笑みが甘く変えてくれるはずだ。
1
まどろみのなか聞きしか? 285
遙か以前、
この安楽椅子に眠りしときに。
2
人々ともに飲み
飲みながら我のことを語らいぬ。 290
「
あまた得べし。いざさらば」
3
そは少年の読み耽りし
とある
うなずき合いしトルコの高官なりや?
4
面妖な、二人の男の声を聞きぬ、
何処なりや、我のことを語らいしを。
「少女であらば、我が
あまた得べし。いざさらば」 300
あのひとは村の教会を訪れ、
柱のそばに一人で座った。
壺を見つめる天使が
石で刻まれたようなあのひとに涙した。
そして一度、一度だけあのひとは目を上げ、 305
不意に嫋やかに不思議そうに顔を赤らめた、
ここで会ったのがわたしのしわざだと気づいたのだ。
そして突然、嫋やかに、わたしの心臓が脈打つ
より強く、より激しく。もはやわたしには
雪のような帯を掛けた、素人じみた、 310
きれいな手をした司祭の詠唱は聞こえなかった。
そして考えた。自惚れだろうか。思いに耽ってため息をついた。
「そんなはずはない。自惚れでなどあるわけがない」
わたしは一マイル歩いていた、
海岸から一マイル以上離れて。 315
太陽がにっこりと顔を出した、
雲と荒野のあいだから。
やがて一日の終わりに馬に乗って、
暗い荒野の向こうまで、
早足で遠くまで駆けながら、 320
あのひとはわたしに手を振った。
横には二人の人間がいて、
何かが太陽のなかできらめき、
馬に乗って丘を降りるのが見えたけれど、
あっという間に行ってしまった。 325
まるで不意に火花がはじけ
むなしく夜を襲うものの、
ふたたび暗闇に戻るように、
もはや何の希望の光も見えなかった。
1
病んでいる、わたしは嫉妬の恐怖に病んでいるのか? 330
あのひとの横にいた二人のうちの一人は
あの新しい領主ではなかったか? その華やかさに
村人も頭から奴隷じみた帽子を剥ぎ取っていたではないか。
年老いた祖父が先ごろ死んだとか。
真っ暗な竪穴に赴き、孫のために 335
諸肌脱いで垢まみれで手押し車を引きずり
毒にまみれた暗がりのなかで線路を敷き
働いていた。やがて掘り尽くされた鉱山から這い出て
属州の半分を所有し
石炭をそっくり
気高い血筋の第一等である、孫のため。
その類まれなる雅には女たちが焦がれ、
その勇ましい力強さには男たちが憧れ、
にやにや笑い、声をひそめて、
少女相手のように優しくなり、 345
神聖な作品を見て畏怖に打たれて息を殺した。
安っぽい城の輝きを、
肩書き同様ほやほやの、去年に出来た城の輝きを見ては、
我が物顔の落葉松や松の木に囲まれた
陰気な紫の荒野の果てにある城に
ロンドン子が聞き耳を立てている(のを見よ)。 350
2
あいつがわたしの宝石を見つけたのか?
あのひとの横で馬に乗っていた二人のうちの一人は
屋敷に向かっていた、きっと花嫁のために。 355
あのひとの兄も快く受け入れるのだろう。
モードも淑やかになれるに違いない、
領主になら、大尉になら、詰め物になら、
金で買った将校になら、蝋のような顔になら、
ぽかんと開けっぱなしの兎口になら―― 360
金で買った? 金で買えないものとは何だ?
だからこそ気難しく、自分勝手で、卑しく、
傷ついたものが恨みを込めて叫んでいるのだ、
自分と戦っている哀れな人種に、
病んでいる、人生のさなかに病んでいるのだ、わたしは。 365
3
先週この田舎町にやって来た人物は、
ちっぽけな軍隊をこき下ろしにやって来たのだ、
さらには専制君主ごっこをするために。
国はとっくにおこなっていたのだが。そのうえ三度も。
聖具を売るこのつば広帽の行商人の 370
耳には綿が詰められたまま、夢のなかでさえ
小銭の鳴る音が鳴り響いている。
この行商人が戦争をくさしている! この人物に
戦争が原因なのか結果なのかがわかるというのか?
するなら情熱をくさせ! 情熱は地上を地獄に変える。 375
野心的に、貪欲に、尊大に貶すがいい、
妬み深く、貶すがいい! 心から
怒りと恐れの苦い泉を断ち切ってしまうがいい。
同じように、家の炉端で貶すがいい
悪魔の舌と、悪魔の耳を使って貶すがいい 380
誰もが人類と戦っているのだから。
4
もう一度聞けたらいい
騎士道時代の戦いの歌を
あのひとが喜びに声を震わせて一人歌っていたあの歌を!
そうすればわたしとて納得もしよう 385
あのひとはこんな大きな過ちをおこなうまいと。
一人の男、人々の指導者の代わりに
やんちゃで自堕落な少年をものにするようなことはすまいと。
5
神よ、心技体を兼ね備えた男、
永遠にいなくなってしまった 390
素朴で偉大な人々のような、
騒がしい土地で一人静かな逞しい男、
人が何と呼ぼうと構わぬが、
貴族的、民主的、金権的な――その
統治することはできても嘘をつけない男の代わりに。 395
6
嗚呼わたしのなかに聳える男の代わりに、
わたしという男がわたしであることをやめるかもしれぬというのに!
1
ああ固い大地の
我が足許で消ゆる勿れ
我が生命が気づくまでは 400
人が甘美と気づいたものに。
あとは来るなら来ればよい、
正気を失くすも些細なこと、
とうに終わっているだろうから。
2
甘き天国の長からん、 405
暗く閉ざすこと勿れ
我の信ずるに至るまでは
ひとに愛されていることに。
辛く悲しい人生になど
あとは来るなら来ればよい、 410
とうに終わっているだろうから。
1
黄昏がその帳を降ろすとき、
モード、モード、モード、モード、
と、声をあげて呼んでいた。 415
2
モードはどこだ? 森のなか。
ほかにはわたしがモードと二人、
みなでこぞって咲きほこる、
森の白百合を摘み取っていた。
3
森でさえずる鳥たちが 420
谷間に声を響かせて
モードはここ、ここ、ここ
百合のなかだと歌い上げる。
4
細やかな手に口づけすると、
それを黙って受け止めた。 425
モードは十七にまだ満たぬが、
背も高く侵しがたい。
5
わたしは自惚れて叫んでいた
あのひとの愛を勝ち取った!と
ああ謙遜がひとを救えるなら 430
モードは天国に行けるだろう。
6
少女のころ花束を手に
帰宅した道を知っている、
あのひとの足は牧場を踏んで
赤い雛菊を落としていった。 435
7
屋敷の庭で鳥たちが
声をあげて呼んでいた、
モード、モード、モードはどこだ?
人が口説きにやってくるぞ。
8
ほら、戸口に馬が、 440
それにチャールズも吠えている、
立ち去れ、荒野を越えて、
あんたはあのひとのイロじゃない。
1
蔑んでいる奴に蔑まれることが、
わたしのいらだちの原因なのか? 445
忍ぶべきつらい試練なのか?
どうやらいまだにわたしを憎んで生きているらしい。
自惚れから人を苦しめる愚か者め!
わたしは奴の土地を抜けて、通り過ぎた。
奴はかたわらの小径に立っていた。 450
認めざるを得ないが、奴の顔には、恨みの代わりに
開けっぴろげな赤と白の美しさがあり、
見たところでは、背は六フィート二インチあった。
だが奴の本性が健やかな外見を病的に変え、
金のかかった悪趣味な宝石どもが 455
胸や手の上で陽を浴びていた。
2
わたしを不誠実で不公平だと呼ぶ者よ、
わたしは心から望んでいたのだ
奴とすぐにでも友情を結ぶことを。
だがわたしが通り過ぎるあいだ奴は鼻歌を歌い、 460
歌うのをやめ、それから乗馬用の鞭で
ゆっくりとぴかぴかのブーツを叩き、
偉そうにくちびるを歪めて、
石のように冷たい目つきで
わたしの全身を石に変えた。 465
3
なぜ奴はここで父親の椅子に座っているんだ?
あの老人がこの場所に座ることは二度とないのに。
見られたことを恥ずかしいと思うべきなのか?
ただ一度だけ、町の通りで、
去年のこと、老人を見かけたことがある、 470
白髪の老いた狼、痩せた狼。
今となっては詐欺師扱いすることもない。
なぜならやがて詐欺の結果として、
あのひとは偽りなき遺伝のせいで偽りになるかもしれないのだ。
それでもモードは偽りないし、同じくらいに麗しい。 475
だがもしやその麗しさももう
さらに麗しい血筋のおかげでしかないのでは。
あのひとの母は完璧な人だったが、
それにしてもずいぶんと似てきた。
汚れなき外見、誠実な内面、 480
モードは父親にはちっとも似ていない。
不思議な神秘のおかげで
母親の子どもで済んだのだ、
そして受け継がれた罪をそっくり
血筋という巨大な生贄の上に積み上げたのだ、 485
すべてを、すべてを兄の上に。
4
静まれ、怒れる魂よ、そっとしておけ!
奴の妹はわたしに微笑んだのではなかったのか?
1
モードの庭には薔薇や百合が
緑に映えて目もあやに。 490
モードは胸を張って歩き
ベッドや閨房に横たわる。
わたしが夜明けによじ登り
庭木戸あたりに立った場所だ。
ライオンがその上に、 495
情熱の花に抱かれて立つ。
2
モードの小さな樫の部屋
(宝石のよなモードが一人
暗がりのなかで腰を下ろし、
明かりのように輝いていた。 500
楽譜や本に囲まれていると、
飲み友だちを連れた兄が
部屋でだらだら管を巻く)
庭木戸の見えるモードの部屋。
あの月夜の海のうたかたのような 505
真白き手が、窓の掛け金に
かかったならば、嬉しさのあまり
願いが爆ぜた。幽霊のように滑り込みたい、
第七天国の光のようにそばに来てほしい、
実現するにはほんの一歩でよかった。
3
厚かましいことも考えた。
いま思うなら親切で、
いま思うなら優しかった
冷たかったのがその証拠。 515
4
ここでは何も聞こえない
川が芝から足許の
木に流れ落ちる響きだけ。
あるいは海鳴りの声が、ときおり
薄暗い夜明けのなかで高まる音が。 520
だがわたしには見えた、周りに、覗いていた家の周りに
死のように白いカーテンが引かれるのを。
恐怖がわたしに忍び寄り、
棘が肌に刺さり、息が止まるのを感じた。
白装束のようなカーテンが眠りを意味するに過ぎないとわかっていても、 525
震えは止まらず、愚か者のように死という眠りのことを考えていた。
闇は我が心の内に暮らし、
かかる悪を我自ら力づけん、
我もし
しかるに我もし他人より愛せられば、
我の己よりひときわ愛さるべし。
思うことのすべてを心に懸くべからざらんや、
あまつさえ浅ましき肉を水を、
我もし愛せられば、 535
我もし他人より愛せられば。
1
目方の減るにしたがい軽くなる
土地を、この土くれは見捨てた。
探し求めたものを見つけるために、
快楽にまとわりつかれ、 540
街の泥蜜に心を浸され、
一年間滞在する予定の彼は一週間姿を消した。
だがこれは是非とも話さねばならない日、
我がオレイアスが現れたのを見た日、
嗚呼これがその日! 545
嗚呼うつくしきひとよ、わたしが何者であれ
勇気をもってあのひとに目を向けよう。
もしわたしが麗しく支配できたら、
あのひとの胸を支配している鼓動を支配できたら、と考え、
そして柔らかな恐れを抱きながらあの美しさを夢見るのだ、 550
あのひとの足が形作るアラブの門のような緻密さから
きらびやかな頭の上で、孔雀の羽根のように
明るく軽やかに鎮座している、淑やかさまでを。
それをあのひとは知らない。嗚呼もし知っていたなら、
美しさの大半は無意味なものになっていたかもしれない。 555
わたしは知っている。それが時の荒れ野のなかで
今なお年若い我が命を、救ってくれる輝きであることを、
恐らくは狂気から、恐らくは罪から、
恐らくはわがままな墓穴から。
2
あのひとがこんな愚かな領主に囚われたとしたら、 560
約束を守るように仄めかすべきなのか?
あれほど卑しいものに言葉をかけたとしても
これほどまでに愛するべきなのだろうか?
ほかならぬわたしのために約束した言葉を破るようなことがあっても
これまでのように愛するべきなのか? 565
そんなことにはならないと信じている。
3
息を止めるな、喧しい心臓よ、
舌よ、どうか目の邪魔をしないでくれ
別れる前にあのひとに言わなくてはならないのだ、
伝えなくては、さもなくば死ななくては。 570
去るなかれ、幸せな日よ、
輝ける平原より、
去るなかれ、幸せな日よ、
乙女のうなずくまで。
薔薇やぐは西、 575
薔薇やぐは南、
薔薇は頬なり、
薔薇は口なり。
乙女の口よりためらいがちに
幸ありて「はい」の声あらば、 580
そを赤く染めて伝えけむ
風吹く船の上越えて。
風吹く海の
凪ぐ海の
その報せを伝えけむ、 585
西渡りして赤く染めて。
赤杉のそばで
赤い男が踊り出し、
赤い男の
海の向こうで飛び跳ねるまで。 590
東から西に赤く染め、
西が東に変わるまで、
西渡りして赤く染めむ。
薔薇やぐは西、 595
薔薇やぐは南
薔薇は頬なり、
薔薇は口なり。
1
あのひとを家に送ってきた。想い人。ただ一人の友。
あんなひとは二人とない。二人とない。 600
これほど熱く血が流れることなどなかった
それは麗しく、とうとうと流れ
長年の目的地に着いて、土手に積もり、
約束された幸せに近づくと、だんだんと静まった。
2
あんなひとは二人とない。二人とない。 605
今も乾いた舌のような月桂樹がぱりぱりと音を立てたので
あのひとが庭づたいに軽やかに歩いているのかと思ったほどだ。
また来てくれたのかと思うと心臓が震えたほどだ。
だがそのとき、扉が閉まる音が聞こえ、
天国の門が閉ざされ、あのひとが行ってしまった。 610
3
あんなひとは二人とない。二人とない。
夏が幾つ過ぎようとも二人とは現れまい。
嗚呼お前はレバノンのために歌い
そよ風がいつまでも甘美な東に流れるなか、
レバノンのために歌っている。 615
暗きレバノン杉よ、お前はここで大きくなった、
青空のように牧歌的な斜面に聳え、
南に面して、蜜のような雨と
粒よりの空気に育まれ、
あのひとの星やいだ頭につきっきりにされて。 620
あのひとの優しさこそわたしの運命を変え、
人生を薫り立つ祭壇に変えたはずだったのに。
お前の作る暗がりがあのひとの頭上に広がったのだ
いにしえの者たちのような、お前の偉大な
棘なき楽園の祖先のような喜びを覚えながら、 625
あのひとの祖である白き四肢のエヴァに影を落としたように。
4
わたしはここに横たわるのだ、あの長い枝が揺れ、
幸せな日を戴くお前たちきれいな星たちが
楽しげに遊ぶように出入りするあいだ。
わたしはもはや孤独ではない 630
ぬくぬくと育てられ、悲しき占星術
すなわち終わりなき設計図を、理解させようとされるよりは
あくせく働いたり、手にたこを作るために生まれる方が、
遙かにましだと思われたときのように。
その設計図こそお前たちを暴君に変えるのだ、 635
鉄のような空や、無数の無慈悲な無感情な目や、
冷たくはあるが人に「無」という焼き印を
押す力を持った炎のなかで。
5
だが今は光を絶やすな、それだけが気がかりだ、
この嵐のような深淵のなかで一粒の真珠と 640
隙間と虚空を避ける魔除けを見つけたからには、
狂気を受け入れ、そして一人の無邪気な少女を
ぶざまな恥辱から救うために、死ぬことになるだろう。
6
死ぬことになるのだろう。暗い顔をした死なら
今よりも昔よりも愛に命を吹き込めるかもしれない 645
この卑しいながらも、生きるには甘美な世界にいるよりも。
どのように起こったかは訊かないでくれ。
わたしは嬉しいんだ、わたしには
草むらのエメラルドがずっと輝きを増し、
海に溶けるサファイアがずっと澄んで見える。 650[*2]
7
死ぬのではなく。真実の息吹の人生を生き、
真実の人生に死ぬほどの悪と戦うことを教えるのだ。
嗚呼なぜ愛は、酔っぱらいの歌に出てくる人のように、
輝かしい晩餐に死の塵というスパイスをまぶすのだろう?
答えてくれ、我が至福のモード、 655
あの長く愛しい口づけでわたしのものになったモードよ、
我が命のうちの命よ、答えるつもりはないのか?
「愛しい愛の紐でここに織り込まれた
死の薄暗い岸辺が、愛そのものをさらに愛おしくする」
8
あのうっとりするようなうめき声は、 660
向こうの浜辺に打ち寄せる長い波のうねりに過ぎぬのか?
内なる時計に耳を澄ませよ、花嫁のような白無垢のまま、
過ぎ去った十二の甘い時を刻む銀の鐘に耳を澄ませよ、
わたしの脈の動きのように長い間を置いて、死に絶えた銀の鐘に。
だがこのころには、わたしの愛はあのひとの目を閉ざし 665
あの手に偽りの死を与え、地に足つかぬ空想が
黄金の日の残骸のなかで生き延びている夢のような荒野に
忍び寄っていた。
乙女の淑やかさを脅かすものは何もないのだろう!
うっとりするような魔力を感じる、愛しい心よ。 670
永遠に輝くはずだった、我が花嫁よ、
我以上に我なる、我が心よりの心よ、さらば。
わたしが立ち去るのはわずかな場所を空けるために過ぎない。
そうしているあいだ荒野と荒山の遙か彼方でおまえたちは
音もなき夜の音楽に合わせて心を高鳴らせるのだ! 675
おまえたちを輝かせているその柔らかな白熱の輝きに
大地のすべてがぐんぐん近づいていたのだろうか?
わたしは孤独な地獄から少しずつ這い上がっていた。
鳴り響け、幸せな星々よ、地上の出来事に合わせて、
鳴り響け、心では尽くせぬほど喜ばしいわたしの心に合わせて、 680
喜ばしかろうに、暗い悲しみの底流さえなければ。
悲しみは長びきそうに思えるが――そうなることはないだろう。
何もかもいいようにしておけばいい、いいようにしておけば。
1
あのひとの兄が今夜戻って来る、
輝かしいわたしの夢を破るために。 685
2
わたしの夢? 至福を夢見ているのか?
わたしは真実に目覚めて歩いていた。
ああ闇の明けゆく我が青春のために、
これほどまでの償いに満ちた
朝の輝きが、衰えゆく母を見て、 690
あるいは母とわたしの心に住まうあの死者を見て
翳りを落としていたのはいつのことだっただろう。
それというのも、わたしを措いて誰が母を見守ったというのだ?
それでもそうやってわたしは若さを殺していたのだ。
3
二人で歩いているときは優しいモードに 695
わたしは話さなかったはずだ
(一人でさまよっているときによく
無生物にさえ奴の悪口を言っていたから)
だが話さなかったはずだ
モードの父の罪に触れなかったはずだ。 700
母のこけた頬のことしか
話さなかったことは間違いない
ゆっくりと痩せ衰えてゆく頬を見て
弁護士に悩まされ、借金に苦しめられながら
母はゆっくりと死んでゆくのだと感じたことしか。 705
いくつもの問題を抱えて、
息子に向かって首を振って溜息をつく母を、
濡れそぼった目でいったいどれだけ見たことか!
4
そしてモードも、その気になり
愛していた母のことを話し始めた 710
孤独でないことなどない人だった、
外国で死にかけている人のように、そしてどうやら、
心の通わなくなった男と別れてから、
いつも決まって不和を嘆いたり、
血にまみれた家族の怒りを嘆いたために 715
それによってわたしたちの家は引き裂かれた。
モードの話はひどく不思議なもので、
モードと兄だけが
母の臨終の床にうずくまり――
モードとわたしの卑劣な父は 720
お互いにわたしたちを拘束し、
ワインを交わしてわたしたちを婚約させたのだ、
モードが生まれたその日に。
香しい息を初めて吐いた瞬間から、わたしのものになることを定められていた。
わたしのものである権利がある、生まれてから死ぬまで 725
わたしのものなのだ――父たちが誓い合ったのだから。
5
だが撒き散らされた本物の血には
債券の封印を解かすほどの熱気があった、
無効にならなければ、その債券も香しかったろうに。
誰一人として、それ以上の何かを考えなかった、 730
子どもの胸の内で目覚めた望みのことも、
いわば墓に葬られた義務のことも、
あのひとのために友人でいたり、仲直りしたりするために。
そしてわたしは奴らと我が運命を呪っていた、
危険な考えを好きなように走らせていた 735
それは出かけていたときのこと、芳しい暗がりのなかのこと
その馴染みのない教会で――わたしはあのひとを見た
輝かしい英国の百合が、祈りを口にしていた
友人でいたい、仲直りしたいと!
6
だがあのときの奴は何と冷酷だったことか! 740
外国で、フィレンツェで、ローマで、
あのひとがわたしに触れるたびに
この兄貴はあのひとを笑って黙らせ、
そしてようやく帰国したらしたで、
顔を陰気にしかめて、 745
あのひとをたしなめ、二度とわたしに、
何年来の友人であるわたしに話しかけるなと叱った。
だからあのひとは頬を赤らめたのだ
わたしが荒野で挨拶したときに。
7
それでもモードは、兄の心や知性の欠点が 750
見えないわけではないにもかかわらず、
愛しようがなくても愛しているのがわかったし、
乱暴だが優しいと言ったり、
悪く思わないでほしがったりし、
以前に臥せったことがあって 755
最悪の恐れがあったときには、
兄がワインも馬も芝居も投げ打って、
そばに座り、本を読んで聞かせ、夜も昼も、
看護婦のように世話してくれたという。
8
優しい? だが臨終の床の願いごとは 760
この嘘つきの跡継ぎに踏みにじられたのに――
乱暴だが優しい? だがわかっている
あいつがそのことで企んでいたことも、
今もまだわたしに対して企んでいることも。
モードに優しい? それも間違いではなかった。 765
確かに乱暴だが優しい。そういうことにしておこう。
つまりモードは意思を持つべきじゃないということか?
9
だから、モードよ、優しく誠実なモードよ、
わたしの人生が続くかぎり
あなたには借りがあると思っている、 770
返す期待も持ち得ない借りが。
それでももしわたしが
あなたに、そしてあなたのご家族に
借りがあるのを忘れるようなことがあれば。
嗚呼そのとき、わたしはどんな口を利くのだろう?―― 775
もしわたしが忘れるようなことがあれば、
神よわたしを、これまで以上に
哀れな存在にしたまえ!
10
だからもう埋めてしまうことにした
この憎むべき死者の身体のすべてを。 780
とても自由で澄んだ気分だ
死者の重みがなくなったために。
おかげで頭がくらくらとして、
ぶっとびそうだった。
だがあのひとの兄が、新しい希望を蝕む 785
地虫のように、今晩「屋敷」にやって来るのだ。
1
妙な話だ、こんなにも朗らかな気分だなんて。
妙な話だ、わたしが今日
あのひとの憂鬱をごまかそうとしていたなんて。
あのスルタン、と名づけておくが―― 790
あいつのことをあのひとはなじろうとはしなかった――
それなのにあいつはあのひとを苦しめ困らせた
下世話なおしゃべりと愚行で。
あのひとを叱るのは優しさだったのだろうか?
怠け者ではあるが、あのひとは俺のもの 795
だと言い張る恋人から
姿を見えなくするために。
あるいはつれない態度で、
いや、地味な服装で
あいつの愛撫を削ぐためだろうか? 800
もうわたしは二つの点しかわからないし、
何も言うことはできない
人からたずねられて
癖や、帽子、羽根飾り、
外套やジプシー帽が 805
いつもより丁寧で隙がなかったかと問われても。
なぜならどちらにしても
乙女モードより麗しいものなど何もないからだ。
2
だが明日、もしわたしたちが生きていれば、
あの野暮ったい地主が 810
近所の小地主の半数を
政治パーティに招待することだろう。
そしてモードは宝石を身につけて、
猛禽は空中を旋回し、
四十雀はモードの勝利を願って 815
耳元でさえずるだろう。
3
政治パーティには
幾人もの人間が集まり、
トーリー党の集会、
晩餐、そしてダンスには 820
女中や仲人たちが顔を揃え、
わたし以外の誰もが
輝きに満ちたモードに目を向けることだろう。
4
わたしは招待されていなかったものの、
スルタンの許しを得て、 825
ほかの人たちと変わらず楽しんでいるし、
薔薇園の場所は知っているから、
そこで暇を潰すつもりだった
ダンスが終わるころまで。
終わればそのとき、嗚呼そのとき、ここに来てほしい 830
一瞬だけ、一瞬だけでいいから、
あなたの本当の恋人のところに来てほしい、
あなたの本当の恋人が
輝きを目にできるように、そして思い人、
つまり輝きに包まれた女王モードに対して、 835
忠誠を誓わせるために。
小川はわたしの住まいを越えて、
屋敷からこの薔薇園までわたしを連れ出した、
モードとわたしなどお構いなしの薔薇園で、
わたしは途方にくれていた 840
小川は滝のてっぺんで
音を立てて渦を巻き、
海に出ようとしていた。
ああ小川よ、屋敷で生まれたおまえに
モードは言づけたのだ 845
(その香しい気持を読み誤っていなければ)
わたしに対する恥じらうような遣いを。
色と匂いのなかから聞こえて来る、
「今夜、薔薇のなかに来てください」と。
1
庭にいらっしゃい、モード、 850
黒い蝙蝠の夜は飛び立ってしまったから、
庭にいらっしゃい、モード、
門のところで一人待っているから。
薔薇の芳気が吹き撒かれる。 855
2
朝のそよ風が香りを運び、
愛の惑星が天高く昇り、
あのひとの愛する光のなかを
水仙のような青空をしとねに薄れてゆくから、
あのひとの愛する太陽のなか薄れてゆくから、 860
陽光のなか薄れゆき、死に絶えるから。
3
夜通し薔薇は聞いていた
フルート、ヴァイオリン、バスーンを。
夜通し窓辺のジャスミンは揺れていた
調べに舞い遊ぶ踊り子に合わせて。 865
やがて鳥の目覚めとともに静寂が訪れ、
月の沈むとともに沈黙が落ちる。
4
ぼくは百合に話しかけた、「一人だけなんだ
あのひとが心を浮き立たせるのはね。
いつになったら踊り子たちはあのひとから離れるんだ? 870
踊りにも見世物にも飽きているじゃないか」
すると半分は沈む月に向かい、
残る半分は昇る太陽に向かった。
砂の上で小さな音を、石の上では大きな音を立て
最後の車輪を響かせながら。 875
5
ぼくは薔薇に話しかけた、「束の間の夜は過ぎる
歓談と饗宴とワインのまにまに。
ああ幼き神の側女よ、手に入れられないもののために
あんなため息をついて何になるんだ?
ぼくだけのものなのだから」と薔薇に誓った、 880
「永遠に、ぼくだけのもの」
6
薔薇の心がぼくの血を侵していた、
音楽が屋敷に鳴り響いているあいだは。
ぼくはもうだいぶん庭の湖のほとりに立ったまま、
小川が湖から、草原や森に 885
水を落とすのを聞いていた、
何よりも愛しいぼくらの森に。
7
あなたの歩みが香しい跡を残した草原から
いつも三月の春風がそよぎ
あなたが宝石のような足跡を 890
瞳のような青い菫に押し当てたあの草原から、
ぼくらが逢瀬を交わした森の谷間に
楽園の峡谷に。
8
可憐なアカシアは、樹上に咲いた
長いミルク色の花を揺らすこともない。 895
白い湖花は湖に身を投じ、
瑠璃はこべは草地でまどろむ。
だが薔薇はあなたのために夜を更かした、
ぼくとあなたの約束を知っていたから。
百合も薔薇もまんじりともしなかった、 900
夜明けとあなたを待ちわびて。
9
少女ばかりの蕾の庭におわす女王薔薇よ、
こちらにいらっしゃい、踊りは終わった、
繻子のつやと真珠の光に包まれた
百合と薔薇の女王を兼ねた女王よ。 905
巻き毛ごと陽にさらした、小さな頭を、
花々にきらめかせ、そして花々の太陽であれ。
10
門のところで、情熱の花から
きらめく涙が一粒落ちた。
あのひとがやって来る、我が恋人、我が友人。 910
あのひとがやって来る、我が生命、我が運命。
赤い薔薇が叫ぶ、「もうすぐよ、もうすぐ」
白い薔薇がむせぶ、「遅いわね」
飛燕草が耳を澄ます、「聞こえた、聞こえた」
そして百合がささやく、「あともう少し」 915
11
あのひとがやって来る、我が分身、我が宝物、
どれほど軽やかな足音だろうと、
ぼくの心はそれを聞きつけて高鳴るだろう、
土中に横たえられて土をかけられようと。
ぼくの塵がそれを聞きつけて高鳴るだろう、 920
一世紀のあいだ死んで横たわっていようと。
あのひとの足許で目覚めたり震えたり、
紫や赤の花を咲かせたりすることだろう。
1
「間違ったのはわたしだ、間違ったのは――」
打ちのめされて身動きもできずここに座り、
丘に生えた無害な野草を引き抜いているのはなぜだろう――?
この罪深い手の仕業だ――!
暗くなりゆく土地の下から 5
絶えず激しい叫びが湧き上がる――
いったい何だ、何が起こったんだ?
嗚呼エデンの夜明けが地上と天空を照らし、
地獄の火焔が昇り来る太陽から抜け出したのだ、
地獄と憎悪の火焔が。 10
だからあのひとは、愛しい魂は、ほとんど口を利かなかった、
兄が怒り狂って門まで駆けてきたときに。
あいつは童顔の領主と一緒だった。
不愉快な言葉をいくつも浴びせては、
あのひとが泣いて、わたしがそれをなだめようとしているあいだ、 15
あることないことわたしを罵るので、
とうとう怒りにまかせて言い返すと、
気違いのあいつはわたしの顔を殴り、
大口開けてにやついている
うすら馬鹿の前でわたしを殴りつけた。 20
あいつにとっても忌まわしい一撃だった。
あいつの家族にとっても取り返しのつかない悲しい所業だった。
というのも、一時間後にはわたしたちは向き合い、
いくつもの恐ろしい怒号がこだまして
木の裏にある赤い筋のついた洞穴から抜け出し、 25
そのために生まれて来たのだとばかりに、
反キリストの印を天国に轟き知らせたのだ。
怒号は鳴るたびに大きくなっている気がする。
瞳の光を失くして横たわっているのはあいつなのか?
「しくじった」とあいつが囁く。「逃げろ!」 30
そのとき嬉しげな木のかげから
わたしの知っている人間の霊魂がするりと抜け出した。
そのとき不意に痛ましい悲鳴が響き渡った、
兄の血のために絞り出した悲鳴が。
それは心を穿ち耳を聾していつまでも響き続けることだろう。わたしが死ぬまで。死ぬまで。 35
2
やんだのか? 心臓の鼓動は――
何だったんだ? 脳が幻を見せたのか?
だが確かにあのひとが立っていたはずし、
わたしの足許にも影が、
薄暗い地面に長々と映っていたはずだ。 40
終わったんだ。空から静かに雨が降っている、
空が裂けて土砂降りの嵐が猛威をふるい、
葡萄酒と怒りと欲望に囚われた哀れな奴隷たちや、
忘れるすべを知らない小さな魂たちを、飲み込むべきときだというのに。
神よ、姿を見せて殴ってくれ、あなたこそ正義なのだから、 45
こうして塵のなかで互いに針を刺し合っている、
哀れな毒虫という一族を殴り殺してくれ。
わたしたちには生きる価値がないのだ。
1
何と素敵な貝殻だろう、
真珠のように小さく澄んで、 50
足許近くにあるのを見れば、
華奢だが、神々しい逸品、
妖精のようによくできた
言うに言われぬ螺旋と渦巻き、
実に見事な細工物、 55
自然が作りたもうた奇跡!
2
これは何だ? 学者がいれば
ぶざまな名前をつけたはずだ。
誰が名づけたところでも、
その美しさは変わらない。 60
3
小さな部屋は見捨てられ、
浜辺で殻を動かしていた
小さな意思ももぬけの殻。
虹色に飾られた家の
ダイヤの戸口に立っていたのに? 65
身体を伸ばして、金の脚や
妖精の角を、暗い水の
世界に突き出していたのに?
4
かよわくて、砂の上にて
爪ではじけば押しつぶされる、 70
ちびだが、神々しい逸品、
脆いが、耐える力もある、
潮流の力は、毎年
大型船の樫の背骨を
へし折って、 75
ブルトン海岸の岩棚に、
押し上げるほどだというのに!
5
ブルトン、であってブリテンではない。
ここで、昔話に出てくる
岸辺に打ち上げられた男のように、怯えて―― 80
あちこち飛び回る厄災、つまり
毎度耐え難い亡霊に、悩まされるのだ。
上から現れたのでも
下から上って来たのでもなく、
目だけをぎょろりと動かして、 85
陸や海づたいに飛び回っている――
何もモードのような姿をしていなくてもいいではないか?
脳が生じさせた錯覚だと
認めざるを得ないものに
怯えなくてはならないのか? 90
6
ブルトン海岸から引き上げるのだ、
名もなき恐怖に怯えて、
暗い海岸線に引き上げるのだ
失ったあらゆるもののことを、見つめながら、考えながら。
古い歌が耳にこびりついている。 95
レメクの歌こそわたしの歌にほかならない。[*3]
7
何年にもわたって、途方もなく苦しみ、
何年にもわたって、永遠に、離ればなれに――
だがあのひとは、まだわたしを愛しているはずだ。
ああ神よ、あのひとが 100
愛の種を温めていてくれるかぎり、
いつまでも、誓って、誓って、
わたしは陰鬱な心のなかで、
どれほど倦み疲れようとも、踏みにじられることのない
意思の火花を、抱き続けることだろう。 105
8
心とは不思議なものだ、
激しい情熱に捉われると
この世の何もかもを目のなかに
浸すこともできそうな気になったり、――
興奮のあまり、貝殻や、花や、 110
これまでなら素通りしてしまっていたような
小さなものに、不意に鮮やかな気持を奪われてしまうのだから!
そして今わたしは思い出した、
あそこに倒れていたあいつの 105
指輪の一つに目を留めて、
(何せいくつも持っていたのだ、哀れな虫けら)
それが母親の髪だと思ったことを。
9
あいつが死んだかどうか誰にわかる?
わたしは逃げるべきだったのか? 120
わたしは血塗れの罪を犯したのか?
それが何であろうとも、
あのひとに安らぎを、どうか安らぎを、すべて順調に、
わたしが船に乗っているあいだに!
わたしのことも情熱的な愛のことも、このまま行かせてくれ、 125
だがあのひとには神聖で崇高なことをすっかり話してくれ、
わたしに何が起ころう起ころうとも!
わたしのことも破滅的な愛のことも、このまま行かせてくれ。
だがあのひとの目は覚ましてくれ、眠らせてやってくれ、
崇高なる力を、深遠なる力を、 130
そしてわたしが死んでも、あのひとに安らぎを。
喝! 哀れな石の心よ!
敢えてたずねはしない
永遠に一人取り残されたことを
どうして汝が理解できないのかは。 135
喝! 哀れで愚かな石の心よ、――
たずねてみたところで、
汝は答えようとはすまい。
あのひとは死者でしかなく、時は近づいているのだ
汝が死よりも恐ろしいものになるときが。 140
1
嗚呼できるものならば
長い悲しみと苦しみの果てに
掛け値ない愛の両の腕に
ふたたび抱かれはしないだろうか!
2
わたしの生まれた家のそばの 145
深閑たる木立のなかで
あのひとによく会っていたころ、
二人して長い抱擁に酔いしれ
地上の何にも増して
甘い甘い口づけを交わしていたものだった。 150
3
目の前を飛び回る影がある、
あなたではなく、あなたに似たものが。
嗚呼キリストよ、できるものならばわずか一時間でも
愛し合っていた魂を見せてほしい
それが何であり、今はどこにあるのか 155
きっとわたしたちに教えてくれるはずだ。
4
それは夕べにわたしを連れ出し、
軽やかに曲がりくねり忍び寄る、
冷たく白い部屋着を着て。
そのときわたしの全身全霊が 160
叫び声や、光の束や、
車のうなりに、ゆるがされる。
5
夜の半ばを溜息をついて無為に過ごし、
残り半ばを夢のうちに憂う
早暁の空の白けたあとで。 165
寝付けぬ微睡みのうちに憂う
手と、口唇と、目を、
朝の出会いと
楽しげな笑い声の輝きと、
低く答える声の輝きを。 170
6
清らかで麗しい朝よ
霞にもやる輝きが
小塔や城壁に寄り添う
小さな花に降りてゆく。
清らかで麗しい朝よ、 175
光と影が瞬く間に過ぎ去ってゆく。
あのひとが牧場を歩いていると、
森でこだまが響き出す。
間もなく会えるはずだ。
あのひとが牧場で歌っていると、 180
足許の小川が、光と影のなかで
あのひとの歌うバラッドに
水面を揺らし続ける。
7
昔と変わらぬ歌声が聞けるだろうか?
きらめく頭の我が鳥よ、 185
優しい目をした我が鳩よ。
だが、不意に痛ましい悲鳴が響き渡る、
誰かが死にかけている、いや死んだのだ、
ほら禍々しい雷鳴が轟きをたぎらせている。
そうして町を揺るがす物音に、 190
わたしは目を覚まし、夢は消えた。
震えるような黎明のなか、見よ、
何もわからず、憐れみも持たずに、
ベッドのカーテンのそばに
冷たい亡霊が居座っている。 195
8
行ってしまえ、二度と来るな、
わたしの記憶に疑いを挟まないでくれ、
消えろ、まるで死人のような痛みよ、
消えて、動き回るのはやめろ、
ただの脳みその染みが 200
外に現れようとしているだけなんだ。
9
やがてわたしは起きあがり、軒からは滴が垂れ、
黄色い靄が蒸せ返り、
大きな町の喧噪が広がってゆく。
朝が訪れ、くすんだ赤い円が 205
赤く染まった煙の吹きだまりに包まれて
霞がかった河流の上に。
10
市場の喧噪のなか
疲れた身体を忍ばせ、
ここでもまた、あそこでまた、 210
混み合い賑わう人群れのなか
変わらぬ亡霊とすれ違う。
重いまぶたの上に苦しみが
生き恥のようにぶら下がっている。
11
嗚呼わたしの会ったあのひとは、 215
わたしが優しく呼ぶのを聞いて、
月桂樹をくぐり輝きに包まれ
穏やかな黄昏刻に、
古い領地の屋敷の
小塔そばの庭に来てくれたものだ。 220
12
まるで聖者たちのなかにでもいるように、
喜ばしい魂が、
光と歌の世界から、
部屋や通りに降りて来たなら、
わたしは怖くて挨拶もできないだろうか? 225
あるいは「許してくれ」とも言えず、
あるいは「あなたの憩いの場所に
連れていってくれないか?」とたずねることもできないだろうか?
13
だが明るい光がぎらぎらと脈打ち、
亡霊がひらひらと飛び回り、 230
わたしをそっとしておこうとはしない。
だからわたしは広場も通りも、
会う顔会う顔のどれもこれも、
愛のない心も、大嫌いだ。
静かな洞穴の奥に 235
潜り込みたくて仕方がない、
そこで泣いて、泣いて、泣きじゃくりたい
全身全霊あなたのために。
1
死よ、長き死よ、
長々し死よ! 240
我が心は一握りの塵、
車輪が頭上を越え、
我が骨の痛みに震えしは、
通りよりわずかばかりの
浅き墓に投げ入れられしゆえ。 245
馬の蹄のタク、タクと、
馬の蹄のタク、
タクと、我が皮膚と脳髄に響く。
絶えて止むことなき、雑踏の渦と、
往来と、狂奔と、結縁と、埋葬と、 250
叫びと轟き、玲瓏たる響きと喧々たる騒めきに囲まれて。
土中の安からぬことかぎりなし。
死者には安らぎありしかと思いしが、さにあらず。
墓所にても安らぎなきとは、悲しからんや?
ましてや上に下に、右に左に、 255
死者ども常にさすらいて遊ぶ。
死者の話す声を聞けば即ち
やがて我が心の狂気に走らん。
2
「時」起こりてより、いと悪しき世にては、
人を葬ることも叶わず。 260
過ぎにし世には十分の一税を払いしといえども、
鐘を鳴らすことも、祈りを読むこともなかりし。
そは死者の国をわずらわせることゆえ。
今や務めを為す者はなし、一人として。
よしや儀式に不満はなけれども、 265
聖職者は嬉々として教会を殺さむ、
教会の、キリストを殺しし如く。
3
見よ、泣きそぼつ我らを、
果てのなき苦しみを。
思えらく、大いなる自らに、祈りを捧げ。
其方では、政治家が、その政党を
嘲りて、赤新聞に、売り渡し。
彼方では、藪医者が、
患者の症例を垂れ流す――何が為? 275
西瓜頭に湧きし蛆の如き出任せに浸り、
愛さるることの叶わぬ世界を丸め込む為、
所詮は死者の世界に過ぎぬのだ。
4
馬鹿な戯れ言に過ぎぬ!
そのかみに告げられし予言は 280
やがて理解もされぬままに、
予言に違わず実現しけり。
万民の利益の為とは誰も思わず、
戯れ言に過ぎぬ、ただ戯れ言を垂るる為。
いかにも猫や鼠の耳あるところで、 285
密か事を囁きしことなどなく、
一人押入れで独り言つことさえなかりしが、
住まいの上よりただちに叫ぶ声の聞こえし。
ことごとく知られけり。
我らの居場所を渠に教えしは、誰ぞ? 290
5
そは老狼にはあらず、何となれば、渠は
かつて憩いたる、狼の集いし荒野より、いまだ戻らず。
その折りは育ちし仔狼の為に骨を集めて砕きしが、
今は自らの為に骨を砕き、咆吼し、息絶える。
6
予言者よ、我を戯れ言吐きと罵るがいい、 295
我を英国の害虫と、ドブ鼠と罵るがいい。
渠がハノーヴァー船で来たのかは知らぬが、
古き屋敷の割れ目や穴のなかで
嘘をつき沈黙に耳を澄ませしことは知りたり。
砒素だ、砒素、必ずや、そうなるのだろう、 300
今や我らが、嬰児(哀れな魂!)に毒を与えしことを除けば。
すべてはその為に費やされたり。
7
渠に伝えよ。あのひとが頭上にいることを。
もはや美しくもなく、優しくもないことを。
触れることも出来よう。あのひとは心を洩らさぬが、 305
いつもここでは沈黙しているのだから。
我のにらみし如く、あのひとは我らの者にあらず。
ここより静かなる、よその死者の世界の者なり。
ここより静かなるが、素晴らしからぬ世界の。
8
なれど我は知る、花盛る庭の在処を、 310
別の世界の何よりも素晴らしき庭は、
百合と薔薇に彩られ
季節が巡らば、舞曲と
夜もすがら花咲かせる。
花は咲けども、実はならず、 315
よもや、薔薇にあらずして、血ならんか。
なぜなら番人が一人、傲慢にして傲岸、
死者を亡者の花嫁に引き合わせけり。
なぜならその番人、もし獣の王になかりせば、
脇腹にあの穴のあるらん。 320
9
だがあの老爺は何を言わん?
穴に残酷な罠を仕掛け
嵐の日に我が友人を捕らえんとす。
我それを思えば涙も止まらじ。
穴に二つ目の死体を迎えし時 325
あの老爺は何を言わん?
10
友よ、万民の敵に打たれ、
敵を打ち、這いつくばらせることは、
万民の益たりて、
罪からは遙かに遠し。 330
だが赤い命は内輪の拳にて流れり――
汝に言う、合法な戦と無法な戦のあいだには
似たところすら毫もなし。
11
嗚呼、などてか我を然るべき深さに葬らん?
おざなりに墓を作りて、 335
我より安らかな眠りを奪うことは、情けなりや?
我は今も半死人に過ぎぬ。
無言を貫くことも叶わぬ。
頭上で足音のするたび我は叫ばん。
誰か、必ずや、情け深き誰かが訪れて 340
我を葬るはずだ、
深く、わずかなりとも深く。
1
わたしの命は翼の折れたまま長いあいだ這い続けてきた
狂気の小屋を抜けて、恐怖と怯懦のねぐらを越えて、
そのせいでわたしは些細なことにも感謝するようになった。 345
性格も変わった。一年のあいだ何度も変化に襲われたのだ
夜のすべてが霞の降りた高原地帯で立ち勝り、
輝いていた水仙が眠り、御者座と
きらめく双子座が、栄光の冠のように
西に沈むオリオン座の墓に戴かれるころに。 350
星々の下で静かにまたたくきらめきのごとく
それは夢のなかで聖人の群れから抜け出したかのように、
来たるべき戦争にまみれた世界のために希望を語った――
「この希望のうちに、親愛なる魂よ、不安も安らぎましょう、
わたしは汝を待つことができますから」と。そして火星を指さした、 355
獅子座の胸で赤い楯のように燃えている火星を。
2
それは夢に過ぎなかったものの、美しい瞳を見つめていると
見るもまばゆい輝きを、夢に過ぎなくても、もたらしてくれた、
うんざりするような世界のなかで一つだけ輝いている存在だった。
それは夢に過ぎなかったものの、わたしの絶望に光を投げかけてくれた、 360
権利を守るために戦争が起こりそうだと思ったときや、
鉄の如き支配がもうすぐたわむか終わりそうだと思ったときや、
大人の栄光が大昔の偉容にしがみついていると思ったときや、
英国におわす唯一の神が百万長者ではないと思ったときに。
もはや貿易は絶大な力を失い、平和が 365
田園の丘の上で気だるい調べを吹き鳴らし、
実った作物や、増えた群れを見つめ、
砲弾が塩辛い浜辺で錆び朽ちることをやめ、
大砲の喉首に網をかけた蜘蛛の巣が
糸を引いた涙を風で揺らすのをやめるのだと思ったときに。 370
3
そして数か月が過ぎたころ、戦の噂が大きくなり、
「時は来た、時は来た、嗚呼たぎる心よ」とわたしは言った。
(純粋で誠実だと感じた理由にこだわっていたのだ)
「時は来た、嗚呼たぎる心と病んだ瞳よ、
古くさいヒステリーの仮病はもう終わりだ。」 375
わたしは巨大な甲板に立ち、忠臣たちの叫ぶ
雄叫びに合わせて、呼吸をしていた、
陰気な亡霊が現れて、遙か北へ、戦場へ、
死の海へと飛んで行くのを見るまでは。
4
行くも留まるも好きにすればいい、金に対するあのひとの欲望と、 380
恐ろしく憎むべき忌まわしき語るべからざる
悪事と恥に満ちた平和への愛のために失った土地を、
ひときわ手に入れたい気持に目覚めたのだ。
戦いを繰り広げている戦旗に今ひとたび敬礼を!
ばらばらの主張の衝撃に押しつぶされた人々のために 385
どれだけの光が衰え、どれだけの涙が流されようとも、
神の正しき怒りが、巨大な嘘つきにぶちまけられるだろう。
そして幾多の暗闇が光のなかに飛び込み、
輝かしい名前が不意に作られているところに光を当て、
高貴な考えを太陽のもとでさらに自由にさせ、 390
人々の心は一つの願いに脈打つことだろう。
なぜなら平和(だとはわたしは考えていない平和)は終わり、
今や黒海とバルト海深くのそばの、
残忍な笑みを浮かべた要塞の口許で、
炎の心を胸に、血のように赤い戦争の花を燃やしているからだ。 395
5
燃えるも消えるも好きにさせればいい、戦争も風のように転がしておけばいい、
わたしたちが大義ある心を持つことや今も気高いことは証明できたし
わたし自身、おそらく、ましな考え方に、
つまり害を罵るより、善のために戦う方がいいことに気づいていた。
わたしは故郷をそばに感じていた、今は仲間と一つになり、 400
神の意思と与えられた運命を受け入れよう。
[註釈]
▼*註1 [石の心/肉の心]。エゼキエル書11:19、36:26。
そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。(口語訳)/わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。(口語訳)[↑]
▼*註2 [草むらのエメラルドがずっと輝きを増し、]。
この部分はルイス・キャロル『シルヴィーとブルーノ完結編』第8章「こかげにて」でアーサーが引用しています。[↑]
▼*註3 [レメクの歌]。
旧約聖書「創世記」第4章、第23・24節。「レメクの妻等よわが言《ことば》を容《いれ》よ 我わが創傷《いたで》のために人を殺す わが痍《きづ》のために少年《わかうど》を殺す/カインのために七倍の罰あればレメクのためには七十七倍の罰あらん」[↑]