ライナ伯母さんが帰ってきてからは、時間が大きな意味を持つようになる。一人一人がその時間に何をしていたかということだ。ここからは、あとで計算した数字に従って成り行き通りに時間を書き記すことにする。
伯母さんが来たのは十二時五分前だった。
まっすぐわたしのところにやってくると明るく声をかけてくれた。
「エリザベスね? ライナ・カスカートよ」
ソファの上で手を握って身体を引き寄せると、「ちゃんと来れてよかった。ベティとお呼びすればいい?」と言った。
「家の方ではベッシーと呼ばれてました」
「ベッシーね」と言って小首を傾げた。「いい名前。ベッシーと呼ばせてもらうわ、わたしのことはライナと呼んで。お部屋は気に入った? 夕食はいただいた?」
「いえ……お腹がすいてないので」とは言ったものの、わたしはライナのことが気に入った。ちゃんとした感覚の持ち主だ。実家では、なによりもまずお客さんには食事を出していた。
みんながまわりに集まってきた。ライナの影響力は、面白いというより少し恐ろしかった。ガイ・マクソンはソファの後ろに陣取って、ライナの頭を偉そうに見下ろしていた。
なのにチャールズ伯父さんは椅子に座って小さくなった火を見ているだけだった。何も言わず。誰からも遠く離れたところにいるみたいだった。ヒューはいつの間にか部屋の隅から雑誌越しにちらちら覗いていたみたいだったのだけれど、今は雑誌の上から目を出してじっと伯父を見つめていた。伯父はすねているのだろうか、うんざりしているのだろうか、それとも怒りのあまり不作法な態度を取っているのだろうか? わたしにはわからない。
なんであのウィンベリー氏は、パチーシ・ゲームについてライナに余さず話し始めたんだろう! 世界一面白い物語だと思われるとでも考えていたのだろうか。楽しそうに。こと細かに。伯父の性格に欠陥があるからツキが変わったのだと言わんばかりだった。そこに立ったまま声に出して笑っていた。意地悪くて子どもっぽくて不愉快で、いつまでも話を続けるものだから、わたしがヒステリックな人間だったならと思い始めた。ところがライナは写真のようにポーズをつけて固まったまま耳を傾けていたし、伯父は暖炉の火を見つめていた。
話を終わらせたのはヒューだった。もう耐えられないとばかりに立ちあがると、はっきりとこう言った。
「もう行こうかと思うのですが」
「うん? 少し待っときや。一緒にタクシーで帰ろうや」
「まっすぐお帰りになるつもりですか?」苦虫をかみつぶしたように見えた。
「いんや。予定通りや。クラブに寄って封筒をもらわないかんさかいな」
「なにかしてさしあげることはありますか?」
ヒューがこの人に雇われているということをなぜだか思い出した。
「ないわ」ねぎらいの言葉もなかった。
「でしたら、ぼくはバスを拾って失礼します」
言いながらヒューの目がこちらを向いたので、ここでぐずぐずしていたのは立場上だったのだとわかった。あっさりと許可が下りたので、ヒューはいとまを告げた。わたしはぞんざいに受け答えしてしまった。なのにヒューは微笑んで、また会いましょうと言ってくれた。社交辞令には聞こえなかったし、握手には愛情がこもっていた。この人のことをどう考えればいいのかわからなくなった。一つだけわかったのは、ライナ・カスカートにはまったく興味がないこと、これはポイントだ。
ヒューが退出したのは十二時一〇分だった。
ウィンベリー氏は途切れた会話を続けようとはしなかった。黙り込んだまま伯父の方を不安げにちらちら見ている。伯父の無言が重圧になってきたようだ。ライナとガイ・マクソンは簡潔な会話を始めた。
「舞台はよかった?」
「まあまあね」
「三幕はひどいよね?」
「ちょっとね」
「そう聞いてる」
「それ以上よ」
「そうなんだ?」
何の話なのかわからない。でもこれだけはすぐにわかった。彼はライナに恋している。ライナの方も好意を持っていたら、なんて思うとぞっとする。まもなくすると、みんなは唐突に帰り支度を始めた。ウィンベリーはもう嬉しそうではなかった。セントラル・パークの端まで乗っていくかとガイ・マクソンに声をかけたのに、歩いていくと言われていた。ギャスケルは乗っていくと答えた。伯父はぶるっと震えてのっそりと立ちあがると、ライナと二人で階下に降りた。
それが十二時半のことだ。
図書室に一人取り残されたわたしは、パチーシの盤を見に行った。こんなのは見たことがなかった。たかがさいころすら高そうな素材で出来ていたし、合成樹脂製の駒は宝石のようにきらびやかに輝いていた。伯父は赤い駒を使っていたらしい。三つはまだスタート地点、一つだけは無事にゴールに置かれていた。わたしはすぐに背を向けて、置いてけぼりを食った場所へと舞い戻った。ソファの隅っこに囚われているみたいに。
階下から話し声が聞こえてくる。ところが思いもよらず伯父が図書室に現れると、大柄なわりに素早い身のこなしでまっすぐアルコーブに向かった。パチーシの盤面を見下ろしている。顔の表情からからすると、わたしのことを忘れてしまっているらしい。苦しげとは言えないまでも、何かしようと考えてためらっているように見えた。わたしはじっとしていることにした。
階下でドアが閉まった。伯父は口唇をへの字にして無駄駒三つをつかみ上げた。左手で窓に触れた。窓が滑らかに開き、伯父が駒を投げ捨てた――ごみのように窓から投げ捨てたのだ。
息を呑んだせいで気づかれてしまったけれど、伯父の表情に変化はなかった。手首を軽くひねって窓を降ろすと、駒とさいころと賽筒を片づけ始めただけだった。このとき初めて気づくことになるのだが、伯父は必要に迫られるまでは決して説明をしない人間であった。
ライナがためらいがちに戸口に立っていた。
「上に行かない?」
わたしに話しかけているのだと気づいて、あたふたと部屋を横切った。伯母たちはおかしな儀式を行っていた。伯父のところに歩いていくと、顔を上げて立ったまま、「おやすみ、チャーリー」と言った。伯父はちょっとのあいだだけそのままでいたけれど、やがて下を向き額にキスをした。
「おやすみ、
伯母のことを本当に
ところがライナは何食わぬ顔でこちらに戻ってきたので、わたしたちは伯父をその場に残して三階に上がった。円形の階段(この階の壁龕には彫像があった)を上っていると、サンドイッチと魔法瓶の乗った盆を手に、エファンズが下からやって来た。「部屋に入って」とライナに言われ、家の正面側に向きを変えたところで、エファンズは盆を預けて「失礼いたします」と言い階上にさがって行った。
「エレンには来なくてもいいと言っておいたの。もう眠ってるだろうから」
十二時四〇分だった。
ライナの部屋はキュートで、きれいな小物にあふれてはいたけれど、小ぎれいで簡素とも言えた。見るからに若い女の子の部屋だった。よくわからなくなる。わたしの家では父と母が一部屋持っていたけれど、半分は何もなくこざっぱりとしていて見るからに父らしかったし、もう半分はごてごてと詰め込まれていて見るからに母らしかった。ダブルベッドには母の羽根枕と父の羊毛枕が並べてあったせいで、整えていてもちぐはぐな印象があった。ライナの部屋にも確かにダブルベッドはあったけれど、そこには備品がなにもなくてまるで別人が使っているみたいだった。
ライナはいつのまにかドレスを脱いでネグリジェに着替えていた。
「サンドイッチを食べたら? ミルクは好き? わたしはいただくわ。ベイカーズ・ブリッジのことを教えてくれない? 都会が気に入ればいいけど。これからどうするつもり?」
心が温まる。わたしのことをたずねてくれている。自分とは別の本来の自分になったみたいな気がしてきた。いつも幾夜も思い惑ってきたけれど、ここで何をしているのか思い惑うのをやめた。わたしのことが話題になんて信じられなかった。
でもすぐに気づいたのだけれど、ライナはわたしに手取り足取り導いてくれるつもりはなかった。わたしの家では、母はいつだって父の世話を焼き、お返しに父は母の面倒を見ていたし、二人ともつねにわたしのことを気遣ってくれていたのだけれど、ライナの方はわたしが自分で考え自分で行動するものと思っているようだ。なんというか、気にはなっていたのだろうけれど、いわゆる「助言」めいたことは何一つくれなかった。元気づけてくれただけだ。
「お小遣いがあったほうがいいってチャールズは思ってるみたい。週に五十ドルでどう?」
わたしが息を呑んだのは、父がそれほどの収入を持ったことがなかったからだが、ライナは戸惑ったようだ。
「でも必要になるわよ。服だっているし外でご飯を食べたくなったら……それに……」
「今の服だって充分きれいなのに」わたしは惨めったらしい気持になりかけたが、ライナがさえぎった。
「そういうつもりじゃなかったの。でもね、服はそのうち古くなっちゃうでしょ。それに何かほしいものがあったときに、おねだりする方がいやじゃない。どっちみちわたしたちと暮らすんだし、洋服代もアイスクリーム代もキャンディ代も映画代もチューイン・ガム代も込みよ」そう言って笑ってから「わかった?」とたずねた。
「伯父さんはお金持ちなんですね!」
「だと思うわ」はっきりしない。結婚指輪にはダイヤモンドが散りばめられていたのに。
「おいくつなんですか?」失言してしまった。
「四月で二十五。あなたは?」
「六月で二十歳になります」
「嘘でしょ」そう言ってライナ伯母さんは話題を変えた。働きたいのはいいことだと言ってくれた。そうはいっても、働く必要なんかないとも言ったけれど。それよりも、学校に行って勉強したいならそうしてもいい。どっちみちいろんな人に会うことになるからと。もちろんいろんな人に会いたかった。伯父さんにも伯母さんにもわたしに合うような友だちはいないと言われたようなものだったけれど。それはつまり、何不自由ない状態で、好きなことをするのもやりたいことを見つけるのもわたし次第、自分で決めるということなのだ。ようやく部屋に戻って右側のベッドを選んだときには未来が薔薇色に思えた……けれど同時に重荷でもあった。
ライナと別れたのは一時十五分だった。
とても疲れていたけれど、慣れない部屋ではくつろげない。そりゃあ嬉しくなくはなかったけれど。興奮して眠れそうにない。いろいろな音の入り混じった騒音が遠くから聞こえてくるのには慣れていないし。だからずっと考えていた。仕事のこと、学校のこと、将来のことさえも。ライナがこんなことを言わないでくれてほんとうによかった。「いいかしら、ベッシー。あなたにはわたしのお洋服屋さん、美容師、マッサージ師、ネイルアーティストを使っていただくわ。それからこの家の決まりを覚えてちょうだいね」。だけど考えれば考えるほどライナのことが不思議に思えてくる。自分のことはほとんど話してくれなかった。チャールズ伯父さんのことも考えた。それから、母のこともちょっとだけ。
ベルが鳴るのが聞こえたのは、うとうとしかかっていたときだった。階下から聞こえてくる。二度目のベルで完全に目が覚めた。わたしの家に真夜中かかってくる電話は、決まって誰かが亡くなったという報せだったから、いつも父に慰めてもらっていた。そのせいで鼓動が高まり、明かりをつけて時計を見た。
二時十分前。耳を澄ませたけれど、もう何も聞こえなかったので、布団に戻って自問していた。
しばらくするとまたベルが鳴った。よく聞こえるように頭を起こした。眠気はすっかり吹き飛んでしまった。結局明かりをつけ、今が午前二時だと確認しただけでベッドから降りるとドアに向かった。安心したくて、静まりかえった廊下と吹き抜けを確認しようとしただけだったのだ。ドアを少しだけ開けると、足音が近づいてきた。足音とは言ったけれど、実際には絨毯をこするような静かな音が、少しずつ近寄っている。
現れたのはガウン姿の伯父だった。ライナの部屋をノックする音と返事が聞こえた。すぐにライナが顔を出して、物問いたげに廊下の伯父を見上げた。
「ヒューから電話があった」伯父の静かな声が一音一音はっきりと伝えた。「ウィンベリーが殺されたそうだ」
「殺された!」
「撃たれたらしい」
栗色の部屋着を羽織ったエファンズは、長い首がますます長く見えた。四階途中の階段の手すりから身を乗り出している。
「お呼びになりましたか?」
「すまんな。ウィンベリーが深夜自宅で撃ち殺されたそうだ。言っておこうと思ってな。明日の朝は早くから警察が来るかもしれん。七時に起こしてくれ」
「かしこまりました。恐ろしいことでございますね」
「犯人は誰なの?」ライナがたずねた。
「まだわかってないようだ。起こして悪かったな。おやすみ」伯父が階段から降りようとこちらにやって来たので、ドアを静かにぴったりと閉めた。
午前二時〇四分。こんな時間なのに伯父は靴を履いていた。
Charlotte Armstrong『Lay On, Mac Duff!』CHAPTER 3 の全訳です。
Ver.1 07/04/27
Ver.2 07/07/07
[訳者あとがき]
いよいよ事件が起こりました。
ここで家の間取りについてメモしておきます。地階にキッチンとコックの部屋、一階にリビング、二階に図書室と伯父の部屋、三階にライナの部屋とベッシーの部屋、四階に使用人部屋、です。第三章以降の本文(原文)では、階数ではなく階上・階下という単語が使われているので、頭に入れておかないとどこからどこに移動しているのかちょっと混乱しました。訳では階数表示に直してしまおうかどうしようか検討中。
ベッシーと区別するためとはいえ、ライナのセリフがちょっと小マダムっぽくなってしまったのが反省点。だけどあんまりライナがきゃぴきゃぴしてるのもなあ……。いやそれを言うならベッシーのキャラもまだつかめてない。都会に出てきた不安と見ず知らずの親戚に遠慮している少女なのか、恐れるところのない小娘なのか。小娘っぽいところもちらほらなんだけれど、その線で訳すと、伯父さんに対してもとんでもない口を聞いてしまいそうでこわい……(^^;