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翻訳:江戸川小筐
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さあこい、マクダフ!

シャーロット・アームストロング

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第十一章

 暗闇のなかで不意に目が覚めた。

 怖い。理由などわからない。開けておいた窓からは、どこか遠くで光る窓とあちこちに揺れるカーテンの影が見えた。そよ風。風だと自分を納得させる。ただの風。わが家の納屋から裏庭まで吹き荒れた風が恋しくなった。わたしは頭をうずめて枕で目を覆ったが、すぐにベッドに起きあがった。誰かが繰り返しドアを叩いている。繰り返し規則正しく。四度、また四度、それから返事待ち。

 仕方なく明かりをつけた。朝の二時。それを朝と呼べればだけど。わたしなら真夜中と呼ぶ。また四度。やめさせないかぎり永遠に続くに違いない。

 裸足で床を歩く。「誰?」

 ため息のような声が聞こえた。「ヒューです」

「いったい何だっていうのよ?」裸のドアに向かって怒りをぶつけた。ほんとうに腹が立つ。どれだけ怖かったと思ってるのだ。部屋履きを履きガウンを羽織ると窓を閉めた。部屋が寒い。「何があったの?」バリケード代わりの椅子を脇に押しやってドアを開けた。

 ヒューは黒っぽいガウンを着ていた。パジャマは短すぎて白く骨張ったくるぶしが羊革の部屋履きの上から顔を出している。細い髪が乱れ、眼鏡にたれていた。「二時なのよ!」怒りをにじませる。

「わかっています」とささやくと、背後の床の辺りに聞き耳を立てるように首をぎこちなく巡らせた。「三十分も起こそうとしてたんですよ」

「どうしたの?」

「誰かが……」と言いかけてやめた。「響くような音が裏の方から聞こえたんです。何かはわかりません」

「眠ってたの?」

「ええ。でも途中で目が覚めてしまい、そうなると……もう眠れなくなってしまって。ついてきてくれませんか?」

「え?」

「階下にです」

「ドアのところまで?」

 耳をそばだてるような姿勢のまま、ヒューは無言でうなずいた。

「今こうしてるってことは、もう朝に起こされなくても済むってことでしょ?」

「すみません」

「さっさと行って終わらせちゃいましょ」身震いがする。「でも誰かが――」

「誰かに見つかったら、どちらかが隠れることにしましょう」わたしはぽかんとしていたに違いない。「夜中に……ぼくと一緒に……うろついているところを見られるわけにはいかないでしょう」

「ああ。うん、そうね。わたし……」

「大事なことなんです。ぼく一人でできるのなら……でもあれです、信用してもらえない可能性もある。といってほかに頼める人もいません」それから突然、声を張り上げた。「ベッドに戻ってください。何を考えているんだろう? ほんとうにすみませんでした」

「でも、もう目が覚めちゃったし」

「だめです。出かけているのなら、戻ってくる可能性もあるでしょう?」

「戻ってくる音が聞こえるわよ」

「危険すぎます」

「でもわたしはここに住んでるの」負けられなかった。「それに、外に出ているとしたら、絶対に知っておきたいもの」

「全部よした方がいい」

「だめ。でも議論はやめましょう。危険だもの」

 ふたたび階段を忍び降りたくもないし逃げ出したくもなかったけれど、ベッドに舞い戻って朝まで眠れずに悶々としているつもりもない。ガウンの紐を強く締め直した。「百万ドル積まれたって一人で降りる気なんてない。だからほら」

 ヒューは言いたいことを理解したらしく、柔らかい絨毯敷きの螺旋階段をふたたび降り始めた。わたしはカーブのところで手を伸ばして彼を引き留めた。「ちょっと待って。あなたの部屋からは見えないの? 伯父の部屋に明りはついてた?」

「ついていましたよ」即答された。「ですが、その……動きはありませんでした」青白い顔を見ていると不安がかき立てられる。「戻りましょうか? 不安があるのなら……」

 明かりのついた無人の部屋を想像した。伯父は家にはいないのだという思いが強くなる。そのこともだんだん落ち着いて考えられるようになった。伯父がいないのなら、誰かに見つかっても大事はない。

「行きましょう」

 図書室は先ほどと同じく真っ暗だった。足音も立たない。たどり着いた玄関ホールも、これまたまったく同じだった。ヒューが敷居に屈み込み、小さな懐中電灯をつけた。糸は立ち去ったときと同じ状態だった。ヒューは立ち上がってこちらを見た。

「今度は地下」わたしがささやくと、ヒューは渋っていた。「あそこも確認しなきゃ意味がないじゃない?」

 地下室への入口にあたる四角い小部屋には、先ほどと同じく小さな明かりがついていた。ヒューが階段の手前で尻込みしたが、わたしは後ろで彼が動くのを待っていた。電灯の光がまっすぐに進み、上にあがって揺れたあとに、右手のコート掛けを照らした。

 ヒューの言葉に心臓が跳ね上がった。「コートです!」同じ夢でも見ているように二人一緒に近づいていた。駱駝毛のものとヒューのコートはある。それで全部だった。

 伯父のものである厚手の黒っぽいウールのコートが消えていた。

 わたしは駱駝毛とヒューのコートに手を伸ばした。数を確かめようとしたのかもしれない。ヒューが言った。「伯父さんのコートはありますよ」

「ないのよ」

「何ですって!」ヒューは苛立たしげに髪に手をやり掻きむしった。「なぜわかるんです?」

「さっき確認したの。三着あった」

「いつです?」

「前。前見たときよ」

「さっきですか?」

「決まってるでしょ」声をとがらせる。

「何で気づかなかったんだろう」

「ねえ、わたしは気づいてたし、それがなくなってるの」

「間違いありませんね?」

「当然。あなただってすぐ横を通ったじゃない」

「気づきませんでした」声に出さずにつぶやいた。麻痺してしまったように立ちつくしている。

「まだ階段のてっぺんじゃない。ほら早く……」

 わたしは先に立って地下室の階段を降り始めた。懐中電灯の光が肩越しにちかちかしている。夏靴で氷上を歩く要領で、前屈みのまま爪先に力を入れて降りていった。道のりは長かったが、終点にたどり着いて屈み込んでみると、糸はどこにも見あたらなかった。

「どこに行ったの?」わたしは息を呑んだ。見えたというよりは感じたのだが、ヒューが肩をすくめた。ヒューに腕をがっちりとつかまれて、勝手口をあとにする。ヒューに連れられて階段から脇の廊下を通り、ドアをくぐると食料品室とキッチンだった。ガスコンロの白いつまみが鈍く輝き、流し台は暗闇を横切る淡い光の板だった。ヒューが懐中電灯を照らして明かりのスイッチを見つけた。

「だめよ!」

「ここにいることは誰にもわかりません」そのくせ、ささやき声のままだ。「しばらくは放っておけません。具合が悪そうです」

「大丈夫よ」つぶやいた。

「座ってください」言われたとおりにキッチンの硬い椅子に座った途端に、歯ががちがちと鳴った。「今コーヒーを淹れますから」

「それはやめて!」わたしは悲鳴をあげた。ささやき声で悲鳴をあげられたらの話だけど。「匂いが嫌なの」

「それなら紅茶にします。どこかにあるでしょうから」

「紅茶もいらない。布団に入りたいだけ。さっさと階上に上がった方がよくない?」

「ぼくらとあの廊下のあいだにはドアが二つありますから、帰ってこられたとしても……」

「そうだ、どこに行ったんだろう?」わたしはうめいた。

「静かに。外ですよ。それだけはわかっています」

「それに部屋の明かりをつけっぱなしだった」それがいけないことでもあるかのように。

 ヒューは食器棚をあさったけれど、紅茶は見つけられなかった。その代わり、新ピカの大きな冷蔵庫に牛乳が入っていたし、鍋も見つかったので、コンロにかけて温めてくれた。

「コックに見つかったら……。何て言い訳すればいい?」

「歯が痛くなったからと言いますよ。ばれません。キッチンまで連れてきてもらったということにします」

「歯にとっちゃ災難ね」わたしはばかみたいにつぶやいた。

「何ですそれは?」

「エファンズのこと」

「薬を使ったと言ってませんでしたっけ?」わたしはうなずいた。「まだ持っているでしょうか」

「ほんとうに痛いの?」

「それで目が覚めたんです」

「そうだったの」夢でも見ているようだった。半地下にある見知らぬ大キッチンで腰を下ろし、ミルク鍋を気にするヒューを見守りながら、震えを抑えようと肘を抱え込み、ずんぐりした羊革の家庭用部屋履き姿がどれだけ間抜けに見えるのかを心のどこかでは把握しているあいだも、はっきりと像を結んでいたわけではないにせよ胸中には紛れもない不安が宿っていた。

「砂糖は入れますか?」

「やめてよ」

「子どものころはよく入れてましたよ」ミルクが手渡される。これまで以上に学生っぽく見えた。藪から棒に真夜中に何かを飲むのが学生生活というわけでもあるまいに。楽しんでいるようにすら見えた。

 ミルクを飲むと、意外なことに気分がよくなった。

 ヒューはミルクを口に含ませたが、熱さが染みると言った。話によればずっと以前に古い詰め物が取れてしまい、歯の奥まで蝕んでしまったために、穴がひどく痛むのだそうだ。ここに座ってヒューの歯の状態について話をしているなんて、不思議きわまりない。二人とも謎や恐怖からお休みをいただいているみたい。麻酔をかけられた経験をたずねられ、親知らずの話を始めた。わたしにとっては事実上唯一の手術と言ってよい。わたしは一部始終をささやいて聞かせた――これまでもずっとささやき声だったが――佳境にさしかかったころ、不意に場所と時間と状況が現実味を取り戻した。

「ヒュー、今何時?」

「二時半です」キッチンには時計があった。腕時計も同じ時刻。

「もう行かな――」

「待ってください」何もかもが不意に立ち返ってきた。高く深閑とした家の重み、長い螺旋階段を上らなくてはならない重圧、キッチンのドアから向こうに広がる闇。ヒューもじっとしている。「鍋とカップは片づけておきましょう」

「水は流しちゃだめ」牧師館の水道管がうなる音を思い出して注意した。

「だめですか? どうすればいいんです?」

「流しにつけておいて」

「わかりました」ヒューは羊革の部屋履きで、キッチンをすり足で移動している。わたしは立ち上がった。と、急に顔を上げられたので、動けなくなる。何も聞こえないのに、そのくせ耳のなかでは心臓の鼓動がうなりをあげていた。ヒューは鍋とカップを信じられないくらい慎重に、確実に、優しく置くと、忍び足で戻ってきた。スイッチに手が伸び、明かりが消えた。肩を包まれたまま、彼のガウンの襟を握りしめしがみついた。何かをたずねようとは思わなかった。音を立ててしまいそうで、怖くても唾を飲み込もうとは思わなかった。ひりひりと意地悪く麻痺した静寂のなかで立ちつくしていると、震えが襲ってきて、またヒューに頭を引き寄せられた。ヒューの心臓が恐ろしいほどの音を立てて波打つのが聞こえる。そのままじっとしていた。まもなく腕が離れた。ゆっくりと、ぎこちなく。

「待ってください」耳元で告げられた。

 わたしは襟を握りしめる。

「見に行かなきゃ……」首を振ったのを見て、大声になるのを恐れてささやくことさえしないのだと感じ取ってくれたようだ。どうやらあきらめたらしく、わたしが一人で立てるようになるまで支えていてくれた。

「戻らなきゃ」大きく息を吐く。

「後ろから着いてきてください」ヒューがキッチンのドアを開けた。食料品室は暗かったけれど、つまずかずに通り抜けられた。ヒューから離れないように歩いた。廊下のドアを慎重すぎるほど慎重に開けた。遥か向こう端、勝手口のドア越しにかすかな光が洩れているほかは真っ暗だ。ヒューが危険を承知で小型電灯をつけた。誰もいない。階段の手前まで移動を続けた。ヒューが耳を澄ましている。「ここで待っていてください。壁に貼りついて。確認してこなくてはいけませんから……」

 階上の部屋で伯父と鉢合わせるよりは、暗闇で我慢している方がましだったから、確認しに行ってもらうことにした。わたしは悲鳴をあげてコックのところに逃げ込んでいただろう。この階には実際に生きている女性がいて、前方のどこかで眠っているはずなのだ。でもコックのところまで行って、そこにコックがいなかったら? きっと気が狂ってしまう。いや、狂ったりするもんか、ベッシー・G。一人言い聞かせると、不意に勇気が湧いてきた。何なのだこの自己暗示は?

 ヒューの電灯が階段のうえで瞬いたので、わたしはしっかりした足取りで苦もなく上がることができた。「自分の部屋にいるようですね。二階まで行ってみました。すぐに行きましょう。いいですか?」

 クローク/食料品室のちっぽけな電球がひどく輝いて見えた。せっつくように背中を押される。「ちょっと待って」わたしは歩み寄り、手を伸ばした。ふかふかの駱駝毛、ちくちくするヒューのツイード、厚手のウール。確かにある。「一つ、二つ、三つ。数えてみて」

「確認しました。それより階上まであなたをちゃんと連れていくことの方が大事ですよ」

「わたしが立ち直れなくなるとでも思ってるの?」不機嫌な声を出していた。ひどいことを言われでもしたように。口を開いた瞬間に悟っていたのだ。わたしは吹き抜けの方に歩き始めた。渦を巻きながら昇ってゆく、いくつもの階段、ぐるぐるとぐるぐると。弱々しい糸が秘密を暴露していた。人が外に出ることができた。今のわたしたちのように音も立てずに。音も立てずに進んでいた。わたしが先頭で。ところがヒューがカーブでつまずいて転んでしまった。

 身体がぶつかりこだまが響いたような気がした。音が天井から跳ね返ってくる。「そのまま進んでください、すみません」

 わたしは進み続けた。不思議なくらい着実に。ところが、いるのがわかった。図書室の入口にさしかかったとき、やって来るのが聞こえ、明かりがついた。真実すべてじゃない。死に物狂いで唱え続ける。真実といっても真実すべてじゃない。田舎から来た女の子。そうでしょ。振り返って、ヒューが身を隠したか確かめた。きっと階段のどこかでしゃがんでいるのだろう。

 伯父が見下ろしていた。冷たい青い瞳には驚きと好奇心を宿している。

「その、転んじゃって」ささやきを漏らす。伯父はガウンを着ていた。必死になって足に目をやらないようにした。

「眠ったまま歩くのか?」伯父が声に出してたずねた。人をまごつかせるような、音楽的な声。決まってわたしを煙に巻く響き。案内でも乞うような、ごくさりげないたずね方だった。

 首を振って弱々しく答えた。「ホット・ミルクを飲んできたんです。眠れなくて。かまわなかったでしょうか?」

 間違いない。伯父の顔が紅潮したのは怒りのせいだ。「そんなにびくびくするものではない。今度からはベルを鳴らして使用人を呼べばよい」

「こんな遅くに?」わたしは口ごもった。

「首を折るよりはよかろう、違うか?」

 わたしは後ろによろめき、伯父が前に出た。手すりに近づかせてヒューを目にさせるわけにはいかない。よろめきながらも前に進んだ。「怪我をしたのか?」伯父が穏やかにたずねて腕を回す。大きな胸の奥で心臓が力強く脈打っていた。ほとんど息もできない。

「大丈夫です。たぶん眠くなってきたんです」

 伯父は慌ててわたしから離れた。「エレンを呼ぼう」

「そんなに大げさにしないでください」

 驚いたことに、伯父は微笑んだ。「それでは約束してくれたまえ。二度とこんなふうにうろつきまわらないでくれ」優しいといっていい口調。「ほしいものがあるときは、何時であろうと、人を呼べばいい」

「すみません。ありがとうございます、チャールズ伯父さん」

 伯父はため息をついた。後悔したように、大きな身体から息を吐き出す。「おやすみ」悲しみをたたえた声だった。

「おやすみなさい」階段を上ろうとしてつまずいたとき、視線を感じた。なんて冷たくて、なんて独善的な視線だろう。振り返ったりはしなかった。寝室へ駆け込んでドアを閉めた。それでもヒューがどうなったか耳を澄ませていた。わたしが安心する間もなくヒューは上がってきたのだろう。今もまだ安心はできなかった。時計を見ると二時四〇分。たった十分だ。ヒューがミルク鍋をキッチンに置いてからの恐ろしい時間は、それだけの長さでしかなかった。ほんの十分程度で、部屋に入ってガウンに着替えられるだろうか? いや、十分というのはかなりの長さだ。靴を脱ぐこともできたかもしれない。確認する勇気はなかったから、それはわからない。

 ヒューがドアを叩いたのは二時四四分。今度ばかりは部屋に入れた。

 ヒューがいたのは短い時間だった。わたしはかなりびくびくしていた。ヒューは見られたり聞かれたりしないよう気をつけていた。でも実際どうだったのかはわからない。アスピリンをくれてから、ヒューは自分でも二つ飲んだ。虫歯用だそうだ。わたしはベッドに腰かけ、ヒューは部屋を歩きまわっていたが、足音が下の階の伯父に聞こえるのではと案じると立ち止まった。

「歯が痛くて。すみません、これが原因なんです。もうぐっすり休みませんか。すぐ具合もよくなりますよ。話し合うのはまた今度にしましょう」

「そうね。J・Jに話さなきゃならないし。マク・ダフにも話さなきゃ」

「まったくその通りです。おやすみなさい」

 ヒューがわたしの手を取ってキスをした。

 立ち去るのを見送ると、ガウンのままでベッドにごろんと転がった。あまりに驚き、あまりに混乱し、明かりを消すため腕を上げるのも億劫なほどつかれていた。

 二時四五分。

 昼頃に目が覚めた。盆を持ってきたエレンが話してくれた。バートランド・ギャスケルが夜中に亡くなったそうだ。

 刺殺だった。


Charlotte Armstrong『Lay On, Mac Duff!』CHAPTER 11 の全訳です。


Ver.1 07/06/25

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