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翻訳:江戸川小筐
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さあこい、マクダフ!

シャーロット・アームストロング

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第十八章

 わたしの身に何か起こるとは思っていなかった。その恐れはない。わたしは戦慄を恐れていた。今にも絶叫が聞こえたり、瀕死の叫び声があがるのを恐れていた。

 あるいは小さな物音。密かな物音。なお悪いかもしれない。闇のなかで何かが動く音が聞こえたら。床を這っていたら。何かの影が見えたら。暗闇よりも暗い何かが。闇にこもった空気が、やがて実体に。

 あるいは、何も見えないし、何も聞こえないかもしれない。でも目を覚まさない人がいたら。

 エレンは隣のベッド上の黒い固まりだった。でも眠ってはいない。吐息が聞こえる。ヒューとガイのことを考えた。二人とも横になって狸寝入りをしたまま、目を覚ましているはずの物言わぬ影を見つめ合い、暗闇のなか身動きもせず夜を過ごしているのだろうか? ライナは夫の隣の大きなベッドでまんじりともしていないのだろうか? チャールズ伯父さんは眠れたのだろうか? 人間らしく暖まって、何も気にせず無防備に横になって? そもそも眠ったことがあるのだろうか?

 結局ライナは? それに伯父は起きているの? それから?

 マク・ダフは今も疲れた顔をしてドアの外で見張り、聞き耳を立てているのだろうか? J・J・ジョーンズは起きているだろうか、眠っているだろうか? わたしのことを考えている? わたしの薔薇色のドレス、あの素敵なドレス。わたしは気分が楽になり……

 

 目が覚めたときにはかすかに陽が射していた。エレンはベッドから出て服を着ていた。七時だった。

「起こすつもりはなかったんですよ、ベッシーさま。どうぞこのままお休みなさいまし」

「もう朝? もう大丈夫なの?」

「エファンズが先ほど下に参りました。ええ、朝でございますよ。コーヒーは召し上がりますか?」

「コーヒーでも何でもいただくわ。朝なんだ。すごくうれしい」

「用意でき次第お持ちいたします」そう言ってにっこり微笑むと、おろしたての仕事着姿で部屋をあとにした。わたしは起きあがって、ドアをふさいでいる家具を押しのけようと思っていた。外を覗いてみる。吹き抜けにはいつものように電灯が灯っていたけれど、階下からは朝の雰囲気が立ちのぼってきた。「コック台所に知ろしめす 世はすべてこともなし」といったところ。

 初めに気づいたのは、J・Jの顔がドアからひょこりと覗いたことで、次に気づくと、J・Jはわたしの部屋のなかでキスをしていた。

「だめよ。はしたないじゃない!」

「きみを守りに来たんだぞ。エレンは行っちゃったんだからね。それとも一人きりでいたいのかい? こうして夜明けは来るんだよ」彼はもう一度キスをした。

「結婚したいかたずねてよ。うん、って答えるから。そしたら、はしたなくなんかないもの」

「そうかもね。そうすると週末にはジョーンズ夫人になっちゃうんだぞ? これが最後のチャンスだ」

「でもまだ歯も磨いてないし……」

 J・Jがわたしの顎を持ち上げた。「歯のことなんて気にするな。愛してるかい?」そう言ってわたしを抱きしめた。まあ言ってみれば。「好きに決まってるじゃない」

 もう朝だ。そしてJ・Jがいる。恐れるものなんか何もないのだ。

 ぶつかるような音、くぐもった金属音がして、水の跳ねるような音のあとに静寂が訪れた。これが一連の出来事だった。

 わたしたちは三十秒ばかり立ちつくしていた。J・Jが痛いほど力を込めた両手でわたしをかたわらに移動させ、ドアを開けた。

 マク・ダフが階下から駆け上がってきた。何も言わずにわたしたちの前を通り過ぎると、廊下を走ってライナのバスルームのドアをがむしゃらに叩き続けた。シャワーが出しっぱなしになっているのが聞こえる。誰かがドアを開けた。ダフは言葉を発しなかった。きびすを返すと階段を駆け上がり、四階に向かった。

 J・Jが音も立てずにすばやく廊下に飛び出し、階上を見上げた。伯父がライナのバスルームから顔を出した。髪は濡れていた。素肌にローブを羽織っている。ライナの部屋のドアが開くと、そこに可愛くてくしゃくしゃの寝間着姿のライナがいた。

 階下から誰かの叫びが聞こえた。J・Jが下を見下ろし、手すりから後じさった。ライナが壁に倒れかかり、伯父が身体を支えた。すべては無言のまま。

 初めに階上に見えたのは、ヒューが履いている羊革の室内履きだった。それから眼鏡のない白い顔が、じっと目を凝らしている。四階でドアがばたんと閉まり、マク・ダフがヒューを追い越し急いで降りてきた。ダフは手すりに身体を預けた。

 J・Jがたずねた。「マクソンはそこにいるんですか? 死んだんですか? 亡くなったんですか?」

 エファンズの声が近づいてきた。かぼそく不吉な声。「首に紐が巻きついておりました」

「首を絞められていたのだ」ダフが説明を始めた。「あの壁龕のところだ」指さす先を見ると、螺旋階段の壁側がちょうどこの階のところでへこんでいた。二階と同じ造りだ。奥行はないけれど人間大の飾り壁龕だった。「ガウンの紐で。手すり越しに投げ落とされたのだ。それは何だ?」エファンズに向かってたずねた。

「ご主人さまのパチーシ駒のようでございます」エファンズの声は不吉にも地の底から聞こえていた。「赤い駒でございます」

 ライナが意識を失った。伯父がぐったりした身体を軽々と抱え上げた。

 ダフが話している。「ここにバスルームがある。二つのバスルーム、それぞれドアは二つ。二つのバスルーム、三人が同時に目を覚ました。マクソンはこの階の廊下からあそこに向かっていた」ダフはわたしの部屋のバスルームを指さした。「だが二人のうちの一人は、バスルームにはいなかったのだ。いたように見せかけていただけだった。奴はその壁龕にいた。まだ暗かった。あたりの電球は消えていたから暗かったのだ。マクソンが通り過ぎた瞬間、奴は紐を喉にすべらせた。たいして時間はかからん。何という悪賢い奴だ! 唯一の機会! 無二の瞬間! 絶好の時機を捉えおった!」

 ライナがうめきをあげた。

「わたしがシャワーを使っていたことはライナが証言できる」伯父はそう言ってから言葉を置くと、にやりと笑った。「まだやるのかね?」

「まだやりましょう」とダフは言った。「ミラーは四階のバスルームにいました。シャワーはありませんでしたな。わたしがたどり着いたときには、浴槽から出てくるところでしたよ」

「シャワーを出しっぱなしにすることだってできるでしょう」ヒューが言った。「実際は別の場所にいたのに」

 ダフはこう言っただけだった。「ミセス・カスカートを介抱せねば。みなさんも、服を着てくれますかな。図書室に集合だ。わたしはガーネットに電話いたします」

 エレンがやって来て、すすり泣いて祈りの言葉をつぶやきながら、伯父のあとからライナの部屋に入った。わたしは呆然としたまま服に着替えた。

 やがて図書室に集まると、エファンズがコーヒーを運んできた。病んだように震えている。階下には警察がいて、話し声が聞こえ電灯は消えていた。ダフが図書室のドアを閉めてそれを遮断した。しばらくわたしたちの顔を眺めている。有無を言わさぬ毅然とした態度。電話に向かい、番号を回した。

「マクガイアか? ほう? うむ。さよう、わかっておる。そのまま続けてくれ」受話器を置いた。ヒューの憑かれたような目に、軽蔑が瞬いた。

 わたしはライナの隣に座っていた。ライナは青ざめ、彼女にしてはルーズな格好だった。J・Jは厳しい目つきでわたしのかたわらに立っていた。伯父とヒューは向かい合い、ダフが二人のあいだに立ちはだかった。

「例によってお二人とも、あの第三の赤い駒を持っていた可能性がありました。三つのうちの最後ですな。あの駒とも長いつきあいになりましたな。お二人とも紐を手に入れることができたし、早めに隠すこともできた。お二人とも壁龕に隠れることができた。二階のバスルームからも、四階のバスルームからも、ほぼ同じ距離ですな。お二人とも廊下で頭上の電球をゆるめることができた。まさしく、シャワーを出しっぱなしにしたまま部屋を出て、大急ぎで戻ればよいのですからな。同じく、浴槽のお湯を出しっぱなしにしたまま栓を抜いておけばよい」

 ダフはヒューに視線を向けた。「マクソンは、君が部屋からバスルームに向かったのを見ていたはずだ。違うかね? ドアに鍵を掛ける音を聞き、浴槽にお湯を張る音を聞いた。君がそこにいて、しばらく出てこないと考えたのだろう。階下のバスルームに行った方がよいと判断した。

「ところが君はそこにはいなかった。カスカート氏のシャワー音が聞こえたのではないかな。誰にも見られず一人きりになれる最高の機会だと悟ったはずだ。ベッドから出てバスルームに閉じこもった。いや、閉じこもったように見せかけたのだ。廊下側のドアから外に出ると、絶好の機会を待っていた。何も起こらぬかもしれなかったが、起こってしまった。君の準備はできていた」

ぼくの準備ですって!」ヒューが声をあげた。「あなたは狂ってます。ぼくはハーバート・グレイヴズではないし、かつてそうだったこともありませんから、一連の犯罪に関するもっともらしい動機もありません。あなたは自分の才知に取り憑かれているんです。どうやらぼくをハーバート・グレイヴズにしたいらしい。教えてください。あなたの部下はさっきの電話で、ぼくがハーバート・グレイヴズだと報告したんですか?」

「いいや。そうは言わなかった。まだそうではない」

 ヒューは笑い出した。「ここには同じくらいの機会を持っていた人がいるんですよ。冷酷で。悪人で。そのうえ、ガイ・マクソンを殺す完璧な動機がありました」そう言ってライナを見た。「すみません。でも我が身を守らなくちゃなりませんから」

 ライナはやつれた顔を上げた。「何をおっしゃっているのかわからないわ」

 マク・ダフが言った。「よいですか、みなさん。チャールズ・カスカートは、ご自身にはマクソンを殺すいかなる動機もないことはご存じのはずですぞ」

 ヒューが驚きを露わにした。伯父の顔に笑いが浮かんだ。巨体を起こすと堂々と――としか言いようがなく――マントルピースに歩み寄り、わたしたちから離れて余裕たっぷりにもたれかかった。

「賢い判断だな、ダフ。カスカートはいつ何時でもあらゆる物事を切り抜けるものなのだ」からかうような嘲るような声だった。両の目にはからかいと嘲りが灯っていた。「今回も、だ」

 ヒューが歯を食いしばる。「今度の事件でぼくを仕留めるつもりなら、お気の毒さまです」努めて冷静に話し、穏やかになろうとしていた。「手をかけることは不可能です。どうするんです? ぼくはハーバート・グレイヴズではありません。ぼくには動機がない。こんな馬鹿げたことなど何一つやってません」

 ダフが言った。「暖かさと冷たさ。奇妙なことに、今回の事件では温度が君には不利なのだよ、ミラー。眼鏡の話をしよう。冷えたところを暖められて眼鏡が曇った。それが疑問の始まりだった。君にとっては難問の始まりだったのではないかね? それこそが、ウィンベリーが死に際に発した言葉の理由であったし、君がカスカート氏を引きずり込まねばならなかった理由なのだ。次はサーモスタットのタイマーだ。無実のアリバイを捏造した方法に、わたしが気づかないと思ったのだろうな? 君は時計の針を曲げねばならなかった。違うかね? 偶然にしては出来すぎだ。なにゆえ金曜の夜に壊されたと判断したのだったね? 時計は止まっている。アリバイのスタート地点がはっきりわかっているのなら、この家にやって来てできるだけ急いでベッシーを起こし朝に時計を壊すのを妨げるものなど何もない。君はタイマーをセットし、温度調節を二時に合わせた。アリバイのスタート時間だ。しかし針を曲げねばならない。君が死体を見つけた。君は現場にいたのだ。しかし君は針を曲げねばならなかった。さもなくば、時計は九時を告げていたはずなのだ!」

「ああ、そうか。カスカートはいつ何時でも切り抜けると言っただろう」伯父が勝鬨をあげた。「今回も、だ」ライナはソファの端に座っていた。伯父を恐ろしそうに見据えていた。伯父が口の端を曲げた。「知っておくべきだったな」とがめるような口調だった。

 ヒューは靄を払うように首を振った。

「待ってください。あなたは間違っています! とんでもない間違いです。カスカートさんこそ昨夜は外出していました。ライナは嘘をついています。あなただってわかっているでしょう!」

「カスカート氏の外套が――」ダフが言った。「コート掛けから消えていたのは、彼が外出するとき着て行ったからか、もしくはきみが隠したからだ」

「隠したですって!」

「でもそんなの無理よ!」わたしは叫んだ。

「なぜだね?」

「だってしてないもの。コートは元に戻ってたんだから」

「ふむ! だがミラーは地下室の階段の上り口にしばらく君を置き去りにした。計画通りにコート掛けに外套を戻すためだとは考えられんか」

 さまざまなことが頭を駆け巡った。視界がぼんやりとし始めた。

「でも伯父が家に入ってくる音を聞きました!」

君がかね?」

「ええ……わたし……違うかもしれない。でもそれって……わたしが騙されたってこと?」

「つまりだね。君がそこにいた理由は」ダフが答えた。「騙されるためだったのだよ、ベッシー」

 伯父の声は喉に蛇を飼っているようにうねっていたが、少しずつ穏やかに穏やかになり始めた。「子どもだましだ。そうは思わんか?」ライナは頭を固定しようとでもするみたいに両手で首を押さえたが、ヒューは何もせずに立ちつくしていた。

「それに――」ダフは続けた。「浴槽にお湯を張っていたのなら、浴槽自体も温かくなるものなのだ。お湯を抜いたあとでもしばらくは温かいままだ。今朝、君の部屋の浴槽を触ってみたがね。断じてお湯など張ってはいなかった。温かくなければならなかったのに、浴槽は冷たかったのだよ」

「では決まりだな」伯父が言った。「決まりだ、ダフ。ごくろうだった。君は賢い、グレイヴズ。だがわたしは運がよかった。そして運はよいにこしたことがない」

「チャールズ、やめて!」ライナが声をあげた。

 ヒューが舌を出し口唇を湿らせた。伯父をにらみつけていた。

 伯父は声を出して笑った。

「温かいはずの浴槽が冷たかった。どういうことかな、グレイヴズ? そんなことがあり得るのか?」

 ヒューはポケットに手を入れると、身震いをした。「あなたは冷水浴をしたことがないんですか? ずいぶんと――」口唇が真っ青だった。

「あっ!」わたしは声をあげた。「暖かさと冷たさ。冷たいはずのものが暖かかった。コートよ! オーバーコート!」J・Jがわたしの肩に手を置いた。「でも触ったんだってば! 食料品室で。あれはずっと外に出てたものじゃなかった。暖かかったもの! でもあなたのはひんやりしてた」わたしはJ・Jに話しかけた。「あなたが家に来たときよ。ちゃんと覚えてる」

「よろしい」ダフがぴしゃりと言い、沈黙が降りた。

「わたしはだいたいにおいて勝利を収める」沈黙のなかに伯父の声がたなびいた。「カスカートはあらゆることを切り抜けるのだ。知らなかったのか?」ライナの悲鳴が喉の奥に吸い込まれるのが聞こえた。

 ヒューは石のように立ちつくしていた。不意に顔が歪み、怒声が飛んだ。

「それならこれから切り抜けてみろ」ヒューの手には銃が握られていた。

 J・Jがわたしにぶつかり押し倒したが、銃声が聞こえた。ようやく辺りを見回してみると、ダフがヒューの腕を後ろ手にねじあげており、J・Jが階下に助けを呼んでいた。

 伯父はライナを抱きかかえていた。ライナの肩と胸が血に染まっている。

「もういいだろう、グレイヴズ」ダフが言った。

 伯父は尊大さのかけらも見せずに、すっかり変貌したヒューの顔に向かって穏やかに告げた。「わたしはずいぶんと意地の悪い態度を取った。すまん。だが君は手を引くべきだった。」

「貴様……!」ヒューが罵倒を浴びせた。

「できたら」伯父は罵倒を拒まなかった。「医者を呼んでくれ、エファンズ。ライナは助かるはずだ」

 伯父は妻を抱えたまま、警官の驚く顔を尻目に図書室から出ていった。ライナの血が伯父にも付着していた。まるで重さなど皆無のように抱えていた。こちらに広い背中を向けると、優しく妻を抱えたまま、わたしたちのことなど見向きもせずに置き去りにして、階段を上っていった。


Charlotte Armstrong『Lay On, Mac Duff!』CHAPTER 18 の全訳です。


Ver.1 07/07/07

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