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1901 The Defandant 『有象無象を弁護する』
 ・チェスタトンらしいひねくれた発想と言い回しを駆使して弁護される有象無象。邦訳のある「三文小説」や「ドタバタ喜劇」の場合なら、おそらく否定的な意見を持つ人もいるだろうから弁護するのももっともに思えるのですが、なかには「骸骨」「惑星」など、中身を読まないことには「なぜわざわざそれを弁護?」というものもあって、これがまた面白い。
邦訳 『棒大なる針小』(春秋社)安西徹雄・別宮貞徳訳bk1(新装版)・amazon(旧版)・amazon(新装版)]に「三文小説弁護」「ノンセンス文学弁護」「ドタバタ喜劇弁護」「探偵小説弁護」の四篇収録。


「三文小説弁護」(The Defence of Penny Dreadfuls)

 昔の教養人は三文小説を「無視」していたのに、現代人は三文小説を「軽蔑」しているのはいかなることか。「俺はある種の深海魚などよりはるかに高邁な人物である、などと得意の髭をしごいて街を闊歩する人間などありえないのだ」といったような譬えのオンパレードにけらけら笑いました。通俗作品を「俗悪だ」といって批判する人たちがいるのは今も昔も変わりがないのですね。
 


「A Defence of Rash Vows」

 「無茶な約束弁護」とでも訳せばいいのかな。公園の葉っぱを数えようとか毎週シティまで片足飛びしてみせようとか誓う人は、頭がおかしいんでも虚無的なのでもなく、正気なのである!という内容です。

 タイトルはまあ逆説というか反語的なものであって、無茶な約束を弁護するのではなく、約束をしたがらない人や内容のない約束をする人に対する批判になっています。
 
 → 邦訳


「A Defence of Skeletons」
 ――人が骸骨を恐れるのは、死を恐れているからではない。みっともないのを嫌がっているのだ。だが美しさなんて、自然の魅力のほんの一部ではないか。自然は醜く、子どもの落書きみたいに単純ででたらめだ。大木は鳥が片足で立っているみたいだし、月は巨大な目みたいではないか。人がどんなに気取ったって、その中身の骸骨はケタケタ笑ってるのだ。

 わりと短めの作品。著者は骸骨に恐怖ではなくユーモア・滑稽さを見ているのですが、京極夏彦でしたっけ?江戸だか妖怪画だかの骸骨の滑稽さを指摘していたのは。
 


「A Defence of Publicity」
 ――パブリック・モニュメント(公共の場に設置される記念碑や記念像)が仰々しいといって非難するのは、芝居が芝居がかっているとか詩が詩的だといって非難するのと同じである。公であることを拒み秘密主義でいるのは現代的で下劣な考え方である。日曜日に教会に行ってみるがいい。「個人的であること」が「公共的」におこなわれている。殉死なんてその最たるものだ。あれは為政者による見せしめである以上に、殉教者による宣伝なのだ。神聖なるものは人の目から隠しておけなどというのは馬鹿げている。おびただしい数の星々は長いあいだ堂々と輝いていてなお神聖なる輝きを失わないではないか。

 これはちょっと難しかった。上記の要約も合っているのかどうか自信がない。タイトルは「大っぴら弁護」などと訳せばいいだろうか。
 


「ノンセンス文学弁護」(A Defence of Nonsense)

 風刺文学とノンセンス文学の違いなども面白いのですが、「物事が、われわれの知的な規準やケチな定義の群れをあまりにも軽々と無視してほとばしることに素直に驚喜する心」こそが「ノンセンス」と「信仰」の基礎であるという理屈で、信仰の話にまで持っていってしまうところが凄い。
 


「A Defence of Planets」
 ――『不動の大地〜地球は惑星ではない〜』という本を読んだチェスタトンが、それにつっこみを入れつつ、科学的な側面はおいといて芸術的視点と空想的視点で、平面地球と球体地球を考えてみようと述べます。たとえば詩や物語がコペルニクス学に則って書かれていたらどうなっていたか。予言者のたたずむ重々しい風景も、実は秒速十九マイルで回転しまくっている風景に? いや実は、聖書と科学は本質は近しいのである。それに、昔の人間は科学的発見をただちに詩的に理解することができた。そのような空想をしてみるのも悪くないのではなかろうか。

 ……というわけで、「惑星弁護」とは何のことやらと思ったら、主に「地球が惑星である」ということを弁護していました。チェスタトンが引用している『Terra Firma: the Earth not a Planet』Wardlaw Scottという書物がまず面白そうです。古今東西の天動説の書物を引用して論証したもののようです。本気なのか洒落なのかわかりませんが。動いている物体の進行方向に弾を発射するのと反対方向に発射するのでは飛距離が違うはずだがしかし――とのたまうスコット氏に対し、発射するのも着弾するのも同じ物体上なら意味ないだろ、とつっこむチェスタトン。地球が球体なら北緯45度線と南緯45度線は同じ長さのはずだが倍も違う――とのたまうスコット氏に対し、地球が丸いとすれば猫が四本足なのはおかしいというのなら反論のしようもあるが、地球が丸いとすれば猫が五本足なのはおかしいと言われてもなあ……とつっこむチェスタトン。本論に入ってからもこの調子で、チェスタトンらしいひねこびた言い回しとふざけた譬えが堪能できます。
 


「A Defence of China Shepherdesses」
 ――人には思い出したくないことというものがあるが、しかし羊飼いのように牧歌的で無邪気な生活こそが理想的だと考えていた時代は確かにあったことは否定できない。理想の羊飼いとは、貴族社会化されてしまった民主社会唯一の民主的職業である。確かに理想の羊飼いと現実の羊飼いは違うが、それはどの職業でも同じことだ。理想の郵便配達夫――というのが馬鹿げて聞こえるのなら、きっとわれわれは民主的ではないのだろう。兵士のズボンを真っ白くすることを人は戦争と呼び、夜中の二時に叩き起こされることを医者の言葉で「人類の健康」と呼んでいるに過ぎないのだが、生活に根ざした職業にこうした「理想」が見あたらないのは残念なことだ。現代の現実主義と比べれば昔の田園主義のほうがましである。

 今回俎上に載せられているのは、古代〜近世ヨーロッパにおける田園ブーム羊飼いブームです。田舎の人はみんな牧歌的で無垢で幸せだ――というのは今現在でもありがちな誤解ですが、チェスタトンの時代にもそういう批判があったのでしょうね。本篇の内容はというと、羊飼い自体を弁護するのではなく、羊飼いを理想視する考え方を弁護しつつ、同時に現代批判もおこなっています。
 


「A Defence of Useful Information」
 ――探偵小説や恋愛小説が大衆に人気のあるのは当たり前だが、その実、気の滅入るような事実の羅列の方がフィクションよりも人気があるのだ。ところが、筆者は何年か前にこうした事実を好む人物とお話しする機会を得たのだが、あとでわかってみるとその事実のほとんどは真実ではなかった。退屈な事実と思えたものが人間の空想の産物だとわかって筆者は尊敬すら覚え始めた。

 これもいかにもチェスタトンらしい、逆説というよりひねくれっ子。フィクションよりも、無味乾燥な新聞記事のような事実の方に、人間の空想の力を読み取ります。知識階級の人間は、新聞広告や町中の人だかりを見ても何も感じないが、ごく普通の大衆にとってこの世界は芸術作品である。花を見るように翼竜を見ることを、翼竜を見るように花を見ることを、人間はやめてしまった。
 


「A Defence of Heraldry」
 ――紋章は限られた貴族のものである。しかり。だが古来、大衆の紋章もあったのである。絵画的シンボルは、知性を通さず目から心に直接訴えかける。ところが、不自然なものが自然で自然なものが不自然に思われる時代が訪れた。人々はブーツやネクタイではなく紋章を嘲笑うようになった。

 ……という価値観の逆転の話から、フランス革命、民主主義にまで話は転じて、でもどこか『新ナポレオン奇譚』のようなドン・キホーテ的な政治像にも見えて、チェスタトンのいう「democracy」というのがどのような政治形態を指しているのかイマイチよくわかりません。
 


「A Defence of Ugly Things」
 ――

 美なんてギリシア的美意識に過ぎないじゃないか。突き出た岩や赤松を自然の美だと讃えるのと同じように、突き出た鼻や逆立つ赤毛を見ようじゃないか。
 


「ドタバタ喜劇弁護」(A Defence of Farce)

 昔とは違い世間では喜劇が軽んじられている――というとっかかりは三文小説弁護と似ていますが、面白い会話をそのまま書き写しても喜劇にはならない、だとか、喜劇とは浅薄なものだと誤解している劇作家が多い、こちらはより演劇固有の問題に切り込んでいます。
 


「A Defence of Humility」
 ――実際的な立場から謙遜を弁護するつもりはない。つまらないうえに、すでに充分な地位を得ているからだ。本質的かつ普遍的な立場において、謙遜とは原罪にともなう悪徳である。人を愛したり英雄を讃美するときにみずからを卑下しない人間はあるまい。その意味で謙遜とはキリスト教特有のものだと言われる。利己主義者たちは高みから見下ろしているが、それでは小さくなったものを見ているに過ぎない。あるがままにものを見ようとすることはできるだろうか。人間は魚を見て手足がないと思うだろうが、魚が手足を見たら邪魔だからと切り落とすだろう。謙遜はわれわれをある観点に引き戻してくれる。アリスのように小さくなるのを恐れない人間には素晴らしい世界が見える。大望を抱く者には、大きくなればなるほど、星々が小さくなるだけの話なのだ。

 
 


「A Defence of Slang」
 昔の貴族は旗印や鎧で他軍と自軍を区別していた、という枕から始めたうえで、今やかかる思想は貴族ではなく下層階級に――すなわちスラング=「集団内の言葉(他集団との区別)」として――受け継がれている。ここまでが前提の話。ではその下層階級のスラングとは何なのかというと、単なる符帳ではなく、アレゴリーであり、メタファーであり、詩歌である。それも言葉の戦争状態にして物語の混乱状態なのである、と説かれています。たとえば「break the ice(最初の一歩を踏み出す)」がソネットなら、われわれは氷の海や北の自然を見出すであろう。スラングの世界は「blue moon(長期間)」「white elephant(厄介者)」、「lose one's head(慌てる)」人や「one's tongue run away with one(口を滑らす)」人に満ちている。

 
 


「A Defence of Baby Worship」
 ――

 タイトルの「赤ん坊崇拝」って何だ?と思ったのですが、かなりざっくばらんに言うと、要するに「動物好き」とか「子ども好き」というのに近い。相手が大人ならその人の優れたところを尊敬するのに、相手が子どもだとドジったりするのを可愛いと思うとはいかなることだ、云々。
 


「探偵小説弁護」(A Defence of Detective Stories)

 なぜ人は探偵小説を好むのか。それは探偵小説が冒険小説でありロマンスであるからだ、というもの。
 


「A Defence of Patriotism」
 ――われわれは自国の長所を知らないという異常な状態に陥っている。文学・科学・哲学など誇れるものが英国の少年たちから遠ざけられている。ブリキの兵隊なら無害だ。ブリキの哲学者を喜ぶ子どもがいるとは思えないが、だからといってそのブリキ箱を見せないことこそ有害ではないか……。

 現代の日本でも読む価値ありそうな愛国心弁護。「われわれが裁かれるとしたら、それは他国を評価することに失敗したという頭だけの罪のためではなく、自国を評価することに失敗したという限りなく精神的な罪のためである」。
 
 → 邦訳
 

(邦訳)
 『棒大なる針小』(春秋社)安西徹雄・別宮貞徳訳bk1(新装版)・amazon(旧版)・amazon(新装版)]に「三文小説弁護」「ノンセンス文学弁護」「ドタバタ喜劇弁護」「探偵小説弁護」の四篇収録。


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