この翻訳は、訳者・著者に許可を取る必要なしに、自由に複製・改変・二次配布・リンク等を行ってかまいません。
翻訳者:江戸川小筐
ご意見・ご指摘などはこちらか掲示板まで。
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典
HOME  翻訳作品   チェスタトン目次   戻る  進む   

知りすぎた男

ギルバート・キース・チェスタトン

訳者あとがき・更新履歴
原作者略年譜・作品リスト

第四話
底なしの井戸


 オアシスや緑あふれる島にも、西洋から日出ずる方まで広がる赤黄の砂の海にも、どういうわけかまるで対照的なところは見つかるものだが、国際協定によりイギリス軍居留地となってからこっちは、その対照的なところすらもこの場所というものを言い表していた。この場所が考古学者に知られているのは、とても遺跡とは呼べない単なる地面の穴のおかげである。ところがこれが井戸のような丸い縦穴であるうえに、いつとも知れぬ大昔の大灌漑工事跡の可能性も高く、ことによればその古い土地の何よりも古いかもしれないのだ。黒々とした井戸の開口部は、青々とした団扇サボテンに囲まれていた。だが石組みがあるはずの場所に残されているのは、大きく砕けた二つの石だけであり、それがありもしない門の支柱のようにたたずんでいた。比較的超越的な考古学者の中には、月の出や日の入に独特の雰囲気が訪れると、バビロンの巨大城門を遙かにしのぐシルエットをうっすらとなぞることができるのだと考えるものもいた。一方、比較的合理的な学者の目には、日中の比較的まっとうな時間帯に、二つの不格好な岩だけが見えていた。しかし、すでにお気づきであろうが、イングランド人すべてが考古学者であるわけではない。このようなところに集められた役人や軍人たちには、考古学のほかに道楽があった。冗談でも何でもなく、ここ東方で生活を続けるイングランド人たちは、木々の緑と砂地を利用して小さなゴルフコースを作ってしまったのである。こちらを見れば快適なクラブハウス、あちらを見れば太古の遺跡というわけだ。実際には太古の穴をバンカーとして利用したわけではない。伝承によれば底知れぬ深さであったし、実用的な用途でさえ底知れぬのだ。打たれたボールが穴に飛んでいけば、文字通りロストボールにカウントされた。だが談笑や一服する合間には、周辺をぶらつくことも多かったし、いましも一人クラブハウスからやってきたのも、いま一人の人物がどこか憂鬱げに井戸を見つめているのを目にしたからだった。

 イングランド人は二人とも軽装で、白い日除け付サファリ帽をかぶっていたが、おおかたにおいて似ているところはそれで終わりだった。二人ともほぼ同時に同じ単語を口にしたが、二語ともまったく違う口調だった。

「ニュースは聞きました?」クラブハウスからやってきた男がたずねた。「素晴らしい」

「素晴らしい」井戸のそばの男が答えた。だがその言葉を話すとき、第一の男は女の話をする若者のごとく口にしたし、第二の男は天気の話をする老人のごとく、心を込めなくもないが熱意も込めずに口にした。

 この場合には二人の声が当人たちのことを充分に言い表わしていた。第一の人物は確かにボイル大尉である。力強く若々しい声、日焼けした肌、激しい気性の宿る顔には、東洋の雰囲気よりはむしろ西洋の情熱と野心がふさわしい。もう一人は年齢も上で、確かに滞在期間も上で文官の――ホーン・フィッシャーである。重たげなまぶたと重たげな薄い口ひげが、この東洋のイングランド人がはらむ矛盾をことごとく言い表していた。あまりに情熱的であるがゆえに、冷静以外の何ものでもなかったのである。

 二人とも、いったい何が素晴らしいのかに触れる必要があるとは思わなかった。誰もがご存じの話とあっては、それで充分だというのも事実であろう。トルコ・北アラブ連合という脅威に対する目覚ましい勝利は、ひとえにヘイスティングズ卿麾下の軍隊のたまものであり、幾度となく目覚ましい勝利をおさめたこの老練の将による快挙は、新聞のおかげで戦場近いこの小さな駐屯地はもちろん、帝国中に知れわたっていた。

「いやまったく、ほかの国にはこんなことできませんとも」ボイル大尉が力強く叫んだ。

 ホーン・フィッシャーはそのまま無言で井戸を見つめていたが、しばらくしてから返答をした。「わたしたちには確かに過ちを盛り返す技術があります。あのプロシア人たちはそこを間違えました。彼らは過ちを繰り返すそばからそれに固執するだけでした。いやまさしく、過ちを盛り返すのも一つの才能ですよ」

「いったい何のことですか、過ちって?」ボイルがたずねた。

「ああ、誰もがご存じの通り、どうやら出来もしないことに手を出しているようなんですよ」せいぜい二百万に一人しか耳にしなかったことを、決まって『ご存じの通り』と言うのがフィッシャー氏の口癖である。「それにトラヴァーズが折よく現れたのはやはりあまりにも運がいい。適切な行動を取ってくれたのが副司令官だったというのは、不思議なほどよくあることなんです。偉人が司令官であっても変わりません。ワーテルローにおけるコルボーンのようにね」

「すべての領土を大英帝国に加えるべきだ」

「確かにツィンメルン家の連中なら運河まで要求したでしょうがね」フィッシャーの言葉には思案するような響きがあった。「しかしご存じの通り、近ごろでは領土を加えるのが割に合うと決まった話でもありませんし」

 ボイル大尉は困惑した態でわずかに眉をひそめた。不確かではあったがこれまでにツィンメルン家のことなど耳にした覚えがなかったため、こう答えるだけに留めた。

「でも小英国主義者がいるとは思えないけど」

 ホーン・フィッシャーは微笑んだ。これが感じのよい笑顔なのである。

「ここにいる人たちはみんな小英国主義者ですとも。小さき英国に戻ることを望んでいる」

「何のことだかわかりませんね」訝しげに大尉は言った。「あなたがヘイスティングズ――か何か――をそれほど評価していないと思われても――」

「果てしなく評価していますとも。この駐屯地には彼以上の適任者はいませんよ。イスラム教徒に理解があり、共同で何でもできるのですから。だからこそ、たかが最近の出来事ひとつで彼の代わりにトラヴァーズを推すことには断固反対ですね」

「何が言いたいのかいよいよもって理解できませんね」大尉は率直に伝えた。

「きっと理解する値打ちもないんですよ」フィッシャーはあっさりと答えた。「どのみち政治の話など止しましょう。この井戸にまつわるアラブの伝説はご存じですか?」

「あいにくアラブの伝説はほとんど知りません」ボイルは素っ気なく答えた。

「それこそ過ちじゃありませんか。あなたの考え方によればね。ヘイスティングズ卿自身がアラブの伝説なのですから。正真正銘の大人物であるとはそういうことではないでしょうか。卿の評判が届けば、アジア・アフリカ各地でわたしたちの立場は危ういものになるでしょう。そうそう、あの穴がどこまで深いのか誰も知らないそうですがね、その穴に関する話がどうにも気になってしかたがないんですよ。今でこそイスラム風の物語になってはいますが、ムハンマドより昔からあった話だとしても驚きません。スルタン・アラジンと呼ばれた人物の全容――といってもあのお馴染みのランプの人とは違いますがね、しかし魔神や巨人のようなものと関係があるという点ではよく似ています。巨人に命じて高く高く星より高く聳えるパゴダを作らせたと言われています。バベルの塔を作った人々が口にしたように、いと高きもののために。けれどバベルの塔の建設者たちもアラジンと比べれば鼠のように謙虚でおとなしい人々でした。人々が望んだのは天まで届く塔という、ごくつまらないものに過ぎなかった。アラジンが望んだのは、天を越えその上まで果てしなく聳え続ける塔だったのです。アッラーは雷を落としてスルタンを地上に叩きつけました。落雷は大地を貫き、深く深く穴を穿ち続け、やがて天辺のない塔の代わりに底のない井戸ができあがりました。闇に包まれた逆さまの塔深く、驕慢なスルタンの魂が未来永劫に落ち続けているそうです」

「不思議な人だなあ」ボイルが言った。「あなたが話すとそうした寓話も信じてしまいそうになる」

「きっとわたしが信じているのは寓意であって寓話じゃないのでしょう。それより、ヘイスティングズ夫人が来ましたよ。ご存じでしたね」

 無論ゴルフ場のクラブハウスはゴルフ以外にも様々な用途で使われていた。軍事一点張りの軍本部を別にすれば、駐屯地にある社交場はここだけなのである。ビリヤード室とバー、さらには立派な参考図書館まであって、将校のくせして仕事熱心なひねくれ者たちが利用していた。ひねくれ者のなかにはほかならぬ偉大な司令官もいて、真鍮の鷲にも似た銀の頭と褐色の顔を、海図や二折本フォリオに突っ込んでいるのをよく目撃されていた。ヘイスティングズ卿は学問だけでなく、ほかにもいろいろと厳しい生活信条を尊んでいた。その真髄を実の父のように若きボイルに助言はしたものの、ボイルがその学習室に顔を出したのはわずかに数えるほどである。つまりは青年が図書館のガラス戸を通り抜けゴルフ場にやって来たのは、そんな不定期な勉強会の折りだったわけなのである。だが重要なのは、このクラブハウスの施設が、数のうえで紳士に劣らぬ淑女の社交にもぴったりだということであり、ヘイスティングズ夫人は自分の舞踏室にいるかのようにこんな社交界でも女王然としていられたということであった。ずいぶんと適役であったし、聞くところによればそんな女王役をずいぶんと演じたがってもいた。夫よりだいぶ年下の、魅力的でときに危険なほど魅力的なご婦人である。夫人がボイルを連れて立ち去るのを、フィッシャーは蔑むように見送った。それからどこか退屈そうに、井戸を取り巻く棘だらけの青い茂みを見るともなく見つめていた。この不思議なサボテンの群れときたら、茎でも枝でもなく、ぶ厚い葉から直接また別の葉が生えている。取るべき形も目指すべきところもないまま、行き当たりばったりに成長しているのではないかという不安が、夢見がちな心に浮かんだ。西洋の草花は天辺に花をつけて事足りている。ところがこれでは、悪夢よろしく手から手が、足から足が生えかねなかった。「ずっと帝国に州を加えてきたようにね」と笑いを浮かべると、悲しげにつけたした。「とは言え、わたしが正しいとも限らない!」

 力強いが穏やかな声に空想を破られ、顔を上げて旧友の顔を認め微笑んだ。顔と比べれば確かに何倍も穏やかな声である。一目見て明らかなほど厳つい顔だった。典型的な法律家顔だ。角張った顎に、白髪混じりの太い眉。極めて法律家らしい特徴であると言っていい。もっとも、今は半ば軍人としてあの未開地区の警察に所属しているのだが。カスバート・グレインは弁護士や警官というよりは恐らく犯罪学者に近かったが、さらなる未開地域にやって来て、三者すべてを効果的に組み合わせてみせることに成功していた。奇っ怪な東洋的犯罪の数々を見出した功績は大きい。だがそんな道楽ないし学問に通暁している者や興味を持つ者などまずいなかったので、知的生活は孤独なものだったと言っていい。数少ない例外にホーン・フィッシャーがいた。たいていの人間とたいていの話題を語り合える、不思議な才能の持ち主なのである。

「植物学を研究中かね、それとも考古学かな?」グレインが尋ねた。「君の好奇心には終わりがなさそうだな。君の知らないこと即ち知る価値のないことなり、か」

「そうじゃありません」珍しくつっけんどんで、棘さえあった。「私の知っているのは、そんなこと知る価値がないってことですよ。ありとあらゆる裏事情。ありとあらゆる密かな理由に腹黒い動機、政治活動というたてまえの賄賂や恐喝。昔はそこらじゅうの下水道に飛び込んでいたものですが、そんなもの自慢にもならない以上は、町で少年たち相手にその武勇伝でも語るべきなんでしょうね」

「何だと? どういうことだ? 君をそんなふうに見たことはなかったな」

「お恥ずかしい。少年特有の狂熱を水で冷やしていただけなのですがね」

「全然説明になってないな」

「無論くだらない新聞のたわごとですよ、狂熱なんてものは。だがあの年頃なら思い込みを理想と勘違いしうるのだとわかっておくべきなんです。どのみち現実よりはましなのだし。ところが最低の理想に落ち込んだ一人の若者を引き上げるに当たっては、ひとつ厄介事がついてまわるのです」

「どんな心配があるのかね?」

「得てして悪い方へと同じ勢いで連れて行かれがち。向かう先に終わりはありません。底なしの井戸のように深い、底なしの穴なのです」


 フィッシャーが友人と再び顔を合わせたのは二週間後、ゴルフコースとは反対側に位置する、クラブハウスの裏庭に迷い込んだときのことだった――乾いた日没の光に照らされた亜熱帯植物が、色とりどりにむせかえっているような庭である。ほかに二人の人物がいて、その三人目こそが今や名高い副司令官、お馴染みトム・トラヴァーズであった。痩せて浅黒く、額に刻まれた深い一本の皺と黒い口髭の形状がもたらす気難しさのせいで、年よりも老けて見える。急ごしらえの使用人として働いていたアラブ人が、ちょうどブラック・コーヒーを運んできたところであった。もっとも、すでに馴染みの人物ではあったし、むしろ将軍の古くからの使用人としてつとに知られていた。サイードと呼ばれており、人並み外れた黄色い馬面はセム人たちのなかでも特に目立ち、セム人たちには珍しくない狭い額の高さと併せて、愛想のいい笑顔とは裏腹の何やら理解しがたい邪悪な印象を与えていた。

「あいつを信頼できるとは思えんな」使用人が立ち去るとグレインが言った。「納得いかんね。いや、わかるとも。確かにヘイスティングズに忠誠を尽くし、命を救ったらしい。だがアラブ人というのはそういうもんだ――一人の男に尽くすのだ。誰かの喉を掻き切るんじゃないか、信用していても裏切られるんじゃないかと、つい考えてしまうね」

 トラヴァーズは苦笑した。「ヘイスティングズにさえ手を出さなければ、世間の誰も気にやしないよ」

 気まずい沈黙が落ち、力戦の数々が思い出されたが、やがてホーン・フィッシャーがそっと口を開いた。

「新聞は世間ではありませんよ、トム。気にすることはありません。世間のみんなは真実をよく知っていますから」

「将軍の話は止めた方がいい」グレインが言った。「今クラブハウスから出てきたところだ」

「ここには来ません。奥さんを車まで見送りするだけですよ」

 フィッシャーの言った通り、クラブハウスの階段には夫に続いて夫人が現れた。将軍が庭の門を開けようと素早く進み出た。開いた門を尻目に夫人は引き返し、扉の陰の籐椅子に一人静かに座っていた男に一瞬だけ話しかけた。庭でだらだら過ごしていた三人を除けば、閑散としたクラブハウスに残っていたのはその男一人である。フィッシャーは暗がりをしばらく見つめ、そこにボイル大尉の姿を認めたのだった。

 すると今度は、驚いたことに将軍が舞い戻り階段をまた上り、ボイルに一言二言話しかけた。次いでサイードに合図を送るや、たちまちコーヒー二客が現われて、二人はカップを手に館内に舞い戻った。深まる闇が立ちこめる白い仄明かりのなかで、奥の図書室に電灯がつけられたのが見えた。

「コーヒー及び科学的研究か」トラヴァーズが冷やかな声を出した。「学問と理論的研究の贅沢三昧だね。さあ、もう行かなきゃ。こっちも仕事がある」ぎこちなく立ち上がり、いとまを告げると、夕闇のなかへと歩み去った。

「ボイルが科学的研究に専念してくれることを願うばかりですよ」とホーン・フィッシャーが言った。「どうもボイルのことはすっきりしないのでね。でも別の話をしませんか」

 二人はどうやら思った以上に長々と別の話をしていたらしく、気づけば熱帯の夜が訪れ、輝く月が辺りすべてを銀色に染めていた。だがまだ周りを見るには暗いうちから、図書室の明かりが不意に消えたことにフィッシャーは気づいていた。二人が現われるかと庭の入口近くで思っていたのだが、誰も来ない。

「きっとゴルフ場を散歩しに行ったんですね」

「そんなところだな」グレインが答えた。「いい夜になりそうだ」

 そう言った直後だったろうか、クラブハウスの陰から声をかける者があり、見れば驚いたことにトラヴァーズが駆けつけ、来るやいなや声を荒げた。

「助けがいる。ゴルフ場でまずいことが起きた」

 飛び込んだ場所が喫煙室と奥の図書室であることはわかったが、室内同様に実情も闇の中である。しかしながら、ホーン・フィッシャーは無頓着を装ってはいるが好奇心旺盛で超人的な感受性の持ち主であり、単なる事故では済まない気配をすでに感じ取っていた。フィッシャーは図書室の什器にぶつかり、震え上がるほどぎょっとした。什器が動くなど想像したこともなかったのに、それは動いたのだ。しかもどうやら生き物のように、殴られては殴り返している。すぐにグレインが明かりをつけた。何のことはない回転式の書架にぶつかったフィッシャーが、回り出した書架にぶたれているだけであった。だがこの思わぬ足止めのおかげで、謎めいた奇怪な潜在意識が覚醒したのである。それは図書室のあちこちに据えられた回転式書架の類であった。一つにはコーヒーカップ二客、今一つには開いた大型本が置かれていた。エジプトのヒエログラフに関するバッジ博士の著書で、風変わりな鳥や神々の図版が色とりどりに掲載されていた。駆け抜けざまに見ただけではあったが、そのときその場所に開いてあるのが軍事科学の本ではなくこの本だというのが解せなかった。本の詰まった書棚からこの本が抜き取られて隙間が出来ているのにも気がついた。歯の抜けた顔が悪意に満ちて大きく口を開いているようにも見えた。

 しばらく走ると底なし井戸の手前に広がる、敷地の向こうにたどり着いた。井戸から数ヤード、日光のように明るい月光に照らされて、見るべきものが見えた。

 ヘイスティングズ卿がどことなく不自然にこわばった姿勢でうつぶせに倒れていた。腕が折りたたまれ、大きく骨張った手が生い茂る芝草を握りしめたまま、肘は身体の上に突き出していた。近くでボイルが手と膝で身体を支えていたもののほとんど動かず、卿の身体を見つめていた。恐らく一時的なショック状態に過ぎないのだろう。それでも、四つんばいになって口をあんぐり開けているところには、見苦しく非人間的なところがあった。まるで理性が吹っ飛んでしまったようだ。背後には青く澄んだ南の空と砂漠の境、あとは井戸の前の崩れた石二つだけだった。大きく邪悪な顔が見下ろしているのが見えると思えるのは、こんな明かりと雰囲気のときなのだ。

 ホーン・フィッシャーは屈み込んで固く草を握りしめている手に触れてみたが、それは石のように冷たかった。傍らに膝をついてしばらくいろいろと確認してみた。やがてふたたび立ち上がると、はっきりと希望を打ち砕いた。

「ヘイスティングズ卿は死んでいます」

 石のように静かだったが、やがてトラヴァーズが声を絞り出した。「君の出番だよ、グレイン。ボイル大尉には君が質問してくれ。何を言われても私にはわからん」

 ボイルは落ち着きを取り戻し立ち上がっていたが、顔にはまだ恐ろしい表情を、新しい仮面か他人の顔のようにしてまとっていた。

「井戸を見ていたんです。振り向くと、ヘイスティングズ卿が倒れていました」

 グレインが苦虫をかみつぶした。「確かにこれはわたしの役目だな。まずは遺体を図書室に運ぶのを手伝ってもらおうかな。それから徹底的に調査させてもらう」

 図書室に死体を安置したところで、グレインがフィッシャーに声をかけた。声には満足感と自信が戻ってきていた。「まずは一人で徹底調査するつもりだ。事情の説明やボイルの予備尋問は任せたぞ。わたしもあとで話すつもりだがね。それと、本部に電話して警官を頼む。すぐにここに寄こして、いいと言うまで待たせておくんだ」

 著名な犯罪学者はそれだけ言うと明かりの灯る図書館に向かい、ドアを閉めた。するとフィッシャーは返事もせずに振り返り、トラヴァーズに小声で話しかけた。

「奇妙なことですね。よりによってあの場所の真ん前でこんなことが起こるなんて」

「確かに奇妙極まりないだろうね」トラヴァーズが答えた。「あの場所がこれに一枚噛んでいるとなれば」

「噛んでいないという点こそ、いっそう奇妙じゃありませんか」

 フィッシャーはなんだか頓珍漢なことを言うと、震えているボイルを振り向き腕を取って、月明かりのなか散策しながら低い声で話を始めた。

 夜も明けて空も無粋に白み始めたころ、カスバート・グレインが図書室の明かりを消してゴルフ場にやって来た。フィッシャーは気だるげに独りぶらぶらしていた。だが呼びにやっていた伝令警官の方は、しゃちほこばって佇んでいた。

「ボイルはトラヴァーズと一緒に帰しました」何気なくフィッシャーが口にした。「あとのことはトラヴァーズがしてくれるでしょうし、どのみち少し休んだ方がいいでしょうから」

「何か聞き出せたか?」とグレインがたずねた。「ヘイスティングズと二人で何をしていたのか話してくれたか?」

「ええ、実を言えば、かなり詳しく説明してくれました。ヘイスティングズ夫人が車で走り去ったあと、図書室でコーヒーを飲みながら当地の古代遺跡について一つ調べてみようと、将軍に誘われたのだそうです。ボイル自身はバッジの本を見つけようと回転書架を探し始めていたのですが、それは将軍が壁際の本棚から見つけ出しました。二人は図版を幾つか調べていたのですが、どうやら出し抜けにゴルフ場に向かい、古井戸の方へ歩いて行きました。ボイルが井戸をのぞき込んでいると、後ろで鈍い音がして、振り返ると将軍が倒れていたそうです。大丈夫かと屈み込んだところで、恐怖のあまり竦んでしまい、近づくことも触れることもできなくなったそうです。これは気にしなくてもいいでしょう。実際に衝撃に襲われた人間が、おかしな格好で見つかるのはよくあることですから」

 グレインは社交的な笑みを浮かべると、一呼吸置いて口を開いた。

「ふん、嘘は少ししかついていないな。実に見事なくらい理路整然とした説明だが、肝心なことだけが抜け落ちている」

「図書室で何か見つけたんですか?」

「何もかもをさ」

 フィッシャーはどこか物憂げに沈黙を守っていたが、そのあいだもグレインは落ち着いて迷わず説明を続けていた。

「君は間違っていなかったよ、フィッシャー。若者はいつなんどき穴に向かって暗がりを転げ落ちるかわからんというやつだ。いずれにせよ、感づいているとは思うが、君がボイルの将軍観に揺さぶりをかけたのが一因だな。ボイルはしばらく前から将軍を煙たがっていたという事実もあるしな。不愉快なことだな。それにあまり言いたくはないが、奥さんも将軍を煙たがっていたのははっきりしている。どこまで行っていたか知らんが、隠さなにゃならんところまで来てたのは確かだ。なにしろヘイスティングズ夫人がボイルに耳打ちしたのは、図書室のバッジの本にメモを隠したと伝えるためさ。偶然耳にしたのか、とにかく知ってしまった将軍は、まっすぐ本を目指してそのメモを見つけた。それをボイルに突きつけると、当然一悶着起きたわけだ。そのうえボイルに突きつけられたのはそれだけじゃなかった。恐ろしい選択肢を突きつけられたんだ。老人一人が生きていれば破滅をもたらし、死ねば勝利どころか幸せまでももたらすというね」

「そうですか」フィッシャーがようやく口をきいた。「女性問題について口をつぐんだところで責めたりはしませんがね。けれどどうやって手紙のことを知ったんです?」

「将軍の遺体から見つかったんだ。だがもっと悪いものを見つけちまったぞ。遺体のあのこわばり方からすると、アジア系の毒物によるものだな。そこでコーヒーカップを調べてみたが、その片方の飲み残しに毒が入っているのは、わたしの科学知識でも充分わかったよ。つまりだ、将軍はまっすぐ本棚に向かったのだから、カップは部屋の真ん中の書架に置きっぱなしだったわけだ。将軍が背中を向けているあいだ、ボイルは本棚を調べるふりをしながら、問題のコーヒーカップと二人きりだったことになる。毒が効き始めるのに十分ほどかかるとして、十分歩けば底なしの井戸に着く」

「そうなりますね。となると底なしの井戸はどうなるんです?」

「底なしの井戸が何の関係があるんだ?」

「何の関係もありません。だから困っているし、合点がいかないのです」

「地面に空いたあの穴に、どんな関係があるというんだ?」

「おっしゃる通りまさに穴があるんですよ。ですが今はその話はよしておきます。それより、ほかに伝えておきたいことがあるんです。ボイルをトラヴァーズに任せたと言ったでしょう。トラヴァーズをボイルに任せたと表現しても間違いではないんですよ」

「トム・トラヴァーズを疑ってると言いたいわけじゃないよな?」

「将軍への反感は、ボイルとは比べものにならないですから」フィッシャーの答えは不思議なくらい素っ気なかった。

「何を言っているかわかってるのか? コーヒーカップから毒が見つかったと言っただろう」

「言うまでもありませんが、サイードは常に将軍のそばにいました。計略ゆえか契約ゆえかはわかりませんがね。サイードなら何でもやってのけると言ったじゃないですか」

「主人を傷つけることはあり得んと言ったのだ」グレインが言い返した。

 フィッシャーは穏やかに切り返した。「それはそうなんでしょうがね。それより図書室とコーヒーカップを見てみたいのですが」

 フィッシャーは中へ入り、グレインはそばに控えていた警官を振り返って走り書きを手渡した。本部より打電すべしという内容である。警官は敬礼するや走り去った。グレインが友人を追って図書室に入ると、フィッシャーは部屋の真ん中で書架のかたわらに立っていた。その上には空のカップが載っている。

「ここでボイルはバッジを探していた、と言いますか、あなたに倣えば探すふりをしていたわけですか」

 と言いながら中腰になり、小振りな回転書架に収められた本を調べていた。どの書棚もテーブル程度の高さしかなかったのだ。次の瞬間フィッシャーは刺されたように飛び上がった。

「なんてことだ!」

 ほとんどの人間は(一人でもそんな人間がいるとしての話だが)ホーン・フィッシャー氏がこんなふうに振る舞うのを見たことはなかった。ドアに目を走らせ、開いた窓の方が近いことを確認するや、ハードルを越えるように窓をひとっ飛びして外に出ると、芝生を駆け抜け、帰りがけの警官を追いかけた。グレインはそれを見つめたまま立ちつくしていたが、やがて背が高く締まりのない人影が戻ってくるのを見ると、いつものようにぐだぐだと暇をもてあまし気な態度にすっかり戻っていた。ひらひらとゆっくり動かしているのは一枚の紙切れ、もとい力ずくで奪い取った電文であった。

「運がよかった。この事件のことは死んだように静かにしておかなくてはなりません。ヘイスティングズの死因は卒中か心臓発作で決まりですよ」

「言っていることが無茶苦茶だぞ」

「何が無茶苦茶と言って、二、三日のうちに実に愉快な選択を迫られるところだったということですよ。無実の人間を吊るすべきか、大英帝国を地獄に蹴落とすべきか」

「つまり何だ、このひどい犯罪は罰せられるべきではないと?」

 フィッシャーはグレインの目をしっかりと見つめた。

「すでに罰せられたんです」

 一呼吸置いてからフィッシャーは続けた。「あなたが再構成した事件の状況は見事な出来栄えでしたよ、ほとんど正解と言ってもよかった。二人の人間がコーヒーを手に図書室に行き、それを本棚に置いて連れ立って井戸に向かいました。そのうちの一人が殺人犯であり、もう一人のコーヒーカップに毒を入れたんです。ですが毒が入れられたのは、ボイルが回転書架を調べている最中ではありません。もっとも、書架を調べて探していたのはメモを挟んだバッジの本だったのですが、恐らくヘイスティングズがとっくに壁際の本棚に移していたのではないでしょうか。恐るべき運命の悪戯だったんですよ、彼の方が先に見つけてしまうなんて。

「ところで、回転書架を探すとき、どうしますか? 蛙のように這いつくばったまま書架の周りを飛び跳ねたりはしませんよね。書架に手を触れ、回転させるだけです」

 床をにらんだまま話していたが、重たげなまぶたの下には珍しいことに光が宿っていた。経験から生じた諦観の奥底深くに埋もれていた霊感が、その深淵で目を覚まし蠢いていた。声はがらりと変わり、それぞれ別の人物が話をしているようだった。

「ボイルもそうしました。ちょっと触れただけで、地球のようにくるくると書架も回転したのです。いやまさしく世界が回っていたのですよ。回したのはボイルの手ではないのですから。神です、運命の輪を回す神が輪を一周りさせた結果、恐るべき裁きが跳ね返って来たのでしょう」

「徐々にだが」グレインがゆっくりと口にした。「君の言わんとしている恐ろしい考えがぼんやりとわかり始めたぞ」

「極めて単純ですよ。屈んでいたボイルが立ち上がったとき、起こってしまったことに彼は気づかなかったし、恋敵も気づかなかったし、誰一人として気づかなかったのです。二つのコーヒーカップは寸分違わず入れ替わっていました」

 岩のような顔つきのグレインは、無言で衝撃に耐えているように見えた。皺一つ動かしはしなかったものの、口から出てきた声は驚くほど弱々しかった。

「そういうことか。確かに、口を閉じるに越したことはない。旦那を消そうとした愛人――ではない方の話だったんだな。そんな人間がそんなことをしていたなんて話が広まれば、俺たちはここでおしまいだぞ。初めから見当がついていたのか」

「底なしの井戸、と申し上げたでしょう」フィッシャーは控えめに答えた。「初めからそれが気になっていたんです。事件と何らかの関係があったからではなく、何の関係もなかったからです」

 どう切り出そうかというように間を空けてから、話を続けた。「あと十分で死ぬとわかっている敵対者を、底知れぬ穴の縁まで連れてきた以上は、穴に死体を放り込むつもりだったんです。それ以外にやることなどないじゃありませんか? よほどのとんまでもないかぎり、そのくらいの頭はありますし、ボイルはそれほどのとんまではありません。ではなぜ放り込まなかったのでしょう? 考えれば考えるほど、いわばこの殺人には何かの手違いがあったのだと思えてくるのですよ。何者かが何者かを投げ込むために連れて行ったのに、投げ込まなかった。すでにぐちゃぐちゃと曖昧な考えはあったのですが、その大部分を置き換えたり取り消したりでした。そのときですよ。屈み込んで書架を自分で回してみようとして、偶然にも、たちどころにすべてがわかったのです。目の前で二つのカップが、空に浮かぶ月のように一巡りしたんですから」

 一つ押し黙ってからカスバート・グレインが言った。「だが新聞にはどう説明しようか?」

 

「友人のハロルド・マーチが今日カイロからやって来ることになっています。凄腕の記者なんですがね。ところが何分にも随分と潔癖なところがありますから、決して真実を伝えてはなりません」


 三十分後にフィッシャーはふたたびボイル大尉とクラブハウス前をぶらついていた。今回のボイルにくっついていたのは、すっかりくたびれ混乱した物腰である。あるいはより悲しげでより賢げになった人物である。

「それでぼくは? 疑いは晴れたんですか? 疑いが晴れることはないんですか?」

「疑われることのないよう、信じ願ってますよ。けれど疑いが晴れることは絶対にありません。あの人に疑いのかかることがあってはならない以上、あなたにも疑いがかかってはならないのですから。あの人に少しでも疑いがかかったり、こんな話が出てこようものなら、わたしたちはマルタからマンダレーまで一直線にガツンとやられてしまいます。あの人はムスリムにとって、恐怖の的であると同時に英雄でした。いやあなたなら、ムスリムの英雄がイギリス軍にいたと言いかねませんね。もちろん、ムスリムとうまくやっていた理由の一つには、自分自身が東洋の血を引いていたこともあります。ダマスカスの踊り子だった母から受け継いだのです。誰もがご存じのようにね」

「ああ」ボイルは見開いた目をフィッシャーから離さずに、機械的に繰り返した。「誰もが知ってますとも」

「嫉妬心と残酷な復讐にその片鱗が現れたんでしょうね。しかしいずれにしたところで、犯罪が起きてしまってはアラブで上手くやっていくことはできなくなる。しかもあろうことか言わば〈もてなし〉に反する罪なのですから。あなたにとっては許せないでしょうし、わたしにとってはひどく恐ろしい結果です。けれど絶対に起こりえないことは存在するんですよ。わたしの目の黒いうちは今回のこともそうなりますとも」

「どうしたんです?」と不思議そうに目を向けた。「よりによってあなたがそんなに熱くなっているなんて?」

 ホーン・フィッシャーは戸惑ったような顔つきをした。

「おそらく、小英国主義者だからですよ」

「そういう言い方がぼくには理解できないんです」自信なさげにボイルが言った。

「イギリスはそんなにも小さいでしょうか?」冷たいながらも温かみのある声だった。「数千マイル彼方にいる人一人を捕まえておけないほどに。あなたのお話は、理想主義的な愛国心に満ちていましたね。けれど今やわたしたちにとっては現実的なものになりました。理想を助けるための嘘もいらない。あなたのお話では、時と場所にかかわらず何もかもがうまく行っており、やがてヘイスティングズで頂点に達したかのような口ぶりでしたね。いいですか、ここでは何もかもがうまく行かずに、例外がヘイスティングズだったんです。彼の名前だけがわたしたちに残された魔法だったんですよ、同じ道を行かすわけには断じていきません! あのユダヤの一味がわれわれをこんなところに送り込んだだけでもひどい話で、こんな場所で働きたいイギリス人などいるわけがないのに、こうしてひどい目に遭っているのが、あの出しゃばりツィンメルンが半数の閣僚にお金を貸していたからというに過ぎないんですよ。バグダッドの質屋が自分の戦を人に押しつけているだけでもひどい話ですが、わたしたちだって右手を断たれては戦えません。唯一の得点がヘイスティングズその人と彼がもたらした勝利なんです、実際には別人の手柄だったにしてもです。トム・トラヴァーズは耐えねばなりません、あなたもね」

 しばしの沈黙ののち、底なしの井戸を指さし、さらに穏やかな声を出した。

「申し上げたように、わたしはアラジンの塔の原理を信じておりません。帝国が空に届くまで大きくなり続けるとは信じておりません。ユニオン・ジャックが塔のように永遠に伸び続けるとは信じておりません。しかし、それではユニオン・ジャックが底なしの井戸のように永遠に落ち続けることを望んでいるとか、底なしの穴の闇に消えてほしいとか、敗北や嘲笑や、われわれから搾れるだけ搾り取ったあのユダヤ人たちの嘲りのなかに転げ落ちてもらいたがっているなどとお考えでしたら――断じてそんなことはありません。たとえ閣僚が多くの富豪からゴシップ紙を種に強請られようとも、たとえ総理がメリケンのユダヤっ娘たちと結婚しようとも、たとえウッドヴィルやカーステアズがさまざまな悪徳鉱山の株を貯め込んでいようとも、です。崩壊寸前なのが事実だとしても、それを後押しするのは神であって、われわれの手で壊してはならないのです」

 フィッシャーを見つめるボイルからは、当惑というより恐れ、いや嫌悪すら感じられた。

「どうやら、何か恐ろしいことをご存じのようですね」

「知ってはいますが」ホーン・フィッシャーが答えた。「決して納得できるほどの知識や持論があるわけではないのです。ですがあなたを絞首刑から救うことに一役買っている以上は、とやかく言われる筋合いはありますまい」

 そして初めての自慢を恥じてでもいるのか、背を向けて底なしの井戸の方へと歩いていった。


G.K.Chesterton“The Man Who Knew Too Much” 第四話‘THE BOTTOMLESS WELL’の全訳です。


Ver.1 03/03/11
Ver.2 03/11/16
Ver.3 08/08/22

HOME  翻訳作品   チェスタトン目次   戻る  進む   TOP

訳者あとがき
 『知りすぎた男』の第四話をお届けします。今回のホーン・フィッシャーは従軍中。というわけで戦時中の政治や駆引きについてかなり手厳しい意見も見られます。特にユダヤ人に対する敵意(?)には並々ならぬものがあって、このあたりの意見はやはり批判もされているようです。しかし評論家としての評価はともかく、ミステリ小説としては、単純な逆説と単純な真相がみごとに決まっています。ホームズのあの有名なセリフを連想させるロジックで、『知りすぎた男』の中でも訳者の特に気に入っている作品です。
 

[更新履歴]
 03/11/16 半年以上ぶりに改訳です。半年前とは訳に対する姿勢も変わりました。今は、チェスタトン独特の、韻を踏んだりことば遊びをしたりしている部分を、なるべく訳出するように心がけています。例えば「規定よりも底知れぬ深さであったし、本来の目的さえ底知れぬ。」とかです。
 もちろん誤訳もたくさん訂正。例えば「図書館の什器にぶつかると、はずみでぐらぐらとよろめいた。」→「図書館の什器にぶつかると、驚いて震えだした。」(almost shuddered with the shock,)など。「震えんばかりだった」かな。

 07/01/23 三年ぶりに改訳かぁ。。。さすがに三年あれば少しは訳者も成長してるはず(だと信じたい)。第一パラグラフを更新。のっけから間違っている。「contrast」が訳せなくて「色合い」とかごまかしてた。「which is none the less typical of such a place」の意味を正反対に取っていたのも一因。「典型的なそんな場所にもかかわらず」ではなくて、「にもかかわらず典型的なそんな場所」でしょう。確かにしちめんどくさい文章ではあるが、だからといって「バビロニアの怪物」なる得体の知れないモンスターを誕生させていいわけではない。ここは「バビロニアの巨大なもの(=門)」。確かに「contrive」は「企む」だが、「contrive to do」は「〜しようと企む」わけではない。「うまく〜する」だった。ちゃんと辞書を確認すべし。「by tradition」を「伝統により」と捉えたせいで、「(伝統的な)規定によれば(それよりも)」などと訳していた。「伝承により」に変更。最後のセンテンスがむずかしい。内容自体は難しくないのだが、日本語にしづらい。長いし。

 07/01/26 第二〜五段落。「白い日除け付サファリ帽」のビジュアルが思い浮かばなかったため、以前は「白い紐のついた白いヘルメット」なるよくわからんもんをかぶらせていた。ドリフが探検隊コントでかぶっているようなやつかね。ここは「サファリ帽」というよりむしろ「軍帽」と訳した方がよいのかどうか。「not without sincerity, but certainly without fervor」を「誠実だが熱意のない」なるわかったようなわかってないような訳し方をしていたので、「心を込めなくもないが熱意も込めずに」と改訳。「He was much too hot to be anything but cool.」の部分、わかってみると単純だね。直前に「paradox」とまであるのに、どうして理解できなかったのか。さっきの「not without」もそうだけど、ここも確かに「too〜to…」+「anything but」の合わせ技ゆえに、ちょっと混乱するのは確かではあるんだけど。「anything but」を辞書定義まるまんま「少しも〜でない」で理解しようとするからわけわからんかったのだ。ここは直訳して「〜以外の何ものでも」とすればすんなりじゃないか。

 08/01/05 何が素晴らしいかは言う必要なし〜アラブの伝説まで。コルボーンというのはイギリスの軍人(John Colborne)。ワーテルローの戦いでフランス軍を撃退するきっかけをつくった。その時の「司令官」はウェリントン。「the Zimmernes」というのが今もってわからない。「the+複数形」だから家名だろうと見当をつけるものの、そもそも読み方がわからない。何系? ドイツ系ならツィンメルン、英国系ならジマーンか。運河やら質屋やら云々から見てロスチャイルド家がモデルか? 「out here」は「ここの外」ではありません。ヘイスティングズ卿の人となりをことごとく誤訳していたので訂正。訂正してみると、ヘイスティングズ卿のモデルって、アラビアのロレンスかなあ? 「The Utmost for the Highest」を取りあえず「いと高きもののため」と訳してみた。

 08/04/12 「It was the only social centre of the garrison besides the strictly military headquarters;」の部分、グーテンベルクのテキストでは「beside」だったのだが書籍版を見たら「besides」だったので訂正。なるほど、ここはチェスタトン流のウィットというか皮肉というかなのですね。「軍事専用の軍本部を別にすれば、この駐屯地でただ一つの社交場なのである」。文意を活かすためには「only」を「唯一の」ではなく「〜しかない」のように否定っぽく訳した方がいいか。「the strictly 名詞」というのは英語では当たり前の表現なのだが、直訳して「純然たる軍本部」だと日本語として当たり前ではない硬い表現になってしまう。『ランダムハウス』を見たら、「strictly business」で「ビジネス一点張り」という素晴らしい訳語が載っていた。いただくことにする。「so perverse as to take their profession seriously」も上手く訳せてなかったので、皮肉っぽく直してみた。「science and study」は「science」と「study」ではなく、ひとかたまりで「学問」とかそんなような意味でした。

 08/04/12 「Mr. Horne Fisher looked after her a little sardonically as she swept away with the young soldier.」の「young soldier」には「the」がついているから、どう考えてもボイル以外にいそうにない。「sardonically」を「蔑むように」と訳してみたが、フィッシャーのキャラに合わない気がして微妙。「A flower or shrub in the West grows to the blossom which is its crown, and is content.」がよくわからない。「西洋の草花は花をつける。それは栄冠であり、肉体である」かなあ? 「content」を形容詞だと取って「西洋の草花は天辺に花をつけて事足りている」にしてみたけど、多分違う。

 08/04/29 カスバート・グレイン登場から二人の会話終わりまでを改訳。ここは誤訳がとりわけひどかった。グレインが所属している「wild district(未開地区)」というのは恐らくイギリスの田舎を指すのでしょう。たぶんスコットランドとかダートムーアとか具体的な場所を指していて、イギリス人なら「はは〜ん」とわかるに違いない。「Oriental crimes」ってのが何かの言い換えのようでもあり、そのまんまのようでもあり……? 「It's what I do know that isn't worth knowing.」って、以前は「that」を無視して訳していたので、「知っているのは知る価値のないもの」みたいな謙遜じみた台詞になっちゃってた。だけどじゃあどう訳すかっていったら、こんなの上手く訳せるわけないよね。。。「I needn't be so proud of having been down all these sewers that I should brag about it to the little boys in the street.」の解釈に自信がない。でも少なくとも以前の訳のように、フィッシャーが少年に自慢して下水道に投げ込まれたのではないことは確か。ここを間違っているから、次の台詞も以前の訳では、熱狂した少年に投げ込まれたことになっていた。「illusions can be ideals」を「幻想さえも理想になる」と、意味も考えずにただ訳語を当てはめただけ(しかも不正確に)だったので、少し意訳して「思い込みを理想と勘違いしうる」とした。「jolt」には「揺さぶる」「驚かす」のほかに「引き戻す・目を覚まさせる」という意味があった。それを知らないものだから、以前の訳では「だけど非常に厄介なことに、ステレオタイプな卑しい理想から若者に揺さぶりをかけるという問題を一つ抱えています」とまるで意味不明。「ところが最低の理想に落ち込んだ一人の若者を引き上げるに当たっては、ひとつ厄介事がついてまわるのです」に改める。そうしてみるとここは暗にボイル大尉のことをほのめかしているのでしょうね。好きな話、とか言っておきながら、なんか全然わかってなかったのか。。。_| ̄|○

 08/05/12 二週間ぶりに会ったフィッシャーとグレイン〜ゴルフ場で事件発生まで。サイードのことを「臨時雇いのアラブ人給仕」としていたが、これだと「本当は使用人じゃないのに戦場のクラブハウスで取りあえず使用人として働かされている人」というニュアンスが伝わりにくいし、その直後の将軍の「old servant」ともつながらないので、「急ごしらえの使用人」に改めた。「薄明かりのなかで図書館の電灯がつくのが見えた」なのに「薄明かりが見えたので、図書館の電灯がついたのだとわかった」と誤まっていたのを訂正。

 08/06/09 三人、図書室に飛び込む〜卿とボイル発見。直前に月が輝いているって書いてあるのに「闇夜」と訳してあったのを訂正。暗いのは図書室でした。このパラグラフの末尾があまりにも無茶苦茶な訳だったので訂正。何をどう勘違いしていたのかすら我ながら不明だ。「ちょうど走り抜けたところで、奇妙な事実に気付いた。そこに開かれてあるべき軍事教練の本がひとつもなかったのだ。フィッシャーは、本が抜き取られた本棚の隙間を、不吉な思いで呆然と見つめていた。歯の抜けた、邪悪な生き物の顔のようだった。」「駆け抜けざまに見ただけではあったが、そのときその場所に開いてあるのが軍事科学の本ではなくこの本だというのが解せなかった。本の詰まった書棚からこの本が抜き取られて隙間が出来ているのにも気がついた。歯の抜けた顔が悪意に満ちて大きく口を開いているようにも見えた。」

 08/08/18 フィッシャー生死を確認〜フィッシャー電報ひらひらまで。▼"It would certainly be very curious," replied Travers, "if the place played any part in it."/"I think," replied Fisher, "that the part it didn't play is more curious still."「確かに不思議だ、あの場所が何らかの役割(part)を担っているのなら」「担っていないpartの方がいっそう不思議じゃないですか」を上手く訳せない。そのまま「役割」でもいいのだが、あんまりうまいこと言ってない感じになってしまう。▼「police messenger」というのは警察の職名のようなので、何か定訳があると思うのだが、辞書には載っていなかった。▼「look up a point about local antiquities.」がなぜか「古代遺跡に立ち寄ろうと」になっていたので「当地の古代遺跡について一つ調べてみようと」に訂正。▼「I don't know how far it went, but it went as far as concealment, anyhow;」の部分、何も考えずに「as far as」を「〜の限り」と訳して強引に前後の辻褄を合わせていたので、「いつからそうなっていたのかはわからないが、とにかく隠せる限りそうしていた。」と訳していたのだが、「どこまで行っていたか知らんが、隠さなにゃならんところまで来てたのは確かだ。」に変更。▼"There was always Said, of course," added Fisher, "either for hatred or hire."とある。頭韻というほどたいしたものじゃないんだけど、とはいえ邦訳にも活かしたい。旧訳では恐らく文章全体の意味自体がわかっていなかったので「憎悪にしろ贈賄にしろ」と意味不明だった。「言うまでもありませんが、サイードは常に将軍のそばにいました。計略ゆえか契約ゆえかはわかりませんがね。」に変更。次のやりとりも微妙に会話が噛み合っていなかったので、修正。▼Gutenberg のテクストでは「in the low, revolving shelf」となっていたので「書架を回転させて、下部の」みたいに訳してたのだが、書籍版を確認すると「in the low revolving shelf」だった。▼「saw that the open window was nearer,」の「near」が比較級なのを見落としていたので「近くの窓が開いているのを見て」と訳していたが、正しくは「(ドアよりも)開いた窓の方が近いことを確認する」なので訂正。

 08/08/19 「運がよかった」〜グレインも察する。▼「What on earth is the trouble?(いったいどういうことだ?)」に対するフィッシャーの答え、「The trouble is 〜(問題は〜)」を苦しいながらもどうにか日本語にしたほか、仮定法をちゃんと仮定法の訳文に訂正した。▼「It was part of that grim game that he should find it first.」というのは恐らく、辞書には「It's all part of the game」の形で載っている成句の変形だと思うので、「将軍が初めに本を見つけることこそが、この恐るべきゲームの一部でした。」から「恐るべき運命の悪戯だったんですよ、彼の方が先に見つけてしまうなんて。」に変更。旧訳では「should」の用法も無視して見ないふりしていたのがわかる。▼「He does not generally hop all round it in a squatting attitude, like a frog.」の部分、旧訳「蛙みたいにしゃがんだままで飛び回ったりはしません」では“書架を回さず、書架の周りを自分が回る”というニュアンスが消えてしまっているので、「蛙のように這いつくばったまま書架の周りを飛び跳ねたりはしませんよね」に変更。▼「He was frowning at the floor as he spoke」のパラグラフが全滅である。▽なぜか「was not often seen there」に当たる部分が旧訳では「つかのま」になっていたようなので、「珍しく」に変更。別にそのまま直訳で「めったに見られぬ」でもいいか、とも思ったけど。▽次が無茶苦茶だった。「The mysticism that was buried deep under all the cynicism of his experience was awake and moving in the depths.」という原文なのだが、「mysticism」の意味を無視し、その直後の「that」を無視し、「of」の前後で文章をぶち切ったために「無頓着な様子は老練な皮肉の下深くに葬られた。経験が奥深くから目覚め、動き出したのだ」という怪訳になっていました。日本語にしようと思うと難しいんだけどね。「経験から生じた諦観の奥底深くに埋もれていた霊感が、その深淵で目を覚まし蠢いていた」に変更。▽次の「almost as if two men were speaking」を「まるで二人の男が話しているようだった」と訳しちゃうと、二人の人間が会話しているようにも受け取れるので、少し説明的に「まるでそれぞれ別の人物が話をしているようだった」に変更した。▼「That was what Boyle did;」を「ボイルがやったことです」と訳すのは誤訳なのだが、このパラグラフは以下の文章も誤訳とまでは言えないものの前後の文脈が切れ切れだったので、全体的に改訳。

 08/08/22 グレインも察する〜最後まで。▼ミステリ的な真相が明らかになったあとの文章の翻訳がおしなべてやっつけ仕事である。英文和訳はしているけれど文脈がわかってないようなところはできるかぎり訂正した。▼「all the more because it was something like a crime against hospitality.」を旧訳では「歓迎を裏切る犯罪のようなものだからなおさらです」と訳していたのだが、それもこれも「hospitality」の訳し方がわからなかったから。こういうのは辞書を引いてもわからない。イスラム教徒にとって大事なことの一つが「もてなし」「相手に対する親切」なのだそうです。というわけで「しかもあろうことか言わば〈もてなし〉に反する罪なのですから」に変更。▼その直後の「But there are some things that damned well can't be done, and while I'm alive that's one of them.」も後半が理解できなかったため「だけどどうすることもできないことというのはあるし、その一方でそれに気づいてもいるんです」と文法や文脈を無視して辞書語を無理矢理当てはめていた。一応「けれど絶対に起こりえないことは存在するんですよ。わたしの目の黒いうちは今回のこともそうなりますとも」と変更したものの、どうしても説明的に間延びしてしまう。▼おそらく「doubtfully」に引きずられたのだろう。「"I can never make out what you mean by that sort of thing," answered Boyle, doubtfully.」が旧訳では「「そんなこと信じられないな」疑わしそうにボイルが言った。」となっていた。ここまでくると創作である。「「そういう言い方がぼくには理解できないんです」自信なさげにボイルが言った。」に訂正。▼次のパラグラフが全滅でした。読解力不足から文意が取れないのをコンマごとにぶつ切りにして訳してごまかしていた箇所を、前後の辻褄の合うように正した。完全な誤訳としては「I told you」を「申し上げた」と過去形にしちゃってたり、「Our one score」という表現がわからずに「一戦目」としちゃってたりした。▼さっきのパラグラフの「bad enough」もそうだったけど、「not if」もちゃんと訳せてなかった。「Yankee Jewesses」を思い切って「メリケンのユダヤっ娘」と訳してみた。イギリス人が「メリケン」と言うのは、侍が「ライスおかわり」としゃべっているみたいで違和感があるのだが、「アメ公のユダヤっ娘」では冗漫だし、「ヤンキー」もちょっと違う。定訳がありそうな気もするのだが。「shares」はここでは「分ける」ではなく「株」の意味だろう。▼「If the thing is really tottering, God help it, it mustn't be we who tip it over.」の旧訳「なにかがほんとうに揺らいでいて、神がそれを助けるのなら、ひっくり返すのは我々であってはならないのです」を見ればわかるとおり、If節がどこまでなのかはもちろん文章の意味すらわかってなかった。「totter」や「tip over」をかなり意訳したが、「崩壊寸前なのが事実だとしても、それを後押しするのは神であって、われわれの手で壊してはならないのです」に変更。▼第二章、第三章に続いて、本章でもせっかくのフィッシャーの〆の台詞が台無しである。「"There is," replied Horne Fisher. "I am not at all pleased with my small stock of knowledge and reflection.」。その直前のボイルの「there seems to be something 〜(何かありそうですね)」を受けて、「There is(あるんです)」と答えているのに、「I told you」とか「I know that」みたいに旧訳では処理してしまったようだ。「私は……乏しい知識も頭脳のことも、少しも快く思っていません」ではまったく意味が通じていないじゃないか。「「知ってはいますが」ホーン・フィッシャーが答えた。「決して納得できるほどの知識や持論があるわけではないのです」に訂正。

HOME  翻訳作品   チェスタトン目次   戻る  進む   TOP
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典