お見せするには大きなロンドン地図が必要なほどデタラメでジグザグの道のりを一日で旅しようという計画が、叔父とその甥――いや、正確には甥とその叔父により企てられた。なにしろ休暇中の甥っ子こそが理屈のうえでは神として、車、タクシー、電車、地下鉄その他に君臨し、叔父はせいぜいのところ神前で舞い供物を捧げる司祭にすぎない。より率直に申せば、少年が巡遊中の若殿のごとくのほほんとしている一方で、叔父はガイドの地位に甘んじたうえパトロンのごとくお金を出していたのである。少年殿は公式にはサマーズ・マイナーと呼ばれ、世間的にはスティンクス、治世における唯一の公務は写真と電気工学の愛好であった。叔父はトーマス・トワイフォード牧師。赤ら顔で白髪、引き締まった身体をした元気な老紳士である。当たり前の見方をすれば田舎の一牧師にすぎないのだが、人知れぬ見方をすれば人も知る存在になるという逆説を成し遂げた類の人物であった。すなわち人知れぬ分野で人に知られているのだ。考古学好きの司祭が幾人か集まれば、互いの発見を理解し合えるのは自分たちだけということもあり、ひと味違ったひとかどの地位を得ていたのである。ものを見る目のある人ならばその日の旅行にすら、甥の行楽はむろん叔父の道楽をも見いだしたであろう。
当初の目的こそまぎれもなく休日の保護者らしいものではあった。ところが学究の徒のご多分に漏れず、おもちゃで遊ぶという誘惑には打ち勝てずに、子供を楽しませるという名目で自分が楽しんでいた。この場合のおもちゃとは王冠、司教冠、司教杖、御劔である。長々とそれらに見とれていたあいだじゅう、男の子たるものロンドンの名所を残らず見て回るべきだとつぶやいてはいた。ところがその日の終わりに一服したあとでぽろりと尻尾を出してしまい、最後に訪れたのは、どんなに人間味あふれる男の子だって興味を持つとは思われない場所であった――元は礼拝堂であったらしい地下室が、最近になってテムズ川北岸で発掘され、文字どおり一枚の古い銀貨でしかないものが収納されているのである。ところが識者に言わせれば、その貨幣の珍しさと気高さは英王冠のダイヤモンド「コーイノール」をしのぐということである。古代ローマのもので、描かれているのは聖パウロだと言われた。これをめぐって古代英国教会に関する深刻な議論が巻き起こった。しかしながら否定できないことには、かかる議論もサマーズ・マイナーの気を引くことはできなかったのである。
しかるに、サマーズ・マイナーの興味を引いたものも興味を引かなかったものも、数時間のあいだ叔父を驚かせながらも楽しませたのは事実であった。イギリスの学童がいかに無知でありいかに博識であるかがすっかりさらけ出されたのだ――ある特殊なタイプの知識ゆえ、たいてい大人の間違いを正したりまごつかせたりできた。自らの考えるところによれば、休日のハンプトン・コートでは、ほかならぬウルジー枢機卿やオレンジ公ウィリアムの名前など忘れてもかまわない。ところが隣のホテルにある一連の電動ベルの仕組みからはほとんど目が離せなかった。ウェストミンスター寺院にはびっくりさせられ通しだったが、それもそのはず、なりに反比例して出来は小粒な十八世紀の彫像が教会を物置部屋に変えてしまっていたのだ。だがウェストミンスターのバスはもちろんロンドンのバス制度のことになれば、魔術を得たごとく的を射た知識を用いて、紋章は紋章屋よろしく色も番号も何でもござれであった。薄緑色のパディントン車と深緑色のベイズウォーター車を一緒くたにしようものなら、ギリシャのイコンとローマの肖像画を同一視するのを目撃した叔父と同じように、文句をつけたであろう。
「切手みたいにバスを集めているのか? かなり大きなアルバムがいるだろうに。それともロッカーにしまっておくのか?」
「頭の中にしまっておくんだ」と甥は当然のように言い切った。
「自慢なのはわかるがな。いろんなものがあるだろうに、どうしてそんなものを覚えたのか訊いても無駄だろうな。仕事にはならんだろう。来る日も来る日も道に突っ立って、バスに乗り間違えるおばあさんを減らすのでもないかぎりは。ああ、ここだ、ここで降りるぞ。
「それってセントポール寺院みたいなものなの?」少年は腹をくくってバスから降りた。
入り口で目を惹かれたのは、宙に浮いたような不思議な人物が同じく中に入ろうとしているところだった。肌は黒く痩せていて、僧服のような黒服を着ている。だが頭上の黒帽は僧帽というにはいささかおかしな形をしていた。どちらかといえば古代ペルシアかバビロニアの頭飾りを思わせる。顎の周りにだけ風変わりな黒髭を生やし、顔に嵌め込まれた大きな目は、古代エジプトの壁画のようにのっぺりとして飾り物めいていた。ぱっと見の印象しかわからぬうちに男が飛び込んでしまった入り口こそ、二人の目的地でもあった。
地下神殿の上に見えるのは頑丈そうな木造の小屋だけだった。さまざまな軍事的政治的な理由により最近になって急造されたものであり、その床といったら、発掘された空間上に張り渡された踏み台にすぎない。兵士がひとり歩哨のように外に立ち、上官の兵士がひとり――これは著名なインド帰りの将校なのだが――中に座って書き物をしていた。観光客たちもすぐに気づいたように、この風変わりな観光地には強い警戒態勢が敷かれていた。さきほど筆者がかかる銀貨をコーイノールと引き比べたのも、ある意味では月並みな比較であった。運命の悪戯ゆえか、かつては王家の宝石も同様というか王家の遺品ではあったわけで、のちの世の王子が公式に返還したのが、本来の持ち主であるらしいこの神殿なのである。政府が警戒を強めている原因はそれだけではない。スパイどもが身の回り品に仕掛けた爆弾を運び込むという恐れがあったのだ。例のごとく便宜的な通達が波のように官僚機構を素通りした結果、第一に観光客は当局の用意した粗布めいた衣服に着替えなければならず、第二に(このやり方に不満の声が挙がったときは)最低でもポケットをひっくり返さなければならない。責任者のモリス大佐は背の低いきびきびした男で、なめし革めいた恐ろしい顔をしているくせに、きらきらとお茶目な目をしていた――矛盾があることは言動から明らかになった。防犯手段をはなから笑い飛ばしながらも、指示に従うよう要求したのだ。
「くだらんね、パウロの銀貨みたいなものは」わずかなりとも自分を見知っているらしい牧師から、遺物についての先制攻撃を受けて、大佐はそう認めた。「だがお上の制服を着ている以上はな。お上の伯父さんが手ずから何か預けてくれるというんであれば大ごとだ。だがことが聖人や遺物とあっちゃあ、ボルテール的にならざるを得ないな。あんたがたに言わせりゃ懐疑派ってわけだ」
「王家を信じて聖家族を信じないことが懐疑的なのかはわからないが」トワイフォード氏が答えた。「ポケットを空にするのはおやすいご用だ。爆弾なぞ持ってはいないからね」
牧師の所持品がテーブルに積み上げられた。ほとんどは紙くず、それからパイプに煙草入れ、ローマの貨幣とザクセンの貨幣が数枚。あとは古書の目録や小冊子で、うちの一冊に『ソールズベリー用法典』と書かれているのを一目見れば、大佐と少年には充分だった。ソールズベリーの用法など理解しようがない。少年のポケットからは無論、さらにたくさんのものが積み上げられた。内訳はビー玉、糸玉、懐中電灯、磁石、小型パチンコ、そして言うまでもなく、大きな折りたたみナイフ。小さめの道具箱についての説明じみてはいるが、雑多な器具類からはなかなか離れがたいように見えたので、内訳を記しておくと、ニッパー一丁、材木用穴空け器、特筆すべきは馬の蹄から石を取り除く道具である。肝心の馬がいないことなど無関係であるらしく、すぐに手に入るおまけ程度の扱いらしい。しかしここにきて、黒衣の人物は自分の番になってもポケットをひっくり返したりはせずに、手を広げただけだった。
「何も持っておりません」
「ポケットを空にしてもらわんと。確認しなけりゃなりませんからな」大佐はぶっきらぼうに伝えた。
「ポケットがないのです」
トワイフォード氏は裾の長い黒衣を学究的に眺めまわしていたが、困り果ててはずねた。
「修道士の方ですか?」
「マギです。マギのことはご存じでしょう? 魔術師ですよ」
「えっ、そうなんですか!」サマーズ・マイナーが目をむいて叫んだ。
「わたしもかつては修道士でした。逃亡僧と言われても仕方ありません。さよう、久遠へと逃亡いたしました。しかしながら修道士も一つの真理を携えておりました。至高の生を歩むなら何も持たぬことです。ポケット・マネーやポケットこそありませんが、空を見上げれば、星のロケットやブレスレットがありますから」
「どっちみち手が届かないだろうに」大佐の声には、その方が星のためだと言いたげな響きが含まれていた。「インドでたくさんの魔術師を見たがね――マンゴーとセットで。だがみんなペテン師さ。化けの皮を剥がすのが楽しくて仕方なかったな。こんな決まり切った仕事より遙かに楽しい。だがそれよりもミスター・サイモンだ。古い地下室をくまなく案内してくれるだろう」
当局の管理人兼ガイドであるサイモン氏は、若いに似合わず白髪頭で、厳めしい口元には、奇妙なほど対照的にちんまり黒い口髭が蝋で固められていたが、その先端はどういうわけか独立して黒い蠅が一匹顔に止まったままのように見えた。しゃべり方こそオックスフォード訛りのもったいぶったものだったが、世界一無関心といっていいほど死んだように無関心だった。黒い石畳の階段を降りると、サイモンが床のボタンを押し、黒々とした部屋への扉を開いた。いやむしろ、さっきまでは黒々としていた部屋というべきである。というのも、どっしりとした鉄の扉が開くやいなや、目もくらむ電灯の光が室内のすみずみまで行き渡ったのだ。興奮しやすいスティンクスにたちまち火がつき、電灯とドアが連動しているのかとしきりにたずねた。
「さようでございますね、すべてひとつのシステムです」サイモンが答えた。「殿下からお預かりするのに合わせて設置いたしました。ガラスケースの裏は当日そのまま厳重に施錠されております」
一瞥しただけで明らかなように、その防犯装置は単純であるがゆえに極めて優れたものであった。部屋の一角がガラスの一枚板で遮断され、ガラスを囲む鉄製のフレームは岩壁と木製天井に埋め込まれている。こうなるとよほど念入りな骨折りでもしないかぎりケースを開けるのは不可能であるし、ガラスを割ったら割ったで、そばに待機している夜警も仮に眠っていたところで飛び起きるに違いない。さらに詳しく調査さえすれば、さらに優れた防犯手段がいくつも明らかになったはずである。ところが、少なくともトワイフォード師の視線はといえば、さきほどから魅入られたように、遙かに興味のある対象へ移っていた――くすんだ銀の円盤が、黒いビロード地に映えて白い光に輝いていたのである。
「聖パウロ銀貨は、聖パウロのブリテン訪問を祝したものだと言われておりまして、おそらく八世紀まではこの礼拝堂に保管されていた模様です」サイモンの話し声は、混じり気こそないが味気のないものだった。「研究によりますと九世紀には異民族に奪われ、再び姿を見せましたのは北方のゴート族改宗後のことで、ゴートランド王家が所有しておりました。ゴートランド公殿下は長いあいだ銀貨を秘蔵していらっしゃいましたが、とうとう公開を決められました際には、殿下ご自身の手でここにお納め下さいました。しかるのち直ちに施錠密閉されましたのが、このような――」
運の悪いことにこの時、サマーズ・マイナーは九世紀の宗教戦争からいくぶん気を逸らし、壁の継ぎ目から覗く電線の一部を発見した。マイナーは夢中になって叫んだ。「ねえ、ちょっと、これはつながってるの?」
確かにつながっていたため、線を引っ張った途端に部屋中が漆黒の闇となり、失明したような状態に陥った。直後、重々しい響きを立ててドアの閉まるのが聞こえた。
「やれやれ、やっちゃいましたね」サイモンが相変わらず無頓着につぶやいたあと、おもむろにつけたした。「そのうちいなくなったことに気づけば開けてくれますよ。時間は多少かかるでしょうが」
誰もが無言だったが、抑えきれずにスティンクスが口を開いた。
「許せないよ、懐中電灯を取り上げるなんて」
叔父が控えめにたしなめた。「電気に興味があるのはよくわかったよ」
だがすぐに愛想よく話を続けた。「口惜しいのはパイプだな。だが現実問題として、暗闇で煙草を喫うのはかなわん。暗闇にいると何もかも違ってしまっているように思えるよ」
「暗闇の中では何もかもが違っているのですよ」新たに聞こえたのは、自称魔術師の声だった。その響きのよい声は、不吉な黒ずくめとは対照的であったが、それも今は見えない。「それがいかに恐ろしい真実であるのか、おわかりではないようですが。目に映るものはすべて、太陽に生み出された絵画なのですよ。顔も、家具も、花も、木々も。それが未知のものでないとは言い切れません。さっきまでテーブルや椅子の見えた場所に、ほかのものが存在している可能性もあるのです。ご友人の顔さえ暗闇ではまったく違っているのかもしれません」
何とも表現しがたい短い音が静けさを破った。トワイフォードは一瞬ぎくりとしたが、やがてきっぱりと言った。
「まったく、子どもを怖がらせるにはそぐわない状況だぞ」
「子ども?」憤慨したサマーズ・マイナーの怒鳴り声は、雄鶏の鳴き声のようではあったが、それにしてもひび割れた鳴き声であった。「怖がってるのはどっちさ? ぼくは違う」
「そういうことなら静かにしておりましょう」暗闇から声が聞こえた。「だが静けさもまた千変万化するのです」
提案通りしばらく沈黙が続いたが、ついに牧師が低い声でサイモンにたずねた。
「換気は大丈夫かな?」
「ええ、問題ございませんとも」声が答える。「ドアの脇にある事務室には暖炉と煙突がありますから」
何かが飛び出し椅子の倒れる音がしたため、我慢できなくなった若年氏がふたたび部屋を飛び出したのがわかった。絶叫が聞こえた。「煙突だ! よし、ぼくは――」残りは聞こえづらくはあったが無我夢中で勝ち誇る叫び声であった。
叔父は繰り返し呼びかけたが成果なく、どうにか手探りで暖炉口にたどり着き中を覗くと、日光が遠くに丸く見えたため、どうやら無事に逃げ出せたらしいと思われた。ガラスケースのそばまで戻ろうとして倒れた椅子に蹴つまずき、長いことあたふたしていた。口を開いてサイモンに声をかけようとしたまま凍りつき、ふと気づくとまばたきしながら白光の大波に溺れていた。誰かの肩越しに、ドアが開いているのが見えた。
「ではやっと到着というわけか」彼はサイモンに話しかけた。
黒衣の男は少し離れた壁にもたれかかり、薄い笑みを口元に刻んでいた。
「モリス大佐がやって来る」トワイフォード牧師はそのままサイモンに向かって話し続けていた。「明かりの消えたわけを誰かが説明しなくては。頼めるかな?」
だがサイモンは無言のままだった。銅像のごとく固まったまま、ガラスの向こうの黒いビロードをじっと見つめていた。なにゆえ黒いビロードを見ていたのかというと、ほかに何もなかったからである。聖パウロの銀貨は消えていた。
モリス大佐が部屋にやってくると、新たに二人の訪問者が一緒だった。おそらくは事故で遅くなった観光客であろう。一人は背が高く色白、どこか気怠げで、額は薄く鼻梁が高い。いま一人はもう少し若い男で、明るい巻き毛に、率直どころか純粋な目をしていた。サイモンはこの二人に気づいていないようだった。明かりが回復すれば思案顔も見えるのだということに考えが及ばないようにも見える。やがて後ろめたそうに動き出したが、年かさの方の訪問者を見ると、青ざめた顔がさらに少し青ざめたように見えた。
「ホーン・フィッシャー!」絶句したあと小声でつぶやいた。「困ったことになってるんだ」
「解くべき謎が少々といったところですか」
「絶対に解けない。できるとしたら、あなたでしょうが。でも無理だ」
「私には解けます」輪の外から声がしたので驚いて振り返ると、黒衣の男がふたたび口を開いていたのだった。
「あんたが!」大佐の声は冷たかった。「どうやって探偵ごっこを演じるつもりだ?」
「探偵するつもりはありません」鈴のように澄んだ声だった。「魔術するつもりなのです。インドで化けの皮を剥がされた魔術師たちのように」
しばし誰も口をきかなかったが、ホーン・フィッシャーがおもむろに声を出した。「では上に行きましょう。こちらの方に腕を披露していただかないと」
サイモンが無意識にスイッチに指を伸ばすのを押しとどめ、フィッシャーは言った。「だめです、明かりはつけたままに。安全策のようなものです」
「もう盗られるものはありませんけどね」と苦々しい。
「戻される可能性はありますよ」フィッシャーが答えた。
トワイフォード牧師はとうから地上に駆け上がり、消えた甥の消息を求めていたのだが、ある意味では消息とよべるようなものを受け取って、困惑すると同時に一安心していた。床に大きな紙つぶてが落ちていた。教師がいないときに男子どもがぶつけ合うようなやつである。どうやら窓から投げ入れられたらしく、広げてみると汚い手書きのメモが現れた。「おじさんへ。ぼくは大丈夫。あとでホテルで会いましょう」結びに署名がある。
これで多少なりとも安心した牧師は、愛すべき遺物へと頭を切り換えた。寄せる思いは愛すべき甥っ子に勝るとも劣らない。自分の居場所を自覚するよりも早く、いつのまにやら消失騒ぎの真っ直中に取り囲まれ、わずかなりとも興奮の波にさらわれていた。だが心の奥底では一つの問いが繰り返され続けていた。いったい何が少年に起こったのか、大丈夫とは具体的にどの程度大丈夫なのか。
そのころフィッシャーはと言えば、声も態度も一変し、みんなを困惑させていた。大佐と話をしたときには、軍隊と機械の仕組みについて、訓練の詳細ならびに電気学の専門知識を披露した。牧師と話をしたときには、遺物に孕まれた宗教的歴史的重要性について明らかにした。自称魔術師と話をしたときには、みんなを驚かせも呆れさせもしたのだが、東洋神秘学と心霊実験における非現実的な流儀に共感を寄せるほど習熟していた。どうやら取るに足らないと思われるこの最後のやり取りを指針に、とことん進める覚悟があるらしい。目に見えて魔術師を激励し、明らかに的外れな調査方法に従おうとしていた。マギが導いてくれるとでもいうように。
「ではどのように始めたらよいでしょうか?」気を揉む様子で丁寧にたずねたものだから、それが大佐の逆鱗に触れた。
「力の問題にすぎません。力を伝達するすべを築くことです」警察の力に関する軍隊的もの言いが付いたが、魔術師はそれを無視して愛想よく答えた。「西洋では動物磁気と呼びならわされておりましたが、そんなものにはとどまりません。いかほどのものなのかは言わぬが花でしょう。一般的な段取りを申せば、そういうタイプの人を催眠状態にいざなうことで、伝達用の架け橋や電話線代わりにしてしまい、潜在能力を超える力を与えることにより、いわば電気ショックのように、第六感を目覚めさせるのです。眠れる心眼を開花させるのですよ」
「わたしはうそいうタイプなんです」フィッシャーの言葉は無邪気とも取れたしわかりづらい皮肉とも取れた。「わたしの心眼を開いてはくれませんか? ここにいるハロルド・マーチが教えてくれると思いますが、わたしはときどき幻覚を見るんですよ、暗闇のなかでさえ」
「暗闇のなかでのみ、人はものを見ることができるのです」
日暮れ刻の重たげな雲が小屋を取り囲み、小窓からは巨大な雲の一部だけが紫色の角や尻尾のように見えるので、大怪獣があたりをうろついているようにも思えた。だが雲の色は早くも紫から濃紺に染められ、夜が近づいていた。
「明かりはつけぬように」動きを察知してマギは厳かに命じた。「暗闇だからこそ生じるのだと申し上げたはずです」
よりにもよって大佐の事務所で行われることになった斯かる大混乱は、大佐をはじめとする人々の心に後々まで謎となって残った。思い出すたびに悪夢じみたものにうなされ、どうすることもできなかった。おそらく魔術師のまわりにはまぎれもなく動物磁気が発生していたのであろう。おそらく被験者のまわりには何倍もの動物磁気が発生していたのであろう。いずれにしても被験者が術をかけられているのは明らかであった。ホーン・フィッシャーは長い手足を投げ出して椅子に崩れ落ち、目は虚空を見つめていた。そして魔術師が術をかけているのは明らかで、垂れた袖がいかにも怪しげな腕を、黒い翼のように弧を描いて動かしている。大佐の堪忍袋はとうに切れていたが、物好きな貴族階級どもにはどんな勝手も許されているのを漠然とわかっていた。すでに警察を呼びにやっていたのが慰めで、警官が来ればこんな道化芝居をぶちこわしてくれるだろう。葉巻に火をつけると、先端だけが赤く、深まる闇に立ち向かうように燃えていた。
「はい、ポケットが見えます」催眠状態のフィッシャーが答えた。「たくさんのポケットが見えますが、すべて空っぽです。いえ、一つだけ空じゃありません」
かすかなざわめきの中、魔術師はたずねた。「ポケットに何が入っているかわかりますか?」
「はい。光るものが二つ。鉄くずだと思います。ひとつは曲がっているか歪んでいます」
「地下から聖遺物を動かす際に用いたものでしょうか?」
「はい」
再び沈黙、そして問い。「遺物そのものは何も見えぬのでしょうか?」
「床で何かが光っているのが見えます。影か幻のように。机の向こうの隅にあります」
誰もが振り向いたかと思うと、ぴたりと動きを止めて息をのんだ。木の床の隅では、まぎれもなく青白い光が丸く輝いていた。部屋にある光はそれだけだった。葉巻は消えていた。
「道を示しているのです」託宣が聞こえた。「精霊が指し示しているのは悔恨の道、盗人に返還を諭しております。わかるのはそれだけです」声は次第に消え入りやがて途絶え、そのまま静寂が続いた。盗みが働かれたときと同じように長い静寂だった。静寂を破ったのは、床で金属の鳴る音だった。放り投げた小銭が落ちてくるくる回っているような音である。
「明かりをつけて!」フィッシャーが陽気といってもいいような声を出して飛び起きた。普段よりはるかにきびきびしている。「もう行かなければなりませんが、その前にぜひ見ておきましょう。そもそもそれを見に来たんですからね」
明かりがつき、フィッシャーは確かに見た。聖パウロ銀貨が足下に落ちていた。
「ああ、そのことでしたら」フィッシャーが説明したのはその一月後、マーチとトワイフォードを昼食に招いたときのことだった。「魔術師のゲームにつき合っただけのことです」
「墓穴を掘らせるってことかな」とトワイフォード。「未だにさっぱりわからないが、個人的にはずっと魔術師を疑っていたんだがね。必ずしも下世話な意味で泥棒だというんじゃない。警察は得てして銀貨が盗まれるのは銀目当てだと考えているようだが、ああいったものは、ある種の狂信から盗まれることが多いんじゃないだろうか。神秘主義に転向した逃亡僧なら、神秘主義的な理由があって手に入れたがってもおかしくない」
「いえいえ。逃亡僧は泥棒ではありません。どのみちあの人は銀貨泥棒ではありません。それに、嘘ばかり言っていたわけでもないんですよ。あの晩、少なくとも一つの真実を口にしたんですから」
「それは?」マーチがたずねた。
「すべては磁気だと。まさしく使われた手口は磁石でした」二人が戸惑ったように見つめているので、フィッシャーは話を続けた。「甥御さんの持っていた、おもちゃの磁石のことですよ、トワイフォードさん」
「だけど、わからないな」マーチが不満を漏らした。「少年の磁石が使われたのなら、少年がやったんじゃないんですか」
「そうですね」フィッシャーは用心深く答えた。「正確に言えば、少年というものに懸かっていたんです」
「どういうことです?」
「少年の心というのは不思議なものです」考え込むようにフィッシャーは話し続けた。「煙突から這い出るだけでなく、さまざまなものごとを切り抜けられる。人は幾多の戦役に揉まれてなお、少年の心を宿しているものなのです。インドから凱旋し、重要公共財の担当に任命されてなお、少年の心を宿し、ふとしたきっかけで呼び覚まされるのを待っているものなのです。少年に懐疑論者が加わればなおさらのこと。懐疑論者とは発育不全の少年っぽいことが多いですから。さきほど、狂信による行動のことをお話しされていたでしょう。狂信的不信というのをお聞きになったことはありませんか? インドの魔術師から化けの皮を剥いでやろうという人々の裡には、とりわけ荒々しい形で存在しているのですよ。ところがここにきて懐疑論者に誘惑が訪れました。輪をかけたイカサマ師の化けの皮を、目の前で剥ぐことができるのです」
ハロルド・マーチの目に光が宿った。遙か彼方にぼんやりと、そのヒントの意味を見出したようだった。だがトワイフォード牧師はなおも一つの問題に取り組んでいた。
「つまり――モリス大佐が遺物を盗んだと?」
「磁石を使えたのは大佐しかいませんでしたから。それどころか甥御さんは親切なことに、使えるものをたくさん置いていきましたから。糸玉、材木用穴空け器――ちなみに、その穴を使って催眠中に悪戯してみたのですがね。階下の明かりをつけっぱなしにしてありましたから、それが新品の銀貨のように輝いていたでしょう」
トワイフォード牧師が椅子から飛び上がった。「だがそれなら」今までとはまったく違う声だった。「なぜあのとき――鉄くずなどと――?」
「鉄くずが二つと言ったのです。曲がった鉄とは磁石のこと。もう一つがガラスケースに収められていた貨幣です」
「だがあれは銀だ」もはや聞き取れないほどの声だった。
「ああ」なだめるようにフィッシャーは答えた。「それはメッキでしょう」
重い沈黙が流れたが、ついにハロルド・マーチが口を開いた。「では本物はどこに?」
「ここ五年の間あったところですよ。アメリカ、ネブラスカ州のヴァンダムという気の狂った億万長者が所有しています。先日の協会誌に、正式なものではありませんが小さな写真記事があり、彼の妄想について書かれていました。いろいろな遺物のことを本物だと信じ込んでばかりいたそうです」
ハロルド・マーチはしばらくのあいだテーブルクロスをにらんでいた。「実際の手口について、言いたいことはわかったつもりです。こうですよね。モリスは穴を開け、ひもの先につけた磁石で銀貨を釣り上げた。こんな子ども騙しなんて気違いじみているけれど、きっと退屈で気が狂いそうだったんですよ。まやかしだと思っているものを監視し続けるなんて。だけど証明しようがなかったんだ。そこにきて証明を――自分にだけでも証明をするチャンスが訪れた。そのうえ『楽しみ』と呼んでいたものまで手に入れたわけですね。もうすっかりわかったつもりです。だけど一から十まで驚きだな。どうしてそんなことになったんです?」
フィッシャーは身動きひとつせず冷静にマーチを見つめていた。
「あらゆる警戒が敷かれていました。大公自ら遺物を運び、自らケースに錠をかけたのです」
マーチは何も言わなかったが、トワイフォードがおずおずとたずねた。「わからんなあ。どうもすっきりしない。なぜもっとはっきり話さないんです?」
「はっきり話せば、ますますわからなくなると思いますよ」
「ぼくはそれでもいい」マーチは顔を上げずにそう言った。
「わかりました、いいでしょう」フィッシャーはため息をついた。「はっきり申し上げれば真相は、むろん醜聞というやつです。醜聞だとわかっているなら、どうなるのかもわかっているはずなのですがね。それでも絶えず騒動は起こるし、ある意味では責められません。人形みたいに冷たい外国のお姫様に惚れて、火遊びをするものなのでしょう。今回はちょっとばかり大きな火事でした」
トーマス・トワイフォード牧師の顔から確実に読みとれるかぎりでは、真相をあまり理解していないらしかったものの、フィッシャーが遠回しに話し続けるうちに、老紳士の表情が険しく強張っていった。
「分をわきまえた身分違いの遊びだったなら、何も言うつもりはありません。ところが彼は馬鹿だった。そんな女に何千と費やしたんです。とうとう闇金に手を染めた。だが国民からではなく、例のアメリカ人から手に入れた、そういうことです」
トワイフォード牧師は立ち上がった。
「では甥とは何の関係もなかったんですね。それが世間だというのなら、甥には何一つ関わってほしくありませんな」
「そう願いましょう」フィッシャーが答えた。「人がどれだけのことに関わりを持たざるを得ないか、わたしは誰よりもよく知っていますから」
サマーズ・マイナーはといえば、実際に何の関係もなかった。さらに何パーセントか重要なことには、この物語はおろか類似したあらゆる物語とも正真正銘無関係なのである。歪んだ政治と狂った欺瞞に関するこの入り組んだ物語から弾丸のように飛び出すと、反対側に抜け出して、変わらぬ目的を追っていたのだ。登った煙突のてっぺんから、色も名前も知らないバスを見つけた。博物学者なら新種の鳥を、植物学者なら新種の花を見つけるように。急いでバスを追いかけると、そのお伽ぎの船に揺られてうっとりしていたのである。
Gilbert K. Chesterton“THE MAN WHO KNEW TOO MUCH” III‘THE SOUL OF THE SCHOOLBOY’の全訳です。
Ver.1 03/02/03
Ver.2 03/02/13
Ver.3 03/08/08
Ver.4 03/08/12
Ver.5 06/08/13
Ver.6 07/01/21
Special thanks for katoktさま.
[作品について]
チェスタトンの連作短編集『知りすぎた男』の第三話「The Soul of the Schoolboy」の翻訳です。移民(?)問題、アイルランド問題に続いては、王室スキャンダル問題、でしょうか。本篇ではちょっと複雑な政治問題が取り扱われています。
保険としてはうまい手かもしれません。厳重に保管されたままならバレる心配なし。盗まれた場合もモノがないのだからバレる心配なし。バレたとしても、“やった”のは実行者ではなく警備の誰かということになる確率高し。
しかもそこにいろいろと脇筋がからんでくるので話が複雑になります。
それ自体だけでは単純すぎる消失トリックを、あいだに別のもう一事件をはさめることで成立させる手際が鮮やかです。チェスタトンは独特のロジックと大胆なトリックの人というイメージがあったので、こういう技術的な面を器用にこなすのは意外な感じがしました。
あえて説明を簡略に済ませているせいで、真相がちょっとわかりづらいという面はあるものの、「少年の心」に関する考察などはいかにもチェスタトンらしいロジックです。ネブラスカの大金持ちを使ったトリックも素晴らしい。簡略に済ませているのは何とももったいない。要は「木の葉は森に」の変形(というか逆パターン?)なのですが、そこはチェスタトンならではの机上の空論ならぬ天上の高論。参りました。
そのほか、冒頭のパラグラフだけでも頭韻・対句・ことば遊びが縦横無尽に駆使され、これまたチェスタトンらしい凝った文章も堪能できます。インパクトこそやや弱いものの、なかなかの佳作です。
ただ一点わからないのは、大佐は真相を知っていた?ということになってしまいますが、それでいいのでしょうか。。。
[更新履歴]
07/01/05 第一パラグラフを更新。「a young duke」から続く一連の文章をきちんと意味が通るように訳したほか、チェスタトン独特の対句や頭韻もできる限り訳しました。あとは訳語の選択かな。別に神前で踊ってもいいんだけど、やるなら踊りよりも舞いだろう、とか。ほかに単純な誤訳も訂正。「小さな聖遺物考古学団体」じゃなくて「考古学好きの司祭が幾人か」とか。「少し冷静に見てみれば」なわけはなくて「より率直(?)に申せば」だし。「public tribute」のいい訳語が見つからない。とりあえず意味より文脈の雰囲気を重視して「公務」としておいた。
07/01/06 第二パラグラフを更新。この段落は誤訳の嵐でした。誤訳を訂正というレベルではなく段落ごと書き換えた。冒頭「wholly paternal and festive」をチェスタトンっぽい感じで「まことに父親らしく且つ祝祭日らしく」とでも訳したかったのだけれど、それではあまりにも日本語として意味不明なので、「まぎれもなく休日の保護者らしい」にした。でも言わせてもらえば原文自体がすでに意味不明なのである。次のセンテンスは、「like」や「not」がどこからどこまで係っているのか把握していなかったために以前の訳ではちんぷんかんぷん。文章の意味が取れていないのに取りあえず単語を順番に訳したというのがばればれの訳文でした。この段落に関しては、以下のセンテンスも似たようなもの。
07/01/08 第三パラグラフから「白銅貨を見せてやる」まで更新。不自然な表現を改めたほか、バスを混同したりイコンを混同したりという文章の誤訳を訂正。以前の訳ではサマーズ・マイナーや叔父が混同していたことになっていた。「そういうことにしておこう。」を「自慢なのはわかるがな。」に訂正。
07/01/10 第七パラグラフからモリス大佐の登場まで。黒い帽子と僧帽の文章の意味を正反対に取り違えていたので(too〜to…構文の見落としというアホみたいな理由だった_| ̄|○)正した。「the corners of his chin」は複数形なので、「顎の先っぽ」ではないことに気づいて訂正。「distinction」の意味が取れずに「特別」などと訳していたので次の段落でも間違いを犯していた。今回は「著名な」と訳したが「栄誉ある」かもしれん。「one of those experimental orders which pass 〜」から始まる箇所を勢いでごまかして訳していたのところを、ちゃんと訳した。
07/01/12 第10段落「I don't care a button(くだらんね)」から第20段落「わたしもかつては修道士〜」までを改訳。ペニー=銅貨というのが頭から離れなかったため、「St. Paul's Penny」を「聖パウロの白銅貨」と訳していたが、ペニーとはあくまで単位であって材質ではないゆえに「銀貨」と訂正。あるいは「ペニー」のままの方がよいのかもしらん。「who was slightly acquainted with him」を「(お互いに)顔見知り」と訳していたが、「(牧師が有名な大佐のことを)何となく知っている」でした。改訳版「見知っている」では互いに見知っているという意味になってしまうだろうか? 相手が牧師ということを考えると、「what you would call a skeptic」の「you」は「あんたがた牧師は」だろうか。牧師さんというのは休暇中でも普段から牧師の格好をしてるものなのかよく知らないので自信はない。それに対する牧師の答えが「王家には懐疑的だが〜」とわやくちゃだったので正しく直した。所持品の羅列箇所も、ところどころ意味が取れていなかったので訂正。一例を挙げると「a complex apparatus」の単数形に惑わされて「複雑な道具」と別立てしていたが、「apparatus」で「器具一式」という意味になるのですね。。。「with learned eye」を「学究的に」と訳したが硬い感じがする。むしろ「学究的な眼差しで」の方がよいだろうか。「into eternity」は直訳すれば確かに「永遠に」ではあるのだが、「永遠に(ずっと)」ではなく「永遠(というところ/の方向)に」だろうなあ。「a escaped monk」は「escaped into eternity」との関係から「逃亡僧」と訳したけれど、もっと違う言い方があるような気がする。「破戒僧」とか「生臭坊主」とかみたく、慣用的な言い方に近いような表現が。一応「pockets」と「trinkets」で脚韻を踏んでいるので、訳でも「ふところ」と「住みどころ」とやってみたがわかりづらい。文意を曲げてまでこだわるほどの出来ではない。「ポケット」では頭韻も脚韻も踏めなかった。
07/01/17 第21段落〜地下室のドアが開くところまでを改訳。↑「pockets」と「trinkets」を早くも手直し。登場人物の話し方を以前よりは描き分けました。「as strong as they were simple」を「呆れるくらいの強力さだ」から「単純であるがゆえに極めて優れたものであった」に変更。地下室の位置関係が把握できていなかったので、位置関係を頭に入れつつ手直し。仮定法が理解できていなかったので「とことん調べてみた結果、防犯対策は万全のようだ。」だったのを「さらに詳しく調査さえすれば、さらに優れた防犯手段がいくつも明らかになったはずである。」に改訳。「northern Goths」とか「Gothland」とか一緒くたに「ゴート」にしていたのを、ちゃんと「北方のゴート族」「ゴートランド」にする。どうもスウェーデンかどこかのことのような気がする。「短い線」という訳語が変なので「電線の一部」にした。「a voice that had a crow, but also something of a crack in it.」を「文句ありげではあるがうわずったところもある(声)」から「雄鶏の鳴き声のようではあったが、それにしてもひび割れた鳴き声であった」に変更。「やっと到着というわけか」がなぜかサイモンの台詞になっていたので、牧師がサイモンに話しかけたと訂正。
07/01/21 改訳完了。「what was the boy's exact definition of being all right.」を「何が少年の身の安全を保証しているのか」から「大丈夫とは具体的にどの程度大丈夫なのか」に変更。「he inquired, with an anxious politeness that reduced the colonel to a congestion of rage.」をなぜか正反対の「大佐の堪忍袋をゆるめようと気を遣って馬鹿丁寧に尋ねた」と訳していたので「気を揉む様子で丁寧にたずねたものだから、それが大佐の逆鱗に触れた」に変更。フィッシャーと魔術師のやりとりをまるで正反対の意味に訳していた。それというのも「see things」の意味を知らずに「ものを見る」と訳していたので、それに合わせて無理矢理つじつまを合わせていたのだ。「see things」で「幻を見る」という意味なんですねー。「susceptible」と「suspectible」がうまく訳せないがここは仕方ない。「よりにもよって大佐の事務所で〜」から始まるパラグラフが全滅。どこをどうとかではなくすべて訳し直す。「religious mania」を「宗教マニア」って訳してたよ_| ̄|○。「狂信」に変える。「the runaway monk is not a thief. At any rate he is not the thief.」をうまく訳したいねえ。いちおう「逃亡僧は泥棒ではありません。どのみちあの人は銀貨泥棒ではありません。」と訳したけれど、もっとうまい訳し方がないものだろうか。旧訳では、「非宗教マニア」とは「特にインド魔術を暴いている人たち」のことになっていた。そうだったのか(^^;。「狂信的不信というのをお聞きになったことはありませんか? インドの魔術師から化けの皮を剥いでやろうという人々の裡には、とりわけ荒々しい形で存在しているのですよ。」に変更。肝心の真相について大誤訳。(当時のわたしは)トリックがわかっちゃったんで政治的な真相はどうでもよかったんだな、きっと。辞書も引かずに何となく訳してる。「彼の詐欺について触れられており、いつも贋物の遺物をつかませていたと書かれてあります」から「彼の妄想について書かれていました。いろいろな遺物のことを本物だと信じ込んでばかりいたそうです」に変更。ところでこの部分、「There was a playful little photograph about him」とあるのだが、「photograph」を「写真」と訳しては意味が通じないので、今回は「写真記事」と訳した。どこをどう訳したら「You give me the creeps」が「あなたは材料を与えてくれました」になるんだろうか???「どうもすっきりしない」に変更。「bad business」を「不正取引」と訳していた。「悪い仕事」だから……。二箇所の「bad business」の両方の意味が通じるように訳すのって、意外と訳しづらいんだけど、とりあえず「醜聞」と訳しました。何たることか「as the other went on speaking vaguely the old gentleman's features sharpened and set.」が「フィッシャーは特定の老紳士の人物像を曖昧に話し続けた」に化けちゃってます(−−;。「as」を無視したうえに直前の「old ass(=おばかさん)」を文字どおり「old(=年老いた)」と理解してしまったため、こんなことが起こるのだ。「フィッシャーが遠回しに話し続けるうちに、老紳士の表情が険しく強張っていった」に変更。「At the end it was sheer blackmail」の「blackmail」を「脅迫・ゆすり」と訳すとしっくり来ないので、ここは語源「black(=悪の)」な「mail(=年貢・納金)」からスライドさせて「闇金」と訳してみた。旧訳の「搾取」でも、この部分に関しては意味が通じるのだが、それだとネブラスカの大金持ちとのつじつまが合わなくなるので。むむむ。肝心なフィッシャーの〆の台詞が台無しに。「"I hope not," answered Horne Fisher. "No one knows so well as I do that one can have far too much to do with it."」が旧訳では「私もそう思います/誰もが深く関わりかねない、でも誰も私ほど知らないんです」に。「hope」なんだから「思う」んじゃなく「願う」んだろうし、どこから「でも」が出てきたのかわからんね。「そう願いましょう/人がどれだけのことに関わりを持たざるを得ないか、わたしは誰よりもよく知っていますから」に変更。さらにエピローグ、「it is part of his higher significance that he has really nothing to do with the story, or with any such stories.」が旧訳では「この物語であれ、どの物語であれ、重要な役割を占めてはいない」になっていた。確かにわかりづらい原文ではあるが。改訳も合っているかどうか自信はない。まあ旧訳よりはましだろう。「さらに何パーセントか重要なことには、この物語はおろか類似したあらゆる物語とも正真正銘無関係なのである」に変更。