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翻訳者:江戸川小筐
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知りすぎた男

ギルバート・キース・チェスタトン

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第二話
消える王子


 この物語の始まりは、当世にしてすでに伝説的な、ある名前をめぐる逸話のなかにもつれ込んでいた。その名前とはマイケル・オニール、世間ではマイケル王子と呼ばれていたが、一つには古代フィアナ族の皇胤だと名乗っていたからであるし、一つにはルイ・ナポレオンがフランス大統領になったように、王子自らアイルランド大統領になるつもりなのだと信じられていたからだ。家柄にめぐまれ才能にあふれた紳士であるのは間違いのないところであったが、数あるなかでも二つのことに抜きんでていた。用のないときに姿を現わす能力と、用のあるとき、とりわけ警察に御用のときに姿を消す能力である。申し添えておけば、姿を消すときの方が姿を現わすときよりも危険であった。姿を現わす場合には、まず人騒がせの域を出ない――煽動的なポスターを貼ったり、官庁のポスターを破り捨てたり、大胆な演説を行ったり、規制された旗を掲げたりする程度である。ところが姿を消そうとする場合には、自由を求めて獅子奮迅することも多いため、追う方としても逃げるときに首が抜けずに腰が抜けたなら御の字ということも多いのであった。しかしながら、名高い逃亡劇のほとんどは、暴力ではなく智力のたまものである。雲ひとつない夏の朝、ほこりまみれで田舎道をやって来ると、農家の傍らで立ち止まり、地元の警察に追われているのだと、澄まし顔で農夫の娘に話しかけた。少女の名前はブリジット・ロイス、翳があり陰気と言っていいタイプの美人であったが、疑わしげにマイケルを流し見ると、「かくまってほしいの?」とたずねた。これに笑って答えただけで石垣を軽々と飛び越えると、肩越しに一言捨て置いて農場へと歩いていった。「悪いけど、今までも上手く隠れてきたからね」ここで悲劇的なことに、女性の性質に無知な行動を取ってしまった。かくして光射す行く末に破滅の影が落ちたのである。

 マイケルが農家から姿を消しても、少女はそのまましばらく道路を見つめていたが、やがて汗まみれの警官が二人、疲労困憊しながら戸口までやって来た。いまだ憤慨しつつもいまだに無言の少女をよそに、警官は十五分後には家を捜査し終えて、すでに裏の菜園と小麦畑の捜査に取りかかっていた。反動で意地悪な気持になった少女が、逃亡者の居所を教えたくなったとしてもおかしくはなかったが、ささやかな問題として、どこに逃げ去ったものなのか、警官はおろか少女にも見当がつかなかったのである。菜園は極めて低い柵で囲まれ、その向こうにある小麦畑は緑の丘陵にあてられた四角い継ぎのようにスロープになっていたため、たとえ遠景の染みのようではあっても姿が見えなければおかしかった。何もかもが見慣れた場所に間違いなく佇んでいた。りんごの木は小さすぎて登ることも隠れることもできない。一つしかない小屋の扉は開いており、どう見ても空っぽだった。夏蠅の群れがうなり、かかし慣れしていない一羽の鳥がときどき羽ばたくほかは、何の物音もしない。かぼそい木が青い影を落としているほかには影もない。委細が顕微鏡で覗いたように、まばゆい陽光に照らし出されていた。少女は後に、いかにも女性らしく熱を入れて写実的にその光景を説明し、一方警官はといえば、同様に絵的な目を持っているかどうかはともかくとして、少なくとも現場の事実を見極める目は持っていたので、追跡をやめて現場から引き上げざるを得なかった。ブリジット・ロイスは魂が抜けたように、男が妖精のごとくかき消えたばかりの日照る庭を見つめ続けていた。いまだ悪感情を抱いていたうえに、妖精といっても悪い方の妖精だったのだとばかりに、この奇跡によって反感と恐怖を心に植えつけられた。庭に照りつける太陽のせいでますます気分が重くなったが、庭を見つめるのをやめたりはしなかった。やがて世界が白痴化し、少女は絶叫した。かかしが陽光のなかで動いたのだ。くたくたの黒い帽子とぼろぼろの服をまとい背中を向けて立っていたかかしは、ぼろをはためかせながら丘を越えて歩み去った。

 予断と事実が及ぼすわずかな影響を利用した大胆なトリックを、彼女は細かく考えなかった。それよりも個人的な煩悶にかかりきりで、とりわけ気になっていたのは消えたかかしが農場を見ようと振り返りもしなかったことである。かくて宿命は華麗な逃走歴に弓を引き、次の冒険がほかの地域であれば変わらぬ成功をおさめたとしても、この地域では危険も増すべく定められてしまった。この手の似たような冒険にはこんなものもある。その数日後、メアリ・クリガンという少女が、働き先の農場に隠れていたマイケルを見つけた。この話が本当ならば、間違いなくメアリも異常な体験に衝撃を受けたはずである、というのも、庭で一人忙しく働いていたところ井戸のほとりで怒鳴る声を耳にして、見つけたのが底近くにある釣瓶にどうにか我が身を放り込んだ変人であり、いくらかしか水の溜まっていない井戸であった。しかしながらこたびの場合には、王子はロープを巻き上げてくれとその娘に頼まなければならなかった。この報せをほかの娘に話したときこそ、裏切りの気持ちが一線を踏み越えた瞬間だという話である。

 このような逸話が少なくとも田舎では語られていたし、まだいくらでもあった――例えば豪奢な緑のガウンを着て豪華ホテルの石畳にふんぞり返っていたときなどは、豪勢な部屋から部屋へと警察を引っぱり回し、果ては寝室を通り抜けて川に張り出したバルコニーにたどり着いた。追手が踏み込んだ途端にバルコニーは足下から崩れ、警官たちは渦巻く水中へわらわらと落ちていったのだが、マイケルはというとガウンを脱ぎ捨て飛び込んでいたために、まんまと泳いで逃げ去ったのである。巧妙に支柱を切り取って、警官くらいの重さのものは支え切れぬようにしてあったという話である。ところが今回もやはり、応急的には幸運であったが最終的には不運であった。すなわち警官の一人が溺れ死んでしまい、あとには王子の人気に傷をつけたお家騒動だけが残ったという話なのである。今こうした話をかなり詳しくお伝えすることができるのは、数ある冒険のなかでもとりわけ驚異的だったからではなく、この話にだけは農夫たちが忠誠心による沈黙の覆いをかぶせなかったからである。以上の話だけは公式文書にすべりこみ、この地方の上役三人がそれを読んで議論していたところから、この話のさらに面白い部分が始まるのである。


 夜はとうに更け、仮警察署として使われている海辺近くの小屋に灯がともった。片側には僻村のはずれの人家、反対側には荒涼とした荒野ムーアが海岸まで広がっているだけで、海岸線をさえぎるような目立つ建物といえば、アイルランドには今も見つかる先史時代型の塔がぽつんとそびえているくらいであり、柱のように細いがピラミッドのように尖っていた。木製机に接した窓からはこうした景色が眼前に見え、座っている二人の男には私服のくせにどこか軍人風の物腰が見えたのだが、それもそのはず二人ともその地区の刑事部長であった。年齢も階級も上の人物は、逞しく、短く刈り込んだ白い顎髭を生やしており、霜降り眉毛が貼りついたしかめ面には重大事よりも心配事が浮かんでいた。

 名はモートンといい、アイルランド問題にたっぷり浸かったリヴァプール人であったが、苦々しく思いながらも同情を覚えないわけでもないままに務めを果たしていた。会話相手はノーランといって、長身で色黒、いかにもアイルランド人らしく青ざめた馬面をしていた。そのとき何かを思い出したらしく、別室のベルを鳴らした。呼んでおいた部下が書類の束を手に直ちに現れた。

「座りたまえ、ウィルソン。それが捜査計画書だな」

「その通りです」三人目の警官が答えた。「聞くべきことは聞き出してしまいましたから、みんな帰しました」

「メアリ・クリガンは証言したのか?」モートンのしかめ面はいつもより深刻そうに見えた。

「いいえ、しかし雇い主が証言しました」ウィルソンと呼ばれた男は、のっぺりした赤い髪をしており、あっさりした青白い顔には鋭さがないわけでもなかった。「私の見るところでは彼女につきまとっていて、ライバルには容赦ないのでしょう。何事につけ真実が明るみに出る場合には、得てしてこういう理由があるものです。もう一人の娘の話も満足いくものでした」

「まあ何かの役に立てばいいが」何の役にも立たぬと言いたげに、ノーランは外の暗闇を見つめていた。

「どんなことでも役立つとも」モートンが言った。「あやつのことで何かわかるのならな」

「何かわかっていたかな?」浮かぬ顔のアイルランド人がたずねた。

「一つわかっていることがあります」ウィルソンが言った。「これまで誰にもわからなかったことです。居場所がわかっているのです」

「間違いないのか?」モートンはぎろりとねめつけた。

「間違いありません」部下が答えた。「たった今も、あの沿岸の塔のなかです。近寄れば、窓から蝋燭の光が見えるはずです」

 言い終えた途端、警笛の音が往来で鳴り響き、自動車の振動音が玄関先で停止するのが聞こえた。モートンは急いで立ち上がった。

「ありがたい、ダブリンからの車だ。特別な権限がないと俺にはなにもできん。塔のてっぺんに座り込んで舌を出されてもだ。だが長官なら、よかれと思えば実行できる」

 玄関に急ぐや、毛皮のコートを着た立派な大男と挨拶を交わしていた。薄汚い警察署に、大都会のきらめきと大世界の華やかさがもたらされた。

 これがウォルター・ケアリー卿である。ダブリン城からこれほどの高官が深夜に足を運んだのには、マイケル王子事件を措いてほかにない。ところがあいにくなことに、マイケル王子事件の面倒なところは、法律を遵守するだけでは無法状態と大差がない点にある。このあいだ逃げられたのは法廷で言い逃れられたからであって、いつものように一人で逃亡されたのではなかった。目下のところマイケルが法的に問題があるかどうかは疑わしい。拡大解釈せねばならぬかもしれないが、ウォルター卿のような男なら好きなように拡大もできるだろう。

 そうするつもりがあるかどうかは、考慮すべき問題である。毛皮のコートは荒々しいほど豪勢なくせに、巨大なライオン頭の見た目はもちろん中身も立派なことは、冷静沈着に事実を考えていることからもすぐにわかった。五つの椅子が簡素な松材の机を囲んでいるのは、ウォルター卿がほかならぬ若い身内で秘書のホーン・フィッシャーを同行させていたからである。警察が逃亡中の謀反人をホテルの石段から海沿いの孤塔まで追跡したという一連の話に、ウォルター卿は真面目に耳を傾けていたが、秘書の方は礼を失しない程度に退屈そうにしていた。何にしてもマイケルは荒野と白波の間に追いつめられているわけである。ウィルソンが派遣した偵察者の報告によれば、蝋燭一本の明かりで書き物をしていたというが、おそらく新手の声明文でも作っていたのだろう。その場所で腹をくくるのを選ぶとすればいかにもマイケルらしいと言えるだろう。その塔が一族の城だと言わんばかりに黴の生えかけた権利を持っていたのだ。彼を知る人たちは、マイケルなら海に挑んで倒れた古代アイルランドの族長たちを真似かねないと考えた。

「玄関のところでおかしな人たちが出ていくのを見かけたよ」ウォルター・ケアリー卿が言った。「証人のようだがね。それにしてもどうしてこんな夜中にやって来たのかな?」

 モートンは残酷な笑みを浮かべた。「夜にやって来たのは、昼に来ていたら死人になっていたからですな。彼らが犯した罪は、ここでは盗みや殺しよりも恐ろしいのです」

「どんな犯罪だというのかな?」興味深げに卿はたずねた。

「法を助けているというわけですよ」モートンが答えた。

 押し黙ったまま、ウォルター卿は目の前の書類をぼんやり見つめながらじっくりと考えていた。ようやく口を開いた。

「そうだろうね。だがね、地元の感情がそれほど厳しいのなら、考えなくてはならない点がたくさんあることになる。新しい条例のもとでなら、今度こそ捕まえられるだろうとも。それが最善だと思うなら。だが最善なんだろうか? 深刻な叛乱が起これば議会には何の得もないし、イギリスにもアイルランドにも政府の敵はいる。詐欺まがいのことをしても何にもならないし、革命を引き起こすだけだよ」

「それではあべこべです」ウィルソンが急ぎがちに口を挟んだ。「三日以上やつを泳がせておくのに比べれば、逮捕した方がたいした革命にはならないはずです。いずれにしましても、近ごろではまともな警察にできないことなど何一つあるはずがない」

「ウィルソン君はロンドンっ子だから」アイルランドの捜査官が笑みを浮かべた。

「ええ、確かに生粋のロンドンっ子ですとも」ウィルソンは答えた。「そこがよいところだと思っております。おかしな話で恐縮ですが、特にこの仕事では」

 ウォルター卿は三人目の警官の頑固なところをわずかなりとも面白がったようであるが、なかでもわずかなアクセントを面白がった。生まれを誇る必要もないではないか。

「つまりだね、ロンドン生まれだからここの仕事にいっそう詳しいというのかな?」

「おかしな話に聞こえるでしょうが、そう信じております」ウィルソンは答えた。「こうした事件には新しい方法が必要なはずです。何にも増して新しい眼が」

 上官たちが笑いを漏らしたので、赤毛の男はわずかに気色ばんだ。

「事実を見てくださいよ。あいつはいつもどうやって逃げていましたか。おわかりでしょう。なぜかかし代わりに立っていられたのです? 隠れるものは古帽子しかなかったのに。村の警官はそこにかかしがあることを知っていたからです。あることはわかっていたから、気にも留めませんでした。ですが私にはかかしがあることなどわかるわけがありません。街では目にしたことがないからこそ、畑で目にすればまじまじと見つめます。私には目新しく、注目に値することだからです。井戸に隠れたときもまったく同じでした。あなた方はああした場所には井戸があると心得ていらっしゃる。井戸があると知っていたから見えなかったのです。私なら井戸のあることを知らないので、ちゃんと見えたはずです」

「いい発想だね」ウォルター卿が微笑んだ。「だがバルコニーはどうなのかな? バルコニーならロンドンでもよく見かける」

「ですが真下に川はありません。まるでヴェネツィアではないですか」とウィルソンは答えた。

「斬新な発想だ」もっともだとばかりに繰り返した。斬新な発想に対して豪華な愛を持ち合わせていた。だが批判能力も持ち合わせていたので、充分に考えたうえで、同じくらい正しい発想だと思いたかった。

 明けゆく曙光が窓ガラスを黒から灰色に変えたころ、ウォルター卿が乱暴に立ち上がった。これを逮捕に向かう合図だと捉えて、全員が立ち上がった。だが長官は立ったまま、ここを先途とばかりにしばらく深く考え込んでいた。

 突如、静寂を破って、糸を引くように泣き叫ぶ声が暗い荒野から聞こえてきた。その後に続いた静寂に、むしろ叫びよりぎょっとさせられたと言ってもよく、沈黙が途切れたのはノーランがぼそりとつぶやいたときだった。

バンシーだ。誰かの墓場行きが決まったんだ」

 大造りの馬面が月のように青ざめていたが、ご存じのように部屋にいるアイルランド人は一人だけだった。

「ああ、あのバンシーですか」ウィルソンが可笑しそうに言った。「ご推察の通り私はその手のことに明るくありません。私自身が一時間前あのバンシーに話をして塔まで連れて行き、我らが友人が声明文を書いているのを目にしたときには、ああやって叫ぶように言っておいたのです」

「ブリジット・ロイスのことか?」白い眉を寄せてモートンがたずねた。「そこまでマイケルに不利な証言をしたのか?」

「ええ」ウィルソンが答えた。「この地域のことには詳しくありませんが、腹を立てた女性というのはどこの国でも同じものだと思いましたから」

 だがノーランはいまだに不機嫌でどこか様子が違っていた。「まったくいやな声にいやな仕事だな。これでマイケル王子が本当に最期を迎えるとしたら、ほかにも最期を迎えるものがあっておかしくはない。霊が取り憑つけばあいつは死者をはしごにして逃げるだろうし、海が血でできていても歩いて渡るだろうに」

「迷信を不安がる裏にはそんな真意があるのですか?」ウィルソンがわずかに嘲りを浮かべてたずねた。

 アイルランド人の青ざめた顔が新たに怒りで黒ずんだ。

「おれもクレア州で何人もの人殺しと渡り合ってきたんだ。おまえもクラッパム・ジャンクションで頑張ってたんだろうがな、ロンドンっ子さま」

「落ち着きたまえ」モートンがはっきりと釘を刺した。「ウィルソン、上司の言動を疑うようなそぶりなど許すわけにはいかん。勇敢で信頼できるところを、ノーランのように行動で示してもらおう」

 赤毛の男の青ざめた顔が、またわずかに青ざめたように見えたが、何も言わずに落ち着いていた。ウォルター卿が極めて慇懃にノーランに近づきこう言った。「もう外に出てこの事件を終わらせようじゃないか?」

 夜はとうに明け、灰色の雲と灰色の荒野の隙間には白い裂け目が大きく広がり、その向こうには曙光と海を背にして塔の輪郭が浮かび上がっていた。

 その素朴で原始的な姿には、どことなく地球の黎明期の夜明けを思わせるところがあった。色彩にも乏しく、雲と泥土のあいだに真っ白な陽光だけが存在していた有史以前の夜明けである。こうしたくすんだ色相を救っているのが、ただ一点の金色であった――孤塔の窓に輝く蝋燭の光が、満ちゆく日射しのなかで燃え続けているのだ。刑事たちの後ろから非常線を張る警官隊が、逃げ道を断ち切るために三日月型に広がったとき、塔の光が泳ぐように一瞬きらめきすぐに消えた。中の男が日射しに気づいて蝋燭を吹き消したのだろう。

「ほかにも窓があったはずだな?」モートンがたずねた。「角を曲がったあたりには当然ドアもあるな? 円塔には角はないが」

「またちょっと言わせていただくことがあります」ウィルソンが静かに申し出た。「この地区に来たとき真っ先に見たのがあのおかしな塔でした。あれのことならもう少し詳しくお伝えできます――少なくとも外見のことでしたら。窓は全部で四つあり、あの窓から少し離れたところにもう一つありますが、ここからでは見えません。二つとも一階にあって、反対側にある三つ目の窓も合わせればちょうど三角形になっています。ですが四つ目の窓は三つ目の真上にあって、どうやら二階だと見受けられます」

「ただの屋根裏だ、はしごで上れる」とノーランが言った。「子どものころはそこで過ごしたものだ。空っぽの抜け殻にすぎない」悲しげな顔がいっそう悲しげになったのは、おそらく祖国の悲劇とそこで過ごした役割について考えていたからであろう。

「いずれにしても机と椅子は手に入れたはずです」ウィルソンが言った。「どこかの家から手に入れたのでしょう。一つ言わせていただくなら、いわば五つの入口すべてから同時に踏み込むべきです。ドアに一人、窓に一人ずつ向かいましょう。ここにいるマクブライドが梯子を持っているので二階の窓に上れます」

 ホーン・フィッシャー氏が物憂げに著名な親戚の方を向き、初めて口を開いた。

「わたしはロンドン派の心理学にかぶれかけていますよ」ほとんど聞き取れない声だった。

 残りの者たちもそれぞれ異なる形で同じ影響を受けたらしく、一行は言われたとおりに散っていった。モートンは直ちに目の前の窓に移動した。潜伏しているお尋ね者が蝋燭を消したばかりの窓である。ノーランはやや西寄りに次の窓へ。ウィルソンは、梯子を持ったマクブライドを従えて、裏側の二窓へと回り込んだ。ウォルター・ケアリー卿自身は秘書を従え、ただ一つあるドアの方に歩き始めた。もっと常識的なやり方でなかに入れてもらおうというわけである。

「当然、あいつは武器を持っているだろうね」ウォルター卿が何気なくそう言った。

「誰もが口を揃えて言うでしょうとも」ホーン・フィッシャーが答えた。「拳銃を持った一般人よりも燭台を持った彼の方が凄腕だと。とはいえ確実に拳銃も持っていますよ」

 口にした瞬間、その疑問に轟音という言葉で返答があった。モートンは一番近い窓の前にたどり着き、広い肩で窓口をふさいだところだった。刹那、赤い炎のようなものが内部で光り、轟々たるこだまが響き渡った。がっしりとした肩が形を変え、逞しい体躯が塔の下に丈高く繁る草むらに崩れ落ちた。窓からは煙が一筋、雲のように浮かび上がった。二人は現場に駆け戻り助け起こしたが、モートンは死んでいた。

 ウォルター卿が身体を起こして何か叫んだが、新たな銃声にかき消された。警察が裏手から同僚の敵討ちを始めているのかもしれない。すでに隣の窓に駆けつけていたフィッシャーが再び驚きの声をあげたので、上司の方も現場にやって来た。アイルランド人警官のノーランも大きな大の字の形に草むらに倒れており、草むらは血に染まっていた。駆けつけたときにはまだ息があったが、顔には死相が浮かび、もう駄目だと伝える仕種を最後にするのがやっとだった。言葉にならぬ言葉と英雄的な力をふりしぼり、同僚たちが塔の裏手を包囲している辺りを指さした。立ち所に起こった立て続けの衝撃に呆然となっていたせいで、二人はその仕種に漠然と従うのが精一杯だったが、裏の窓にたどり着くと、多少決定的で悲劇的ではないにしろまったく同じような驚くべき光景を目の当たりにした。この二人の警官は死んでも致命傷を負ってもいなかったが、マクブライドは足を折って梯子の下敷きになって倒れていた。どうやら二階の窓から放り出されたようだ。ウィルソンはうつぶせに倒れて気絶したように身動きもせず、銀灰色のエリンギウムに赤毛を突っ込んでいた。しかし無力なのは一瞬に過ぎず、ほかの者たちが塔を回ってやって来るころには、体を動かし起きあがりかけていた。

「これはひどい! 爆発でもあったみたいだな!」ウォルター卿が声をあげた。この超常的な破壊力を表現するには、確かにそれ以上の言葉はない。実行した者は、同じ三角形の異なる三辺に対し同じ瞬間に死や破壊をもたらすことができたのだ。

 すでに立ち上がっていたウィルソンが驚くべき行動力を発揮して、リボルバー片手にふたたび窓に飛びついた。窓のなかに二度発砲すると、その硝煙のなか姿を消した。だが足の鳴らす物音や椅子の落ちる振動を聞けば、勇敢なロンドン子がついに部屋に飛び込みおおせたことがわかった。それから奇妙な静けさがやってきた。ウォルター卿が晴れゆく煙のなか窓に歩み寄り、古塔の抜け殻を覗き込んだ。ウィルソンが周りをにらんでいるほかは、そこに誰もいなかった。

 塔のなかは空っぽの部屋が一つだけだった。簡素な木製の椅子と机があるだけで、その上にペンとインク、紙、燭台が乗っている。高い壁のなかば、上側の窓の下に粗末な木の渡しがある。小さな屋根裏というよりは大きな棚といった方がよい。梯子で上るほかなく、壁と同じく飾り気はないようだ。ウィルソンはそこを一通り見回すと、机の上のものを注意深く眺めた。それから細い人差し指を動かし、大きな手帳の開いたページを黙って指さした。単語の途中であるにもかかわらず、唐突に書くのをやめていたのだ。

「爆発でもあったようだと言ったがね」ウォルター・ケアリー卿がとうとう口を開いた。「こうなると本人も突然爆発してしまったみたいだな。それなのに、どうやったのか塔は無傷のまま自分だけを吹き飛ばしたんだ。爆弾というより、泡みたいにはじけてしまった」

「あいつは塔より大切なものを傷つけました」ウィルソンが嘆きをあげた。

 長い沈黙が過ぎると、ウォルター卿が重々しく口を開いた。「ふむ。ウィルソン君、私は刑事じゃない。この不幸な出来事のせいで、こその種の仕事を担当するのは残された君になった。こうなった原因を悼んでいるのは誰もが一緒だが、一つ言っておくならば、私自身は君の職務遂行能力に強い信頼を寄せているのだよ。次に何をするべきだろうね?」

 意気消沈していたウィルソンは元気を取り戻したらしく、その言葉を受け入れたときには、これまで誰にも見せたことがないほど馬鹿丁寧になっていた。何人か警官を呼んで塔内部の発掘を手伝わせ、残りの者には捜索隊となって外に散ってもらった。

「まずはこの塔の内部を徹底的に改めましょう。外に出るのは物理的に不可能と言ってもいいはずだからです。ノーランならバンシーを持ち出して、超常的には可能だと言ったかもしれませんがね。しかし事実を扱うときには実体のない魂など無意味です。そして目の前にある事実とは、空っぽの塔とそのなかの梯子、椅子、机にほかなりません」

「霊媒師の連中は」ウォルター卿が笑みを浮かべた。「魂になら机よりも有意義なものをいくらでも見つけられると言うだろうね」

「魂というのが机の上の――壜に入った命の水なら、なきにしもあらずでしょうか」ウィルソンが薄い口唇をゆがめて答えた。「この辺の住民は、アイリッシュ・ウィスキーを浴びたときにはそんなことを信じかねません。この国にはちょっと教育が足りないようですね」

 ホーン・フィッシャーの重たげなまぶたが、かすかに震えて開きかけた。刑事の軽蔑口調に、面倒ながらも抗議するつもりのようにも見えた。

「アイルランド人は魂を信じるあまり、招魂術など信じられないでしょうね」とつぶやいた。「魂のことを知りすぎていますから。呼べば飛び出す魂に対する単純無邪気な信仰をお望みなら、お気に入りのロンドンで見つかりますとも」

「どこであろうとそんなもの見つけたくなどありませんね」ウィルソンは素っ気なかった。「私が扱っているのは、単純な信仰などより遥かに単純なものですから。机と椅子と梯子。手始めに申し上げたいことはこうです。三つとも白木を削っただけの粗末なものです。しかし机と椅子はかなり新しいし比較的きれいでした。梯子は埃をかぶっているし一番上の段には蜘蛛の巣がかかっていました。ということは、思った通り初めの二つはごく最近どこかの家から拝借したものですが、梯子の方はずっと以前からこの朽ちた芥溜めに置いてあったということになります。おそらくは発祥以来の家具、ここアイルランド王の大宮殿に眠る家財だったのではありますまいか」

 またもフィッシャーがまぶた越しに見つめたが、眠たくて話もできぬように見えたので、ウィルソンは話を続けた。

「この場所で摩訶不思議なことが起こったのは明らかです。十中八九の確率で、この場所と深い関わりがあるように思えます。あいつがここにやって来たのは、ここでしかできないことがあるからでしょう。そうでもなければ格別魅力があるようには見えません。しかしあいつは昔から知っていたんです。一説によると一族のものだったそうですから。こうしてすべてを考え合わせると、塔そのものの建築構造に何かあるということが導き出されるのです」

「君の推理はすばらしいと思う」注意深く耳を傾けていたウォルター卿が言った。「だがいったい何があるというんだね?」

「梯子の話をしているのはおわかりいただけると思います。このなかでただ一つ古い家具であり、私のロンドン眼が最初に気づいたものでした。しかしそれだけではありません。あの屋根裏はさながら物置なのに物がない。見たところほかの場所と同じく空っぽです。そうなると梯子をあそこに立てかけている理由がわかりません。下では異常なものを何も見つけられないのですから、あそこに上って調べてみる価値はあるかもしれません」

 刑事は座っていた机から素早く降りると(というのも一つしかない椅子はウォルター卿に充てられていたからだが)、梯子を駆け上って上階にたどり着いた。ほかの者もそれに続いたが、最後にやって来たフィッシャー氏はかなり無関心に見えた。

 しかしこの段階では、誰もが失望することになった。ウィルソンはテリアのように隅々まで嗅ぎまわり、蠅じみた格好で屋根を調べたが、半時間経っても手がかり一つ見つけられなかったと言わざるを得ない。ウォルター卿の私設秘書は、ますますもって場違いな眠気に襲われたらしく、梯子を上るのも最後だったのに、今や降りて戻ってくる気力さえ残っていないようだった。

「来るんだ、フィッシャー」全員が下に降りてしまうと、ウォルター卿が声をかけた。「どんな構造になっているのかを徹底的に調べるべきかどうか、検討せねばならんのだ」

「すぐに行きます」頭上の出っ張りから声が聞こえた。なんだかあくびをしたみたいな声だった。

「何をぐずぐずしているんだ?」ウォルター卿が癇癪を起こした。「そこにいて何か見つけられるのか?」

「見つからなくもないですが」曖昧な声が返ってきた。「いやいや、今やはっきりと見つけましたよ」

「いったい何を?」テーブルに座って所在なげにかかとを蹴り上げていたウィルソンが直ちに問いただした。

「ええ、男です」ホーン・フィッシャーが答えた。

 ウィルソンは、テーブルに蹴飛ばされたような勢いで飛び降りると叫んだ。「どういうことです? いったいどうやったら男が見つかると言うんです?」

「窓から見えるんですよ」秘書は穏やかに答えた。「荒野を横切っていますね。この塔に向かって平野をまっすぐ進んでいるところです。どうやらわたしたちを訪問するつもりらしい。おそらく誰なのかを考えると、わたしたち全員が戸口で出迎えた方が礼儀に適っているでしょうね」そして秘書はゆっくりとはしごを下りてきた。

「おそらく誰だというんだ!」ウォルター卿が驚いて繰り返した。

「そうですね、マイケル王子と呼ばれている男に見えますが」フィッシャー氏があっけらかんと答えた。「というか、間違いありませんよ。手配写真で見たことがありますから」

 沈黙。いつもはしっかりしているウォルター卿の頭脳も、風車のようにぐるぐる回っているらしかった。

「馬鹿な!」ようやくそう言った。「あいつ自身が爆発で半マイル向こうに吹き飛ばされたのに、窓も通り抜けなかったし、すたすた歩けるほどピンピンしているとして――だとしても、こっちに向かって歩いて来るわけがなかろう? 殺人犯というものはそんなに早く犯行現場に戻って来たりはせんよ」

「まだ犯行現場だと知らないんですよ」ホーン・フィッシャーが答えた。

「何を馬鹿なことを? あいつのことを底抜けの阿呆だと思っておるようだな」

「はあ、実を言えば、ここはあの人の犯行現場ではないんです」フィッシャーはそう言って、窓に近づき外を見た。

 ふたたび沈黙。やがてウォルター卿が穏やかにたずねた。「いったいどんな珍説を思いついたんだ、フィッシャー? あいつがどうやって包囲の輪から抜け出したのか、新説でもひねりだしたのか?」

「抜け出してなどいないんですよ」窓の方を向いたまま答えた。「輪の中にはいなかったのだから、輪から抜け出してもいません。この塔になんかいなかったんです。少なくとも、わたしたちが塔を取り囲んだときには」

 フィッシャーは振り向いて窓に寄りかかったが、今まで通りの無関心な態度にもかかわらず、暗がりの中の顔は少し青ざめているように見えた。

「遠巻きにしていたときにそんなことを考え始めたんです。蝋燭が消える間際に、パッと瞬いたのに気づいたでしょう? あれはどうも、燃え尽きる直前に炎が踊ったとしか考えられませんでした。そして部屋に入ってみると、あれがあったんです」

 フィッシャーが指さしたテーブルを見て、ウォルター卿はおのれの盲目を呪って息を呑んだ。燭台の蝋燭は確かに燃え尽きてなくなっていたし、卿は(少なくとも精神的には)すっかり闇に置いてけぼりにされてしまったのだ。

「次は数学の問題とでも言いましょうか」フィッシャーはぐたりともたれかかり、そこに架空の図形でも描いているのか、むき出しの壁を見上げていた。「三角形の中央にいる人間が三辺すべてに向き合うのはいささか困難ですが、三角の頂点にいる人間ならほかの二角と同時に向き合うこともそれほど難しくありません。その二点が二等辺三角形の底辺を形作っていればなおのこと。幾何学の講義みたいに聞こえたらご勘弁いただきたいのですが――」

「残念ですがそんな時間はありません」ウィルソンは冷たく告げた。「あいつが戻ってきたのが本当なら、すぐに命令を出さなければ」

「でも続けるつもりですよ」答えたフィッシャーは無礼なほど平然と天井を見つめていた。

「いいですかフィッシャーさん、私なりのやり方で捜査の指揮をとらせてもらいますよ」ウィルソンは断固として伝えた。「今は私が指揮官ですから」

「そうですね」ホーン・フィッシャーの答えは穏やかだったが、どことなくぞっとさせるような響きがあった。「そうですとも。だけどなぜです?」

 ウォルター卿は目を見張った。なにしろ友人の無気力な姿しか見たことがなかったのだ。フィッシャーはまぶたを上げてウィルソンを見ていた。まぶたの下の目は、膜が剥がれたか消えでもしたのか、まるで鷲の目のようだ。

「なぜ今はあなたが指揮官なんですか? どうしてあなたなりのやり方で捜査の指揮が取れるのです? あなたに口出しする上官がここにいないのは、どんなことが起こったからでした?」

 誰も口を利かなかったし、外から物音が聞こえてきても、誰かが正気に返って口を開くまでどのくらいかかるのかは答えようがなかった。塔の扉に打ちつけられた重苦しく虚ろな音が、動揺した心にはこの世の終わりを告げる木槌のように異様に響いた。

 木製の扉を叩いたその手で錆びた蝶番が動かされ、マイケル王子が部屋に入ってきた。誰一人としてその正体を露ほども疑わなかった。身軽な着衣は幾多の冒険で擦り切れてはいたが、気障なほどに洗練された型のものであり、とんがり鬚すなわち皇帝鬚を生やしているのは、おそらくルイ・ナポレオンの面影をより深くするためだろう。だがそのモデルよりも背が高く上品であった。誰かが口を開くよりも先に、ささやかだが華麗なる歓迎の意を表して、一瞬のうちに誰もを黙らせてしまった。

「紳士諸君。こんなみすぼらしい場所ではありますが、心から歓迎いたします」

 ウィルソンが真っ先に我に返り、闖入者の方に大きく踏み出した。

「マイケル・オニール、国王の御名においてフランシス・モートンおよびジェイムズ・ノーラン殺害のかどで、おまえを逮捕する。警告しておくが――」

「いけません、ウィルソンさん」突然フィッシャーが叫んだ。「三つ目の殺人を犯してはなりません」

 ウォルター・ケアリー卿が椅子から立ち上がり、その拍子に椅子は音を立てて後ろにひっくり返った。「これはいったいどういうことだね?」と威圧的な声を発した。

「つまりですね、この男フッカー・ウィルソンは、あの窓に顔を突き入れると同時に、空部屋越しに発砲し、別の窓から顔を突き出していた同僚二人を殺したのです。そういうことなんですよ。お知りになりたければ、彼が発砲したはずの回数を数えてから、拳銃に残された弾丸を数えてご覧なさい」

 黙って机に座っていたウィルソンが、不意に傍らの武器に手を伸ばした。だが次の瞬間、予想だにしなかったことに、戸口に立っていた王子が彫像の如き重々しさから一転し、軽業師の如き素早さで刑事の手から拳銃をもぎ取ったのだ。

「こいつめ! あんたは典型的なイギリスの真実だよ、おれがアイルランドの悲劇であるのと同じだ――同胞の血を掻き分けておれを殺しに来たあんたがね。お仲間が丘陵の領地で倒れていたなら、人殺しと呼ばれるだろうが、それでもあんたの罪は赦されるかもしれない。なのに無実のおれの方はといえば、型どおりに殺されることになっていた。長い演説の末に忍耐強い判事は役にも立たない無実の陳述に耳を傾け、おれの絶望を書き留めながらも無視するのだろう。そうだ、それこそ暗殺じゃないか。ところが人を殺しても殺人にはならないこともあるらしいな。この拳銃には弾が一発残っているし、その行き先もちゃんとわかっているぞ」

 ウィルソンは机の上で素早く身をかわしたものの、と同時に苦悶に身をよじらせていた。マイケルの撃った弾に当たったウィルソンは、丸太のように机から転がり落ちた。

 警官が駆けつけて抱き起こした。ウォルター卿は無言で立ちつくしていた。フィッシャーはというと、不思議な疲れたようなそぶりで口を開いた。

「あなたはやはり典型的なアイルランド悲劇ですね。あなたは完全に正当でした、しかして不当な立場に飛び込んでいたんですから」

 しばらくのあいだ王子の顔は大理石にも似ていたが、やがて瞳に射した光は絶望の光に似ていなくもなかった。不意に笑い出すと、煙の出ているピストルを床に投げ捨てた。

「おれはやっぱり不当な男さ。おれや子供たちに災いをもたらしかねない罪を犯したんだ」

 ホーン・フィッシャーは、この唐突な懺悔にもすっかり納得したようには見えなかった。男を見つめたまま、低い声で一言だけたずねた。「どんな罪だというのです?」

「イギリスの司法を助けたことだ」マイケル王子は答えた。「イギリス王の部下たちの仇を討ったことだよ。絞首刑の執行役を務めたのさ。それこそ絞首刑にふさわしいことだ」

 それから警官に振り返ったが、その態度は降伏するというよりも、むしろ逮捕を命じるようだった。


 この物語は、ホーン・フィッシャーが新聞記者のハロルド・マーチに語ったものである。何年も後、ピカディリー界隈にある小さくも豪華なレストランでのことだった。「的の顔」事件からしばらくして、フィッシャーはマーチを夕食に誘っていたのだが、話題は自然とその謎のことになり、やがてフィッシャー若き日の思い出話に花が咲き、いかにしてマイケル王子事件のような問題を研究するようになったかという話になった。ホーン・フィッシャーは十五年取った。薄い髪が額から後退し、細長い手を気取りからではなく疲労から降ろしている。彼が若き日のアイルランド冒険譚を物語ったのは、それがこれまで関わってきたなかでも記念すべき最初の犯罪事件であり、どれだけ陰湿で恐ろしい犯罪が法ともつれているとも限らないと気づいたからであった。

「フッカー・ウィルソンはわたしが初めて知り合った犯罪者で、そのうえ警官だったんですよ」フィッシャーはワイングラスを回しながら説明した。「わたしの人生はずっとそんな無茶苦茶な出来事ばかりでした。ウィルソンには紛れもなく才能が、おそらくは天賦の才がありましたし、探偵としても犯罪者としても研究する価値のある人物でした。青白い顔と赤い髪こそ象徴していたのですよ、つまり冷めていながら野心に燃えている類の人間だったのです。怒りを抑えることはできたが、野心を抑えることはできなかった。初めに口論したときには上司の叱責をぐっと腹に飲み込んだんです、はらわたは煮えくりかえっていたのにね。けれど思いがけず見てしまったのですよ、二つの頭が朝日に黒く浮かんで窓に嵌め込まれているのを。彼にはその機会を逃すことはできませんでした。復讐だけではなく、昇進を阻む二人を排除することができるのですから。銃の腕には自信があり、二人とも黙らせる目算はありました。どのみち不利な証拠など皆無に近かったでしょうけれど。ところが実際には危機一髪のところだったんですよ。ノーランには『ウィルソン』と口にして指さすだけの力が残っていたのですから。わたしたちはてっきり、同僚を救ってくれと頼んでいると思っていたのですが、本当は殺人者を告発していたのです。あとは簡単でした。頭上の梯子をひっくり返し(梯子を登っている人間には足許や背後がはっきり確認できませんからね)、地面に倒れてもう一人の惨事の犠牲者のふりをしていたというわけです。

「ところが残忍な野心に加えて、自らの才能はもちろん理論に対しても嘘偽りのない確信があったのですよ。新しい眼と称するものを信じ、新しい方法を使う機会を狙っていたのです。ウィルソンの考え方にも一理ありましたが、たいていの場合に失敗するのと同じようなところで失敗を犯しました。新しい眼も見えないものを見ることはできないのですから。梯子や案山子ならうまくいっても、人生や魂となると話は別です。マイケルのような人間が女の悲鳴を聞きつけたときどのような行動を取るのか、そこのところで重大な間違いを犯したんです。マイケルは虚栄心とうぬぼれから、すぐに外に飛び出していきました。婦人の手袋のためならダブリン城にも入っていったでしょう。それを気取りとでも何とでも呼んだところで、そうするような人間なんですよ。顔を合わせた二人に何が起こったかはまた別の話、永遠に知るすべはないでしょうが、その後に聞いた話によれば、仲直りしたに違いありません。ウィルソンはそこを間違えました。それでもなお、一番ものが見えるのは新入りであり、馴染みの者は知りすぎているがゆえに何も知り得ないという考えには一理ありました。いつくかの点では正しかった。わたしに関しては正しかったのです」

「あなたに関してですか?」いくぶん驚いてハロルド・マーチはたずねた。

「わたしは知りすぎているがゆえに何も知り得ないと言いますか、とにかく何もできない人間なんです」ホーン・フィッシャーは言った。「アイルランドのことに限った話ではありませんよ。イギリスについて言ってるんです。わたしたちを律していることのすべてにして、おそらくは律することが可能なただ一つのことを話しているのです。あなたは先ほど、悲劇の生存者がどうなったのかたずねましたね。そう、ウィルソンは快復し、わたしたちは退職するよう何とか説き伏せました。ところがね、英国のために戦ったどんな英雄に支払うよりも莫大な恩給を、あの憎むべき人殺しに支払わなければならなかったのです。どうにかマイケルを最悪の事態からは救うことができたものの、犯してもいないとわかっている罪によってあの無実の男を服役させざるを得ませんでしたし、後日脱走するのを見て見ぬふりしてやるくらいしかできなかったのです。ウォルター・ケアリー卿はこの国の首相になりましたが、管理下で起こったあんなひどい醜聞の真相が伝わっていれば、おそらくそうはなっていなかったでしょう。わたしたちみんながアイルランドで破滅していた可能性だってありますし、まず間違いなく彼は破滅していたでしょうね。それに彼は父の旧友で、いつも嫌というほど親身になってくれました。わたしは完全に巻き込まれ過ぎていますしね、もう元には戻りようがなかったんですよ。ショックを受けたとは言わないまでも、あなたはどうやら動揺しているみたいですがね、わたしはちっとも気にしませんよ。よければ話題を変えましょう。このバーガンディーはどうです? このレストランと同じく、わたしが見つけたんですよ」

 そうして、世界中のワインを肴に博識かつ膨大な話を始めたのだった。人間の研究家に言わせれば、この話題についてもまた、彼は知りすぎていると考えたことであろう。


“The Man Who Knew Too Much”Girbert Keith Chesterton -- II.‘The Vanishing Prince’の全訳です。


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訳者あとがき

 ホーン・フィッシャーものの第二話「The Vanishing Prince」をお届けします。フランボウを思わせる(とまでユニークではありませんが)、怪盗(?)マイケル・オニールが登場します。アイルランドのために奮闘する、政治版鼠小僧のような奴ですね。「新しい目」の逆説や、幽霊と心霊に関する逆説、イギリスとアイルランドに関する逆説に加えて、人間心理に対する理解/無理解が重要なポイントになっており、そのそれぞれは小粒ながらもかなり凝った作品です。それだけに何といっても記憶に残るのは、単純明快なトリックでしょう。単純ではありますが、マイケル・オニールという独特の犯罪者の存在を前提条件として成立させた、かなり技ありのトリックだと思います。人が消えるとか密室とかいうあり得ないことをあり得ると思わせるのに、オカルトはよく使われますが、こういう趣向は珍しいのでは。フィッシャーの口から真相が語られるシーンも、これぞ探偵小説の醍醐味といった感じでぞくぞくします。

 今回扱われている政治問題は、イギリスにとっては頭の痛いアイルランド問題。とはいえむしろ返す刀でイギリスを斬っております。第一話と同じく必要悪とでも言いますか、知りすぎているがゆえにフィッシャーは何もできずに黙認せざるを得ません。それに納得している老獪なフィッシャーと動揺する熱血漢マーチ。果たしてこうしたことは本当に必要悪なのか、愛国とは、ナショナリズムとは何なのか――それが『知りすぎた男』に一貫したテーマだと言っていいでしょう。

更新履歴

 07/01/25 四年ぶりに更新。冒頭がいきなり訳しづらい。やはりオーソドックスに「この物語は〜から始まる」にした方がいいだろうか。「recent and legendary」は訳しようがないやね。そして第二文でいきなり誤訳登場。「the last Napoleon」ってナポレオン三世のことらしい。これ、日本では定訳ってないよね? 試訳では「後帝ナポレオン」とかも考えたのだが、まあ「ルイ・ナポレオン」にしといた。「appear/disappear」「wanted/wanted」の訳し方がしっくりこなかったのだけれど、若島正訳の「姿を現わす/姿を消す」「用がある/御用だ」を借用させてもらうことにした。「appear/disappear」の方は「罷り出る/罷り去る」なんて試訳も考えたのだが、わかりづらいものね。同じく「a broken head instead of a broken neck」も日本語に活かしたい。若島訳だと「broken」の方を統一するのではなく、「首を〜」で統一していて目から鱗。ただし借用ばっかりしてもしょうがないので、ここは自己流をひねり出す。試訳では「首を折らずに骨を折る」なんてのもあった。「placard」は「プラカード」ではない、と辞書に書いてあった。。。「澄まし顔」というのは「elegant indifference」のどちらの意味も一語に込めた訳語だと、訳者としては思っているのだが。「流し見た」には説明が必要かも。原文だと「(陰気な女が)陰気に見つめた」ってことなんだけど、陰気陰気って繰り返しても気が滅入るので、翳のある女は人を流し目で見ることが多い!という独断と偏見によるイメージでこうなった。「cornfield」はアメリカ英語では「とうもろこし畑」だが、イギリス英語では「小麦畑」でした。

 07/02/10 「予断と事実〜」から始まる第3段落が難しい。日本語にならん。第4段落「a family feud」の「family」を、警官の家族だと思っていたので訳しあぐねていたのだが、“王子”とその信奉者から成る「royal family」のことなのだと気づく。何のことはないそのまんま「一族の確執」「お家騒動」でよかったのだ。

 07/02/15 モートン&ノーラン登場〜長官到着。

 07/03/23 長官登場〜バンシーの泣き声。「turn to bay」たしか誤訳の本とかにも書かれていた有名な(?)言い回しである。わたしはまんまと「海沿い(湾岸)」と直訳してしまっていた。「(追いつめられて)開き直る」が正しい。「if the local feeling is as lively as that there are a good many points to consider.」の旧訳が「田舎の感覚というやつが、そのプラスの面ほど役に立つかどうか。」と意味不明だった。おそらく「that」を代名詞ではなく関係詞だと思ったためによくわからなくなってしまった。「feeling」には「悪感情・敵意」という意味もあるらし。「temper」はここでは「怒り」という意味。

 07/07/11 バンシー〜轟音。若島正氏が、ナボコフを読んでいると、ナボコフが意図したのかどうかわからないところにまで何らかの意図を読み取りたくなってきてしまう……というようなことを言っていたけれど、チェスタトンもまさにそう(ナボコフと比べれば単純なものであるにせよ)。「played in the place when I was a child」と「the part that he played in it」に反応し、「feel the same influence in different ways」とあると目が行ってしまう。この最後の文章なんて、厳密に言えば対句でも何でもないから、若島訳のように「それぞれ自分なりに同じような影響力を感じた」と訳すのが正しいのかもしれない。拙訳では「それぞれ異なる形で同じ影響を受けた」としましたが、こんなことばかりやっているのでただでさえひねくれたチェスタトンの文章なのにさらに直訳調が増えて、チェスタトンは小難しいとか読みづらいとかいう印象が深まることになる。

 07/07/12 事件勃発シーンを改訳。辞書を見ると「sea holly」には「1.エリンギウム(芹科)。2.ハアザミ」とある。以前は「ハアザミ」と訳していたのだが、写真を見たかぎりでは、「gray and silver」なのは「エリンギウム」の方だった。

 07/07/16 ウィルソンが立ち上がってからアイルランド人の迷信を馬鹿にするまでを改訳。全体的にあまりに拙い表現を改めたほか、フィッシャーがウィルソンに反論するところを改訳。少し前の「they want」(=○彼らには欠けている。×彼らは望んでいる)も誤っていたが、ここも「want」の構文がよくわかっていないためおかしな訳文になっていた。「信じたい」のではなく「(第三者の)信仰を(私が)欲する」のである。その直前「霊魂を信じるあまり降霊術を信じられない」というチェスタトンの逆説を理解していなかったため、「降霊術師以上に霊魂を信じる」という頓珍漢な訳にしてあったのを訂正。

 07/07/20 ウィルソンの推理からフィッシャー屋根裏に留まるところまでを改訳。表現を大幅に直した。

 07/11/02 久々に改訳再開。屋根裏でぐずぐずしているフィッシャーにウォルター卿が声をかけるところから「誰だというんだ!」まで。「戸口で出迎え云々〜」のif構文が間違っていた。「出迎えるならもっと礼儀正しくしよう」とか訳していたが、ここは「もし出迎えるならばさらに礼儀正しい」→「出迎えた方が礼儀正しい」。

 07/11/07 「幾何学の講義云々」まで。底本にしたテキストファイルが文字化けして一部「?」になっていたのを疑問符だと勘違いして訳していたのを訂正。化けていたのはダッシュ記号だったので大勢に影響はない。また、同じく底本には三角形云々の文章が一部抜け落ちていたことに気づいたので、補った。

 07/12/18 一気にあと二センテンスのところまで改訳。欧米には「運命のハンマー」という発想が根づいているのだろうけれど、日本ではピンと来ないかとも思ったので「この世の終わりを告げる木槌」とかなり意訳した。マイケルの演説が、せっかく「お前は○○なのに俺は××」みたいに対になっているのに、訳文ではそれがぱっとしなかったので、ちょっとそこらを意識して訳し直した。フィッシャーがマイケルに「あなたはrightだ。wrongな立場に立っちゃってたけど」というと、マイケルが「やっぱり俺はwrongだよ」と答える場面――やはりここは「right⇔wrong」を訳にも活かしたいのだけれど、「間違った立場」という表現が日本語としてちょっと不自然なので、考えあぐねて「正当⇔不当」にしてみた。さらに不自然になってしまったような気が……。若島訳では「正しい」「拙い」「悪者」とまったく別々に訳してます。うむむ……いつものことだが構文や成句が全滅だや。。。「berief, not only in 〜, but in 〜」というのはもちろん「berief in 〜(〜に対する確信)」に「not only, but」が挟まった形なのだが、ちょっと凝ってるとすぐこれである。まあ四年前の訳だから、と言い訳してみる。けれど恐ろしいことに(変則的とはいえ)「too〜to…」構文を見落としていたのは言い訳できない。何だ「何を知るにも知りすぎるほどだ」って……。

 07/12/22 終わった〜! これでだいぶまともな訳になりました。最後から二センテンス目の後半、「be done for」「be born to do」という表現を理解していなかったので、「〜のために尽力する」「〜するために生まれる」という恐ろしい訳文になっていたのを訂正。旧訳の段階から「moralist」を「人間の研究家」と訳しているのは、「道徳家」では意味がよくわからないから、フランス語の「moraliste」みたいな意味に取ったのだと思う(昔のことなのでよく覚えてないが)。え〜、それと……いまさらですが、この「prince」というのは、「王子」ではなくって、「大公」「諸侯」という意味なのかな……?

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