この作品の翻訳権は消滅していますが、元著作権は存続していますのでご注意ください。
翻訳に関しては、訳者に許可を取る必要なしに、自由に複製・二次配布・リンク等おこなってかまいません。
翻訳者:江戸川小筐
ご意見・ご指摘などはこちら掲示板まで。
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典
HOME  翻訳作品   コッパード目次  戻る  進む
プロジェクト杉田玄白 正式参加テキスト

天国に歩むクロリンダ

A・E・コッパード

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

天国に歩むクロリンダ


 ミス・スミス、クロリンダ・スミスは、雨の日には死にたくなかった。いろいろな死に方があるということについてはたいへん素直に受け止めていたし、歓びを抱いてもいたけれど、よく見えないちっぽけな自分の魂の姿――どれだけ思い描いてもよく見えなかった――がびしょ濡れになって永遠の小径に向かうことからは目を背けたがった。

「でも雨にはあなたの魂を損なうことはできないわ」友人たちはそう言って励ました。

「どうして?」クロリンダはたずねた。「わたしの霊がいるんだもの、雨の霊がいてもおかしくはないでしょう」

 こうして心に描いた理想像には心休まるところも非現実的なところもあったけれど、クロリンダとしては望んでやまなかった――はかない望みとはいえ――雨にならないでほしかった。三夜とも空には弓が弧を描いていたのに、死んだ日には雨が怒濤のように降り注いだ。黄金の鍵を使って胸から生命を解き放ち、仄暗い足許に大いなる光が生じでもしたかのように、恐れることなく立ち去った。向かった場所にあったものははっきりと現実の形を取り、あるものは何エーカーもの吹きさらしの畑に実った穀物に戯れる光のように生き生きとして見えた。こうした真っ白に広がる静寂と、激しい光のうねりが、いずことも知れぬ星から落ちた羽根のようにクロリンダを押し流し、真昼の世界のような驚くべき場所に連れて行った。緑あふれる暖かな場所、それがその谷だった。

 小さな谷が草茂る小高い丘に挟まれて広がっており、緑なす土手の大きな岩々のかたわらでは、一人の男が梯子を修繕していた。白くかんなをかけたばかりの柳の梯子に、乾いた音を立てて大きな真鍮の釘を何本も打ち込んでいた。地平線といえばわずかに頭上で出窓状になっているだけ。丘が崖のように取り囲んでいるからだ。うっすらとした毛糸のクッションが遙かなる天の穹窿にぶら下がっていたが、谷の果ての地平線は千切れて戦いをやめた雲で翳っていた。二頭の牝牛、白が一頭、茶が一頭、丘の一つが空の底を支えているような場所にうずくまっていた。ひばりがいた――こうしたところではひばりが絶えずさえずっているものだ――つぐみもいた――たゆたいそよぐ風――白いあひるが七羽――農場だ。そこここが花で彩られ、鳥の休む木陰があった。男のそばを通り過ぎるとき――男は悲しげに何かに気を取られており、青い長衣チュニックのようなものをまとっていたが――クロリンダは道をたずねるときのように、腕に触れ、声をかけた。「ヤコブ!」何を期待すればいいのか自分でもわからなかったけれど、まるで反応がないのでもう一度声をかけた。「ヤコブ!」どうやら目に留められてさえいないようなので、谷の果てにある大きな白い門に向かい、踏切にたどり着いた。どこまでも続いていそうな壮大な列車が音もなく通過していたため、長いこと待たなくてはならなかった。掲示板の不思議な告知や奇妙な路標に注意を向けてみた。どんなところにあるどの告知や標石を見ても、そこにはイニシャルが、ときにはフルネームが、たいていは日付とともに刻まれているのを見て、なかには怪しいものもあるみたい、と思った。そこまで昔だと、遙か大昔ということになってしまう。ようやく列車が通り過ぎ、遮断機が上がったので、クロリンダは線路を渡った。足取りにためらいはなかったし、急な不安に襲われることもなかった。渡り終えると二、三十人の男たちが出迎えにやって来た。彼らは素足にサンダル履きで、青緑とベージュのゆったりとしたチュニックをふわりとまとっていたが、それは色というより光といった方がよかった。一人が駆け寄り、「クロリンダ!」と言って鮮やかな長いスカーフを手渡した。不思議なことに、近づくにつれて男の姿はだんだんと見えなくなった。自分は目ではなく別の器官で彼を見ている、クロリンダは一瞬にしてそう悟った。すぐに男の姿はかき消え、クロリンダはその存在に心奪われていた。触れるともつかぬ手つきで撫でられ、薄れゆくぼんやりした歓喜エクスタシー、好ましいとも言い切れない感覚に襲われていた。ほかの男たちはまわりを取り囲むように立ったまま、目を細めて皮肉るように眺めていた。遠く離れている人間ほどくっきりと見えた。すぐそばのものは何となくしかわからず、心のなかでだけ――だが何と立派に!――大きく育くむしかなかった。

「何?」クロリンダがたずねると、全員が声を出して答えた。「ぼくらは君の知り合いじゃないか!」

 身体が自由になったのがわかり、男の姿は待っている人群のところに戻った。「夫のルーベンだ」最初の男がゆっくりとそう言うと、短い人生を通して処女おとめだったクロリンダが叫んだ。「そうよ、ルーベンじゃない!」と言いながらも絶え間なく震えていたし、疑いが波のように満ち引きしていた。クロリンダは立ちつくしたまま、知覚可能なものの亡霊や、心の地図には記載されていない暗礁の数々と、しきりに戦っていた。しばらくはそうした新情報のことした頭になかった。

 別の声が聞こえた。

「夫のラファエルだよ!」

「ええ、そうね」クロリンダが振り返って答えた。「一緒にユダヤで暮らしてた」

 別の声がした。「それにぼくとナイルの谷で生活していただろう、もうずいぶんと昔のこと」

「ぼくも……ぼくも……ぼくも」怒りに駆られたように、いっせいにどよめき始めた。

 クロリンダは、ルーベンに掛けてもらった不思議なスカーフを肩からはずした。そうして手に取ってみると、自分が地上のさまざまな場所に移り住んでいたことに気づき始めた。まるで、あらゆる過去がぎっちりと詰まった美醜のパターンとなってそのスカーフに編み込まれていたようだった。そのパターンにはすっかり気づいていたのだが、どんな複雑なものでもただちにばらばらにされ……穴居人との暮らし、時代が下ってからは土人の集団、パタゴニア人、インド人、コサック人、ポリネシア人、ユダヤ人と……こうしたパターンが事細かに織り込まれており、網の目には打ち寄せる過去の一瞬一瞬が完璧に振り分けられていた。桜色の脚をした大きな海鳥が、アイスランドでうなりをあげる大波の上を滑空しているのを、クロリンダは目にしていたし、タンティーリーの象られた黒いホックでガードルを吊るしていた。クロリンダは、世界中の航海図を手にしていた。瀑布、ジャングルに砂漠、炉辺に池に岸辺、ありとあらゆる男の粉骨に――予言者から商人まで――次々に答えていた。今やカメオの絹織物のように、目に見える胸の上に人生の一つ一つが掛けられているのを感じることができた。結果としてこのために――この男たちのために、ひっきりなしに驚きに身を包まれていた。けれどこれほどまでに果てしない過去の人生を少しも思い出すことはできなかった。目に浮かぶのはそのたびごとに男からスカーフを返してもらったことくらいだ。

 どの一つをとっても、束の間の情熱をかろうじて思い出すことはできた。誰も、誰一人として、クロリンダ自身の欲求を――おのずから生じて均された強く激しい情熱の炎を――そっくり返してくれたことはなかった。輝きは和らいで栄光へと変じることもなく、いくつもの燃えさしにばらされた曇った光でしかなかった。いつも子どものないまま彼らのもとを離れ、自分は小さな子どものままだった。

 集まってごにょごにょと言い争っている幽霊たちのなかから、新たな姿形が抜け出した。近づいてからも、クロリンダが当惑していたように、ぼんやりと姿が消えてしまうことはなかった。それは人混みから滑り出て、そばに優しげにかげろうと、クロリンダの考えや心に浮かんだ疑問を読み取った。

「いいや」厳かな声が聞こえた。「これだけだ。偉大なものなどない。人の心が至高に到達できるなんて、ただの空想に過ぎない」

「でも、来世ヴィタ・ヌオヴァの理想や未来像の話をしているんでしょう」

「そう、まさに夢見てるだけだ。ここでだって、夢が遺した莫大な財産から逃れることはできない……夢で酔っぱらうのは簡単なこと。クスリより効果も長い」

 夫たちの群れが言い争いをやめて耳を澄ませた。クロリンダは考え込むように疑わしげに視線を泳がせた。

「自分よりも偉大なものを宿していたなら、人も彼らも哀れだったことだろう」と天使は続けた。

 うめきをあげて、かつての夫たちが後ずさりする。

 相手を見返したクロリンダの顔には、落胆と、とまどいのようなものが……「まだよくわからない――じゃあこれだけ? これですべてなの?」

「そうだ。この世の亡霊だけだ」

 クロリンダはうちひしがれて、門の向こうにある晴れやかな谷を振り返った。牛がいて、青々とした草が茂り、そこで男が脇目もふらず働いていた。むなしさや寂しさがじわじわと大きくなる。それなら、ここも変わりはないのだ。相関も因果もないだけ。亡霊の亡霊を生み出すほかには、何ももたらしはしていない。頭のどこか片隅には、すでに新しい幽霊船の亡霊があった。自分自身につきまとわれ、絶えることない自分の姿に追われることになるのだ!

 クロリンダは隣にいる存在を見つめた。「あなた誰なの」その問いかけに、男たちの群れがふたたび近づいた。

「ぼくは、実現することのなかった君の欲求だ。時間をかけて申し分なく選び取った純潔の価値が、そんなにむなしくて不毛なわけがないだろう? そういう純粋な気持がぼくの穢れない生まれ故郷だったし、ぼくは君の同居人として生まれたんだ」

 飢えた目つきの男たちがどっとわきかえった。

「さよなら!」クロリンダが叫んだ。「あなたたちに用はないの」

 みんな行ってしまったというのに、クロリンダが新しい恋人の腕をつかんだときには嘲笑う声がこだました。「行きましょう」クロリンダは谷にいる男を指さし、「あの人と話をしに」と言った。近くまでくると、男が梯子を高々と持ち上げ、怒りにまかせて地面にたたきつけたために、梯子は壊れてしまった。

「短気な人ねえ!」クロリンダは面白がったが、男がものすごい勢いで振り返ったので怖くなった。男の手足には筋肉や力こぶが、年経た木のように節くれ立っている。クロリンダは男のことを見て見ぬふりをした。

「今ごろどんな様子かしら」冗談のつもりで隣の天使に向かい、ふるさとのことを口にした。「ウェストン・スーパー・メアは今ごろどうなっているかしら」

 その馬鹿げた質問に、梯子の男が無骨な手を前に伸ばし、クロリンダの肩からスカーフを引っぱった。

 クロリンダが訪ねていたのがどれほど遠方だったのか、そこにたどり着くまでにどんな道をさまよったのか、今となっては知ることもできないが、確かなことは、そのとき行っていたということだ……なぜ、どこに、どうやって? それは確かめられない。魂の消滅による爆風で底知れぬ深淵に吹き飛ばされたのか、あの謎めいた女神ニュクスに魅入られ、引き込まれたのか。永遠なる夫たちとの情熱的な交わりに、あるいは情熱的な妻たちとの永遠の戦いに……少なくとも長い時間を過ごしたことは確かめられた。

 イングランドの西で、同名の美しい女性がひと月のあいだ深い昏睡に陥っていたことは間違いない。目覚めてからは、新聞や井戸端で長きにわたって語り伝えられたため、評判のあまり世界中からサインを求められ、クエーカー教徒の芋商人からは結婚を申し込まれた。だがその求婚を鄭重に断ると、古めかしい鎧のように純潔をまとった、あのくすんだ白髪の老嬢たちの仲間入りを果たしたのである。




A. E. Coppard -- 'Clorinda Walks in Heaven' (1922)の全訳です。


Ver.1 03/09/30
Ver.2 03/10/01
Ver.3 03/10/12
Ver.4 09/07/16

HOME  翻訳作品   コッパード目次  戻る  進む  TOP
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典

訳者あとがき→「作品一覧はこちら
 コッパード(Alfred Edgar Coppard)はイギリスの作家で、生涯を通じてほぼ短篇ばかりを発表しました。(1878-1957)。病気のため学校をやめると、その後さまざまな職に就き、三十代で徐々に短篇を発表し始めます。幻想・ファンタジー・怪奇に分類される、ちょっと不思議な話をたくさん書いていた方です。

 邦訳は「消えちゃった」(『恐怖の愉しみ(上)』所収)、「アダムとイブ」(『怪奇小説傑作集3』所収)、『郵便局と蛇』、「ゴラン」(『幻想文学』第63号所収)あたりが現在でも入手可能です。


[更新履歴]
 「クロリンダ・スミスは雨の日には死にたくなかった。」という冒頭にひかれて、全体的にトーンが原文よりも感傷的になってしまったかもしれません。
 うまく訳せないのはともかく、 中盤あたりの「別れるときはいつも子がなく、しかも小さな子供のままだった。」(Shehad gone from them childless always and much as a little child. )がどうも意味すらわかりません。クロリンダには子供がいなくて、なおかつクロリンダ自身子供だった、というふうに取ったのですが。 →「a little child」とは「a virgin」と同じ意味で使われているのだなと思い、それだと「夫と〈添う〉」じゃまずいだろうと「〈寄り添う〉」に変更。

 ・09/06/16 ▼第一段落を改訳。あいかわらずとても恥ずかしいむちゃくちゃな誤訳だらけだったのでざっくり直す。▼第四段落「On three evenings there had been a bow in the sky」の「bow」とは「rainbow」だと思っていたけれど、これは「弓形(の月)」でしょうか。

 ・09/06/27 第五・六段落を改訳。▼「between some low hills of turf, and on a green bank」「丘と土手の間」ではなく、「丘の間には、そして土手には」でした。▼「Each nook was a flounce of blooms and a bower for birds.」というような、英語にはよくある、名詞をつなげただけの不親切な表現というのは訳しづらい。実際、以前の訳では譬喩だとも気づいてなかったらしく、「あらゆる陰に花咲く縁飾りがあり、小鳥のための四阿があった」と訳していたので「そこここが花で彩られ、鳥の休む木陰があった」に変更。▼「She observed that in every possible situation, on any available post or stone, people had carved initials」は当然、that 以下で区切れるのでしょうが、以前の訳では people の前で区切って「どんなものでもいいから何か役立つ柱や標石がないかと目を凝らすと」とやってしまっていたので、「どんなところにあるどの告知や標石を見ても(中略)のを見て」に訂正。▼「What is it.」というクロリンダの言葉に、男たちが「Yes, we know you!」と答える部分を、「大丈夫、君のことは知っている」とほぼ直訳していたのですが、あまりにあまりなので、「ぼくらは君の知り合いじゃないか!」と主客を逆にしてみた。

 ・09/07/05 ルーベン自己紹介〜子どもがなく子どものまま。▼「Clorinda hanging her girdle upon the ebony hooks of the image of Tanteelee. 」「hooks」が複数形で「girdle」がどういうものなのかをわかっていれば「タンタロス像の黒いかぎにベルトをひっかけてもいた。」などという訳にはなるはずもないのだが。。。「タンティーリーの象られた黒いホックでガードルを吊るしていた。」に訂正。「Tanteelee」についてはなおも不明なので、「タンティーリー」とそのまま音訳した。▼「cataract, jungle and desert, ingle and pool and strand」と列記されているのはすべて場所のことなのに、「cataract」だけ「洪水」と訳していたので「瀑布」に改めた。

 ・09/07/11 From the crowd of quarrelling ghosts 〜 I was born the living mate of you. ▼「be drunk」は「飲まされる」ではなく「酔っぱらう」なので、「薬を飲むより容易く果てしなく、夢を飲まされるんだ」「夢で酔っぱらうのは簡単なこと。クスリより効果も長い」に訂正。▼そもそも「husbands/these (men)」と「the angel/it/the one」が別人であることがわかっていなかったので、ちゃんと区別して訳し直した。▼「is this all then, just.」がきっとよくわからなくて、「――ならこれはみんな」とごまかしていたので、「じゃあこれだけ? これですべてなの?」に訂正。▼なぜか「immaculate(穢れのない)」のが「ぼく」になっていたので、「穢れない生まれ故郷」に訂正。▼「living mate」というのは、「生きている mate」ではなくどうやら「リビング mate」、つまり「room mate」のような意味らしい。

 ・09/07/16 飢えた目の男たち〜最後まで。▼辞書で「annihilation」を引くと、「(魂の)消滅」という語義があった。▼「ballad(e)」の動詞形は、大きな辞書を引いても載っていなかったのだけれど、普通に考えると「物語る」「唄う」といったところだろう。ということは「she was balladed」「(クロリンダが)物語り続けた」のではなく、「(クロリンダは)語り伝えられた」ということになる(はず)。

HOME  翻訳作品   コッパード目次  戻る  進む  TOP
New  リンク  翻訳連載blog  読書&映画日記  掲示板  仏和辞典