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ブラック・ドッグ

A・E・コッパード

訳者あとがき・作品について
著者略年譜・作品リスト

バレエ・ガール〜踊り子と少年〜


 ヒラリー学期最後の夜、シンプキンズは閉店十五分前に父の店を出て、聖セイヴィア・カレッジのジョン・エヴァンズ=アントロバス殿宛の手紙を手渡しに行った。シンプキンズは父のところで働いていた。預かった手紙の表書きには“重要”と明記されており、さらに“返信待ち”という指示には二重のアンダーラインが引かれていた。この世にしろ――(これほど気弱な坊やでも信じたことがあるのなら)あの世にしろ、父より偉い人がいるなんて思いも寄らなかったので、言われたとおりにして聖セイヴィアの門をくぐって守衛小屋を通り過ぎ、中庭を横切って小ホールに入ったところ、壁にはJ・エヴァンズ=アントロバスを含めて六人の名が整然と記されていた。木製の階段を二つ上がり、横木に“5.エヴァンズ=アントロバス”と刻まれた扉を叩くと、「どうぞ」と声がした。部屋の中には、夜会服を完璧に着こなした若者が三人いた。神に見放されたものなら天使の竪琴をうらやむように、シンプキンズもひそかに正装に憧れていた。いちばん派手な、片眼鏡モノクルをかけた長身の紳士が目的の人物だった。手渡された手紙には、十ポンドほどの貸しがどういうわけか四年のあいだ梨の礫であるので直ちに払うよう書かれていた。あからさまではないにしろ代案が記されているのが、このささやかな請求にも応じることができないと言われているようで気に障ったらしい。エヴァンズ=アントロバス氏はそれを読むなり「ふんっ!」と声を出した。実際のところはこうした控えめな罵りよりも単語の用法を遙かに拡大していたのであるが、手紙を読むよう求められた友人二人もそれぞれの言葉で声をあげた。

「バグショット&バッフル社に挨拶してくる!」モノクル氏が怒鳴り声をあげた。「明日の朝には会いに行くとも。ご苦労さま!」

 シンプキンズはバグショット&バッフル社に挨拶の必要はないことを説明した。会社の仕事はブーツを売って代金を受け取ることなのだ。二人はこの小僧を階段から突き落とそうと提案したが、窓から放り投げる方がいいから止めておけと説得されるだけに終わった。仕方がないのでシンプキンズは、学部長に面会して部屋で結果を待たざるを得ないということを穏やかに申し出た。はっきりさせておいたのは、何があろうともお金を受け取るまでは待ち続けるということである。すると三人は、自分たちがシンプキンズのことをどう思っているかを、程度の差はあれ非難の色を隠しもせずにそっくり伝えた。どこにいるのがお似合いか、立ち去らないとどこに行くことになるか。一言でいえば予言をぶちまけたのであるが、予言の常として死ぬほどの恐怖をもたらしたのであった。

「おまえ名前は? 何様だよ?」

「シンプキンズです」

 三人はこそこそと話し合っていたが、やがてエヴァンズ=アントロバスが言った。「よし、待つというのなら金を持ってきてやるよ。貸してもらえるはずだ、ファズから」

 ふたたびこそこそと話し合ったあとでほかの二人は、ぼくらは行った方がいいなと言って出ていった。

「ここで待ってな。すぐ戻る」

 だがシンプキンズは和らいだ態度に流されようとしなかった

「勝手にしろ! だったらついてこい。俺はファズに会いに行く」

 階段をさらに上って部屋をいくつか通り過ぎたところに、「F・A・ジーランダー」と書かれたドアがあった。中に入ると、ファズが暖炉の前に座って体を拭いているところだった。部屋着を膝に広げ、桃色の帯で格子柄のひざかけを縛って、エスキモーみたいにもこもこにくるまっていた。火は申し分ないが炉床は灰だらけだった。炉格子の先端にはおかしな顔をした鉄細工が象られており、目は閉じていたがぷっくりした頬は柔らかく輝いていた。ファズの目は閉じてはおらず曇った眼鏡に隠れていたし、頬はスポンジほどにも輝いていなかった。

「よう、ファズ。調子は?」

「だめだね、まったく変わらない。今年のインフルエンザは曲者だ。体力もベーコンみたいに薄っぺらときた」

「まあそれはいい。紹介する。こいつはシンプキンズだ――こっちはジーランダー」

 シンプキンズはあたふたとお辞儀して、あわててジーランダーの火照った力ない手を握った。ちょうどそのとき、わめきながら男が走ってきた。「エヴァンズ=アントロバス、学部長がすぐ来いとさ!」

「そいつぁたいへんだ」あわてた様子はなかった。「ちょっと行ってくらあ」

 彼が走り去ってしまったので、残されたシンプキンズは戸惑いながらジーランダーと向かい合うはめになった。ファズは赤々と燃える石炭をつついていた。「ちえっ! こんなに元気のない炭火なんて見たことあるかい?」

「悪くないと思うんですけど……。外はけっこう寒いですし」

 ジーランダーは曇った眼鏡ごしにシンプキンズを見つめた。「何もかも湿気ってびちょびちょなんだ。まるでクリーム・パイの中みたいだよ。まあいい。座りたまえ」いましも絞首刑にされる男が、もはやいんちきな人生の残りを曝さずにすむことにむしろ喜びを覚えているような、穏やかな口調だった。「下卑た話でも聞かせてくれよ」

 シンプキンズは肘掛椅子に腰を落としたまま黙っていた。

「もしかして下卑た話には興味がないのかな? ぼくは好きだな。俗悪万歳だ。これだけ元気の湧いてくるものはないぜ、間違いない――恥じることなき下品な部屋。神々しくも下品な、黄ばんだ豚皮で飾りつけた部屋。ちょっといいかい。スパナは持ってないだろうね? ベッドの調子が悪くてさ。前は羽毛が詰まってたんだけど、今ではまるで、丸い樽に寝そべってるみたいなんだ。スパナでどうにかしなきゃいけないんだけど。ぼくはスパナが苦手なんだ――あんなどこにでもあるものなのに。今にも噛みつきそうに口を開けてるのが怖いんだ。スパナは鉄製だろう。おかしな世界だね、スパナみたいなものがそこらじゅうにあるなんて」

 シンプキンズはおしゃべりの最中にこわごわと立ちあがり、何かできることがあるかどうかたずねた。目の前の人物に煙に巻かれ、笑わされ、感銘を受けていた。こんな人と会ったことなどなかったし、人と会うこと自体が少なかった。この人がちょっと気に入った。病人の両脇には錠剤と薬壜が置かれていた。

「体温を測るところなんだ」ファズが言った。「煙草か葉巻は喫うかい? マッチはわかるかな? よし。じゃあ薬を広げてもらえるかい? ここぞというときに元気をくれるのさ。サリチル酸ナトリウムの錠剤の壜があるだろう、もうすぐそいつを六粒飲まなきゃならない。それからキニーネのカプセル。ホルマリン。今しゃぶってるのが咳止めドロップだ――ひとつどう?――気分がよくなるよ、そしてあのげんなりする下剤だ。さあ広げて。わあ素晴らしいね、これぞ恵みじゃないか? よし体温をはかるぞ。三分間、スフィンクスみたいにぼけぇっとしてなきゃ、だからほら、話を聞かせてくれよ。体温計はどこだっけ? よし!」体温計を口に放り込んだが、ふたたび引き抜いた。「L・Gを知ってるかい? 面白いやつだよ。このあいだジェイコブセンの部屋にいて――ジェイコブセンはちょっとした美術鑑定家でさ、絵も描いてるんだけど、壁にかかってた絵の話をしたんだよ。そしたらL・Gが声をあげたんだ。『すっげえ婆ァだな! どこで手に入れたんだ?』ってさ。そういうばかなやつなんだ、L・Gってのは。ジェイコブセンは『おれの母親だよ』。L・Gは言い訳したさ。『ああ、違う。そういう意味じゃないんだ、ははは。このひどい代物のことを言ったんだって、いやほんとひでえ。下手くそな絵だよなあ』『おれが描いたんだ!』L・Gを知らないんだ? ほんと面白いよ。何を聞かせてくれるんだい? もう体温を計らなくちゃね。昨日は九十度ちょいだった。そうじゃないといいな。うんざりなんだよね、はっきりしなくて」

 ファズは腰を下ろしたまま体温計を口に入れた。計り終えてしげしげと眺めたあとで、悲しげにテーブルに戻した。そうしておいてげんなりしながら訪問者に話しかけた。

「すまないけど、名前はなんだっけ」

「シンプキンズです」

「シンプキンズか!」曖昧に音を伸ばしてファズは繰り返した。「悪いね、あまり好きな名前じゃないよ、こぢんまりして聞こえる。なにやってるの?」

「なにもするつもりはないです」

「いや違う、何の授業を取ってるんだい?」

「あの、授業はありません」

 ファズは困惑したようだ。「どこのカレッジ?」

「そうじゃなくて……エヴァンズ=アントロバスさんに手紙を届けに来たんです。返事を待っているところ」

「どこから来たのかな?」

「バグショット&バッフル社です」それから小さくつけ加えた。「オーダーメイドの靴屋なんですけど」

「ふむ。靴を作るにしちゃあずいぶん若いじゃないか。不可知論者かい? 葉巻は? 喫うべきだよ、いい気持になるぜ、きみの仕事のことが知りたいな。でもまずはこの部屋にいる理由を聞かせてくれたまえ」

 シンプキンズはできるかぎり説明した。

「そりゃあ愉快だ、面白い。といっても手に余るな。すまないが銀行に預けたって思ってもらうしかなさそうだね、しかも交渉の余地は無しだ、残念だがそうだよ。だけどエヴァンズ=アントロバスのことを学部長に告げ口するのはよくない、いいかい、絶対に駄目だ。それより、どうしてオーダーメイドの靴を作ってるんだい? 陳列が趣味とは変わってるね。大学に入る気はないの?、例えば――ん――人類学の研究とか――人類学上の靴なんてのはなしだぜ」

「無理です」シンプキンズは居心地悪そうに椅子の中で身体を動かした。「ぼくにはできません」

 ファズが見据えたが、シンプキンズは繰り返した。「ぼくにはできません。決まってます」

「それはみっともないぞ。だけど愉快だ、面白い。ブーツのことを勉強したいと言っているわけだ――ブック知恵ブレインのことよりも!」

「靴作りは靴型に始まり靴型に終わるんです」シンプキンズは父の言葉を思い出して答えた。

「ブラーヴォ! だが永遠に靴型じゃあないだろう!」

「本のこととかは何も知らないし……知りたいこともないし、役にも立たないと思います。いろいろ詰め込んでも仕方がないし、靴のことをたくさん勉強しなくちゃ――びっくりされてますね。部屋に閉じこもっていても深みからは抜け出せないし――ひとつのことに打ち込んでいても、深みからは抜け出せないんです」

「腰に救命ベルトを巻きつけたまま眠らずにいるのかい? ぼくは深みにはまってはいないさ。たとえ靴を作ってみてもね……」

「ほんとうですか?」

「暇つぶし程度にはなるだろうな。たかが仕事が大仕事だ。仕事なんて人生においてはまやかしみたいなものさ」

「人生の方こそまやかしじゃないんですか。仕事にかまけていれば、仕事の方でかまってくれる」

「いったいぼくらは何のためにこの世にいるのかな、シンプキンズ? したいことをするためじゃないのかい? 靴、靴、靴。外で遊んだことは? ――劇場――女の子――スポーツ――それともしゃべるのは靴のこと、全部靴、何もかも靴だけなのかい?」

「遊びに行ったことなんてありません。劇場なんて。部屋に閉じこもっていた方が――安心です。あなただって深みからは抜け出せない。フットボールの試合は見に行ったことがあるけれど、選手の靴を作るために、どんな靴を履いているのか知りたかったからです。働いていても困らないし、何にも困ることなんかありません。それにお金も貯まりました」

「まいった、シンプキンズ、とてつもない信念を持ってるなあ。もっと聴いていられるのならぜひ弟子にしてほしいところだ。きみなら柔らかくて履き心地のよい、防水で長持ちするブーツを作れるだろうね、お互いが信じる道で成功しようじゃないか。語りたまえ、シンプキンズ。きみの話は耳の肥やしだ――両耳ともに」

「ごめんなさい、でもわかりづらかったみたいですね。ぼくは遊びに行きたくはないんです。いまのままがいい」

「それはそうさ、まったくそおとおり。ここは午後のお茶と家庭教師、その他がらくたであふれている。何もかもが請求書で成り立っている町なんだ。まったくそのとおりだよ、たとえ深みで溺れていなかったところで、耳まで浸かっているのさ――ぼくはね。面白いよ」

 そのままシンプキンズは部屋をあとにした。階段を下りてエヴァンズ=アントロバスの部屋に入って明かりをつけた。とても静かで温かく、お洒落なソファ、趣味のいいすみれ色の傘をかぶった電気スタンド、ウィスキーのデカンター、チョコレート・ビスケットの箱、蓄音機が置いてあった。暖炉のそばに座ってずっと待ち続けた。あまり長く待っていたものだからだんだんと部屋に馴染んできて、ウィスキーとビスケットを一口いただいたりもした。それからエヴァンズ=アントロバスのいんちきに対する軽蔑心と、一人で何でもやれるんだというところを見せるためウィスキーをさらにいただいた――いままで味わったことのないお酒だった――ぐびぐびと飲み干した。暖炉に薪をくべ、ポケットに手を入れて部屋をのし歩き、本棚を覗いてみたが、ほとんどは法律学かなにかの本だった。シンプキンズは本が好きだったので、本文を読み始めた。


 カレイ科の魚が平たく非対称な体構造によって生態系に見事に適応していることは、身近な存在であるシタビラメやヒラメなどから明らかである。


 科学はあまり好きではなかったので、別の本を開いた。


 この仮説に従って紫光の場合を仮定してみても、一秒間に831,479,000,000,000回も網膜に当たるほど素早く動けるものなどやはり想像しがたい。


 シンプキンズはスタンドを見て瞬きした。傘が紫色だったのだ。やはり科学は好きではないし、頭がぐらぐらしたような気がしたので本を置きたかったが、さらにページをめくった。


 スノードンはイングランドとウェールズでは最も高い山である。スノードンはベン=ネヴィスほど高くはない。ゆえにイングランドとウェールズで最も高い山は、ベン=ネヴィスほど高くはない。


「わけがわからない!」シンプキンズはつぶやいた。


 水は温かいか温かくないかのどちらかであるが、それは温かいか冷たいかであるということではない。


 眩暈がした。本を降ろし、ふらふらとソファまで歩いた。部屋がぐるぐると回り出し、空高く飛ぶ飛行機のように頭の中で何かがうなり始めた。早く部屋から出て、水を飲んだ方がいい。冷たい温かいの――どっちでもいい! 帽子に手をやりコートに突っ込むと、ドアに向かった。ドアの向こうの寝室はこの部屋に比べるとなんにもなかったが、シンプキンズは転がり込んだ。ドアが後ろで閉まり、自分の中で何かが分裂したりなくなったりしたような不思議な感覚に襲われて、暗闇の中ベッドに倒れ込んだ。

 しばらくしてから目が覚めた――だいぶ経っているみたいだ――すっかり気分はよくなっていた。自分がどこにいるのか思い出せない。見慣れない場所にいて真っ暗だった。だがすぐそばで大騒ぎしているのが聞こえた――隣の部屋の蓄音機、コーラス、ダンス。女の声もする。この部屋にいてはいけなかったことをようやく思い出した。これでは犯罪じゃないか。泥棒か何かと間違われるかもしれない! ベッドから滑り降りて暗い中を手探りして帽子を探し、暑くなってきたのでコートのボタンを外すと、震えながらドアのそばに立ち、騒ぎに聞き耳を立ててじっとしていた。あそこに行くのは馬鹿げている! どうやって逃げればいい――いったいどうやって逃げればいいんだろう? 蓄音機が止まった。声がはっきり聞こえるようになった。静かに恐怖が忍び寄る。恐ろしいことに、そのうち誰かがここにやって来て、泥棒のようにこそこそしているのを見つけるだろう――逃げなきゃ、逃げなきゃ、絶対に逃げなきゃ。でもどうやって?

 また歌が始まった。男たちが「ルル! ルル!」と囃し立てている。女の声がチャーリーなりジョージなりに答えているのだろう。そのとき部屋のドアが大きくノックされた。中の騒ぎがすぐにやんだ。深閑。ささやき声も聞こえるほどだった。室内の人たちは驚いていた。不安そうに見つめ合っているのがわかるほどだった。女が驚いたように甲高い笑い声をあげた。「しーっ!」まわりが鎮めた。ふたたび大きなノックがはっきりと聞こえた。震える心臓が気絶しそうなほど跳ね上がる。あの人たちはどうしてドアを開けないのだろう?――開けろ! 開けるんだ! 部屋を歩き回る音がして、三度目にノックが繰り返されたとき鍵が開けられたのがわかった。

「ファズ! なんだファズかよ!」安心したような声が広がる。「このばか! さっさと入ってドアを閉めろよ!」

「驚いたな!」考え込むようなファズの大声がする。「こりゃ何だい?」

「やっほー、ロブ・ロイ! あたしよ」女の声がした。

「お会いできてよかった。こりゃあ愉快だ、面白い。ほんとによかったんだけどね、この馬鹿騒ぎがいつ終わるのか誰か教えてくれないかな。ぼくは具合が悪いんだよ、まるっきりわからないね、どっぷり深みにはまってるよ。きみらが騒がしくって参っちまった」

 すぐに何人かの声が言い訳した。「あの娘をさらってきたんだ――『サビーヌの掠奪』さ!――ボードビル劇場からね。ちょっとしたお祭りだったのさ、すばらしい――係員と裏方を捕まえて――舞台を乗っ取ったんだ――やっほう! 誰もが誰かを追いかけてて、おれらはルルを追いかけたんだ――やっほう!」

「静かにしてくれないか!」ファズが叫んだ。

「俺が話すよ!」エヴァンズ=アントロバスの大声が聞こえた。「起こったのはこうだ。みんなが舞台の外までヴィクトリア八姉妹を追っかけた。俺らはルルを見つけたんだ――ヴィクトリア姉妹の一人さ――舞台口の通路に釘づけになってた。ちょうど通りまで逃げてきたところだったんだ――かわいいだろ? そこにタクシーがいて、ルルは賢いから、飛び乗ったんだ――だからおれらも飛び乗った。(やっほう! やっほう!) 『どちらまで?』とドライバーに聞かれたから、『セイヴィア・カレッジまで』と答え、そしてここにいるわけだ――ルル!――ルルのことはどう思う?」

「魅力的だね、すこぶる魅力的だ。委細はわかったよ。だがどうやってカレッジに連れ込んだんだ?」

「ぼくのコートを着せたんだ」一人が説明した。

「で、おれが帽子を」別の声。

「そうして門番を騙したってわけさ」三人目の声がした。たくさんの声が楽しそうに説明を始めた。ルルは抵抗しなかったし、楽しんでたんだ。悪戯だよ!

「すごいね! 面白い!」ファズも認めた。「だけどどうにかしてカレッジから連れ出してくれないか。ぼくの理解力はサタンの良心並なんだ――もう夜も遅すぎるだろう?」

 暗闇の中のシンプキンズに、誰かが階段を駆け上がってきてドアを閉めたのが聞こえた。喘ぎ声が騒ぎをたしなめた。「解散だ、解散! 警官が来た、守衛小屋で学生監とタクシードライバーと一緒だ!」

 エヴァンズ=アントロバスがうなり声をあげた。「くそっ、どうする? すぐにルルを連れ出さないと――塀を越えるんだ、今すぐ、急げ! ジョンストン、早くロープを探してこいよ、急げ、ロープだ」

 ファズが口を開いた。「ばかげて見え始めたな。ずいぶんと具合が悪くなったよ――だがばかを責めるわけにはいかないだろう? ぼくは具合が悪い。とっととベッドに行くよ、ここにいるとどっぷり深みにはまっている気分だ。そういえばきみの友人のシンプキンズ、面白い子だったな! 楽しかったよ!」

 ルルとエヴァンズ=アントロバスのほかは部屋から逃げ出したようだった。エヴァンズ=アントロバスは明らかに動揺していて機嫌が悪かった。大声で喚きながら部屋をどしどしと歩き回っている。「ああちくしょう、急げよ。俺があの女と何の関係があるんだよ、あの豚! 急げよ!」

「豚って誰のこと? すぐに出てくわよ」ルルの声が高まり、ドアの方に向かったのがわかった。

「行っちゃいけない。やめろ、駄目だ。ばかなことはするな、ルル! 騒ぎを起こしたくないだろ?」

「あんたといっしょにここにいる気はないの! それはごめん。行くからね」

「行っちゃいけない、今は出て行けないんだ。考えるから待ってろ! 考えるまで待てないのかよ! 何か着てろ、俺のコートがいい。しっかりくるまれよ。俺は終わりだ、ちくしょう! なんでここに来たんだよ……!」

「誰がここに連れてきたのさ、アンティバスさん? そっか、あんたのことはわかってるんだから。代理人だか誰だかあんたが嫌がる人に言っちゃおうかなあ! 行くからね。あんたと二人でここにいる気はないの!」ひどい取っ組み合いの音が聞こえた。シンプキンズはもう我慢できなかった。ドアをばたんと開いて部屋に飛び込こむと、手近にあったサイフォンを武器代わりにつかみ上げた。それを見て二人ともそれぞれ驚いた様子で立っていた。

「さあこい!」シンプキンズは震えながらも精一杯の威厳を込めて命令した。誰一人口を利かなかったので、嘲るように繰り返した。「さあこい!」

 ルルが強く息を吐いた。両手は胸に置かれていた。サイフォンを落っことしそうな男の子を見て、びっくりしたような顔をしている。シンプキンズは両手でサイフォンを身体に押しつけて抱えながら、少女を見つめ続けていた。少女は桜色のタイツを履いていた――すみれ色のランプ・シェードから洩れる強い光でシルクがきらきらと輝いている――カーネーションのように広がる白いモスリンのスカートに、薔薇色の胴衣。小柄で、こぢんまりとした野薔薇のような顔をしていた。けれど壊れやすい花のような美しい外見とはうらはらに、芯は強そうに思えた。暗めの金髪が、ピンやリボンで留めずにお洒落に垂れており、首のあたりで切りそろえられた巻毛が、白い肌をこするようにカールされていた。まっすぐな前髪が子どもらしさの残る額の上できれいに梳かれている。灰色だったのは驚きの浮かんだ目、大きいのは尖らせた口。素肌の腕は――見つめていられないほどに魅力的だった。少女は立ったまま片手を腰に当て、もう片方を頬に当て、シンプキンズを見つめていた。それから嬉しそうに飛び跳ねながら近づいてくると、サイフォンを取り上げた。

「よし」エヴァンズ=アントロバスがルルに言った――落ち着きを取り戻しており、シンプキンズの突然の出現に驚いた様子はなかった。「ちょうといいサイズじゃないか、こいつの服を着るんだ、早くしろ、あとは簡単だ」

「いやよ」

「ぼくだっていやだ」シンプキンズも荒々しく――と言っていいほど強く答えた。

 ちょうどそのときドアが音を立ててわずかに開くと、ロープが投げ入れられた。持ってきた人物はあっという間に階下に舞い戻った。

「おい、待てよ!」エヴァンズ=アントロバスがドアに駆け寄ったが、誰もいなかったし答えもなかったので、部屋に戻ってロープを拾い上げた。

「そのコートを着ろよ」とルルに命じた。「その帽子も。よしいいか、何もしゃべるな、笑うのもなしだ、さもなきゃおれらは終わりだ、てめえの首をねじ切った方がましだよ!」

「やってみたらどうです?」シンプキンズが少なからぬ憎しみを込めて鼻を鳴らした。

「ええ、やってごらんなさい!」ルルも繰り返したが、そう言いながらも身体は階段を下りる男を追っていた。少女が振り返って手招きすると、シンプキンズも後に続いた。暗い中庭を横切り、真っ暗な通路を通り抜け、別の中庭、別の通路を抜けて、薄暗い礼拝堂の裏庭で立ち止まった。エヴァンズ=アントロバスがマッチをすると、空き箱や空き瓶などのごみが十フィート近い塀の下に積み上げられているのが見えた。

「おまえが最初だ、しゃべるなよ」エヴァンズ=アントロバスがシンプキンズにうなった。誰一人しゃべるものはいなかった。夜の闇は深く、星の輝きはかすみ、空気は靄がかって冷たかった。シンプキンズは助けを借りながら不安定な箱に上り、高い塀に足を踏ん張った。ロープもひっかけられ、大きな身体がふたたび地面に飛び降りると、それに体重を預けながらシンプキンズは反対側に滑り降りた。そこは細い路地で、外れに薄暗い街灯があるものの、滑り降りた場所までは光が届いていなかった。まわりには陰気な知識の塔が不気味に迫っていた。ロープの端を握ったまま立ちあがって星を見上げた――わずかに見える。塀はこちら側から見るといっそう高く、山のように見えたせいで、ベン=ネヴィスのことを思い出した。これは(深みにはまりこんで)理解できないことだった。よければ、まったく理解できないことだったと言ってもいい。よくわからないが間違っていたのだ、いずれにせよ正しいとも言えなかった。正しいわけがない。あんなおかしな人たちとは二度と関わり合いになるつもりはなかった。何の得にもならなかったし、お金すら払ってもらえなかった――それもすっかり忘れていた。頭痛のほかに何一つ得たものはなかったのだ。

 ロープがぴんと張った。ルルが塀にまたがり、向こう側の男と言い合っている。

「あんたの腐れコートでも取っときな!」少女はコートを脱ぎ捨てて塀から放り投げた。「このクソ帽子も!」それも放り投げると、暗闇に向かって唾を吐いた。こちらを振り向いてささやいた。「いま行くから」塀から這い降りてシンプキンズの腕に滑り込んだ。少年はいつのまにか少女を腕にしっかりと抱きしめていた。柔らかさと芳香に満ちた少女を離すことが出来なかった。少女はほとんど何も身につけておらず――離すことが出来なかった。あまりにも素敵で美しかった。白い顔の輝きが暗闇の中で壊れそうなほどに謎めいていた。少女が首に腕をまわした。

「ねえ――大好きよ」


A. E. Coppard ‘The Ballet Girl’〜from “The Black Dog”(1923)〜の全訳です。


Ver.01 06/10/10

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訳者あとがき] → 「作品リスト&作家紹介はこちら

 いくつかのコッパード作品には、コッパード自身の自伝的要素が多かれ少なかれ含まれているようです。たとえば「さくらんぼの木」に登場するジョニー・フリンの名は他の作品にも見え、コッパード自身を思わせます。本篇に出てくる、学校に行かず父の店を手伝うシンプキンズにも、学校をやめて働いていたコッパード自身の境遇を重ねることは可能でしょう。(もっともコッパードが学校をやめたのは、病気が原因ということになっているようですが)。

 コッパードの宗教観とか人生観というのは独特のものがあって、それをメインにした作品も多数書かれています(ちょっと読むのがしんどいですが)。本篇にも、なかなか一筋縄ではいかない人生観が顔を出しますが、そんなものをふっとばしてしまうくらいに強烈なのが変人ファズのキャラクターです。この奇天烈な人物を登場させることで、シリアスな人生談義をユーモアでくるむことに成功しています。コッパード作品に登場する変り者たちのなかでも、ひときわ忘れがたい人物でした。

 そしてまた、恋愛譚としても独特なのが、ルルという踊り子です。天真爛漫というか開けっぴろげというか、この無邪気にわがままな魅力には、マリリン・モンローを連想しました。初恋で、相手がモンローじゃ、うまくいかないだろうな、とは思いますが。ちょっといい話です。

 コッパード自身にとっても、きっと本と世間が先生だったのでしょう。

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