この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照(あずま てる)
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第十一章 主人と小間使い

 部屋に戻ったニコルは、落ち着いているとは断じて言えなかった。出したかった手管はすっかり出し切ったし、毅然たる姿勢もしっかり見せてやったと思ったところで、危険な女と思わせたりスれた女のふりをしたりするに足る虚勢などわずかしか持ち合わせていなかった。ニコルという人間に備わっているのは、生まれながらに桁外れな想像力であり、悪書を読んで植えつけられた歪んだ智性(esprit)であった。この智性と想像力が二つながらに、猛々しい気性に弾みをつけた。だがニコルは冷たい人間ではなかった。ニコルを司っている自尊心がいくら強くても、時には涙を止められようが、止めたところで結局は、力ずくで押し返した涙も逆流し、溶けた鉛のように腐蝕して心に降り注いでいたのだ。

 たった一つだけ浮かんでいた表情こそ、ニコルにとっては嘘偽りない本心だった。満面に浮かべた冷笑こそが、ジルベールの最初の侮辱に対する応えだった。その蔑んだ笑いを見るだけで、心に傷を負っているのがありありとわかった。確かにニコルには道徳心もなければ信念もない。だがそれまではジルベールの言い訳(sa défaite)に何らかの意味を見出して来たし、身を委ねている最中には、すべてを捧げるように、贈り物を捧げていたのだと信じていた。だが冷淡で傲慢なジルベールを見て目が覚めた。ニコルはたった今、過ちの報いを手ひどく受け、罰として激しい苦痛を感じたばかりだった。だがニコルは鞭打たれながら立ち上がり、心に誓った。倍返しとは言わぬ、せめて受けた苦痛のわずかなりとも、この借りは返してくれよう。

 ニコルは若く、気丈で、野性の生命力に溢れ、あの忘れるという能力に恵まれていた。愛してくれる者を支配することしか考えていないような人間にとっては、なくてはならない能力であった。それゆえにニコルは、十七歳の心臓に巣食っていた悪魔たちと復讐の算段を語らい合った後で、健やかに眠ることが出来た。

 だいたい、むしろタヴェルネ嬢の方こそジルベールよりも罪が重いのではないか。偏見に凝り固まり、自惚れで膨れ上がった貴族の小娘ときたら、ナンシーの修道院では大公女には三人称を用い、公爵夫人には敬称を、侯爵夫人には馴れ馴れしく、それ以下には口も聞かずにいた。見た目は彫像のように冷たいくせして、大理石の殻を一皮むけば人間らしい血が通っているらしい。その彫像が、ジルベールのような田舎のピグマリオン相手にガラテアを気取っているのだから、滑稽でさもしい限りだ。

 現にニコルは持って生まれた女らしい絶妙の感覚を発揮して、ただ一つ智性こそジルベールに劣っているものの、ほかの面では凌いでいると自負していた。五、六年にわたる読書によって積み上げられた智性という後光なくしては、落魄男爵家の小間使いたるニコルが百姓に身を任せることなど堕落にもほどがあるではないか。

 だとすると、お嬢様がジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、いったい何があったというのか?

 考えてみると、見たというより見たと思っているものを男爵に告げるのは、大きな間違いだろう。第一に、男爵の性格からして、そんなことは笑い飛ばして、ジルベールに平手打ちを喰らわして追っ払うに違いない。第二に、ジルベールの性格からして、さもしく卑劣な復讐を思いつくに違いない。

 だがジルベールをアンドレのことで苦しめたり、二人を手の内にしておいたり、小間使いに見つめられた二人が青くなったり赤くなったりするのを目にしたり、二人の支配者となって、ジルベールが口づけしていた手が冷たかったのはうわべだけだった時期を懐かしく思わせたりしたら。そうしたら想像力もみたされ、自尊心も暖められた。そうしたら実際に優位に立った気になれた。そうしたら心が決まった。やがてニコルは眠りに就いた。

 夜が明けてから目が覚めてみると、清々しく軽やかで気分がいい。いつもどおりの時間をかけて身だしなみを整えた。つまり一時間かけたのである。それでも、長い髪を梳かすだけでも、もっと手間取ったりもっと念入りにしたりすれば二倍の時間がかかるはずだ。前章で記した錫張りの天窓を鏡代わりに、瞳を覗き込んだ。これまでにも増してぐっと魅力的ではないだろうか。続いて口許を確認した。口唇は色合いといい丸みといいさくらんぼのようだし、影を落とした鼻筋はすっきりとして軽く上を向いている。太陽の口づけを決して許さずにおいた首筋は百合のように白かったし、これだけ豊かな胸、これだけくびれた腰などお目にかかれまい。

 これだけ綺麗なら、アンドレに嫉妬させることだって容易いだろう。そう考えたからと言って、ニコルが根っからの性悪かというと、そんなことはない。浮ついた話や絵空事を思い描いてなどいなかったし、こんな思いに駆られたのも、タヴェルネ嬢がジルベールを愛しているかもしれないと考えるあまりのことだ。

 とまれニコルは肉体的にも精神的にも武装を整え、アンドレの部屋の扉を開けた。七時になっても起きていない場合には入ってもよいと言われている。

 だが部屋に入るとすぐに立ち止まった。

 アンドレは真っ青だった。額に浮かぶ汗には髪がまとわりつき、寝台に横たわったまま息も絶え絶えに、寝苦しいのか時折り辛そうに身をよじっていた。

 シーツは二枚とも丸まってしわくちゃになり、着替えていないままの身体が剥き出しにされ、寝乱れの激しさを物語っていた。片頬を腕に預け、空いている方の手でしがみついた胸には痣が出来ている。

 息も切れ切れに苦しげな喘ぎを洩らしたかと思えば、聞き取れぬほどの呻きを発した。

 ニコルは無言でしばし見つめてから、首を横に振った。認めざるを得ない。アンドレの美しさには太刀打ち出来ようはずもなかった。

 窓まで行って鎧戸を開けた。

 溢れる光がすぐに部屋中を満たし、アンドレの紫ばんだ瞼を震わせた。

 アンドレが目を覚まし、起き上がろうとして、ひどく疲れていることに気づくと同時に激しい痛みに襲われ、悲鳴をあげて枕に倒れ伏した。

「お嬢様! どうなさいました?」

「寝坊した?」アンドレが目を擦ってたずねた。

「だいぶお寝坊でしたよ。いつもより一時間も多くお寝みでした」

「どうしたのかしらね」アンドレは辺りを見回し、自分が何処にいるのか確かめようとした。「何だか身体が痛いわ。胸が苦しい」

 ニコルはアンドレをじっと見つめてから答えた。

「風邪ですよ。昨夜ゆうべお引きになったのでしょう」

「昨夜? ちょっと!」自分のだらしない恰好を見て、驚いて声をあげた。「どうして服を脱いでないの? 何故こんなことを?」

「覚えておいででしょう?」

「何にも覚えてなどないわ」アンドレは頭を抱えた。「何が起こったのかしら? 頭がどうかしてしまったの?」

 身体を起こすと困惑顔で再び周りに目を向けた。

 何とか気持を奮い立たせる。

「そうね。覚えています。昨日は、ひどく疲れていたし、ひどく怠くて………嵐のせいね。それから……」

 ニコルは寝台を指さした。アンドレこそだらしない恰好をしていたが、寝台にはしわくちゃながらもシーツが掛けられている。

 アンドレはじっとしたまま、妙な目つきで自分を見つめていた旅人のことを考えていた。

「それから……?」先を促すようにニコルがたずねた。「覚えておいでなんじゃありませんか」

「それから、チェンバロに腰掛けたまま眠ってしまったわ。その後のことは、何にも覚えてない。きっとまどろみながら部屋に戻って、床に就いたときには服を脱ぐ気力もなかったのでしょう」

「お呼び下さるべきでした」ニコルは猫撫で声を出した。「あたしはお嬢様の小間使いではございませんか?」

「そんなこと思いもしなかったわ。もしかするとそんな気力すらなかったのでしょうね」アンドレは何処までも含みなく答えた。

 ――この女狐!とニコルが呟いた。

「ですけどそうなると随分と遅い時刻までチェンバロの前にいらっしったことになりませんか。だってあたし、お嬢様がまだ部屋にお戻りにならない時分に、物音が聞こえたので階下に降りたんですよ」

 ここでニコルとしては口を閉じ、アンドレが尻尾を出すなり朱に染まるなり何らかの反応を見せるだろうと見込んでいた。が、アンドレに動揺は見えないし、曇りのない表情を見ていると、さては鏡のように、曇りのない魂を映しているのかと思えてくる。

「階下に降りたんですよ……」ニコルが繰り返した。

「ええ」

「そうしたら、お嬢様はチェンバロの前にはいらっしゃいませんでした」

 アンドレが顔を上げた。が、その澄んだ瞳をいくら覗いてみたところで、そこに驚き以外の感情を見つけるのは不可能だった。

「おかしな話だこと!」

「そうでしょうか」

「応接室にいなかっただなんて。何処にも行きはしませんでしたよ」

「それは失礼をいたしました」

「では何処にいたのかしら?」

「お嬢様の方がよくご存じのはずですよ」とニコルは肩をすくめてみせた。

「きっと勘違いよ」アンドレは一層優しい声を出した。「わたくしは椅子から離れませんでした。とても寒くて身体が怠く、歩くのに骨が折れたことだけは辛うじて覚えてるわ」

「あら!」吹き出してしまった。「でもあたしが見たときは普通に歩いてらっしゃいましたよ」

「見た?」

「この目ではっきりと」

「だけど、応接室にはいなかったと聞いたばかりよ」

「お見かけしたのは応接室ではございません」

「では何処で?」

「玄関(vestibule)です。階段のそばで」

「そんなところに?」

「お嬢様ご本人でした。お嬢様のことを見間違えたりはしないと思いますから」と言い条、無心を装った笑顔を見せた。

「でも間違いなく、応接室からは一歩も動いていないわ」アンドレが記憶を探ったのは演技でも何でもない。

「こちらも間違いなく、お嬢様は玄関においででした。もちろん――」ニコルはひときわ慎重に言葉を続けた。「お庭の散歩からお戻りになったんだと思ったんです。嵐の後で、いい夜でしたでしょうから。夜の散歩っていいですものね。空気はひんやりとしているし、花はぐんと香しいし。そうじゃありません?」

「でもわたくしが夜中の散歩を避けているのは知っているでしょう」アンドレが微笑んだ。「とっても臆病なんですから!」

「散歩は二人でも出来ますよ。それなら怖くないでしょう」

「では誰と散歩したらいいかしら?」小間使いの質問の一つ一つが訊問なのだということに、気づいた素振りもない。

 さらに問いただすべきかどうか、ニコルには判断がつかなかった。アンドレの落ち着きぶりを見ていると、嘘に満ちているようにも思えたし、怖くなっても来た。

 どうやら攻め方を変えた方がいい。

「苦しいと仰いましたよね?」

「ええ、ひどく苦しいの。怠くて力が入らないのだけれど、心当たりはないし。昨夜はいつも通りのことしかしていないのに。病気になったのかしら!」

「あらお嬢様、誰だって時には悲しくなるものですよ!」

「それがどうしたの?」

「悲しい時って身体から力が抜けてしまうでしょう。あたしもそうでした」

「あら、何が悲しかったの、ニコル?」

 人の気も知らない無頓着な言葉を耳にして、ニコルも遂に禁忌に手を触れる覚悟を決めた。

「当たり前じゃないですか」と目を伏せ、「悲しいに決まってるでしょ」

 アンドレは知らん顔で寝台を降りて、服を脱いで着替え始めた。

「聞かせてちょうだい」

「実はここに来たのもそれをお伝えするためなんです……」ニコルは言い淀んだ。

「何の話? どうしたの? ずいぶん落ち着きがないみたいよ!」

「落ち着きなく見えるのは、お嬢様がお疲れのように見えるのと同じ理由です。あたしたち、きっと二人とも苦しんでるです」

 この『私たち』が気にくわなかったらしく、アンドレは額に皺を寄せて声をあげた。

「何ですって!」

 だがニコルはその声を聞いてもさほど驚きを見せなかった。その声の響きから、どうもおかしいと感じはしたのだが。

「お許しいただきましたので、お話しいたします」

「お願い」

「あたし、結婚するつもりでした」

「え?……そんなことを考えてたの? まだ十七でしょう?」

「お嬢様はまだ十六でございます」

「それが?」

「それが!? お嬢様はまだ十六ですけど、ご結婚を夢見たりなさらないんですか?」

「いったい何が言いたいの?」

 ニコルは口を開いて罵声を浴びせようとしたが、アンドレのことはよくわかっていたし、罵声を浴びせてしまえば話も終わってしまうことはわかっていた。それにまだ話はほとんど進んでいないのだ。そこで作戦を変更した。

「ええとですね、あたしにはお嬢様が何を考えているのかはわかりません。ただの田舎娘ですから、自然の通りなんです」

「おかしな表現ね」

「どこがです? 好きになったり好かれたりするのが不自然ですか?」

「それならわかるわ。それで?」

「好きな人がいるんです」

「その人もお前のこと好きなの?」

「そう思います」

 疑いが大きくない以上、こうした場合には肯定しておくに限ると思い、ニコルは言い直した。

「というか、そうなんです」

「たいしたものね。タヴェルネで暇潰しをしている、という風に聞こえたけれど」

「将来のことを考えなくてはなりません。お嬢様は貴族でらっしゃいますし、どなたかご親戚の財産もおありになるかと思います。あたしは二親ともいませんし、必要なものは自分で見つけなくちゃならないんです」

 話を聞いてみればしごく単純なことに思えたので、ニコルの口調に棘が感じられたことも徐々に忘れてしまい、持って生まれた優しさが甦って来た。

「それで、相手は誰なの?」

「お嬢様もご存じの人ですよ」と、ニコルは美しい双眸でアンドレの瞳を真っ直ぐ射抜いた。

「わたくしが?」

「絶対ご存じです」

「誰かしら? 焦らさないで」

「お嬢様のご機嫌を損ねないかと思いまして」

「わたくしの?」

「ええ」

「ということは自分でも良くない相手だと感じているのでしょう?」

「そうは言ってません」

「だったら思い切って仰い。よく働く使用人のことを知りたいと思うのは主人の務めです。実際お前はよく働いてくれてるわ」

「ありがとうございます」

「だったら早く仰い。それから服の紐を留めて頂戴」

 ニコルは腹に力を込めて神経を集中させた。

「わかりました! 相手は……ジルベールです」

 ニコルの予想とは裏腹に、アンドレは表情一つ変えなかった。

「ジルベール、あのジルベール、乳母の子の?」

「そうでございます」

「そうだったの! あの子と結婚したいのね?」

「はいお嬢様」

「向こうも愛してるのね?」

 ここが正念場だ。

「いつもそう言ってくれます」

「なら結婚なさいな」アンドレは至って落ち着いていた。「何の障碍もないのじゃないかしら。お前のご両親はもういないし、ジルベールはみなしごだし。決めるのは自分たちでしょう」

「そうかもしれませんが」とニコルは口ごもった。予想とはあまりにも異なる展開を目の当たりにして戸惑っていた。「そのう、よいのですか……?」

「当たり前でしょう。二人ともまだ若いのが気にかかるけど」

「二人して年を取っていきますから」

「二人とも財産がないのでしょうし」

「働きます」

「何をして働くの? あの人、何も出来ないじゃないの」

 この一言にいよいよニコルはかちんと来た。隠しておくのも嫌になった。

「お嬢様がジルベールを悪く言ってたと伝えても構わないんですか?」

「何を今さら! その通りに言ったまでです。あれは怠け者でしょう」

「暇さえあれば本を読んでますし、何かと言えば智識を身につけているんですよ」

「横着なだけよ」

「お嬢様に尽くしてるじゃないですか」

「何をしてくれたのかしら?」

「ようくご存じのはずです。夜食に鳥を撃つよう命じたのはお嬢様なんですから」

「わたくしが?」

「鳥を探しに何十里も歩くこともあるんですよ」

「悪いけどそんなこと気にしたこともなかったわ」

「鳥のことをですか?」ニコルが鼻で笑った。

 いつもと同じ精神状態であれば、アンドレはこの冗談に笑ったであろうし、小間使いの皮肉に漲っていた悪意にも気づかなかっただろう。だがアンドレの神経は、弾き過ぎた楽器の弦のようにぶるぶると震えていた。その震えは意思や身体の動きよりも素早かった。わずかな心の乱れにすら抗うことは難しかった――現代の我々であれば、これを『神経に障った』と表現したであろう。酸っぱい果物を口に入れたりざらざらしたものに触れたりしたときに起こるあの不愉快な震えを想起させる、言語学の成果たる実に的確な表現である。

「その皮肉はどういう意味?」アンドレもようやく正気に返り、初めのうちこそ怠くて働いていなかった洞察力をやっとのことで取り戻した。

「皮肉ではありません。皮肉は貴婦人のご専門ですから。あたしは田舎娘、言葉どおりの意味しかありません」

「どういうことなの? 仰いなさい!」

「お嬢様はジルベールを馬鹿にしています。あんなにお嬢様のことを考えているのに。そういうことです」

「召使いとしての義務を果たしているだけじゃありませんか。ほかには?」

「でもジルベールは召使いじゃありません。お給金を貰ってませんから」

「昔使っていた小作人の息子ね。食事も出して、部屋も与えて。代わりに何かしてくれた? 残念だけどあの人は泥棒よ。だけどいったい何が言いたいの? どうして非難させまいとしてそこまでかばいたいのかわからないわ」

「あら! お嬢様がジルベールを非難してるわけじゃないことくらい存じておりますよ」ニコルは棘のある笑みを見せた。

「またわからないことを言いだしたわね」

「お嬢様がわかろうとなさらないからです」

「いい加減にして頂戴。今すぐ言いたいことを説明なさい」

「あたしの言いたいことなんて、お嬢様の方がようくご存じでらっしゃいます」

「いいえ、知らないわ。見当もつかない。謎々を解く暇なんてないもの。結婚の了解を得に来たのではなかったの?」

「そうなんです。ジルベールがあたしを愛しているからといって、妬んだりしないで欲しいんです」

「ジルベールがあなたを愛してようといまいと、わたくしに何の関係があるのかしら? 本当にもうたくさんよ」

 ニコルは蹴爪を立てた若鶏のように、小さな足を上げて飛び上がった。溜まりに溜まった怒りがついに爆発したのだ。

「てことは、とっくに同じことをジルベールに仰ったんでしょうね」

「わたくしがジルベールに? もう勘辨して頂戴。馬鹿げてるわ」

「話してないとか口を利くのをやめたとか言っても、そんなに前のことだとは思えませんけど」

 アンドレがニコルに近づき、軽蔑しきった眼差しを浴びせかけた。

「一時間も前からふざけたことばかり繰り返してます。早く済ませなさい。いいですね」

「でも……」ニコルの気持がぐらついた。

「わたくしがジルベールと親しくしていたと?」

「ええ、そうです」

 ずっと心を占めてはいたがとても信じがたい考えが、アンドレの胸に浮かび上がった。

「まさかこの子、嫉妬してるのかしら。ちょっとごめんなさい!」アンドレはけたたましく笑い出した。「安心して、ルゲ。ジルベールのことなんてそんな風に考えたこともないわ。目の色が何色なのかもわからないのだから」

 アンドレにとっては無礼というより狂気の沙汰ではあったが、すべて水に流すつもりだった。

 ニコルの思いは違った。侮辱されたと思っているのはニコルの方なのだから、許してもらうつもりなどなかった。

「そうでしょうね。夜中では見ようがありませんから」

「どういうこと?」わかりかけて来たが、まだ信じられない。

「ジルベールとは、昨日みたいに夜中に会っていたんでしょう。だったら顔の細かいところまでははっきりわかりませんもんね」

「いいですか。今すぐに説明なさい!」アンドレの顔は青ざめていた。

「そうしろと仰るなら」じっくり行くのはやめだ。「昨夜、見たんです……」

「お待ちなさい。階下で誰か呼んでいます」

 確かに花壇から声が聞こえる。

「アンドレ! アンドレ!」

「お父様ですよ。昨晩のお客様もご一緒です」

「下に行って、お断わりして来て頂戴。具合が悪くて、身体も怠いとお伝えして。戻って来たら、このおかしな議論を然るべく終わらせましょう」

「アンドレ!」再び男爵の声が響いた。「バルサモ殿がお前に朝の挨拶をしたいと仰っておる」

「行きなさい」アンドレは女王のように扉を指さした。

 ニコルは指示に従った。アンドレに命じられた人間なら誰でもするように、口答えもなく、眉一つ動かさず。

 だがニコルが出てゆくと、アンドレは奇妙な感覚に襲われた。姿を見せるつもりは露ほどもなかったのだが、抗いがたい比類のない力にでも捕まったかのように、ニコルが開けておいた窓の方へと引き寄せられて行った。

 見るとバルサモがアンドレを見据えたまま深々とお辞儀をした。

 アンドレは震えが止まらず、倒れてしまわぬように鎧戸にしがみついた。

「おはようございます」アンドレも挨拶を返した。

 その時になって姿を見せたニコルが、アンドレは会えない旨を男爵に言付けようとして、お嬢様の気まぐれにはついていけませんとばかりに大きく口を開けて呆れていた。

 途端にアンドレの身体中から力が抜け、椅子に崩れ落ちた。

 バルサモはそれをじっと見つめ続けていた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XI「Maîtresse et chambrière」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/13、連載第12回。


Ver.1 08/09/13
Ver.2 12/09/18
Ver.3 16/03/01
 


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[訳者あとがき]

・08/08/30 ▼ニコルが決意する場面、「tout le mal」とあるので「倍返し」では返す料が多すぎるのだが、「その苦痛をまるごとすべて」とか説明的な訳しか思いつけなかったので、敢えて「倍」にしてみた。▼「錫張りの天窓を鏡代わりに」と訳してみたが、ガラスに「錫メッキ」「銀張り」したら、窓というより鏡そのものになってしまうのではないだろうか。「verre étamé」というのがどういうものなのかわからないのである。というか「triangle de verre」で「天窓」の意味なので、窓ガラスをというより窓枠か何かをメッキしているということだろうか。▼次回更新は9月13日(土)ごろ予定。

・08/09/13 ▼第十一章終わり。次回更新は9月27日(土)ごろ予定。

[更新履歴]

・12/09/18 「だとすると、ジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、お嬢様はいったいどうするつもりなのだろうか?」→「だとすると、お嬢様がジルベールに身を任せたのが本当だとしたら、いったい何があったというのか?」

・12/09/18 「よろしいでしょうか?」→「それは失礼をいたしました」

・16/03/01 第二段落・第三段落・第四段落を全面的に訂正。

・16/03/01 「蹴爪を立てた若鶏のように」、「小さな足を蹴り上げた」→「小さな足を上げて飛び上がった」に変更。

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