フィリップ・ド・タヴェルネ、ド・メゾン=ルージュ士爵は、妹とはちっとも似ていなかった。とはいえ女らしい美女の兄に相応しく、男らしい美丈夫であった。事実、自信に満ちた穏やかな瞳、けちのつけようのない横顔、美しい手、女らしい足に均整の取れた体躯など、どこから見ても申し分のない騎士である。
この世から足蹴にされているのではないかと思われるような困窮の中にあって、優れた智性の持ち主であれば当然のように、フィリップは
フィリップが父と抱き合ったばかりのところに、歓喜のあまり催眠術から醒めたアンドレがやって来て、首っ玉にかじりついたことは既に述べた。
そうしている間にもすすり泣きが聞こえて来たことから、無垢な子供心にとってこの再会がいかに大切なものだったかがわかろう。
フィリップはアンドレと父の手を取り、水入らずで過ごすため応接室に向かった。
「ご不審ですね、父上。驚いているね、アンドレ」フィリップは二人を両脇に坐らせた。「ところがこれ以上ないほど本当のことなのです。あと少しすれば、王太子妃殿下がぼくらの侘住まいにいらっしゃいます」
「如何なることがあっても止めねばならんぞ!」男爵が声をあげた。「そんなことがあろうものなら、わしらは未来永劫に浮かばれん! 王太子妃殿下がフランス貴族の見本をご覧になるおつもりなら、お気の毒様じゃな。そもそも何の間違いでこの家をお選びになったのだ?」
「それが何もかも成り行きなのです」
「成り行きですって! 聞かせて下さらない?」
「ええ、成り行きです。主は我らが救世主にして父である。それを忘れている者たちでさえも主を讃えずにはいられぬような出来事でした」
男爵は口を曲げた。人類や万象を裁き給う至高の存在がわざわざ自分に目を向け首を突っ込むとは思えなかったのだ。
アンドレはと言えば有頂天のフィリップを見て疑いなど湧くはずもなく、兄の手を握り、もたらされた吉報と込み上げて来る幸せに感謝を込めて囁いた。
「お兄様!」
「お兄様、か」男爵が繰り返した。「今回の出来事を喜んでいるようじゃな」
「だってお父様、フィリップがこんなに嬉しそうなのに!」
「フィリップは昂奮しやすい質じゃからな。だがわしは幸か不幸かものを考える質でな」と言ってタヴェルネ男爵は応接室の家具に悲しげな一瞥をくれた。「とどのつまりはそこまで喜ばしいとは一向に思えぬ」
「これから話すぼくの体験談を聞けば、すぐにお気持が変わりますよ」
「では聞かせてもらおうか」老人はぶつぶつと呟いた。
「ええお願い、フィリップ」アンドレも言った。
「もちろんです! 知っての通りぼくはストラスブールに駐屯していました。ご存じのようにストラスブールとは、王太子妃殿下が入国をなさった場所なんです」
「こんな侘住まいにおっては、ものを知っとるわけがなかろう?」
「それでお兄様、ストラスブールで王太子妃殿下は……?」
「ああ。ぼくらは朝から斜堤の上で待っていました。土砂降りの雨のせいで服はびしょびしょでした。王太子妃殿下が何時に到着するのか正確に知っている者は一人もいません。聯隊長(major)に命じられてぼくが偵察に向かいました。一里ほど進んで道を曲がった途端、お付きの先頭を務めている騎手たちと顔を合わせたんです。言葉を交わしていると、妃殿下が馬車から顔をお出しになり、ぼくのことを誰何しました。
「呼び止められたような気がしましたが、ぼくは一刻も早く良い報せを伝えようと、すでに
「それで、王太子妃殿下は?」アンドレがたずねた。
「おまえと同じくらいお若くて、どんな天使にも負けぬほどお美しかったよ」
「待っとくれんか?」男爵が躊躇いがちに遮った。
「何ですか?」
「王太子妃殿下は、知り合いの誰かに似てらっしゃらんか?」
「ぼくの知っている人ですか?」
「うむ」
「妃殿下に似ている者などいるはずがありませんよ」青年は熱っぽく答えた。
「考えてみてくれ」
フィリップは考えた。
「心当たりはありません」
「そのな……例えばニコルはどうじゃ?」
「ニコル? 驚いたな! 確かに共通するところもありますね。でも遙かに及びませんよ! そんな情報をいったい何処から仕入れたんです?」
「さる魔術師からじゃよ」
「魔術師?」フィリップが驚きの声をあげた。
「うむ。お前が帰ってくることも言い当てた」
「旅の方のことですか?」アンドレが自信なげにたずねた。
「その旅人というのは、ぼくが帰って来たとき一緒にいた人ですか? ぼくが近づくと目立たぬように立ち去りましたが」
「その通りじゃ。だがまあ話を続けてくれ、フィリップ。最後までな」
「おもてなしの用意をした方が良くはありません?」
と言ったアンドレを、男爵が手で止めた。
「用意をすればいっそう間抜けに見えるだけじゃ。続けてくれ、フィリップ」
「そうしましょう。というわけでぼくはストラスブールに戻り、報せを伝えたところ、報せを受けたスタンヴィル司令官(le gouverneur)がすぐに駆けつけました。報せを聞いた司令官が斜堤に到着した頃、太鼓が鳴り響き、行列が見え始めたのでぼくらはケールの城門まで駆け出したんです。隣には司令官がいました」
「スタンヴィル殿。待ってくれぬか、確か聞き覚えが……」
「大臣ショワズール殿の義理のご兄弟に当たります」
「そうじゃった。続けてくれ」
「妃殿下はお若いため、恐らく若い者の方が気安かったのでしょう。司令官の言葉を聞き流して、ぼくに目をお留めになったのです。畏れ多くて前には出られませんでした。
『迎えに来てくれた方じゃありません?』妃殿下がぼくを見てたずねました。
『さようでございます』とスタンヴィル殿が答えました。
『これへ』
ぼくはおそばに進み出ました。
『お名前は?』妃殿下は綺麗な声をしていました。
『タヴェルネ=メゾン=ルージュ士爵』ぼくの声は震えていました。
『書きつけておいてちょうだい』と妃殿下が老婆に告げました。後で知りましたが、それは養育係のランゲルスハウゼン(Langershausen)伯爵夫人で、言葉通りにぼくの名前を手帳に書きつけたのです。
妃殿下はそれからぼくの方を見て、
『こんなひどい天気ですのに! わたしのためにそんなひどい目に遭ったのかと思うと、ほんとうに心苦しいことです』」
「何て素敵な方なのかしら! それに何て素晴らしいお言葉!」アンドレが手を合わせて声をあげた。
「ぼくもお言葉の一つ一つを覚えている」フィリップは感に堪えぬようであった。「その言葉を紡ぎ出すお顔も、何もかも全部だ!」
「素晴らしいことじゃ!」男爵は呟いて、何とも言えぬ笑みを浮かべた。そこに浮かんでいたのは父親としての誇らしさと同時に、女性はもちろん王妃に対してすら抱いている偏見であった。「では続けてくれ」
「お兄様は何と答えたの?」
「何も言わなかった。低頭しているうちに、妃殿下が通り過ぎたんだ」
「何だと! 何も言わなかったじゃと?」
「声が出なかったのです。どんな力も胸から出てきてくれず、胸は激しく鳴るばかりでした」
「わしがお前くらいの歳にレクザンスカ王女に紹介されて、言うことが何もないなぞあるまいに!」
「父上は聡明な方ですから」と答えてフィリップは頭を垂れた。
アンドレがぎゅっと兄の手を握った。
「妃殿下が行ってしまわれたので、ぼくは営舎に戻って着替えをしました。なにせ情けないほどにびしょ濡れで泥まみれでしたから」
「ひどい」アンドレが呟いた。
「その間、妃殿下は町の庁舎を訪れ、住民たちから祝福を送られていました。祝辞も尽きた頃、食事の用意が出来たと報せがあり、妃殿下はテーブルにお着きになりました。
「友人の聯隊長が、これが妃殿下をお迎えにあがるよう指示した者なのですが、王太子妃が辺りを何度も見回し、晩餐に呼ばれた将校たちの間に目を走らせていると教えてくれたんです。
『見当たらないわ』殿下は何度か見渡すことを繰り返しましたが見つけられずに仰いました。『今朝わたしを迎えに来てくれた若い将校が見当たらないわ。感謝を述べたいと伝えてくれなかったのかしら?』
聯隊長(Le major)が進み出ました。
『妃殿下、タヴェルネ中尉(lieutenant)はやむなく戻って着替えをしております。そのうち妃殿下の御前に相応しい恰好で現れるはずでございます』
「ぼくが戻ったのはその直後でした。
「ものの五分と経たないうちに、妃殿下がぼくに目を留められました。
「そばに来るよう合図を受け、ぼくはおそばに近寄りました。
『中尉殿、わたしと一緒にパリに来るのはお嫌ですか?』
『とんでもありません! それどころか最高の幸せにございます。ですが本官はストラスブール駐屯地で兵役に就いております。それに……』
『それに……?』
『つまり、本官の望みは個人的なものに過ぎません』
『責任者はどなた?』
『軍司令官でございます』
『わかりました。上手く話してみましょう』
退がるように合図され、ぼくは退出しました。
その晩、妃殿下が司令官に近づいて行きました。
『閣下、わたし、叶えて欲しいわがままが一つあるんですの』
『仰って下さい。殿下のわがままとあらば本官にとっては命令でございますからな』
『叶えて欲しいわがままといいますか、むしろ、実行して欲しいお願いですの』
『これほど光栄なことはありませんな……どうぞ、殿下』
『よかった! 連れて行こうとつねづね思ってた人がいるんです。それがどなたであれ、わたしがフランスの土を踏んでから初めて会ったフランス人の方を、一緒に連れて行こうと決めていました。その方とそのご家族を幸せにしてあげたいの。もっとも、君主に人を幸せにする力があれば、ですけど』
『君主は地上における神の代理人でございます。初めて殿下にお目見えする光栄に預かったのは、何者にござりましょう?』
『タヴェルネ=メゾン=ルージュ殿。わたしの来たことを知らせた若い中尉です』
『それはうらやましい。ですがその幸運を邪魔だてするつもりはございません。中尉は命令によって留まっておりますが、その命令は取り消しましょう。契約によって縛られておりますが、その契約も破棄いたしましょう。中尉は妃殿下と共に出立できますぞ』
「その言葉通り、妃殿下の馬車がストラスブールを発つその日、ぼくは馬に乗って随行するよう命じられたのです。それ以来、ぼくは馬車の戸口に寄り添っておりました」
「ほほう!」男爵は先ほどと同じような笑みを浮かべた。「ふむ! 不思議なことだが、あり得んでもない!」
「何か、父上?」青年は無邪気にたずねた。
「いや、大丈夫。気にせんでくれ。はっはっ!」
「でもお兄様、ここまで聞いていても、どうして王太子妃殿下がタヴェルネをご訪問下さるのか、まだわたくしにはわからないわ」
「今話すよ。昨夜十一時頃、ナンシーに到着し、明かりを掲げて町を通り過ぎたんだ。すると妃殿下から声をかけられたんです。
『タヴェルネ殿、もっと供の者たちを急がせて下さい』
ぼくは合図をして、妃殿下のご希望を伝えました。
『明日は早いうちに発ちましょう』さらに妃殿下が仰います。
『遠くまで馬車を走らせるおつもりですか?』
『そうではありませんが、途中で寄りたいところがあるのです』
それを耳にした途端、予感のようなものが心臓を震わせました。
『途中で、でございますか?』
『ええ』
ぼくは無言のままでした。
『何処に寄りたいのかおわかりになりません?』と妃殿下は微笑まれました。
『はい、殿下』
『わたしはタヴェルネに寄ろうと思っておりますの』
『何故そのようなことを?』ぼくは叫んでしまいました。
『お父君と妹君にお目に掛かりたいのです』
『父と妹のことを!……何故、殿下はご存じなのです……?』
『人から聞きました。わたしたちが通る道から二百歩のところにお住まいがあるそうではありませんか。追ってタヴェルネに寄るよう指示して下さい』
汗が額に浮かび、ぼくは慌てて妃殿下に辯じました。震えていたのは言うまでもありません。
『殿下、父上の邸は、とても殿下のような方をお迎え出来るような場所ではございません』
『どうしてです?』
『わたくしどもは貧しいのでございます』
『もてなしてくれるのなら、真心と最低限のもののほかは何も要りません。タヴェルネが貧しいというのであれば、わたしがオーストリア大公女でありフランス王太子妃であることは束の間忘れて、一人の友人としてコップ一杯のミルクを振る舞って下されば充分です』
『殿下!』ぼくは面を伏せて答えました。
それだけです。畏れ多くてそれ以上のことは言えませんでした。
予定を忘れてはくれまいか、路上の冷気と共にこの思いつきも霧散してはくれまいかと願っていましたが、そんなことは起こりませんでした。ポン=タ=ムソンの宿駅で、タヴェルネは近いかと妃殿下にたずねられ、ぼくは渋々、後三里だけだと答えました」
「愚か者奴が!」男爵が吠えた。
「その通りです! 妃殿下はぼくの悩みなどお見通しのようでした。『案じることはありません。長々と厄介をかけたりはしませんから。それでもわたしが辛い目に遭うと脅かすのなら、それで貸し借りなしじゃありませんの? だってストラスブールで迎えに来て下さった時は、あなたを辛い目に遭わせてしまったんですから』このようなありがたいお言葉に、どう抗えと? 教えて下さい、父上!」
「抗えるものですか」アンドレが言った。「お話を聞く限りでは、妃殿下ならきっと花やミルクにもお言葉通り満足して下さるわ」
「うむ。じゃが背中の痛い椅子や目に障る壁には満足して下さらんじゃろう。困った思いつきだわい! これからのフランスは、こうやって女の気まぐれで動いてゆくらしいの。まったくひどい! これがおかしな治世の始まりじゃな!」
「父上! ぼくらに名誉を賜る妃殿下のことも同じように思われるのですか?」
「むしろ名誉を損じはせぬか! 今タヴェルネのことを考えておる者が一人でもおるか? 一人もおらん。一族の名はメゾン=ルージュの瓦礫に埋もれて眠っておるが、返り咲く暁には然るべき手段でと思っておったし、いずれその時が来るものと思っておった。ところが今や生憎なことに、一人の娘っ子の思いつきのせいで、再興の運びもくすんで汚れてみすぼらしく惨めなものになるじゃろうと思えて来た。話の種を求めて餌にありつこうと、今や新聞がこぞって妃殿下のタヴェルネ来訪をくだらん記事にしようとしておる頃じゃわい。糞ッ! 手はあるぞ!」
父の言葉の激しさに、若い二人は震え上がった。
「聞かせてもらえますか?」フィリップがたずねた。
「つまりな」と男爵はもごもごと口を動かした。「歴史にちゃんと書いておる。ビリャメディアーナ伯爵が王妃を抱くため自分の屋敷に火を付けたように、わしも妃殿下の来訪を阻止するためにこのあばら屋を燃やせばいいんじゃ。どうぞ来てもらうがいい」[*1]
最後の言葉を聞いて、二人は不安げに顔を見合わせた。
「どうぞ来てもらうがいい」男爵は繰り返した。
「間もなくいらっしゃいますとも」フィリップも言い返した。「ピエールフィットの森から近道を取ってご一行に幾らかは先んじましたが、もうそれほど遠くはないでしょう」
「では急がねばなるまい」
そう言って二十歳の若者のようにはしこく応接室を出て台所に駆け込むと、燃えている燠を竈から抜き取り、干し藁と飼い葉と豆の詰まった納屋に駆け込んだ。男爵が飼い葉の山に近づいた時、バルサモが音もなく背後から現れてその腕をつかんだ。
「いったい何をなさるおつもりです?」老人の手から火種を奪い取った。「オーストリアの大公女はブルボン家の元帥ではありませんよ。家が穢れると言って、足を踏み入れられるよりはいっそ燃やしてしまえというのとはわけが違う」
動きを止めた老人の顔は真っ青に震えており、もはやあの笑みは浮かんでいなかった。男爵には男爵なりの名誉観があり、自分なりのやり方で名誉を守るため、そこそこみすぼらしいくらいならとことん悲惨にしてしまおうという決意を実行しようとして、気力をすべて出し尽くしてしまったのだ。
「お急ぎなさい」バルサモが続けた。「部屋着を脱いで相応しい恰好に着替える時間しかありません。フィリップスブルクで存じ上げていた頃のタヴェルネ男爵は、サン=ルイの
「しかしですな、結局のところ、あなたにだって見せたくなかったものを王太子妃殿下は見にいらっしゃるのですぞ。わしがどれだけ惨めかを」
「落ち着くことです。鄭重なおもてなしをすれば、お邸が新しいか古いか、貧しいか豊かかなど気がつきませんよ。お出迎えの用意を。貴族としての務めです。妃殿下をお慕いする人間がご来訪を阻むために城館を燃やしたりしては、大勢いる妃殿下の敵が何をするか、考えてご覧なさい。怒りの種を予め用意してやるのは止しましょう。ものには順序というものがある」
既に一度諦めの印を見せていた男爵は、言われるままに我が子二人の許に向かった。二人は姿の見えない父を心配してあちこちを捜しているところだった。
バルサモはというと、動き出した役割を果たそうとでもするように、音もなく立ち去った。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XIII「Philippe de Taverney」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/15、連載第14回。
Ver.1 08/10/11
Ver.2 16/03/01
[訳者あとがき]
・08/10/11 ▼「メディナの伯爵(comte de Médina)」というのがよくわからなかった。▼次回更新は08/10/25(土)予定、第十四章「マリ=アントワネット・ジョゼファ、オーストリア大公女」です。
[註釈]
▼*1. [ビリャメディアーナ伯爵]。スペイン貴族のビリャメディアーナ伯爵(conde de Villamediana 1607-1622)は、スペイン王妃イサベル・デ・ボルボン(フランス名エリザベート・ド・フランス(Isabel de Borbón,Élisabeth de France 1602-1644))をその手に抱くために自分の屋敷に火をつけ、救出にかこつけて抱きしめようとした。デュマは伯爵の名前を「comte de Médina」と書いている。[↑]