この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第二十三章 デュ・バリー伯爵夫人の小起床の儀

 さて、ここらで読者にお許し願って、シャロン(Châlons)の道に馬車を走らせているション嬢とジャン子爵にはひとまず退場していただき、一族のもう一人の許へとご案内しよう。

 以前は王女マダム・アデライードが暮らしていたヴェルサイユの一室に、ルイ十五世は、一年ほど前から寵姫になったデュ・バリー伯爵夫人を住まわせていた。このような政変が宮廷にどんな影響を及ぼすものか、始める前から気づいていないわけでもなかったのだが。[*1]

 この寵姫、気ままで物に頓着せず、明るく愛嬌があって天衣無縫、ひどい気まぐれだったものだから、静謐だった宮殿を賑やかな場所に変えてしまった。何はなくとも楽しんで生きることにしか耐えられない世界の住人なのである。

 部屋の持ち主が有する力に目を向けてみれば、この狭い部屋からは宴の指示や遊山の合図がしょっちゅう聞こえていた。

 だがもちろん、宮殿の一画を為すこの見事な階段にあって嫌でも目を惹くのは、驚くべき数の訪問者の人波である。朝、というのはつまり九時頃から、目もあやに着飾った訪問者たちがその階段を上り、へりくだった様子で控えの間に居坐っていた。控えの間には珍しい品々が並べられていたが、選ばれた民がこれから聖地で額ずくことになる偶像ほど珍しいものはなかった。

 ラ・ショセの入口付近で起こった出来事を先ほどお話ししたばかりだが、その翌日の朝の九時頃、つまりいつも通りの時間(l'heure consacrée)のこと。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ(Jeanne de Vaubernier)が刺繍入りのモスリンの部屋着に身を包み、軽やかなレース越しにふっくらとした美しい足と石膏のように白い腕を覗かせて、寝台ベッドから起き上がった。ジャンヌ・ド・ヴォベルニエ即ちランジュ嬢であり、ついには後見役ジャン・デュ・バリー氏のおかげをもってデュ・バリー伯爵夫人と相成った。ヴィーナスに似たところは一つもないが、ヴィーナスよりも美しい――絵空事よりも事実を好む者ならばそう言うであろう。

 見事にカールした栗毛の髪、青く血管の透けた白繻子の肌、沈んだかと思えば輝いたりを繰り返す瞳、真紅の筆で描かれたような小さなあけの口、開けば必ず二列に並んだ真珠が顔を見せた。頬、顎、指のそこかしこに浮かぶえくぼ。ミロのヴィーナスに生き写しの喉、蛇のようにしなやかで、ほどよい肉付き。これこそが、小起床の儀に謁見を許された者たちに見せるために、デュ・バリー夫人が準備していたものである。これこそが、夜の謁見を許された者たるルイ十五世陛下が、食卓の下のパン屑を無駄にする勿れなる古人の格言に倣って、朝にもお目通りを欠かすことのなかったものである。[*2]

 寵姫はしばらく前から目を覚ましていた。八時にはベルを鳴らし、呼ばれた侍女がまずは厚い緞帳を、次いで薄めの帳を開けて、少しずつ部屋に明かりを入れた。喜びに溢れたその日の陽射しが招じ入れられ、神話の時代の伊達男たちのことを思い出しながら、この美しいニンフを包み込んだ。ただしこのニンフ、神々に愛でられしダフネの如くに身を翻したりはせず、時には人々に愛でられに自分から出向くほどの人間臭さ。斯かるが故に、金縁真珠で飾られた手鏡に微笑みかけた柘榴石の如き瞳には、既にむくみも躊躇いもなかった。先ほど途中まで説明していたしなやかな体躯が、甘い夢に震え寝んでいた寝台から滑り抜けると、そこは白貂の絨毯。シンデレラも斯くやとばかりの足が、スリッパ(deux pantoufles)を持つ手とご対面。そのスリッパと来ては、片方だけでもジャンヌの故郷の木樵には一財産という代物だった。

 この魅力溢れるご婦人が起き上がり、ますます生き生きとして来たところに、マリーヌ・レース(dentelles de Malines)のショールが肩に掛けられた。続いて、ミュール(ses mules)からちらりと覗いたぽってりした足に、きめ細やかな薔薇色の絹靴下が着けられたが、肌の艶とて絹に劣っていたわけではない。

「ションから便りはなかった?」とまず侍女にたずねた。

「ございません」

「ジャン子爵からも?」

「ございませんでした」

「ビシは受け取ったかしら?」[*3]

「姉君のところには、今朝、人が向かいました」

「手紙もなし?」

「手紙もございません」

「ああ、こうやって待つのって退屈なものね」伯爵夫人は可愛らしい口を尖らした。「百里の距離を一瞬にしてやり取りすることって永遠に出来ないのかしら? ああ、もう! 今朝あたしに会う人は気の毒ね! 控えの間は結構混んでいた?」

「おたずねなさるまでもないかと?」

「だってドレ、王太子妃がやって来れば、あたしは見捨てられたっておかしくないでしょ? 太陽と比べれば、ちっちゃな星に過ぎないんだもの。どなたがいらっしったの?」

「デギヨン殿、スービーズ公爵、サルチーヌ殿、モープー院長(M. le président Maupeou)です」

「リシュリュー公閣下は?」

「まだお見えではありません」

「今日も昨日も! 言ったでしょう、ドレ。外聞を憚っているのよ。アノーヴル邸に伝令を送って、臥せってらっしゃるのかどうか確かめて頂戴」[*4]

「かしこまりました。皆さんご一緒にお会いになりますか、それともお一人ずつ内謁を?」

「内謁を。サルチーヌ殿にお話があるの。お一人だけ入れて頂戴」

 控えの間に通ずる廊下に詰めていた従僕に侍女から命令が伝えられるや、黒服姿の警視総監(le lieutenant (général) de police)が現れた。灰色をした鋭い目や強張った薄い口唇を和ませて、愛想よく見せようと微笑んでいる。

「おはようございます、宿敵さん」伯爵夫人は直視せず鏡越しに声をかけた。

「宿敵と仰いましたか?」

「だってそうじゃない? あたしにとって世界には二種類の人間しかいないの。敵と味方。どちらでもない人は、敵に入れちゃう」

「もっともですな。ですが、あなたのために働いているのはご存じでしょうに、どうしてどちらにも入れていただけないのでしょうか?」

「あたしのことを詠んだ小唄や諷刺小冊子パンフレットや諷刺文を、自由に印刷させて、配らせて、売らせて、王のもとに送りつけるがままにさせてらっしゃるじゃないの。意地悪で嫌らしい役立たずなんだから!」

「ですが私のせいでは……」

「嘘仰い。誰がやったのかご存じなんでしょ」

「作者が一人しかいないのであれば、バスチーユに放り込む必要もございません。これだけの仕事を一人でこなしていては、勝手に力尽きるのも時間の問題でしょうから」

「随分とお口がお上手じゃないこと?」

「敵ならこんなことは言いますまい」

「かもね。その話はいいわ。仲良くしましょ、ね、これでいいわ。だけどまだ問題が残ってるの」

「何でしょうか?」

「あなたがショワズール一家とお友達ってこと」

「ショワズール閣下は宰相ですから、宰相から命令があれば従わなければ」

「ふうん。だったら、ショワズール殿があたしをいじめなさいだとか、嫌がらせしなさいだとか、悲しみのあまり死なせてしまいなさいだとかお命じになったとしたら、あたしがいじめられり嫌がらせされたり死なせたりされるのを黙って放っておくってことね? どうもご親切に」

「順を追ってお話ししましょう」と言ってサルチーヌは勝手に腰を下ろしたが、咎められることはなかった。何せ自他共に認めるフランス一の事情通。「私は三日前に何をしたでしょうか?」

「教えてくれたわね、伝令がシャントルー(Chanteloup(-en-Brie)?)を発ち、お着きを急ぐよう王太子妃に伝えたって」

「それが敵からの情報だと仰いますか?」

「でもそんなことより、あたしが認証式(présentation)に威信を賭けてるのはご存じでしょ。そのことで何かしてくれた?」

「出来る限りのことはいたしました」

「サルチーヌさん、正直に仰いな」

「何を言われますか!――酒場の奥で、それもほんの二時間前にお会いしていたのはどなたとだったでしょうか? 奥さまはジャン子爵にお命じになっていませんでしたか、何処か私の知らない場所に向かうようにと? いやむしろ私も知っている場所だったのかもしれませんな」

「あら! 義兄あにのことは放っておく方がよくなくて?」デュ・バリー夫人がころころと笑った。「何てったってフランス王家の姻戚なんですから」

「そうは仰いますが、それも仕事でございます」

「三日前ならそれでもいいわ。一昨日もね。でも昨日は何をしてくれたの?」

「昨日、でございますか?」

「あら、随分と考えてらっしゃるわね――昨日は別の方のために働いてらっしゃったでしょ」

「仰っていることがさっぱりわかりませんが」

「自分の言っていることくらいわかっているわ。さあ総監、昨日は何をしていて?」

「朝でしょうか、夜でしょうか?」

「まずは朝から」

「朝はいつものように仕事をしておりました」

「働いていたのは何時まで?」

「十時までです」

「その後は?」

「その後、リヨンの友人を昼食(dîner)に誘うため使いをやりました。私に知られないようにパリに来ると言っていたので、従僕を市門のところに待たせておいたんです」

「昼食の後は?」

「オーストリア警察が捜索中の泥棒の足取りを伝えにやりました」

「何処にいたの?」

「ウィーンです」

「じゃあパリの警察だけではなく、外国の宮廷のためにも働いていらっしゃるの?」

「時間が空いている時だけです」

「覚えとくわ。使いを送った後は、何をしてらしたの?」

「オペラ座におりました」

「ギマールに会いに? お気の毒なスービーズ公!」[*5]

「そうじゃありません。先ほど申し上げた巾着切りを捕まえに行ったのです。農夫にちょっかいを出すだけなら大目に見ておいたものを、厚かましいことに貴族を二、三人カモったものですから」

「泥棒の命取りって言うべきだったわね――それで、オペラ座の後は?」[*6]

「オペラ座の後ですか?」

「ええそう。ちょっとぶしつけな質問かしら?」

「とんでもない。オペラ座の後は……今思い出しますから」

「うふふ! どうやらそこの記憶がないみたいね」

「待って下さい。オペラ座の後は……ああ、わかりました!」

「よかった」

「ある家に手入れを、もとい足を入れて、博打狂いのさるご婦人を、この手でフォール=レヴェク(For-l'Évêque)監獄にお連れしました」

「その方の馬車で?」

「いえ、辻馬車です」

「それから?」

「それからですか? これでお終いです」

「あら、終わりじゃないでしょう?」

「それはまあ辻馬車に戻りましたが」

「そうしたら、馬車にどなたがいたのかしら?」

 サルチーヌ氏は赤面した。

 伯爵夫人は手を叩いて喜んだ。「警視総監の顔を赤らめさせたって自慢しなくっちゃ!」

「伯爵夫人……」サルチーヌ氏が口ごもった。

「あのね! あたしが言いたかったのはこういうこと。馬車の中にいたはグラモン公爵夫人だったんでしょ?」[*7]

「グラモン公爵夫人ですか!」

「ええ、そう。陛下のお部屋にお邪魔できるようにお願いされたんじゃない?」

「参りました」サルチーヌ氏は椅子の中で身じろぎした。「総監の地位はお返ししますよ。私なんかより、あなたの方がよほど警察の仕事に向いていらっしゃる」

「実はサルチーヌさん、お察しの通りあたし用のを持ってますの。お気をつけあそばせ!……ねえ! グラモン公爵夫人が真夜中に警視総監と辻馬車に乗って、ゆっくりと馬車を走らせていたんですよ! あたしが何をさせたかおわかり?」

「わかりませんが、怖いですな。幸いだいぶ遅い時間でしたが」

「ふふ、時間なんて無意味よ。夜は復讐の時、なんですから」

「それで、何をなさったのです? 教えて下さい」

「秘密警察はもちろん、文学諸々だってあたしのものなんです。三文文士たちと来たら、襤褸のように汚くて、鼬のように飢えてるんです」

「するとあまり飲み食いさせてないのですか?」

「それどころかまったくさせてませんの。だって太ってしまったら、スービーズさんみたいなおたんちんになっちゃうじゃない。お腹の脂肪には悪意が溜まる、って言いますでしょ?」

「続きをお聞かせ下さい、嫌な予感がします」

「いろいろ考えてたんです。ショワズール家の連中があたしに何をしたって、あなたはだんまりを決め込んでたでしょ。そういうのにかちんと来たから、アポロンたちにこんな台本を作ってもらいましたの。その一、サルチーヌ氏は検事に変装してラルブル=セック(l'Arbre-Sec)通りの五階を訪れ、毎月三十日、そこに住んでいる少女に三百リーヴルの手当を与えてるんです」

「立派な行為ではありませんか」

「そういう行動こそ非難されるものよ。その二、サルチーヌ氏は伝道師に変装してサン=タントワーヌ街(la rue Saint Antoine)のカルメル会修道院に忍び込んだ」

「奥さま、それは東方からの便りを修道女たちに伝えにいったのです」

「ほんとの東方? それともそういうお名前のところかしら? その三、サルチーヌ氏は警視総監に変装して真夜中に町中を駆けまわり、辻馬車の中でグラモン公爵夫人と密会しました」[*8]

 サルチーヌ氏は震え上がった。「警察の評判を滅茶苦茶にするおつもりですか?」

「あら、あたしの評判を滅茶苦茶にさせてるくせに!」伯爵夫人が笑い出した。「でも話には続きがあるの」

「わかりました」

「あたしのところの悪ガキちゃんたちに、学校の課題みたいに作文やら翻訳やら肉付けやらさせてたんですけど、今朝になって諷刺詩、小唄、喜劇が届きましたの」

「まさかそんな!」

「三つとも上出来。今朝はこれで陛下をもてなして差し上げなくっちゃ、新しい主の祈り(Pater Noster)も一緒にね。あなたが広めたんでしょ?

『ヴェルサイユにまします我らが父よ、御名を蔑ませたまえ。御国を揺るがせたまえ、御心の天に成る如くには地に成させたまうな。汝の寵姫が奪いし我らの日用の糧を返したまえ。汝の益を侵す大臣を我らが赦す如く汝の益を守る高等法院をも赦したまえ。我らをデュ・バリーの試みに遭わせず悪代官より救い出したまえ。アーメン(Ainsi soit-il)』」

「何処でそんなものを?」サルチーヌが両手を合わせて溜息をついた。

「見つけるつもりなんてなかったわ。出来がよさそうなのを親切にも送ってくれる人がいるのよ。あなたにも同じことを毎日してあげる」

「しかし……」

「お互い様よ。明日には問題の諷刺詩と小唄と喜劇を届けますからね」

「今すぐではないのですか?」

「だって配る時間がいるじゃない。それに、何があったかを一番最後になってから知るのなんて、警察にとっちゃいつものことでしょ? きっと楽しんでいただけると思うわ。あたしなんか朝からずっと笑いっぱなし。陛下はお腹の具合が悪いそうよ。それで、まだいらっしゃらないの」

「もう駄目だ!」サルチーヌ氏は両手で鬘を掻きむしった。

「何処が駄目なの? 小唄を作られただけじゃない。あたしは『ラ・ベル・ブルボネーズ』で駄目になった? まさか。口惜しかっただけ。今度はあたしが他人を悔しがらせる番よ。ほらいい詩でしょ! あんまり嬉しいものだから、毒虫ちゃんたちには白ワインをご馳走しておいたの。きっと今ごろはぐでんぐでんに酔いつぶれてるわ」

「どうか、伯爵夫人!」

「まずは諷刺詩を読んであげるわね」

「お願いですから!」

仏蘭西も山の天気も覚束なし天つ心ぞ女なりける……。あら間違っちゃった、これはあたしのことね。こんなにあるとごちゃごちゃになって。待ってね、これだわ――

 人や知る 色も匂へる錦絵を――。形もまろき香水壜。ボワイヌ(Boynes)、テレー、モープーの。色も名もあるその中に。合はせて混ぜしサルチーヌ。立てる匂ひに鼻つまみ。金に腐りし泥棒四人!

「どうかもうご勘辨を」

「今度は小唄にしましょう。これはグラモン夫人の歌。

 お巡りさん、この肌を見てよ、綺麗でしょ? せっかくだから、それを王様に教えてあげたい……

「奥さま!」サルチーヌ氏の声には怒りが滲んでいた。

「怒んないで。まだ一万部しか刷ってないんだから。そんなことより、この喜劇だけは絶対に聞くべきよ――」

「では印刷したのですか?」

「愚問ね! ショワズールさんはそうしたんじゃないの?」

「印刷工には覚悟がおありなのでしょうな!」

「あら、やってご覧なさい。許可証はあたしの名前で出してるの」

「何ですって! では陛下もこの悪ふざけを笑っておいでなのですか?」

「何言ってるの! あたしの指が動かない時に詩を作っているのは陛下よ」

「尽くしたお返しがこれですか?」

「裏切ったのはあなたでしょ。公爵夫人はショワズール家の人間。あたしを失脚させたがってるんだから」

「あの方が一方的に待ち伏せしていらしたのです」

「じゃあ認めるのね?」

「やむを得ません」

「どうして黙ってたの?」

「お伝えに来たところだったのです」

「嘘おっしゃい」

「誓って本当のことです!」

「賭けましょうか?」

「どうかお許し下さい」サルチーヌがひざまずいた。

「いいじゃないの」

「どうか休戦を、伯爵夫人」

「そんなに中傷詩が怖い? 殿方であり大臣でもあるあなたが?」

「それだけなら怖くありませんとも」

「小唄一つであたしが――女のあたしがどれだけ辛い思いをしているのか、少しも考えたことがないんでしょう?」

「あなたは女王ですから」

「ええ、未承認のね」

「あなたのためにならないことなどいたしません」

「でしょうね。でも何かしたりもしないじゃない」

「出来る限りのことはいたします」

「そう、信じておくわ」

「信じて下さい」

「取りあえず今は暗いことよりも明るいことの方を考えましょう」

「喜んで。必ずや良い手助けが出来るものと思います」

「あなたはあたしの味方よね、ウイ? ノン?」

「ウイ」

「認証式が無事に終わるまで協力してくれるのね?」

「あなたご自身も対策を立ててらっしゃるのですね」

「印刷所の方は、昼でも夜でも準備万端。三文文士たちも四六時中お腹を空かせてますから。飢えてさえいれば必ず咬みついてくれるでしょ」

「最善を尽くしましょう。お望みは?」

「何も。ただ無事に終わることを願うだけ」

「お約束いたしますとも!」

「嫌な言葉」伯爵夫人は足を踏み鳴らした。ギリシア人やカルタゴ人つまりは空約束ポエニ人の誓いだと感じたのだ。

「伯爵夫人……!」

「そうよ、あたし認めない。この場限りの言い逃れなんでしょ。どうせあなたは何もしない。でもショワズールは動きを見せるわ。そんなの嫌、わかる? すべてか無か。ショワズール一味を縛り上げて牙を抜いて破滅させて見せてよ。でなきゃあなたの力を奪って縛り上げて破滅させてあげる。いいこと、あたしの武器は小唄だけじゃない、覚えておいて」

「脅しはご勘辨下さい」サルチーヌ氏は朦朧としかけていた。「認証式はご想像以上に難しいことになっておりまして」

「『なっている』とはよく言うわね。誰かが故意に妨害しているんでしょう」

「残念ですが」

「防ぐことは出来ない?」

「私には部下がおります。百人ばかり必要になりますが」

「そうしましょう」

「それには百万ほど……」

「それはテレーの問題ね」[*9]

「国王陛下のお許しが……」

「貰っておくわ」

「お許しにはならないでしょう」

「手に入れるってば」

「それでは万事整ったとしましょう。ですがまだ代母の問題がございます」

「探しているところ」

「無駄足に終わりましょう。反対勢力がございますから」

「ヴェルサイユに?」

「ええ、ご婦人方はお断わりになり、ショワズール殿、グラモン夫人、王太子妃殿下、貞淑派の人たち(le parti prude/prudish party)にくみしました」

「グラモン夫人がいるのじゃあ、貞淑派(le parti prude)も改名しなくちゃね。こっちはもう王手をかけてるの」

「意地を張るのはおやめ下さい」

「目当てまで手が届いてるのよ」

「ああ、それで義妹いもうとさんをヴェルダンに行かせたんですね?」

「当たり。ふうん、知ってたんだ?」伯爵夫人は不満そうだった。

「警察を持っているのはあなただけじゃありませんからね」サルチーヌ氏が笑みを見せた。

「じゃあ密偵が?」

「密偵がおります」

「あたしのところに?」

「あなたのところに」

「厩舎に? それとも台所?」

「控えの間にも、応接室にも、閨房にも、寝室にも、枕の下にも」

「あらあら! 協定の印として、手始めに密偵の名前を教えて頂戴」

「いやしかし、ご友人と仲違いさせるのは忍びないので」

「じゃあ戦争ね」

「戦争ですって! 物騒なお言葉ですな」

「思った通りに言ったまでよ。出てって頂戴、顔も見たくないわ」

「今度はあなたに証言していただきます。秘密を……国家の秘密を洩らせるとでも?」

「閨房の秘密、でしょう」

「意味するところは同じです、昨今では」

「密偵が誰だか知りたいの」

「どうなさるおつもりですか?」

「追い払います」

「では家を空っぽになさいませ」

「恐ろしいことを仰るのね」

「それが事実ですから。いやはやまったく! 密偵なくしては政治もままなりません。やり手のあなたならおわかりでしょう」

 デュ・バリー夫人は漆のテーブルに肘を突いた。

「もっともね。その話は止しましょう。協定の条件は?」

「お任せします。勝ったのはあなたですから」

「あたしはセミラミス(Sémiramis)並みに懐が深いの。そちらの希望は?」

「小麦に関する請願を陛下に上申するのはおやめ下さい。善処をお約束なさった請願のことです」

「いいわ。その件に関する請願書は全部持って行って。この箱の中」

「代わりにこちらをお受け取り下さい。認証式と床几権に関する王国重職貴族(pairs du royaume)の方々の労作でございます」

「陛下にお渡しするはずのものだったんじゃ……」

「その通りです」

「しかも自分で作らせたような顔をして?」

「はい」

「いいわ。でもあなたはどうするの?」

「お渡ししたと公言いたします。時間を稼ぐことが出来ましょうし、賢明なあなたならその時間を無駄にはなさらぬでしょう」

 とその時、両扉が開いて取次(un huissier)が現れた。

「国王陛下です!」

 二人は協定の印を急いで隠して振り返ると、ルイという名を十五番目に戴いた国王陛下に敬礼した。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XXIII「Le petit lever de madame la comtesse du Barry」の全訳です。初出『La Presse』紙、1846/06/26、連載第24回。


Ver.1 09/04/11
Ver.2 16/03/16


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[訳者あとがき]

 ・09/03/01 ▼試みに「聖時」と記しておきましたが、「heure consacrée」の訳語がわかりませんでした。▼「食卓の下のパン屑云々……」というのは恐らくマタイ伝15章27節『然り、主よ、小狗《こいぬ》も主人《あるじ》の食卓よりおつる食屑《たべくず》を食《くら》ふなり』、マルコ伝7章28節『然り、主よ、食卓の下の小狗も子供の食屑を食ふなり』あたりを指しているものと思われます。▼次回更新は03/14(土)ごろ予定。▼次回もこの章の続き。03/28(土)ごろ更新予定。▼「Madame, j'apportais à ces bonnes soeurs des nouvelles d'orient.」「Du petit ou du grand?」のやりとりの意味がわかりませんでした。英訳版では「I was taking those good nuns some news from the Indies.」「East or West Indies --which?」となっているので、「ほんとのインド、それとも西インド諸島(=アメリカ)?」という感じでしょうか。すると「Du petit ou du grand?」の場合は、「ほんとの東方《オリアン》、それとも(フリーメーソンの)グラン・トリアン?」とかでいいのかなあ?▼次回もこの章の続き。いーかげん終わらせなければ。04/11(土)ごろ更新予定。

・09/04/11 ▼第23章、ようやく終わりました。次回更新は04/25(土)ごろ予定。第24章「ルイ十五世」です。

[更新履歴]

・16/03/16 「consacré」には「聖なる」のほかに「慣例となった」の意もあるので、「l'heure consacrée」「聖時」→「いつも通りの時間」に訂正。

・16/03/16 「pairs」は「重職貴族」と訳すことにする。

[註釈]

*1. [以前は王女マダム・アデライードが暮らしていた]。正殿2階、現在の「黄金の皿の間(cabinet de la vaisselle d'or)に当たる。[]
 

*2. [食卓の下のパン屑を無駄にする勿れ]。マタイ伝15章27節『然り、主よ、小狗《こいぬ》も主人《あるじ》の食卓よりおつる食屑《たべくず》を食《くら》ふなり』、マルコ伝7章28節『然り、主よ、食卓の下の小狗も子供の食屑を食ふなり』。女から助けを求められて「自分はイスラエルの羊のために遣わされたのだ」と答えたイエスに対し、女が「子犬も食卓から落ちたパン屑を食べるものだ」と言い返した記述による。[]
 

*3. [ビシ]。Jeanne-Marie-Marthe du Barry, Bischi(1727-1801)。1770年当時のデュ・バリー家の実年齢は以下の通り。ジャン Jean-Baptiste(1743-1794)47歳、ビシ Bischi 43歳、ギヨーム Guillaume(1732-1811)38歳、ション Françoise-Claire, Chon(1733-1809)37歳、ギヨーム夫人ジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人(1743-1793)27歳。ジャンヌから見てジャンは義兄、ビシは義姉、ションは義妹に当たる。[]
 

*4. [アノーヴル邸]。l'hôtel de Hanovre(Pavillon de Hanovre)。パリ9区イタリアン通り33番地(Boulevard des Italiens)にあったリシュリューの館。[]
 

*5. [ギマール]。Marie-Madeleine Guimard はオペラ座の女優。Soubise 公の愛人だった。[]
 

*6. [泥棒の命取り]。モープーが「泥棒の『l'adresse(居所/器用)』を伝えていた」と言ったのに対し、デュ・バリー夫人は「泥棒の『la maladresse(不器用)』と言うべきだった」と切り返した。訳文ではそれぞれ「泥棒の足取り」「泥棒の命取り」とした。[]
 

*7. [グラモン公爵夫人]。duchesse de Gramont, Béatrix de Choiseul-Stainville 1730-1794 ショワズールの妹。即ちデュ・バリー夫人の政敵に当たる。[]
 

*8. [ほんとの東方?]。「Du petit ou du grand ?」。「le grand Orient」だとフリーメーソンのフランス支部の名前(大東社)になる。[]
 

*9. [それはテレーの問題ね]。アベ・テレー L'abbé Joseph Marie Terray(1715-1778)は、1769-1774まで財務総監を務めた。[]
 

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