この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第四十一章 いやいやながら医者にされ

 ジルベールは従僕の言いなりにならなくてはいけないことが口惜しくてならなかった。とは言え、状況を変えなくてはならないだろう。それにどう変わろうとこれ以上に悪くなることはなさそうだ。ジルベールは先を急いだ。

 ションはベアルン夫人との会見をデュ・バリー夫人に報告し終えて、ようやく任務から解き放たれ、部屋着を着て窓辺でのんびり昼食を取っていた。すぐそばの植え込みからアカシアやマロニエが迫っていた。

 ションは食欲旺盛だった。雉のサルミやトリュフのガランティーヌを見ればジルベールにも一目瞭然だ。

 ションの傍らに招かれたジルベールは、丸テーブルに目を走らせ自分の皿を探した。誘われるのを今か今かと待っていた。

 ところがションは椅子を勧めてはくれない。

 ジルベールをちらりと見ただけで、トパーズ色のワインをごくりと飲み干した。

「あら、お医者さん。ザモールとはどうなったの?」

「どうなったですって?」

「ええ、仲良くなれたかしら」

「話も出来ないあんな動物と、どうやって仲良くなれと言うんですか? 話しかけても目を回して歯を剥き出すだけなのに」

「脅かさないで頂戴」ションは食事も止めず、脅かされたような顔もまったく見せずに答えた。「じゃああなたは友だちにうるさいってわけね?」

「友だちというのは対等な関係のことです」

「至言ね! つまり自分がザモールと対等だとは思わないってこと?」

「向こうが僕と対等ではないんです」

「そりゃあね」ションは呟くように言った。「あの子は可愛いもの!」

 ようやくジルベールを直視して、自尊心が強そうなことに気づいた。

「つまり、そう簡単には誰とでも仲良く出来ないってわけ?」

「そういうことです」

「ふうん。じゃあ、あたしたち、いいお友だちになれると思ったのは間違いだったみたいね」

「個人的にはあなたはいい人だと思ってます。ですが……」ジルベールは言いよどんだ。

「あら嬉しい。ありがと。それで、あなたに気に入ってもらえるにはどれだけの時間がかかるのかしら?」

「時間は随分とかかります。どんなことをしても仲良く出来ない人だっていますし」

「ふうん。タヴェルネ男爵のところで十八年過ごした挙句に突然飛び出したのは、そういうことなのね。タヴェルネ家の人たちはあなたのお眼鏡には適わなかった、と。そういうこと?」

 ジルベールは真っ赤になった。

「あら、返事は?」

「答える必要はないでしょう。大事なのが友情や信頼である以上は」

「つまりタヴェルネ家の人たちは友情にも信頼にも値しなかったってことじゃない?」

「どちらにも? そういうことです」

「それで何が気に入らなかったの?」

「愚痴などこぼしません」ジルベールは胸を張った。

「ねえ、あたしもジルベールさんに信頼されていないのはわかってるわ。でもそれは信頼を勝ち取りたいという気持がないからじゃないの。どうすれば信頼してもらえるかわからないからなの」

 ジルベールは口唇を引き結んだ。

「要するに、タヴェルネ家の人たちはあなたを満足させられなかったのね」ションの好奇心をジルベールは感じ取った。「タヴェルネ邸では何を?」

 ジルベールは戸惑った。タヴェルネ家でしていたことなど、自分でも知らなかった。

「僕は……僕は、信頼できる人間です」

 いかにもジルベールらしい哲学者然とした落ち着いた言い方に、ションは笑いの発作に襲われて椅子に反っくり返った。

「信じられませんか」ジルベールは眉をひそめた。

「やめてよ! あなたみたいに怒りっぽい人に反論できる人なんていないわ。タヴェルネ一家がどんな人たちなのか教えて欲しいだけ。あなたにとっては、気に入らないどころか、復讐の助けになるはず」

「誰かの手を借りるつもりはありません」

「結構よ。でもあたしたちにはあたしたちなりにタヴェルネ家に言いたいことがあるの。あなたが腹を立てているのが一人なのか何人かなのかはわからないけど、手を結んだ方がいいと思わない?」

「残念ですが。僕のやり方はあなたたちとは相容れません。あなたはタヴェルネ家一般の話をしているけれど、僕の方は一人一人に違った感情を持っていますから」

「じゃあフィリップ・ド・タヴェルネのことはどう思ってるの? 嫌い? 好き?」

「何とも思ってません。フィリップさんは良くも悪くもしてくれませんから。好きでも嫌いでもありません。構われていませんから」

「じゃあ陛下やショワズールの御前でフィリップ・ド・タヴェルネを訴えるつもりはないのね?」

「何のかどで?」

「あたしの兄と決闘をしたかどで」

「訴えろと言われたなら、知っていることを話すつもりです」

「知っていることって?」

「真実を」

「あなたの言う真実って何? 随分と曖昧な言葉じゃない」

「善と悪、公正と不正が出来る者にとっては曖昧ではありません」

「わかったわ。つまり善とは……フィリップ・ド・タヴェルネ。悪とは……デュ・バリー子爵」

「僕はそう思ってます。良識に照らした限りでは」

「何て子を拾って来ちゃったんだろう!」ションは歯ぎしりした。「これが命の恩人に対するお礼ってわけね?」

「死から救った恩人です」

「同じことじゃないの」

「全然違いますよ」

「どう違うのかしら?」

「あなたは命の恩人じゃありません。馬が僕の命を奪うのを止めてくれただけです。それだってあなたじゃなく御者のやったことです」

 平然とそんなことを言いつのる屁理屈屋を、ションはじっと見つめた。

「もう少し優しい言葉をかけてくれてもいいのに」と笑みと声と和らげた。「手をクッションの下に入れ足を膝の上に預けていた連れじゃないの」

 ションが優しく馴れ馴れしく挑発したため、ジルベールはザモールや仕立屋のことも誘ってもらえなかった昼食のことも忘れた。

「ね? 仲直りしましょう」ションがジルベールの口元に触れた。「フィリップ・ド・タヴェルネに不利な証言をしてくれるでしょう?」

「まさか! 絶対にしません!」

「どうしてよ?」

「悪いのはジャン子爵だからです」

「何が悪いの?」

「王太子妃を侮辱しました。けれどフィリップ・ド・タヴェルネは……」

「ええ」

「王太子妃に誠実でした」

「ふうん、王太子妃の肩を持っているみたいじゃない?」

「僕が肩を持つのは正義です」

「お黙りなさい、ジルベール! この城館でそんな口の利き方は許さないわよ」

「でしたら質問だけして、答えを聞かなければいいのです」

「だったら、ほかの話をしましょう」

 ジルベールは同意の印にお辞儀をした。

「さあ、いい?」ションの声は厳しかった。「あたしたちを喜ばせてくれないなら、ここで何をするつもりなの?」

「偽誓して僕が喜べるとでも?」

「何だってそんな大げさな言葉を使おうっていうのかしら?」

「人が信念を守り続ける権利において」

「いい? 人に仕えれば、ご主人さまがすべて取り仕切ってくれるの」

「僕は誰にも仕えていません」ジルベールは頬をふくらませた。

「しかもあなた流に従えば、これからも仕えるつもりはないのね」ションはゆっくりと優雅に立ち上がった。「もう一度聞くから、はっきり答えて頂戴。ここで何をするつもりなの?」

「役立つ人間なら、喜ばせようとご機嫌を伺わずともよいのではありませんか」

「残念ね。会うのはみんな役立つ人ばかりで、飽き飽きしてるくらいよ」

「それではここを出てゆきます」

「出て行くですって?」

「ええ。来たいと頼んだわけではなかったでしょう? だから僕は自由です」

「自由?」慣れない反抗に遭って、怒りが湧いて来た。「ふざけないで!」

 ジルベールの顔が強張った。

「ねえ、いい」ジルベールが眉をひそめたのを見て、簡単には自由を諦めそうにないとションも悟った。「仲直くしましょう……可愛くて潔癖なところが気に入ってるの。周りにいる人たちと比べたらの話だけど。とにかく、真実を愛する心を温めておいて頂戴」

「冷ますつもりはありません」

「そうね、でも別の言い方をするわね。一つ、あなたの胸の中で温めておいて頂戴。一つ、トリアノンの回廊やヴェルサイユの広間で信念を披露しないで頂戴」

「ふん!」

「『ふん』はなし! 女から学べることはたくさんあるのよ、哲学者ちゃん。一つ目の金言、『口を閉じていれば嘘をつかなくてすむ』。よく覚えておいて」

「何か聞かれたら?」

「誰から? 馬鹿ね。あたしのほかにあなたのことを気にする人なんかいやしないわよ。まだ一派をなしたとは思えないものね、哲学者さん。同じ考え方をする人たちはまだ少ない。仲間を探すには道路を駆けまわり、藪を掻き分けなくてはならないわ。ここに留まりなさい。二十四時間を四回繰り返すうちに、あなたを完璧な宮廷人に変えてみせるから」

「そうでしょうか」ジルベールは強気だった。

 ションは肩をすくめた。

 ジルベールが笑みを浮かべた。

「終わりにしましょう」とションが言った。「でも、三人の人間に好かれるだけでいいのに」

「その三人とは?」

「国王、義姉、あたし」

「そのためには何をすればいいんですか?」

「ザモールには会った?」ジルベールの質問にまともに答えることを避けて、たずねた。

「あの黒ん坊ですか?」声には軽蔑の色が滲んでいた。

「ええ、あの黒ん坊」

「あれと何の関係があるんです?」

「運命だと思わなきゃ。あの子はもう国王の金庫に二千リーヴルも国債を持ってるの。もうすぐリュシエンヌの領主に任命されて、口唇の厚さや肌の色を馬鹿にしていた人たちも、ご機嫌を取ってムッシューって呼んだり、もしかすると閣下って呼んだりするかもしれない」

「僕は違います」

「ほらほら、哲学者の玉条は、『人はみな平等である』じゃなかったの?」

「だからザモールを閣下と呼ぶつもりはないんです」

 見事なパンチを喰らって、今度はションが口唇を咬む番だった。

「じゃあ野心はないの?」

「まさか!」ジルベールの目が輝いた。「そんなことはありません」

「確かお医者さんだったわね?」

「世界一立派な人間になって、同胞たちを救う仕事に就きたいんです」

「きっと叶うわ」

「そうでしょうか?」

「あなたは医者になる、それも国王付の医者にね」

「僕が? 医学の初歩も知らないのに……ご冗談でしょう?」

「ザモールが落とし門や石落としや堀の外壁が何なのか知っているとでも? そんなわけないじゃない。知りもしないし、知らないことを気にもしてないわ。リュシエンヌの領主であることに変わりはないもの。肩書きに加えてすべての特権もついて来るし」

「ええ、わかりますとも」ジルベールの声には棘があった。「道化が一人では足りないんでしょう。国王陛下が退屈なさって、二人必要になったんだ」

「ほら。誰かさんったらまたがっかりした顔をしてる。ほんとあなたって、人を喜ばせるとなるとぶさいくになるのね。取りあえず可笑しな顔をしておいて頂戴。かつらを頭にかぶせて、とんがり帽子をかつらに乗せている間は、ぶすったれないでおどけてみせてよ」

 ジルベールはまたもや眉をひそめた。

「ねえ、Tresme公がデュ・バリー夫人の尾巻猿の地位を願い出ているって知ったなら、陛下付の医者という地位もすんなり受け入れられるでしょう?」

 ジルベールが何も答えなかったので、ションは諺を都合よく解釈した。曰く、答えのないのは同意の印。

「仲良くしてくれたことだし、手始めに、これからは配膳室で食事を取らなくていいわ」[*1]

「ああ、ありがとうございます」

「気にしないで。こうなることはわかっていたから予めそういう指示は出しておいたの」

「それで、何処で食べればいいのでしょうか?」

「ザモールと一緒」

「え?」

「そうよ。領主と医者だもの、同じ食卓に着くのはおかしくないでしょう。よければ夕食を取りにどうぞ」

「お腹は空いていません」ジルベールは憮然とした声を出した。

 ションは落ち着き払っていた。「いいわ、今は空いてないでしょうけれど、夜には空くでしょう」

 ジルベールは首を横に振った。

「夜じゃくても、明日、明後日には。そのうち折れることになるわよ。それにあんまり迷惑をかけるようなら、あたしたちには忠実な矯正監もいるんだから」

 ジルベールは身震いして青ざめた。

「ザモール閣下のところに戻りなさい」ションが冷やかに告げた。「悪くないはずよ。料理は申し分ないし。でも礼儀は忘れないこと。でないと痛い目を見る羽目になるわよ」

 ジルベールは頭を垂れた。

 心を決めた時には返事をする代わりにそうするのが癖なのだ。

 ジルベールが部屋を出ると、先ほどの従僕が待ちかまえていた。案内された小食堂は、さっきまでいた控えの間のすぐ隣だ。ザモールが食卓に着いていた。

 ジルベールは傍らに坐ったものの、どうしても食べることは出来なかった。

 三時の鐘が鳴った。デュ・バリー夫人はパリに向かった。ションは後で合流することにして、厄介者を手なずけるための指示を与えた。いい子にすれば甘いお菓子をたっぷりと。強情を張るようならしばらく閉じ込めてから脅しの言葉をたっぷりと。

 四時になると、ジルベールの部屋に、いやいやながら医者にされるべく衣装が一揃い届けられた。とんがり帽子、かつら、黒タイツ、同じ色の上着。飾り襟、棒、大きな本も添えられていた。

 衣装を運んできた従僕が、一つ一つ目の前に見せ始めた。ジルベールは抵抗する素振りも見せなかった。

 グランジュ氏が従僕の後ろから入って来て、衣装の着け方を教えた。ジルベールはその説明をじっと聞いていた。

「確か――」とジルベールはそれだけ言った。「昔の医者は文箱と紙巻きを持っていたと思います」

「おや、本当だ。誰か文箱を見つけて来て、ベルトに吊るしなさい」

「羽根ペンと紙もお願いします。どうせなら完璧な衣装を着けたいので」

 従僕が飛び出して行った。指示に従うと同時に、ジルベールがやる気になっているとションに伝えに行ったのだ。

 ションは大喜びして、八エキュ入りの巾着を使いに手渡し、お利口な医者のベルトにインク壺と一緒に結びつけさせた。

「ありがとう」衣装を運んで来た従僕に、ジルベールは礼を言った。「ところで、着替えたいから一人にしてもらえませんか?」

「でしたら急ぐように」グランジュ氏が言った。「そうすればパリに発つ前にお嬢様にご覧いただけます」

「三十分。三十分だけお願いします」

「必要なら四十五分だ、お医者さま」家令はそう告げて、金庫の扉を閉めるように極めて慎重に扉を閉めた。

 ジルベールはつま先立って扉まで忍び寄り、耳を澄まして足音が遠ざかるのを確かめた。それから窓まで音を立てず移動した。そこから下のテラスまで十八ピエある。細かい砂の蒔かれたテラスは、大きな木々に囲まれて、その葉がベランダに覆いかぶさるほどだった。

 ジルベールは上着を三つに裂いて端と端を結んでから、帽子を卓子に、帽子の側に巾着を置いて、手紙を書き始めた。

『マダム、一番の財産は自由です。人間にとって一番大切なことは、その自由を守ることです。あなたに自由を奪われてしまうので、僕は逃げ出します。ジルベール』

 ジルベールは手紙を折りたたみ、ション宛てに宛名を書くと、十二ピエの布地を窓の格子に結びつけ、蛇のように下端まで滑り降りると、命の危険も顧みずテラスに飛び降りた。ちょっと無茶な行動ではあったが、木に飛びついて枝にしがみつき、栗鼠のように葉陰に滑り込んで、地面に降りた。そして全速力でヴィル=ダヴレーの森の方に姿を消した。

 三十分後に人が戻って来た頃には、ジルベールはとっくに手の届かないところにいた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XLI「Le médecin malgré lui」の全訳です。


Ver.1 10/01/16
 


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[訳者あとがき]

 ・10/01/16 ▼次回は01/30(土)更新予定。

[更新履歴]

・12/09/27 「四時になると、ジルベールの部屋に『いやいやながら医者にされ』の衣装が届けられた。」 → 「四時になると、ジルベールの部屋に、いやいやながら医者にされるべく衣装が一揃い届けられた。」

*1. [配膳室]。配膳室は、召使いが食事を取る場所だった。[]

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