ジルベールは腹を決めてそばまで近づいた。だが口を開いた後で何も言わずにまた閉じてしまった。気持は揺らいでいた。施しを乞うような気がしたのだ。正当な権利を要求するのではなく。
ジルベールが躊躇っているのを見て、老人も気が楽になったようだ。
「何かお話が?」と微笑んでパンを木の上に置いた。
「ええ、そうなんです」
「何でしょう?」
「失礼ですが、鳥に餌をやっていらっしゃいますよね、『神は之を養ひたまふ』というのに」[*1]
「神はきっと養って下さるでしょう。それでも、人間の手も鳥たちを養う手段の一つには違いありません。それを責めるのは間違っていますよ。人気のない森の中であろうと人通りのある町中であろうと、パンには事欠かないのですから。ここでは鳥たちがついばみ、そこでは貧しい人たちが手に取るのです」
「ああ!」ジルベールは老人の明晰で穏やかな声にひときわ胸を打たれた。「こうして森の中にいながら、鳥たちとパンを奪い合う人間もいるんです」
「あなたのことかな? もしやお腹が空いているのですか?」
「腹ぺこなんです。もしよければ……」
老人はすぐさま気の毒そうにパンに手を伸ばした。そこで不意に考え込んで、鋭く射通すような目つきでジルベールを眺めた。
考えてみると、目の前にいるのはそれほど飢えている人間には見えなかった。服は整っている。確かにところどころ土で汚れてはいるが。肌着は白かった。それもそのはず、前日ヴェルサイユで荷物から引っぱり出したシャツなのだ。そのシャツも確かに湿ってしわくちゃではあったが。つまりこの青年は明らかに森で一夜を過ごしたのだ。
それでいて白く細い腕はやはり、労働者ではなく夢想家のものだ。
如才のないジルベールのことである。老人が自分を疑い躊躇っていることに気づき、そうだとすると好意に甘えられなくなると思い慌てて前に出た。
「お腹が空きっぱなしなんです。昨日の昼から何も食べていなくて。もう二十四時間、何も摂っていません」
その言葉の真実であることは、真剣な表情、震えた声、青白い顔から明らかだった。
老人は躊躇うのを(正確には不安がるのを)やめて、さくらんぼの入ったハンカチとパンを差し出した。
「ありがとうございます」そう言いながらジルベールはハンカチを返した。「でもパンだけで充分です」
そのうえパンを二つに千切って半分だけもらい、もう半分は老人に返すと、傍らの草の上に腰を下ろした。それを見て老人はますますびっくりしていた。
食事はあっという間に終わった。パンは少ししかなく、ジルベールは飢えていたのだ。老人はジルベールを困らせるようなことは何も言わなかったが、無言のままひそかに観察を続けた。その間も表向きは箱の中の草花に注意を払い、草花は深呼吸でもするように背筋を伸ばし、匂い立つ頭をブリキの蓋の高さまでもたげている。
だがジルベールが池に近づくのを見て、慌てて声をあげた。
「飲んじゃいけない! 汚れているんです。去年の枯草が腐っているし、水面を泳いでいる蛙が卵を産んでいるので。どうせならさくらんぼを食べなさい。これだって喉の渇きは癒えますよ。さあお取りなさい、どうやら出しゃばりな押しかけ客ではないようですね」
「ええ、確かに僕は出しゃばりとは正反対の人間だし、出しゃばることほど嫌なことはありません。ついさっきヴェルサイユでそれを証明して来たばかりです」
「おや、ヴェルサイユからいらしたのですか?」
「ええ」
「あんな豊かな町で飢え死にするのは、よほど貧しいかよほど高潔な人だけでしょう」
「どちらも正解です」
「主の方と喧嘩でもしたのですか?」老人は問いかけるような視線をジルベールにぶつけながら、箱の中の植物をきれいに並べていた。
「主人なんていません」
「いけません、そんな大それた答えは」老人は帽子をかぶった。
「でも嘘偽りのないことですから」
「誰もがこの世に主人を持っているのですよ。『主人などいない』と口にしては、自尊心を正しく理解しているとは言えません」
「どうしてです?」
「だってそうではありませんか? 老いも若きも誰もが皆、一つの力によって支配されているのですから。人間によって縛られている者もいれば、信条や原理によって縛られている者もいるでしょうが、主人と言っても声や手で命令したりぶったりする人間たちとは限らないということです」
「だとしたら、僕は信条に縛られているんです。精神に苦痛なく主人として受け入れられるのは、信条だけですから」
「どのような信条でしょうか? 見たところまだお若い、既存の主義を持つには早すぎるようですが」
「人間はみな兄弟であり、生まれながらにして一人一人が互いに一つの義務を負っているということです。ちっぽけなものとはいえ僕も神から何らかの価値を授かりましたが、僕が他人の価値を認めるのと同じように、僕の価値も認めてくれるよう他人に要求する権利があります。行き過ぎない限り。不当なことや不名誉なことさえしなければ、人間としての性質に沿う場合に限って、尊敬を分かつ権利が僕にもあるということです」
「教えを受けたのでしょうか?」
「生憎ですが。でも『不平等起源論』と『社会契約論』を読んだんです。この二冊の本から学んだことが、僕の智識のすべてだし、恐らく希望のすべてです」
この言葉を聞いて、老人の目がきらりと光った。箱の仕切りに並べ損ねて、美しい花びらをした常盤花を危うくばらばらにしてしまうところだった。
「それがあなたの信条ですか?」
「あなたの信条でないことは確かでしょうね。これはジャン=ジャック・ルソーの信条なんです」
老人ははっきりと疑念を表したが、ジルベールの自尊心を傷つけないように気をつけていた。「しかし、正確に理解なさったのでしょうか?」
「これでもフランス語は理解しています。特に論理的で詩的であれば……」
「そういう意味ではありませんよ」老人は微笑んだ。「今は詩についておたずねしているのでないことは、おわかりでしょう。お尋きしたかったのは、哲学を学ばれてその全体系の本質を把握できたかということです、つまりル……」
老人は言葉を止めて赤くなった。
「ルソーの体系を。僕は学校で学んだわけではありませんが、読んだ本が何を教えてくれたのかは直感的にわかります。『社会契約論』は、有益で素晴らしい本でした」
「若い人には退屈なテーマでしょう。二十歳の夢にとっては無味乾燥な考察、春の想像力にとっては苦くて香りのない花ですよ」老人は悲しげにそっと口を利いた。
「不幸は人の成長を早めますし、それに好き勝手に夢を見ていれば苦しいことも出て来ますから」
老人は目を半ば閉じて考え込んだ。これは考える時の癖なのだが、それが老人の顔に何らかの魅力を与えていた。
「それは誰に対する皮肉でしょう?」老人は赤くなってたずねた。
「誰のことでもありません」
「しかし……」
「断言できます」
「ジュネーヴの哲学者のことを学んだと仰ったように聞こえましたが、彼の人生を皮肉ったのでは?」
「本人のことは知らないんです」ジルベールは率直に答えた。
「知りませんか?」老人は溜息をついた。「不幸な人間ですよ」
「何ですって! ジャン=ジャック・ルソーが不幸? それじゃあ正義なんて何処にもないんですね。不幸ですって! 人間の幸福のために人生を捧げた人が?」
「まあまあ。確かに本人のことを知らないようですね。それよりあなたのことを聞かせてもらえませんか?」
「よければこのまま話を続けたいのですが。だって僕みたいな誰でもない人間の話を聞いてもしょうがないでしょう?」
「それにわたしのような見ず知らずの人間を信用するのは不安ですからね」
「そんなつもりじゃありません! 不安なわけがないでしょう? 誰が何をしようと、今よりひどい目に遭わせられられるわけがないんですから。僕がどんな状態で現れたか思い出して下さい。独りぼっちで、惨めで、飢えていました」
「行き先は何処でしょうか?」
「パリに向かっているところですが……
「そうです……いえ、違います」
「ああ! どっちなんです?」ジルベールは笑い出した。
「嘘はつきたくないので、口を開く前によく考えてはならないと常々気をつけているんですよ。長年パリに住んでいてパリで生活して来た人間をパリジャンというのであれば、わたしはパリジャンです。ですがもうパリにはおりません。何故そんな質問を?」
「僕にとっては今まで話していたことと関係があるんです。つまりこういうことです。あなたがパリにお住まいなら、きっとルソー氏をご覧になったことがあるはずです」
「確かに何度か見たことはあります」
「通りかかればみんなが振り返るのでしょうね? 尊敬されていて、人類の保護者として指を指されるんでしょう?」
「そんなことはありません。両親にけしかれられた子供たちに後ろから石を投げられていました」
「何ですって!」ジルベールは愕然とした。「それでも裕福ではあるのでしょう?」
「今朝のあなたと同じように感じることも多いようですよ。『何処で朝食を食べよう?』」
「でも、貧しくたってみんなから尊敬されて慕われているんでしょう?」
「毎晩床につく時には明日のこともわからない状態です。バスチーユで目を覚まさずに済むのかどうか」
「そうなんですか! さぞかしみんなを憎んでいるのでしょうね?」
「愛しても憎んでもいません。嫌気が差しただけです」
「自分を迫害する人たちを憎まないなんて、信じられません!」
「ルソーはいつも自由でした。ルソーは自分一人で生きていけるほどには強かったし、強さと自由は人を穏やかで善良にさせます。奴隷状態と弱さだけが人を辛辣にさせるのですよ」
「だから自由に憧れていたんです」ジルベールは胸を張った。「今お話し下さったようなことは見当がついていましたから」
「人は牢獄の中でも自由です。明日ルソーがバスチーユに入れられたとして――いつかはそうなるでしょうが――それでもスイスの山にいた時とまったく変わらず自由に書いたり思索したりするでしょう。わたしだって人間の自由とは欲することを行うことにあるとは思いませんし、欲しないことを行うよう無理強いさせないことにあると思っています」[*2]
「つまり、ルソーがそう書いているのですか?」
「そのはずですよ」
「『社会契約論』ではありませんよね?」
「ええ、『孤独な散歩者の夢想』という新作です」
「失礼ですが、僕らはある点で見解が一致するのではないでしょうか」
「というと?」
「二人ともルソーを敬愛しているという点です」
「こうして錯覚の時代に生きているあなたは、どうお考えなんです?」
「物事については誤っているかもしれませんが、人間についてはそんなことはありません」
「ああ! いずれわかるでしょうが、誤まっているのはまさしく人間についてなんですよ。ことによればルソーはほかの人々よりはいくらか正しいかもしれません。でもいいですか、彼には欠点があります。大きな欠点が」
ジルベールは納得していないように首を振った。だがそんな不作法な態度を見せられながらも、老人は同じように丁寧に応じ続けた。
「出発点に戻りましょう。先ほどあなたに、ヴェルサイユで主の方と喧嘩でもしたのかとたずねましたね」
ジルベールもいくらか落ち着いて答えた。「主人などいない、と僕は答えました。さらにつけ加えるなら、大きな力を手にするかどうか決めたのは僕自身でしたし、ほかの人たちが羨むような条件を拒んで来たんです」
「条件ですか?」
「ええ、暇をもてあましている大貴族を楽しませるという条件でした。だけど僕はまだ若いのだし、学ぶことも上を目指すことも出来るのだから、貴重な若盛りを無駄にしたり人間の尊厳を自ら危うくするようなことはしてはならないと思ったんです」
「仰る通りです」と老人は深くうなずいた。「ですが上を目指すに当たってはっきりとした計画があるのですか?」
「僕は、医者になりたいと思っています」
「慎ましやかで犠牲を伴う真の科学と、メッキで塗りたくられた恥知らずなペテンを見わけることが出来る、立派な良い仕事です。真実を愛するのなら、医者におなりなさい。輝きを愛するのなら、医者をおやりなさい」
「でも学ぶには大金が必要ではないでしょうか?」
「お金は必要ですが、大金というのは言い過ぎでしょう」
「確かにジャン=ジャック・ルソーは何も費やさずに学んだそうですね」
「何も費やさずに……ですか!」老人は悲しげに微笑んだ。「神が人間に与え給うた大切なものを『何も』と言うのですか。純心、健康、睡眠。あのジュネーヴの哲学者はそれだけのものを費やして、ほんの僅かなことを学んだだけでした」
「ほんの僅かなですって!」ジルベールは露骨に嫌な顔をした。
「そうですよ。人にたずねてみて、ルソーのことを何と言うか聞いてご覧なさい」
「まずは偉大な音楽家でしょう」
「ルイ十五世が情熱的に『尽くしてくれるひとを失った』と歌ったからといって、『村の占い師』が良いオペラだとは限りません」
「偉大な植物学者です。『植物学についての手紙』をご覧下さい。僕は部分的にしか手に入れてませんが、あなたならご存じでしょう、こうして森で植物を集めてらっしゃるんですから」[*3]
「植物学者扱いされながら、実際には……」
「最後まで言って下さい」
「実際には、単なる植物屋でしかないのもよくある話です」
「ではあなたはどうなんですか……? 植物屋ですか、植物学者ですか?」
「ああ! 草や花と呼ばれる神の驚異を前にした、しがない無知な植物屋です」
「ルソーはラテン語が出来るのでしょう?」
「ひどいものですよ」
「でも新聞で読んだのですが、タキトゥスという昔の作家を翻訳していますよね」
「思い上がりですよ! どんな人間も自惚れることがあるものですが、ルソーもあらゆることに取り組みたいと思い上がったんです。ですが本人も第一巻(翻訳したのはそれだけでしたが)の序文で言っています、ラテン語は苦手だし、タキトゥスは手強い相手なのですぐにうんざりしてしまう、と。いえいえ、あなたには悪いが、ルソーも万能ではありません。虎の威を借る狐とよく言うでしょう。どんな小さな川でも嵐になれば溢れて、湖のように見えるものです。ですが船を進めようとしてご覧なさい、すぐに座礁してしまいますよ」
「つまりあなたに言わせると、ルソーはうわべだけの人間だと?」
「そうです。恐らく他人よりはちょっとばかりうわべが厚く見えるだけですよ」
「うわべでもそのくらいになれれば上出来なのではありませんか」
「当てつけでしょうか?」先ほどジルベールを落ち着かせたのと同じように穏やかだった。
「とんでもありません! あなたのお話はとても楽しく、ご不快にさせるつもりなんてありません」
「ですが、わたしの話の何処が良かったのですか? パンとさくらんぼのお礼にお世辞を言っているわけではないのでしょうし」
「その通りです。お世辞なんか絶対に言うもんですか。偉ぶりもせず、親切に、子供扱いせず一人の若者として話してくれたのはあなたが初めてでした。ルソーについては意見が食い違っていますけれど、ご親切に隠された気高さに心が打たれました。あなたとお話ししていると、自分がまるで満ち足りた部屋の中にいるみたいです。鎧戸は閉まっていて、真っ暗なのに満ち足りているのはわかるんです。あなたがその気になれば話の中に光を射し入れて、僕の目を眩ませるんです」
「ですがあなたの方だって、その周到な話しぶりを聞けば、ご自身で仰るほど教養がないとは信じられませんよ」
「こんなのは初めてのことで、こんな言葉遣いが出来たことに自分でも驚いています。何となくしか意味はわからないし、一度耳にしたことがあったので使ってみただけなんです。本で読んだことはありますが、意味なんてわからなかった」
「そんなに読んだのですか?」
「何冊も。でもまた読み返すつもりです」
老人は目を見張った。
「手に入る本はすべて読んでしまいましたから。いえ、良い本だろうと悪い本だろうとただただ貪っていたんです。どの本を読めばいいのか教えてくれる人なんていませんでしたから。何を忘れて何を覚えればいいのかなんて、誰も教えてくれませんでした!……ごめんなさい、あなたのお話が面白かったからといって、僕の話もそうだなんて思ってはいけませんね。植物採集をしていらっしゃったのに、お邪魔してしまいました」
ジルベールは立ち去ろうとする素振りを見せたが、本音では引き留めて欲しがっていた。老人は小さな灰色の瞳でジルベールを射抜き、心の底まで見透かしているようだった。
「そんなことはありませんよ。もう箱は一杯ですし、苔はもう要りません。この辺りには美しい
「待って下さい。
「遠くでしょうか?」
「いえ、五十パッススくらいのところです」[*4]
「ですがどうしてそれが
「僕は森の生まれです。それに、僕がお世話になっていた家のお嬢様は植物学の趣味もありました。標本の下にはお嬢様自身の手で植物の名前が書いてありました。僕はよくその植物と名前を眺めていたので、さっき見たのが、標本には岩苔と書かれてあったアジアンタムのことではないかと思ったんです」[*5]
「では植物学に興味がおありなのですか?」
「興味があるかですって? ニコルから話を聞いた時――ニコルというのはアンドレ嬢の小間使いなのですが――お嬢様がタヴェルネの近くで何かの植物を探していたけれど見つからなかった、という話を聞いた時、その植物の形を教えて欲しいとニコルに頼んだんです。するとアンドレは、頼んだのが僕だとは知らずに簡単な絵を描いてくれることもありました。ニコルはそれをすぐに持って来てくれたので、僕は野原、牧場、森を駆けずり回って、その植物を探しました。見つかったら鋤で引っこ抜いて、夜中に芝生の真ん中に植え直しておきました。そうしたらある朝、散歩中にアンドレが声をあげて喜んだんです。『何て不思議なのかしら! ずっと探していた植物があんなところに』」
老人は今まで以上にジルベールをじっと見つめた。ジルベールも自分の言ったことに気づいて真っ赤になって目を伏せたりしなければ、老人の目に宿っているのが興味だけではなく溢れる愛情であることがわかったはずだ。
「そうですか! 植物学の勉強を続けなさい。きっと医者への近道になるはずです。主は無駄なものなど何一つお作りになりませんでしたから、どんな植物もいずれ科学書で解説されるようになるでしょう。まずは薬草の違いを覚えて下さい、それから一つ一つ薬効を覚えるんです」
「パリには学校があるんですよね?」
「無料の学校だってありますよ。例えば外科学校は当世の恩恵の一つです」
「そこの講義を受けます」
「簡単なことです。きっとご両親もあなたの気持を知れば生活費は出してくれますよ」
「両親はいません。でも大丈夫です。自分で働きますから」
「そうですね。それにルソーの作品を読んだのでしたら、どんな人間も――君主の息子であろうと――手に職をつけるべきだというのはおわかりでしょうし」
「僕は『エミール』は読んでないんです。その箴言は『エミール』に書かれているんですよね?」
「ええ」
「タヴェルネ男爵が今の箴言を馬鹿にして、我が子を指物師にせずに残念だわいと言っていたのを耳にしたことがあるんです」
「ご子息は何になったのですか?」
「将校に」
老人は微笑みを浮かべた。
「貴族はみんなそうです。子供に生きる手だてを教えずに、死ぬための手だてを教えるんですから。ですから革命が起きて追放されれば、他人に物乞いをしたり剣を売ったりするほかない。ひどいことです。ですがあなたは貴族の息子ではないのですから、出来る仕事があるのでしょう?」
「初めに言ったように、僕は何も知らないんです。それに、実は、身体を激しく動かすきつい仕事はひどく苦手で……」
「すると、あなたは怠け者でしたか――」
「違います! 怠け者なんかじゃありません。力仕事ではなく、本を下さい、薄暗い部屋を下さい。そうすれば、僕が選んだ仕事に昼も夜も全力を尽くしているかどうかわかるはずです」
老人はジルベールの白く柔らかい手を見つめた。
「好き嫌い、勘。選り好みがいい結果を生むこともあります。ですがそれにはちゃんとした道筋が必要です。どうです、
ジルベールは首を振った。
「読み書きは出来るのでしょう?」
「母が死ぬ前に読みを教えてくれてました。僕の華奢な身体を見て、母はいつも言っていました。『労働者にはなれそうもないね。僧侶か学者になるといい』と。勉強を嫌がると、『読みを覚えなさい、ジルベール。木を伐ったり鋤を持ったり石を磨いたりはしないことだ』と言われました。だから学んだんです。生憎、母が死んだ時にはやっと読めるくらいでしたけれど」
「では書取は誰から教わったのですか?」
「独学です」
「独学?」
「ええ、棒を削って、砂を濾して表面を均して。二年間、複製でもするように一冊の本を書き写しました。ほかの字体があることも知らないまま、ようやく真似ることが出来るようになりました。それが三年前、アンドレが修道院に入ってしまったんです。数日ぶりに、配達夫が父親宛のアンドレの手紙を僕に言伝てた時でした。そこでようやく、活字体とは別の字体があることを知りました。タヴェルネ男爵が封を破って封筒を捨てたので、僕はその封筒を拾って大事に仕舞っておいて、次に配達夫がやって来た時に宛先を読んでもらったんです。それにはこう書かれてありました。『ムッシュー・ド・タヴェルネ=メゾン=ルージュ男爵宛、男爵居城、ピエールフィット経由』。
「その文字の一つ一つと、対応する活字体を照らし合わせて、三つを除けばどのアルファベットも二本の線で出来ていることに気づいたんです。そこでアンドレの書いた文字を書き写しました。一週間後には、この宛名を一万回は書いたでしょうか、書取を身につけました。ある程度は書けるようになりましたし、どちらかというと悪い方ではないと思います。だから。だから僕の望みはそれほど大それたものではないはずです。だって文字は書けるし、手に入った本はすべて読んでいるし、読んだことはすべて繰り返し考える努力はしています。僕の筆が必要な人や、僕の目が必要な盲人や、僕の口が必要な唖者が見つからないとも限らないでしょう?」
「忘れてやいませんか、主人を持つことになるんですよ、主人嫌いのあなたが。書記や朗読係だって第二身分の召使いなんです」
「そうですね……」ジルベールは青ざめて呟いた。「でもそのくらい。絶対に上を目指すんです。パリの舗石を運びます、必要なら水を運びます。成功しようと途中で死のうと、どっちにしたってそれまでには目的を達成するんだ」
「まあ、まあ。見たところどうやら熱意と勇気はあるようですね」
「とても親切にしていただきましたが、でもあなただって、お仕事に就いていらっしゃるんでしょう? 金融関係の方のような服を着ていらっしゃいますが」
老人は穏やかで翳のある微笑みを見せた。
「確かにある職業に就いています。人は何かをやらなくてはなりませんからね。ですが金融とは何の関係もありません。金融業者は植物なんて採りませんよ」
「お仕事で集めていたのですか?」
「そのようなものです」
「貧しいのでしょうか?」
「ええ」
「与えるのは貧しき者たちと言うじゃありませんか! 苦しいからこそ智恵を授かったのも事実ですし、ためになる助言がルイ金貨より貴重なのも事実です。だからどうか助言を与えて下さい」
「与えるのは助言だけでは足りないのではないでしょうか」
ジルベールは笑みを浮かべた。
「そうでしょうか」
「生活費にどのくらい必要だと思いますか?」
「たいしてかからないでしょう」
「パリのことをまったく知らないようですね」
「昨日リュシエンヌの高台から見たのが初めてです」
「では大都市で暮らすのにどれだけお金がかかるか知らないのですね?」
「だいたいどのくらいでしょうか……? 比率を教えて下さい」
「いいでしょう。例えば地方で一スーかかるとしたら、パリでは三スーかかります」
「そうですか……じゃあ働いた後に休む場所のことを考えたら、一日当たり六スー必要なんですね」
「さあ、だからわたしは人間が好きなんです。一緒にパリにいらっしゃい。暮らしていけるだけの仕事もお世話してあげますよ」
「いいんですか!」ジルベールは喜びに酔いしれた。すぐに改めて確認した。「実際に働くようになれば、それは施されているのとは違いますよね?」
「もちろんですよ。安心なさい、わたしは人に施しを与えるほど裕福ではありませんから。手当たり次第に施しを与えるほど頭がおかしくもありませんしね」
「よかった」ジルベールはこの厭世家の冗談に傷つくどころか心が軽くなった。「僕が好きなのは言葉です。お世話になります、お礼の言いようもありません」
「それでは一緒にパリに来ることは決まりですね?」
「はい、そうしていただけるのなら」
「もちろんですよ、こちらからお願いしたんですから」
「絶対にしなくてはならないことはありますか?」
「何も……働くだけで結構です。それに、どれだけ働くかを決めるのはあなた自身です。あなたには若々しくする権利がある。幸せでいる権利や自由でいる権利……それに暇を見つけて何もしない権利だってあるのですから」
老人は心ならずといった微笑みを浮かべてから、空を見上げた。
「ああ、若さ! 力! 自由!」そう言って溜息をついた。
この言葉の間、線が細く整った顔立ちに何とも言えぬ翳りが広がっていた。
やがて老人は立ち上がって杖にもたれた。
「それでは」とようやく明るさを取り戻して言った。「今後のことも決まったのですから、よければもう一箱分植物を集めませんか? ここに灰色紙がありますから、初めに集めた分を分類しておきましょう。それはそうと、もうお腹は空いていませんか? まだパンは残っていますよ」
「お昼に取っておきませんか」
「さくらんぼだけでも食べて下さい。かさばってしまいますから」
「そういうことでしたらいただきます。だけど箱は僕がお持ちします。そうすれば楽に歩けるでしょうし、僕はこういうのに慣れているせいで無理をさせてしまうかもしれませんから」
「しかしまあ、あなたは幸運の使者ですよ。あそこに見えるのは
ジルベールは先に立って歩き出した。老人がそれを追い、二人は森の中へ姿を消した。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XLIII「Le botaniste」の全訳です。
Ver.1 10/02/27
Ver.2 12/09/27
[訳者あとがき]
・10/02/27 ▼次回は03/13(土)更新予定。
[更新履歴]
・12/09/27 「あなたは反対なさるかもしれませんが、これはジャン=ジャック・ルソーの信条なんです」 → 「あなたの信条でないことは確かでしょうね。これはジャン=ジャック・ルソーの信条なんです」
▼*1. [神は之を養ひたまふ]。ルカ伝、第12章第24節、イエスの言葉。「
▼*2. [人間の自由とは欲する……]。『孤独な散歩者の夢想』(1782年刊行)「第六の夢想」より。[↑]
▼*3. [植物学についての手紙]。原文は単に「lettres(手紙)」。ルソーの死後1782年に本の形にまとめられ、『植物学についての手紙(Lettres élémentaires sur la Botanique)』と題されて刊行された。一つ前の『村の占い師』のことは、第34章にも出てくる。ルソー作のオペラ。[↑]
▼*4. [五十パッスス]。一パッスス(1 pas)は約1.48メートルなので、50パッススは約75メートル。[↑]
▼*5. [岩苔/アジアンタム]。フランス語「capillaire」には「男性名詞:羊歯植物のアジアンタム」のほか、「形容詞:髪の毛の/(髪の毛のように)細い」という意味があります。老人から「capillaires」という名を聞いたジルベールは、おそらくその「髪の毛」という響きから、葉がもっさもさの「岩苔(mousses de roche)」に思い至ったのでしょう。[↑]