ジルベールが充実した一日を過ごし、冷たい水に浸したパンを屋根裏でちびちびと口に入れ、庭園の空気を胸一杯に吸い込んでいた頃のこと。やや異国風ではあるが洗練された服装をし、長いヴェールで顔を覆った一人の女性が、サン=ドニの道路を見事なアラブ馬で疾走していた。今はまだ人気もないが、明日には多くの人々でにぎわいを見せることになるはずだ。女はサン=ドニ修道院の前で馬から下りると、回転式受付窓の格子を細い指で叩いた。手綱をつかまれている馬が、苛立つように前脚で砂を掻いている。
村の住人が物珍しげに足を止めた。初めに風変わりな外見に目を奪われ、やがてしつこく戸を叩いている点を気にしだした。
「何かご用がおありですか?」と一人がたずねた。
「見ての通りです」イタリア訛りが強い。「中に入りたいの」
「ではいけない。この小窓は一日一回しか開かない。開く時間は過ぎてしまった」
「修道院長とお話しするにはどうすれば?」戸を叩きながら女はたずねた。
「壁の端の戸を叩くか、大門のベルを鳴らすといい」
また一人近づいて来た。
「今の修道院長はマダム・ルイーズ・ド・フランス殿下なのはご存じかな?」
「ありがとう、知っています」
「見事な馬だ!」竜騎兵が声をあげた。「年を取っていなければ、五百ルイはする。俺の馬が百ピストールするのと同じくらい、確かなことだ。おわかりですか?」
この言葉を聞いて集まっていた人々にざわめきが広がった。
ここで聖堂の参事会員が、竜騎兵とは違って馬を気にも留めず乗り手だけを見つめ、女のところまで歩み寄ると、関係者だけが知っているやり方で小窓の扉を開けた。
「お入りなさい。馬も連れて行くといい」
好奇に満ちた群衆ののしかかるような視線から早く逃れたくて、女は言われた通りに馬を連れて扉の奥に消えた。
広い中庭で一人になると、馬具を震わせ蹄で地面を蹴っている馬を、手綱を引いてなだめた。すると小窓の受付係の修道女が小部屋から現れ、修道院から駆け寄って来た。
「どういったご用件でしょうか? どのようにお入りになったのですか?」
「親切な参事会員が扉を開けてくれました。私の用事は、その……可能であれば、修道院長とお話しさせて下さお」
「マダムは今夜はお会いになれません」
「修道院長には、助けを求めに来た修道女なら誰にでも、どんな時間にでも会う義務があると聞きましたが」
「通常でしたらそうすることも出来ますが、殿下は一昨日いらっしゃったばかりで、今夜参事会を開く予定なのです」
「マダム! 遠くから、ローマからやって来たんです。馬で六十里を走って来たばかりで、これが限界なんです」
「何をお望みだというのです!」受入口係の声は冷たかった。
「修道女様、私は修道院長に重大なことをお知らせに来ました」
「明日おいで下さい」
「出来ません……一日をパリで過ごして、既にその日も……それに、宿屋に泊まることも出来ません」
「何故です?」
「持ち合わせがありません」
受入口係は唖然として女をじろじろと眺めた。宝石を身に纏い、見事な馬に乗っているというのに、泊まる金もないと言い張るのだろうか。
「今の言葉は忘れて下さい、服装のことも。お金がないと言ったのは言葉の綾です。きっとつけで泊めてくれると思います。でも私がここに求めているのは、宿ではなく避難所なんです」
「失礼ですが修道院はサン=ドニだけではありません。どの修道院にも修道院長はいらっしゃいます」
「ええ、よくわかっています。でもそこらの修道院長にお伝えするわけには参りません」
「いくら頑張っても懸命なご判断とは申せません。マダム・ルイーズ・ド・フランスは世俗のことにはもう関心がございません」
「構いません! 私が話をしたがっているということをお伝え下さい」
「参事会があると申し上げました」
「参事会の後で」
「参事会は始まったばかりです」
「では中で祈りながら待っています」
「まことに申し訳ございませんが」
「何?」
「お待ちいただくわけには参りません」
「待っていてはいけないと?」
「はい」
「間違っていたのでしょうか! ここは神の家ではなかったの?」女の目と声にこもった力強さに、修道女はそれ以上抵抗することが出来なかった。
「そういうことでしたら、お話ししてみましょう」
「殿下にお伝え下さい。私はローマから来ました。マイヤンス(Mayence)とストラスブールで眠るために休んだだけで、馬に乗って手綱を握るのに必要なだけの食事しか取っていません」
「お伝えしましょう」
修道女は立ち去った。
すぐに平修道女が現れた。
受入口係はその後ろにいる。
「どうでした?」女は答えを待ちきれず、促すようにたずねた。
「殿下の仰いますには」と平修道女が答えた。「今晩謁見に応じることは出来ませんが、修道院の軒はお貸しいたします、一刻を争う助けを求めていらっしゃるようですから。長い旅を終えたばかりで疲れていらっしゃるのでしたら、すぐにお休みになることです」
「馬はどうなるの?」
「世話をさせますので、ご安心下さい」
「羊のようにおとなしくて、ジェリドと呼べばついて来ますから。どうかお願いします、大事な馬なんです」
「国王陛下の馬のように扱わせましょう」
「ありがとう」
「では、お部屋にご案内して下さい」平修道女が受入口係に言った。
「部屋ではなく、教会堂にお願いします。今の私に必要なのは、眠りではなく祈りです」
「礼拝堂はあちらです」修道女が指さした先には、教会堂に通ずる扉があった。
「修道院長にはお目にかかれますか?」
「明日」
「明日の朝?」
「いいえ、明日の朝はまだお会い出来ません」
「なぜ?」
「明日の朝はお出迎えがございますので」
「私以上に急いでいて不幸な人がいるというの?」
「王太子妃殿下が二時間お立ち寄り下さるのです。修道院にとってまたとない栄誉、哀れな修道女にとってまたとない誇りでございます。どうかご理解を……」
「そういうこと……」
「この場所が王家のご訪問に相応しいところであって欲しいと、修道院長は願っていらっしゃるのです」
「でも――」と震えながら辺りに目を走らせた。「修道院長に会えるまでの間、ここは安全なのかしら?」
「ご安心下さい。ここは犯罪者にとっても安全な隠れ家です、ましてや……」
「逃亡者にとっても。そうね。ここには誰も入ることが出来ないと考えて構わないんですね?」
「許可証がなければ
「では許可証を手に入れたら……あの人にはそのくらいの力がある。時にぞっとするほどの力が」
「あの人とは?」
「何でもないわ、何でもない」
「可哀相に気が触れているのだ」修道女は呟いた。
「教会堂に! お願い教会堂に!」修道女の見解を釈明するかのように、女は繰り返した。
「こちらです。ご案内いたします」
「追いかけられているんです。急いで、早く、教会堂に!」
「ご安心を。サン=ドニの城壁はしっかりしております」受入口係の修道女は憐れむように微笑んだ。「ですから、どうか信じて下さいまし。あなたのように疲れている方は、私の言うことを聞いて、教会の床に膝をこすりつけたりしないで寝台で休むことをお勧めいたします」
「いいえ、やっぱり祈ることにします。主が追っ手を遠ざけてくれることを祈って」女は声をあげて、修道女が指さした扉の中に姿を消した。その後ろで扉が閉まった。
その修道女は修道女らしく好奇心が強かったため、正面入口から迂回してそろそろと前に進むと、女が床に顔を伏せて祈りながら泣きじゃくっているのが見えた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre XLVII「La femme du sorcier」の全訳です。
Ver.1 10/04/10
[訳者あとがき]
・04/10 ▼次回は04/24(土)更新予定。
▼*1. []。[↑]