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翻訳:東照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第七十二章 空中散歩

 ジルベールはこうして敵陣に乗り込む準備を始めていた。敵陣と呼ぶのも、ここをひそかにタヴェルネ家だと感じていたからで、戦場に赴かんとする名軍師のように、天窓から虎視眈々と窺っていると、この静かな家の敷地内で、哲学者の興味を惹くような出来事が起こった。

 石が塀を飛び越えて、家の壁の角に当たった。

 結果には必ず原因があることくらいは百も承知だったので、ジルベールはその結果を目にして原因を探し始めた。

 だが必死で窓から身を乗り出してみても、路上には石を投げた人物は見当たらない。

 ただし――その変化が、起こったばかりの出来事と関わっているのはたちどころにわかった――ただし、一階の鎧戸がそっと開かれ、その隙間から溌剌としたニコルの顔が覗いた。

 ニコルを目にして、ジルベールは慌てて頭を引っ込めたが、狡猾なニコルからは目を離さずにいた。

 ニコルは窓という窓を、とりわけ館の窓を確かめてから、鎧戸の陰から出て庭に駆け出し、レースを干してあった果樹垣根エスパリエに近づいた。

 そのエスパリエの途上に、ジルベールが目を離さずにいたあの石が転がっていた。目下のところ重要な意味を持っているその石をニコルが蹴とばしたのが見えた。ニコルは石を蹴り続け、とうとうエスパリエの下の花壇の端までたどり着いた。

 そこでニコルは手を上げてレースを外したが、落とした一枚をゆっくり時間をかけて拾い上げ、そのついでに石をつかんだ。

 ジルベールには今なお何もかもさっぱりわからない。だがニコルが石を拾って、胡桃を拾った食いしん坊のように紙の殻を剥き出したのを見るに及んで、これは隕石にも匹敵する重大事なのだと悟った。

 それは紛れもなく手紙に違いなかった。石のそばに転がっているのをニコルが見つけたのだ。

 女狐ニコルは急いでそれを広げて貪るように読み、ポケットに仕舞った。もはやレースには何の注意を払う必要もない。レースは乾いていた。

 だが女を蔑視している利己的なジルベールは首を振った。まったくニコルと来たら生まれついての女狐だな、塀越しに手紙を受け取るような娘とはきっぱり縁を切ろう。ジルベールは倫理的かつ健全な政治的判断を下した。

 原因と結果について極めて論理的な判断を下したジルベールは、こうして論理的に考えながらも、どうやら自分に原因があった一つの結果を切り捨てた。

 ニコルは家に戻ってからまた出て来たが、今度は手はポケットの中だった。

 ニコルがポケットから鍵を取り出した。指の間で一瞬だけ稲光のように輝くのが見えた。だがニコルはすぐにその鍵を庭の出入口の下に滑り込ませた。そこは通常使う正門と同じ側の、塀の反対側にあって、庭師が出入りするようになっている。

「そうか! なるほどな。手紙に逢い引きか。時間を無駄にしない。新しい恋人が出来たのか?」

 ジルベールは眉をひそめた。自分に捨てられたせいで心に修復不能の穴がぽっかり空いているものとばかり思っていたのに、驚いたことに穴は完全に埋められているのがわかり、がっくりしたのだ。

「僕の計画の邪魔になりそうだな」ジルベールは不機嫌な理由をほかのせいにしようとした。「まあいいや」しばらくしてから呟いた。「ニコル嬢に僕の後釜が出来たんだ、おめでとうと言わせてもらおう」

 だがジルベールはある面ではぶれのない心の持ち主だった。即座にそろばんをはじいて、たった今知ったばかりのまだ誰にも知られていない事実を、いつかニコルに対して武器に出来るのではないかと考えた。何せニコルには否定できないほど詳しく秘密を把握しているうえに、向こうから疑われることはまずないだろうし、どんな小さな疑いであろうと具体的な形を取ることもあるまい。

 その時が来れば武器として利用しよう。ジルベールは心に決めた。

 そうこうしているうちに、待ちかねていた夜が訪れた。

 ジルベールはもはや何も恐れてはいなかった。気がかりだったのはルソーが前触れもなく帰宅することだけだ。ジルベールが屋根の上や階段の途中にいるのを見て驚かれたり、空っぽの部屋に気づかれるかもしれない。部屋を抜け出したことがわかれば、あのジュネーヴ人は烈火の如く怒るに違いない。矛先を逸らせればと考えて、哲学者宛の手紙を小卓の上に置いておいた。

 その手紙には以下の文章が書かれてあった。

「心からの親愛と尊敬を込めて

 あなたの忠告、或いは命令に背いて部屋を出たからといって、悪い印象を持たないで下さい。先日のような事故に巻き込まれない限り、すぐに戻って来ます。ああした事故やもっとひどい事態に遭う危険を冒してでも、二時間ほど部屋を出なくてはならないのです」

 ――戻ったら何て言おうか。でもこれでルソーさんも心配しないだろうし、怒りもしないはずだ。

 夕闇が降りた。初夏に特有のむっとする暑さに覆われた。空には雲がかかり、八時半になると、ジルベールの必死の目にも暗闇の奥を見分けることは出来なくなった。

 ようやくその時になって、息が苦しく、汗がどっと流れて額や胸にこぼれていることに気づいた。衰弱と体力減退の徴候だ。考え直せ。こんな状態で探検に赴くのはやめた方がいい。企てを成功させるためにはもちろん、身の安全のためにも、万全の体力と体調が必要だ。だがジルベールはこうした本能の囁きを無視した。

 道徳的意思の声が大きくなる。ジルベールが従ったのは、いつものようにその意思だった。

 時は来た。ジルベールは首に綱を巻きつけ、胸をばくばくさせながら天窓によじ登り、窓枠にしっかりとつかまった。樋に足をかけ、右の天窓に向かって進んだ。既に述べた通り、その天窓には階段があり、およそ二トワーズ離れていた。

 こうしてせいぜい八プスの鉛の管に足を踏み出した。一定の長さごとに鉄の器具で留められているその管が、柔らかい鉛のせいで足の下でたわんだ。両手で屋根瓦にしがみついていたが、バランスを保つ助けにはなれど、指が引っかからないので、いざ落ちそうになった時に身体を支えられるようなものではない。こうした状況のまま空中散歩を二分の間、いわば二永遠の間続けなくてはならない。

 だが怖がるつもりはなかった。それが恐れを知らぬこの青年の意思の力であった。細い線の上を上手く歩くには足許ではなく少し前方を見なくてはならないという曲芸師の話を思い出していた。遙か下のことなど考えずに、鷲のように、空を舞えるのだと思い込むのだ。

 何度かニコルに会いに行く際、既にこのことは実践済みだった。あのニコルも、今や屋根や煙突ではなく扉の鍵を使うまでに大胆になっていた。

 あの頃のジルベールはこうしてタヴェルネの製粉所の水門を越え、剥き出しになった古い倉庫の屋根の梁を越えていたのだ。

 そういうわけだからわずかたりとも怖じ気づくことなく、ジルベールは目的地にたどり着いた。たどり着いてしまえば後は堂々と階段に降りるだけだ。

 だが踊り場のところで足を止めた。中から声が聞こえている。テレーズとご近所さんたちが、ルソーの才能や著作の素晴らしさ、楽曲の美しさについて話に興じていた。

 ご近所たちは『新エロイーズ』を読んでいて、卑猥な本だったとずけずけ口にしている。それに応えてテレーズは、あんたたちはあの素晴らしい本の哲学的深みがわかってないんだよ、と言い返した。

 ご近所たちはそれについては沈黙を守った。そうした話題に無智をさらけ出すこともあるまい。

 このご大層なおしゃべりは踊り場から踊り場へと移って行ったが、その火よりもさらに熱い火を使って晩ご飯が作られていた。

 だからジルベールは理屈をこねるのを聞き、肉の焼ける音を聞いた。

 そんな中で自分の名前が呼ばれるのを聞き、ぎょっとして身震いした。

「ご飯が終わったら、あの子が欲しいものがないか屋根裏まで見に行かなくちゃね」

 「あの子」は屋根裏訪問の予定を聞いて、喜んだりはせずにむしろ恐れおののいた。幸いなことに、テレーズが一人で夕食を摂るのならじっくり酒と語らうはずだ。焼き肉は美味そうだし、夕食が終わるのは……十時だ。今は八時四十五分ちょっと前だ。それに、夕食が終わったら終わったでテレーズはいろいろなことを考えていただろうから、「あの子」のことは忘れてしまうかもしれない。

 だが残念なことに時間が過ぎてゆく。その時突然、焼き肉が燃えた……料理人が大声で助けを呼ぶのを聞いて、おしゃべりが止んだ。

 みんなは事件の現場へと一目散に駆け出した。

 ジルベールはこの小事件を利用して、妖精のように階段に滑り込んだ。

 二階で手頃な鉛管を見つけ、そこに綱を結びつけると、窓に乗り出し素早く降り始めた。

 まだ鉛管と地面の間にぶら下がっている間に、庭に足音が聞こえて来た。

 結び目まで戻って、こんな間の悪い奴はいったい誰なのかを、確かめるだけの余裕はあった。

 男が一人。

 男は小扉のそばまで歩いて来たので、それがニコルの待ち望んでいた瞬間なのは疑いない。

 ジルベールは危険な滑降の途中でじっとして、この闖入者をまじまじと見つめた。

 あの歩き方、三角帽の下から覗いている横顔、利き耳の端にかかるようにした三角帽のかぶり方を見て、あれはボージールだ、ニコルがタヴェルネで出会った指揮官代理だと気づいた。

 すぐにニコルが扉を開けっ放しにして庭に飛び出して来た。温室を目指す鶺鴒セキレイのように素早く軽やかに、ボージールが近づいて来る方向目指して飛び出して行った。

 落ち合った二人に些かの躊躇いもないのを見れば、こうした逢い引きが初めのことでないのは明らかだ。

 ――まずは下まで降りなくちゃ。ニコルが今こうして恋人と逢っているのなら、しばらくはこうしているだろう。つまりアンドレは一人きりか! 一人きり……。

 確かに一階には何の物音も聞こえないし、かすかな明かりも見えない。

 ジルベールは無事に地面に立ったが、庭をまっすぐ横切りたくはなかった。塀沿いに茂みに隠れ、頭を低くして庭を横切り、ニコルが開けっ放しにしておいた扉にそれとも知らずにたどり着いた。

 門の上まで這い育っている大きなアリストロキアの陰に隠れて、大きなホールである手前の部屋が予想通り完全に空っぽなのを確認した。

 ホールには二枚の扉があって、一枚は閉じていたが、もう一つは開いていた。開いているのはニコルの寝室だろうと見当をつけた。

 ジルベールはその部屋に忍び込み、暗闇の中で何かにぶつかったりしないよう手を伸ばして進んだ。

 だが廊下の端まで来ると、ガラス窓の嵌められた扉が隣の部屋の明かりに浮かび上がった。ガラスの向こうにはモスリンのカーテンがたなびいている。

 廊下に出ると、明かりのついた部屋からかすかな声が聞こえた。

 アンドレの声だ。ジルベールの血という血が逆流した。

 別の声がそれに答えている。フィリップの声だ。妹の具合をたずねているのだ。

 ジルベールは用心しながら歩を進め、何かの胸像が乗せられている円柱の陰に隠れた。これは当時、奥行きのある二重扉の装飾として作られていたものである。

 こうして安全に見聞き出来るようになると、幸せのあまり心が喜びにとろけた。恐ろしさのあまり心臓がただの点のように縮こまった。

 ジルベールは耳を澄まし、目を凝らした。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXII「Voyage aérien」の全訳です。


Ver.1 10/10/23
 


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[訳者あとがき]

 ・10/23 ▼次回は11/06(土)更新予定。

*1.

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