先ほどお話しした出来事は、金曜の晩に起こったことである。ルソーが楽しみにしていたリュシエンヌの森での散策は、その翌々日の予定であった。
アンドレがトリアノンに行くと知って以来、何もかもがどうでもよくなってしまい、ジルベールは天窓の框にもたれて日がな一日を過ごしていた。その日は一日中アンドレの部屋の窓は開いたままで、一度か二度、弱々しく青ざめたアンドレが空気を吸いに窓辺に寄るのを見ては、アンドレを永遠にここに縛りつけておく術を見つけ、一生この屋根裏部屋に留まって一日に二度その姿を見ることが出来れば、ほかには天に望むことなどないように思われた。
ついに念願の日曜日がやって来た。ルソーは前日から準備をしていた。靴を念入りに磨き、暖かくて身軽な灰色の服を洋服箪笥から引っぱり出し、そんな作業には布の上着で充分に用が足りるじゃないかと、テレーズをうんざりさせていた。だがルソーはそれを無視して、好きなように準備を続けた。自分の着る服だけではなく、ジルベールの服を選ぶに際しても細心の注意を払ったうえに、傷一つない絹靴下と新品の靴という贈り物まで揃えていた。
標本の点検も終えたばかりだ。これから活躍するはずの苔の標本も忘れずに用意していた。
ルソーは子供のようにわくわくした気持を抑えきれず、何度も何度も窓に貼りつき、走っているのがド・ジュシュー氏の四輪馬車ではないかと確かめた。ついにぴかぴかの車体、豪華な馬具をつけた馬、髪粉をつけた逞しい御者が門の前に止まるのが見えた。ルソーはすぐさまテレーズのところに飛んで行った。
「あれだ! あれだ!」
それからジルベールに、
「ほら、ジルベール、急いで! 馬車が待ってますよ」
「あんたと来たら!」テレーズがちくりと言った。「そんなに馬車に乗りたいのなら、どうして馬車を買うためにヴォルテールみたいに働かないんだい?」
「馬鹿らしい!」ルソーは反論した。
「才能ならヴォルテールさんに負けないくらいあるんだっていつもいつも言ってる癖にさ」
「そんなことは言ってないじゃないか!」ルソーが腹を立てた。「わたしは……一言も言っていないよ!」
天敵の名前を出されるといつものことだが、すっかりしょげかえってしまった。
幸いにもここでジュシュー氏が現れた。
髪をなでつけ、髪粉をつけ、春のように爽やかな姿である。亜麻色をした畝織りのインド繻子の外套に、明るい藤色の上着、きめ細かな白い絹靴下にぴかぴかの金の留め金という出で立ちだった。
部屋中に満ちた香りを、感激を隠そうともせずにテレーズが吸い込んだ。
「なんて素敵なんだ!」ルソーはテレーズに優しい眼差しを向けてから、自分自身の質素な装いと植物採集用のかさばる荷物を、ジュシュー氏のお洒落な装いと引き比べた。
「いやいや、暑くなると思ったものでね」
「それに森はじめじめしていますよ! そのような絹靴下では、沼に入れば……」
「何、行くところを選べばいい」
「では今日は水辺の苔は諦めるのですか?」
「そんなことは気にせずとも結構だよ」
「舞踏会にご婦人を誘いに行くように見えますよ」
「自然の女神に絹靴下を披露したっていいでしょう?」ジュシュー氏は困惑したようにたずねた。「自然の女神は爽やかな恰好をするほどのご婦人ではないとでも?」
ルソーはそれ以上は何も言わなかった。ジュシュー氏に自然を引き合いに出されては、畏れ多くて言い返せるものではないとよくわかっていた。
禁欲的なジルベールですらジュシュー氏に羨望の眼差しを注いでいた。お洒落によって生来の魅力を倍増させていた若者たちを見て以来、お洒落というのもちょっとしたものだと悟っていたので、思わず呟いていた。繻子や
二頭の素晴らしいデンマーク馬が全速力で駆け出した。一時間後、植物採集者たちはブージヴァルに降り立ち、シャテニエール(Châtaigniers)の道を左に横切った。
粗い木肌、巨大な枝、奇怪な形をした栗の木(châtaigniers)が、時には節くれ立った幹にぐるりと巻きついた蛇のように、時には肉屋の解体台にひっくり返って黒い血を吐き出した牡牛のような姿を見せているほか、苔のびっしり生えた林檎の木や、六月に入って若葉から青葉へと変わった巨大な胡桃の木が見える。その寂しさ、その風変わりな地面の起伏が、老木の木陰の下から延びて、くすんだ青空に鮮やかな境界線を描いている。力強く優雅で陰鬱な自然を目の当たりにして、ルソーは得も言われぬ気持に襲われていた。
ところがジルベールはむっつりと黙り込んで、一つのことしか考えていなかった。
――アンドレは家を出てトリアノンに行くんだ。
丘の頂まで歩いて登ると、リュシエンヌの四角い城館が聳えているのが見えた。
逃げ出して来た城館を見て、ジルベールの物思いも中断させられた。あまり愉快な思い出ではないが、恐れはまったく感じなかった。実際、前を歩く二人を後ろから眺め、自分が保護されているのを強く感じていた。だからジルベールは、船が乗り上げた砂州を入り江から見つめる遭難者のように、リュシエンヌを眺めていた。
ルソーは小さな鋤を持って地面に注意を向け始めた。ジュシュー氏もそれに倣った。ただし、ルソーは植物を探していたのだが、ジュシュー氏は絹靴下を泥で汚さないようするためだった。
「素晴らしい
「見事だ。だがあれはやめましょう」ジュシュー氏が答えた。
「ああ!
「よければどうぞ」
「いやしかし、わたしたちは植物採集をしに来たのではないのですか?」
「そうです、そうですが……あっちの方がよくはないかな」
「そう仰るのでしたら……行きましょう」
「今何時ですか?」ジュシュー氏がたずねた。「着替えるのに忙しくて、時計を忘れてしまった」
ルソーはポケットから大きな金時計を取り出した。
「九時ですね」
「少し休みませんか? 如何です?」
「足が疲れたのでしょう。そんなお洒落な靴と絹靴下を履いていては植物採集なんて出来ませんよ」
「お腹が空いただけですよ」
「わかりました、では朝食にしましょう……村までは四半里あります」
「どうか勘辨して下さい」
「勘辨とは? では馬車で朝食を摂るんですか?」
「あの茂みをご覧なさい」ジュシュー氏は遠くの方を指さした。
ルソーは背伸びして手をひさしのようにかざした。
「何も見えませんが」
「あの民家風の屋根が見えないんですか?」
「ええ」
「風見鶏に、白と赤の藁葺きの垣根がある、山小屋風の家ですが」
「ああ、出来たばかりの小屋のようですね」
「あれは四阿だね」
「そうでしょうか?」
「そうですとも、あそこでささやかな朝食を摂るとしよう」
「まあいいでしょう。お腹が減りましたか、ジルベール?」
ジルベールはこの話に関心も示さず、機械的にヒースの花を摘んでいた。
「お任せします」
「では行こうじゃないか。もっとも、道すがら草花を摘まんという法はない」
「この子ときたら、あなたよりよほど熱心ですよ。モンモランシーの森で一緒に草花を摘んだことがありましたが、二人しかいなくとも、この子は上手に見つけ、上手に摘み取り、上手に解説していました」
「まあまあ、この子は若い。まだこれからだ」
「あなたは違うと? 趣味で植物を採っているんですか」
「まあ怒らないで。ほら、あそこに一花オオバコがある。あんな素晴らしいものはモンモランシーでは手に入らなかったのでは?」
「おお、本当だ」ルソーは破顔した。「トゥルヌフォールを参考に探していたのですが、なかなか見つけられないでいたんですよ。いやいや、これは見事ですね」[*1]
「綺麗な四阿だなあ」後ろから前に出ていたジルベールが声をあげた。
「ジルベールが腹を減らしているね」ジュシュー氏が茶々を入れた。
「ごめんなさい。急がずにご用意して下さい」
「食後に植物採集にいそしむことほど消化に悪いことはありませんよ、それに瞼も重くなるし、身体も怠くなります。採集にはしばらくしてから取りかかりましょう」とルソーが言った。「ところであの四阿は何と呼ばれているのですか?」
「
「おかしな名前ですね!」
「しかし田舎では珍しくもない」
「この土地、この森、それにこの美しい木陰は、どなたのものなんですか?」
「どうなんだろうね」
「あそこまで食べに行くと言うからには、持ち主をご存じなのでしょう?」疑いを兆してルソーの耳がぴんと立った。
「まったく知らないんだ……いや、ここのことならよく知っています。何処の密猟監視人も私のことなら藪の中で何遍も目撃しているし、兎や山鴫の煮込みをご馳走してくれたんだから、持ち主も歓迎してくれてるんでしょう。何処の領主も我が家のように使わせてくれるが、この四阿がド・ミルポワ夫人のものなのか、デグモン夫人のものなのか、ほかの誰かのものなのかは、よく知らないんです……ええ、それ以上のことは何も。だが大事なのは、あなたも同意してくれるものと思いますが、あそこに行けばパンや果物やパテがありそうだということではありませんか」
ジュシュー氏のあっけらかんとした口調に、ルソーの頭に積み上げられていた不安が雲散霧消した。ルソーは足を動かし手を擦り、まずはジュシュー氏が苔むした小径に足を踏み入れた。曲がりくねった小径は栗の木の下を、四阿まで続いている。
その後ろから、なおも草花に気を取られつつルソーが続いた。
ジルベールはまた一番後ろからついて行きながら、アンドレのことや、トリアノンに行かれてしまったらどうやって会えばいいのかを夢想していた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre LXXV「Les herboriseurs」の全訳です。
Ver.1 10/11/06
[訳者あとがき]
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▼*1. [トゥルヌフォール]。Joseph Pitton de Tournefort、1656-1708、フランスの植物学者。[↑]