この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第百七章 マラーの門番

 扉が開き、グリヴェット夫人が入って来た。

 これまでこのご婦人に詳しく筆を割いて来なかったのは、よほどのことがない限り画家が背景に追いやっておくような類の人物だったからだ。それが今やこの物語の活人画に罷り出で、読者にお見せしようとしていた巨大絵巻に席を占めようとしていた。描きたいことを描き出すだけの才能があれば、乞食から王様まで、怪物キャリバンから妖精エアリエルまで、エアリエルから神様までをも登場させもするのがこの絵巻である。[*1]

 そういうわけだから、舞台裏を離れて表舞台に姿を見せたグリヴェット夫人について筆を取ってみようと思う。

 棒のように痩せこけた、三十二、三の、顔のくすんだ女性で、青い目の周りには黒い隈が出来ていた。神が美しく作り給うた女性なる存在が、都会という場所で悲惨な境遇や恒久的な貧困や肉体的精神的な劣化によって衰えてしまった好例であった。天地空に生きとし生ける物が同じ条件下でそうであるように、もしも人間によって長々と苦しめられずに、言い換えれば足枷で足を痛めつけられずに、飢えであったり或いは食べ物がないのと同じくらい非道い食べ物で胃を痛めつけられずに、無傷のまま成長していればさぞや素晴らしく育っていたであろうあの存在であった。

 だからマラーの門番も、美しい女になっていたことであろう。もしも十五の折りより風も通らず陽も当たらぬ陋居で暮らしていなければ。もしも生まれついての本能の火が、その竈のような熱さや氷のような冷たさに育まれるがままに、絶えることなくちろちろと燃え続けていれば。痩せ細った手には、針仕事の糸で出来た幾つもの傷があり、洗濯仕事の石鹸水でふやけてあかぎれが出来ていたし、台所仕事の炭火で火ぶくれが出来て焦げ茶色に変色もしていた。だがそれでも、その形を見れば、つまり消そうとしても消せない神々しい肉付きの痕跡を見ればわかるはずだ。仮に掌に出来ているのが帚を握ったまめではなく笏を握ったまめであったならば、王族のものと紛うような手であったことを。

 要するにこの惨めな人体なぞは、何を生業にしているかを表す看板に過ぎないのだ。

 このご婦人の内部に宿っている精神は肉体よりも堅く、必然的に肉体よりも打たれ強かったため、常に燈火のように燃え続けていた。言うなればこの精神が薄ぼんやりとした光で肉体を照らし、時折り思い出したように、感情も輝きも失った瞳を通して、智性、美しさ、若さ、愛情、ひいては生来人間に備わっているありとあらゆる優れたものの光明を浮かび上がらせていた。

 バルサモは長いことこのご婦人を、もといこの非凡な存在を見つめた。それを言うならそもそも一目見た時からその鋭い眼差しで穿っていたのだが。

 とにかく門番は手紙を持って入って来た。そして媚びを売るような、そのうえ老婦人のような声を出した。不幸に苛まれた女性は三十歳で老いるものなのだ。

「マラーさん、頼まれていた手紙ですよ」

「別に手紙を待っていたわけじゃない。あなたに会いたかったんです」マラーが答えた。

「お召しの通りに参りましたよ」

 グリヴェット夫人が深々とお辞儀をした。

「ご用件は?」

「懐中時計の行方ですよ。おおかた予想はしていたでしょう」

「どうなったかなんて知りっこありませんよ。昨日はずっと暖炉のところに鉤で吊るされてましたけどね」

「ボロを出しましたね。時計はずっとポケットの中でした。午後の六時に出かける時になって初めて、人出のあるところに行くので盗まれないよう燭台の下に仕舞ったんです」

「燭台の下に仕舞ったんでしたら、今もそこにございますでしょう」

 グリヴェット夫人は見え見えなことに気づきもしないで素知らぬふりを装いながら、マラーが懐中時計を隠したという、暖炉に飾られている二脚の燭台を持ち上げに向かった。

「ええ、燭台はちゃんとあります。でも時計は?」

「あら、本当に見当たりませんね。ちゃんとここに置いたんですか、マラーさん?」

「さっき言ったように――」

「ちゃんと捜して下さいな」

「とっくに捜しましたよ」マラーが目を怒らせた。

「じゃあ落としてしまったんでしょうねえ」

「昨日、この燭台の下に時計を置いた。そう言ったはずです」

「じゃあどなたかいらしたんじゃないですか。お仲間どころか見ず知らずの人まで連れて来るんですから」

「言い訳は結構!」マラーが苛立ちを募らせて声をあげた。「昨日から誰も此処に来ていないのはご存じのはずだ。あの懐中時計は、買ったばかりのステッキの銀の握りや銀のスプーンや六枚刃のナイフと同じ運命をたどったんですよ! 盗まれたんです、グリヴェットさん。盗まれたんです。散々我慢して来ましたが、これには我慢できません。いい加減にしてもらいましょう!」

「まさかマラーさん、もしかしてあたしを責めてるんですか?」

「持ち物は管理しておいてもらわないと」

「鍵を持ってるのはあたしだけじゃありませんし」

「門番はあなただ」

「月に一エキュで十人分の仕事をしろと?」

「仕事の質の話ではなく、泥棒はごめんだと言ってるんです」

「あたしは正直な人間ですよ!」

「一時間以内に時計が見つからなければ、その正直な人間を警察に引き渡します」

「警察に?」

「ええ」

「あたしみたいな正直者を警察に?」

「正直者、正直者ねえ……」

「ええ、議論の余地はありませんとも」

「嗚呼もう結構です、グリヴェットさん」

「お出かけになった時点でとっくに疑ってた癖して、まあ」

「ステッキの握りが消えた時から疑っていました」

「だったら次はあたしからも一つ言わせてもらいましょうか」

「というと?」

「お留守の間に相談していたんですけどね……」

「誰にです?」

「ご近所の方々に」

「何を話したんです?」

「疑われてるって話をね」

「口を滑らせた覚えはないが」

「察してはいましたからね」

「それで? 何と言われたんですか。それを聞きたいですね」

「万が一にも疑われていたり疑いを他人に洩らされていたりするようなら、やるべきことはやっておくべきだってね」

「つまり?」

「要するにね、懐中時計が盗まれたことを証明しろって話ですよ」

「盗まれたんですよ。置いてあった場所から無くなっているんですから」

「そうですか、でもあたしが盗んだんだとしても、それでも法廷では証拠が要るんですよ。言葉だけじゃ信用してもらえないんです、マラーさん、あなただってあたしたちとおんなじなんですから」

 バルサモはいつも通り冷静にこの場面を眺め、マラーの信念は些かも揺らいではいないが、声からは勢いが削がれているのを見抜いていた。

「それでもあたしを噓つき呼ばわりして、謝る気もないって言うんでしたらね、警視(le commissaire de police)を呼びに行くのはあたしの方ですよ。大家さんもそう助言してくれましたからね」[*2]

 マラーは口唇を咬んだ。脅しではないことはわかっていた。大家というのは財産を貯め込んだ引退した老商人だった。四階の一画に住んでいて、近所の噂によると、かつて妻の料理女だったグリヴェット夫人のことを十年ほど前から可愛がっているらしい。

 対するマラーは公には出来ない連中と付き合っているような、素行の良くない、隠しごとのある、警官に不審を抱いている若者であったから、警視と面倒事になるのは避けたかった。警視と面倒を起こせばサルチーヌの手に委ねられてしまうだろうし、サルチーヌはマラーのような若者の文章を読むことや、そうした結構な著作物の作者をヴァンセンヌやバスチーユ、シャラントンやビセートルといった瞑想小屋に放り込むことを殊のほか愛しているような人物なのだから。[*3]

 故にマラーの声は小さくなったが、それにつれて門番の声は大きくなっていた。被告は今や告発者となった。途端に神経質で逆上しやすい門番は、空気に触れた炎のようにいきり立った。

 凄んだり罵ったり叫んだり泣き落としたり、ありとあらゆる手段を用いる様は、さながら暴風雨そのものであった。

 ここらでバルサモは割って入るべき頃合いだと判断した。部屋の真ん中に立って凄んでいる門番に近づき、目を爛々と光らせながら、二本の指を門番の胸の前に突きつけた。そして口ではなく目と念と意思のすべてを用いて、マラーには聞き取れない言葉を発した。

 途端にグリヴェット夫人は口を閉じてよろめくと、ふらつきながら後じさった。目を見開き、催眠磁気の力に圧倒されて、物も言わず寝台に倒れ込んだ。

 やがて目が閉じられたが、再び開かれた時には白目を剥いていた。舌は引き攣り、身体はぴくりともしないというのに、手だけがおこりにかかったように震えている。

「あの患者と同じだ!」マラーが声をあげた。

「そうだな」

「では眠っているのですか?」

「静かに!」

 そう言ってバルサモはマラーに説明した。

「これで疑いは去り、躊躇いは消えただろう? その手紙を拾ってくれ。女が倒れた時、手から滑り落ちたんだ」

 マラーはその言葉に従い、たずねた。

「これが何か?」

「まあ待て」

 バルサモはマラーから手紙を受け取り、催眠状態のグリヴェット夫人に見せた。

「差出人を知っているか?」

「いいえ、知りません」

 バルサモは封の切られていない手紙を夫人に近づけた。

「マラーさんに読み上げてやってくれ。手紙の内容を是非とも知りたいそうだ」

「グリヴェットさんは字が読めませんよ」とマラーが伝えた。

「ああ、だがお前は読めるだろう?」

「もちろんです」

「では読んでくれ。お前の心に文章が刻み込まれると、それを追ってこの女が読み上げる」

 マラーは手紙を開封して読み始めた。するとグリヴェット夫人が身体を起こし、抗いがたいバルサモの力に強張りながら、マラーが目で追っている文章を繰り返した。

 

『親愛なるヒポクラテス

 アペレスは肖像画第一号を仕上げたところだ。五十フランで売れた。今日はこの五十フランをサン=ジャック街の食堂でぱーっと使おうと思う。君もどうだい?[*4]

 もちろん酒もありだ。

   L・ダヴィッド』

 

 一字一句、書かれてある通りだ。

 マラーの手から手紙が滑り落ちた。

「これでわかったな。グリヴェットさんにも魂があり、この魂ってやつは当人が眠っている間も起き続けているってことが」

「しかも驚いたことに、肉体には読めない字が読める魂と来た」

「そりゃあ魂は何でもお見通しなんだし、反響を利用して再生することも出来るからな。試しにこの女の目が覚めたら、つまり魂が肉体の影に覆われたら、この手紙を読ませてみるといい。お前にもわかるだろう」

 マラーは何も言えないままだった。唯物論的思考の限りを尽くして心の中で反論を試みたが、答えは見つからなかったのだ。

「そろそろお前が気にしている問題に移るとしようか。つまり懐中時計の行方だ。グリヴェットさん、マラーの時計を盗んだのは誰だ?」

 夫人は激しい拒絶を示した。

「知りません」

「何もかも知っているはずだ。答えなさい」

 バルサモは一層強く念を送った。

「マラーの時計を盗んだのは誰だ? 言うんだ」

「グリヴェット夫人はマラーさんの時計を盗んでいません。マラーさんはどうして時計を盗んだのがグリヴェット夫人だと思っているのですか?」

「時計を盗んだのがグリヴェット夫人でないというなら、誰がやったのか答えてくれ」

「知りません」

「意識の壁は滅多に破れるものじゃありませんよ」マラーが声をかけた。

「疑いなんてほとんど残っちゃいないんだろう? すぐに全面的に信じる気になるぜ」

 バルサモはマラーにそう言うと、またグリヴェット夫人に向かって命じた。

「誰なのか言うんだ」

「まあまあ、無理なことを求めるものじゃありません」マラーが執り成した。

「聞こえたな? 命令は伝えたぞ」

 するとその威圧的な力に直撃されて、夫人は狂人のように手や腕をよじらせ始めた。癲癇のような震えが身体中に走り出し、口は恐怖と虚脱でおぞましい形に歪んでいる。仰け反ったかと思うと痙攣ひきつけでも起こしたように身体を強張らせ、寝台に崩れ落ちた。

「嫌です! 死んだ方がましです!」

「何だと!」バルサモの目から怒りの炎がほとばしった。「死ぬべき時には死んでもらうが、今は話してもらわんとな。それだけ黙りと強情を決め込むようでは俺には充分明らかなんだが、疑り深い奴にはもっと確実な証拠が必要なんだ。さあ話せ。時計を盗んだのは誰だ?」

 神経の高ぶりが限度を越えた。夫人は力の限りバルサモの意思に抗っているらしく、口から言葉にならない叫びが洩れると、口唇を血の混じった泡で染めた。

痙攣ひきつけを起こしてしまいます」マラーが口を挟んだ。

「案ずるな。噓という魔物が女の中に居て、出て行こうとしないだけだ」

 バルサモは持てるだけの霊力を夫人の顔に放った。

「話せ。話すんだ。時計を盗んだのは誰だ?」

「グリヴェットさんです」かろうじて聞き取れるだけの声が洩れた。

「いつ盗んだ?」

「昨日の晩です」

「時計は何処にあった?」

「燭台の下です」

「時計をどうした?」

「サン=ジャック街に持って行きました」

「サン=ジャック街の何処だ?」

「二十九番地です」

「何階だ?」

「六階です」

「誰の部屋だ?」

「靴職人の弟子です」

「名前は?」

「シモン」

「何者だ?」

 催眠状態の夫人が口を閉ざした。

「何者だ?」

 やはり無言。

「何者だ?」バルサモは繰り返した。

 沈黙が続く。

 バルサモが霊力を湛えた手をかざすと、攻撃に晒された夫人には弱々しく呟くことしか出来なかった。

「愛人です」

 マラーが驚きの声をあげた。

「静かに! 意識に話をさせるんだ」

 バルサモはひくひくと震えて汗にまみれた女になおも話しかけた。

「グリヴェットさんに盗みをそそのかしたのは誰だ?」

「誰でもありません。たまたま燭台を持ち上げたら時計が見えたので、悪魔が囁いたのです」

「金に困っていたのか?」

「違います。売ったわけじゃありません」

「では只でくれてやったんだな?」

「そうです」

「シモンに?」

 夫人は言葉を絞り出した。

「シモンに」

 そう言って両手で顔を覆うと、滝のように涙を流した。

 バルサモがマラーに目を遣ると、口をあんぐりと開け、髪を搔きむしり、目を見開いて、この恐ろしい光景に見入っていた。

「さて、これで魂と肉体が相克するのを見たわけだ。鉄壁の砦にいるつもりだった意識が打ち破られたのは見たな? これで神がこの世にやり忘れたことはないことも、あらゆるものがあらゆるものの内にあることもわかったな? もはや意識を否定すまいな。もう魂を否定するな。もう未知なるものを否定するな。なかんずく信じることを否定するな、それこそ最高の力だ。野心を持っているのなら、学ぶことだ、マラーよ。口を慎み、考えることに努めろ。自分より優れた者を軽んじるのはよせ。これでお別れだ。俺の言葉によって広い地平が開けたはずだ。その土地をくまなく探せ。幾つもの宝が埋まっている。さらばだ。心に巣食う懐疑という魔物を打ち負かすことが出来れば、それこそ幸いというもんだ。俺がこの女に巣食う噓という魔物を打ち負かしたようにな」

 バルサモが立ち去り際に残したこの言葉を聞いて、マラーの頬は屈辱で真っ赤になっていた。

 別れの挨拶を返すことにさえ思い及ばなかった。

 それでもすぐに我に返り、グリヴェット夫人がまだ眠っていることに気づいた。

 この眠りはどうにも気味が悪い。サルチーヌに都合よく死因を解釈されようとも、死体が転がっている方がましだった。

 全身が弛緩し白目を剥いて痙攣しているのを見るにつけても、恐ろしさが募る。

 その生ける死体が立ち上がり、近づいてマラーの手を摑んだ時には、恐怖が跳ね上がった。

「一緒に来て下さい、マラーさん」

「何処まで?」

「サン=ジャック街まで」

「何故です?」

「来て下さい。あなたを連れて行くように命じられているんです」

 椅子に倒れ込んでいたマラーが立ち上がった。

 するとグリヴェット夫人はなおも眠ったまま扉を開け、鳥や猫の如く飛ぶように階段を降りた。

 マラーは後を追いながら、グリヴェット夫人が転んで頭を割るのではないかと冷や冷やしていた。

 夫人は階段を下まで降りると門を開けて通りを横切り、そのままマラーを連れて家の中まで入ると、そこには告げられた通り屋根裏部屋があった。

 夫人が扉を敲くと、マラーの心臓が早鐘のように打ち、その音が聞こえて来そうにも思えた。

 屋根裏にいた男が扉を開けた。マラーには見覚えがあった。二十代後半から三十歳ほどの職人で、夫人の部屋で何度か見たことがある。

 グリヴェット夫人の後ろにマラーがいるのを見て、男は躊躇した。

 ところが催眠状態の夫人はまっすぐに寝床に向かい、粗末な長枕の下に手を突っ込むと、懐中時計を引っぱり出してマラーに手渡した。靴屋のシモンは恐怖で青ざめ、口を利こうともせぬまま、気が狂ったに違いない女の一挙手一投足に困惑した眼差しを向けていた。

 時計を返す時マラーの手に触れると、途端に夫人は深く息をついて呟いた。

「目覚めよと命じられました」

 その言葉通り、縄を吊っていた滑車が無くなったかのように、張り詰めていた身体中の神経が緩み、目には生気の火が舞い戻った。すると自分がマラーの目の前にいて手を摑み、懐中時計という動かせない犯罪の証拠をまだ握っていることに気づき、目を回して屋根裏の床にひっくり返った。

「意識は本当に存在するのだろうか?」マラーは自問しながら部屋を出た。心の中では疑いながらも、瞳は夢の中を彷徨っていた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CVII「La portière de Marat」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1847年10月20日(連載第107回)。


Ver.1 11/07/09
Ver.2 23/02/05

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[註釈・メモなど]

・メモ
▼ヴァンセンヌ、バスチーユ、シャラントン、ビセートル【※前者2つは監獄、後者2つは精神病院】

▼アペレス(古代ギリシアの画家)。

[更新履歴]

・23/01/19 章題となっている「La portière」だが、どうも実際の門番や管理人というわけではなく、マラーが近所のおばさんに門番役(や掃除婦役や料理人役や会計係役)をやらせているだけのようである。「マラー家の管理人」 → 「マラーの門番」に訂正。第百五章の「C'est ma portière, 」も「この人が管理人です。」ではなく「グリヴェットさんには門番をお願いしているんです。」に変更した。

・23/01/19 「Tant il est vrai que ce pauvre corps humain n'est que l'enseigne de notre profession.」の「notre」とは「我々作者の」ではなく「我々人間の」という意味であろう。「以上のことからわかる通り、この哀れな人物の肉体は筆者がお話ししたことの外面に過ぎない。」 → 「要するにこの惨めな人体なぞは、何を生業にしているかを表す看板に過ぎないのだ。」に訂正。

・23/01/29 「– Oui, voilà bien le chandelier, dit le jeune homme ; mais la montre ?」はマラーの台詞なので、「ほら、燭台はちゃんとあるじゃございませんか。さて時計は?」 → 「ええ、燭台はちゃんとあります。でも時計は?」に訂正。

・23/01/29 「– Je n'ai pas seule la clef.」。「S ne ~ pas seul 定冠詞名詞」で「Sだけが…ではない」になるので、「鍵の一つも持ってませんよ」 → 「鍵を持ってるのはあたしだけじゃありませんし」に訂正。

・23/01/29 「Marat, jeune homme assez peu rangé ; Marat, un peu caché ; Marat, un peu suspect aux gens de la police, ne se souciait pas d'une affaire avec le commissaire, affaire qui l'eût mis entre les mains de M. de Sartines,」。警官がマラーに suspect を抱いているのではなく、マラーが警官に suspect を抱いているのだから、「マラーは清廉潔白とは言えない若者であった。マラーには隠しごとがあった。マラーは警官から疑われていた。警察と関わり合うのは避けたかったし、ド・サルチーヌ氏の手に捕らえられるのは問題だ。」 → 「素行の良くない、隠しごとのある、警官に不審を抱いている若者であったから、警視と面倒事になるのは避けたかった。警視と面倒を起こせばサルチーヌの手に委ねられてしまうだろうし、」に訂正。

・23/01/29 「– Dame Grivette, dit Balsamo, qui a pris la montre de M. Marat ?」。この qui は関係代名詞ではなく疑問代名詞なので、「グリヴェットさん、マラー氏の時計を盗んだのはお前か?」 → 「グリヴェットさん、マラーの時計を盗んだのは誰だ?」に変更。

・23/02/05 「sa bouche prit une expression hideuse de terreur et de faiblesse ; elle se renversa en arrière, se raidit comme dans une convulsion douloureuse, et tomba sur le lit.」。この「expression」は「言葉による表現」というより「表情」であろうし、「se renversa」は前後の文脈から言って「ひっくり返る」のではなく「仰け反る」であろう。「口から恐怖と怯えの声を出し、後ろにひっくり返ると、痙攣でも起こしたように身体を強張らせ、寝台に崩れ落ちた。」 → 「するとその威圧的な力に直撃されて、夫人は狂人のように手や腕をよじらせ始めた。癲癇のような震えが身体中に走り出し、口は恐怖と虚脱でおぞましい形に歪んでいる。仰け反ったかと思うと痙攣でも起こしたように身体を強張らせ、寝台に崩れ落ちた。」に訂正。

・23/02/05 「– Ne craignez rien, c'est le démon du mensonge qui est en elle et qui ne veut pas sortir.」。「le démon du mensonge」は同格の「de」であろうと思われるので、「恐れるな。嘘つきの悪魔が女を支配し、出て行こうとしないだけだ」 → 「案ずるな。噓という魔物が女の中に居て、出て行こうとしないだけだ」に変更。

・23/02/05 「Il regarda cette atonie, ces yeux retournés, ces palpitations, et il eut peur.」の「palpitations」は「動悸」ではなく「痙攣」であろう。「弛緩した身体、白目を剥いた目、荒い呼吸を見ると、怖くなった。」 → 「 全身が弛緩し白目を剥いて痙攣しているのを見るにつけても、恐ろしさが募る。」に訂正。

・23/02/05 「」 → 「」に訂正。

[註釈]

*1. [怪物キャリバン、妖精エアリエル]
 いずれもシェイクスピア『テンペスト』の登場人物。キャリバンは、島に流れ着いた元大公プロスペローが奴隷にした醜い怪物。プロスペローに反乱を企てるが、妖精エアリエルによって退散させられる。[]

*2. [警視]
 commissaire de police とは旧制度下では lieutenant général de police の部下であり、パリ各区に配属された。その一部は後に inspecteurs de police と呼ばれる。従って現在の警視と一致するわけではないが、ほかに定訳もないためここでも警視と訳しておく。lieutenant général de police であるサルチーヌの部下に当たる。[]

*3. [ヴァンセンヌやバスチーユ、シャラントンやビセートル]
 ヴァンセンヌとバスチーユは監獄、シャラントンとビセートルは精神病院。ちなみに1770年当時のマラーはイギリス在住のまだ駆け出しの医師であり、政治文書もまだ公にしていない。[]

*4. [アペレス]
 アペレス Apelles(B.C.4世紀頃)は、古代ギリシアの画家。作品は現存していないが、プリニウスによりその業績が伝えられている。プトレマイオス一世の宴席に噓の招待をされたアペレスが壁に描き出した似顔絵を見て、王は即座に犯人に気づいた(『博物誌』35巻36-89)ことや、画家たちの描いた馬の絵を見た本物の馬が、アペレスの描いた馬の前でだけいなないた(『博物誌』35巻36-95)などのエピソードが見られる。[]

*5. []
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*6. []
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*7. []
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*8. []
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