この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百五十三章 偏見を覆すより罪を犯す方が簡単だとジルベールが気づいた次第

 囚われていた辛い感情が弱まるにつれ、ジルベールの考えはどんどんはっきりとした形を取り始めた。

 そうこうしているうちに闇も深まり、ものが見えづらくなって来た。それでも目的を達したいという強い気持の現れで、木々も家も並木道も見分けることが出来た。どれも溶け合ってひとかたまりの影となり、上空の空気は深淵を見下ろすようにとぐろを巻いて漂っていたにも関わらず。

 ジルベールは幸せだった夜のことを思い出していた。アンドレがどうなったのか知りたくて、会いたくて、出来れば声を聞きたくて、命の危険も顧みず、あの五月三十一日から続いている痛みに苦しみながらも、二階から一階まで――幸せな庭の大地まで――樋を滑り降りたあの夜のことを。

 あの時この家に忍び込むのは極めて危険だった。男爵がいたし、アンドレは厳重に守られていた。だが如何に危険であろうとも、あの状況がどれだけ甘美なものだったかを、そしてアンドレの声を聞いた途端に心臓がどれだけ喜びに打ち震えたかを、ジルベールは覚えていた。

「もしやり直すことが出来たら、もしあの時アンドレの足が残しておいたはずの崇拝の跡をひざまずいて並木道の砂上に探そうとしていたら……?」

 人に聞かれたらただでは済まないこんな言葉を、あろうことかジルベールは声に出して、それも嬉しそうに口にしていた。

 ジルベールは独り言をやめて、館があるはずの場所に目を凝らした。

 しばらく無言で見つめてから、

「ほかの誰かが住んでいる形跡はないな。明かりもないし物音もしないし扉も開いてない。行くぞ!」

 ジルベールには取り柄がある。一度こうと決めたら直ちに行動に移すのだ。屋根裏の扉を開けて、ルソーの部屋の前まで手探りで妖精のように降り立った。二階まで来ると躊躇うことなく鉛管を跨ぎ、買ったばかりのキュロットを駄目にする危険を冒して下まで滑り降りた。

 階段の下まで着くと、初めて訪れた際の感情が甦り、靴の下で砂が鳴った。ニコルがド・ボージール氏を引き入れていた扉に見覚えがある。

 それから玄関に向かい、鎧戸の銅の握りに口唇を押しつけた。きっとアンドレの手がこの握りに触れていたのに違いない。ジルベールの罪は信仰にも似た愛から生まれたものだった。

 突然、家の中から物音がしてジルベールは震え上がった。床を歩くような、聞き取れないほどの小さな音だ。

 ジルベールは尻込みした。

 顔から血の気が引いていた。そのうえ一週間以上前から罪の意識に苛まれていたので、扉から洩れている光を見て、無垢と悔恨からこぼれ落ちた一つのことを考え続けたせいで忌まわしい炎が目の中に灯ったのであり、鎧戸の板越しに洩れているのがその炎なのだ、と信じ込んでしまった。怯えきった魂が別の魂を呼び寄せ、死期が訪れ狂人か奇人が見るような幻覚が現れたのだと信じ込んだ。

 だが足音と光が近づいて来ても、ジルベールは目も耳も信じようとはしなかった。ところが鎧戸の向こうをよく見ようとして近づいた途端、いきなり鎧戸が開き、衝撃で壁の方に跳ね飛ばされ、声をあげて両膝を突いた。

 だがそれも、目にしたものほど衝撃的ではなかった。誰もいないと思っていた家の中、叩いても応えのなかった扉から、アンドレの姿が現れたのを目にしたのだ。

 アンドレだ。確かに本人であって幽霊などではない。ジルベールと同じく声をあげた。だがそれほど怯えてはいないのは、誰かがいるのを予期していたからだろう。

「何? どなたです? ご用件は?」

「申し訳ありません!」ジルベールは床に頭をこすりつけた。

「ジルベール!」アンドレがあげた驚きの声には、恐れも怒りもなかった。「ジルベールがここに! 何をしに来たのです、モナミ?」

 モナミという呼びかけに、ジルベールの心は痛みで底まで震えた。

「どうか!」ジルベールの声は乱れていた。「どうか責めないで下さい。お慈悲を。こんなに苦しんでいるのです!」

 アンドレは驚いてジルベールを見つめた。ジルベールが下手に出ている理由がまったく理解できないようだった。

「まずは頭を上げて、ここにいる理由を説明して下さい」

「許していただかない限り、顔を上げるわけにはいきません!」

「わたくしに何をしたというのです。許さなくてはならないようなことをしたのですか? どうか説明を」そう言ってアンドレは侘びしげに微笑んだ。侮辱などたいしたことではないとでも言うのだろうか。「いずれにしても許すのは造作ありません。鍵をくれたのはお兄様?」

「鍵?」

「ええ、お兄様の不在中は誰にも戸を開けないことにしていますから。壁を通り抜けたのでない限り、ここに入って来るには、お兄様から鍵をいただくのが一番簡単な方法に違いありませんもの」

「フィリップが……? いや、そうじゃありません。それに、お兄さんのことは措いておきましょう。いなくなったんじゃなかったんですか? フランスを出たんじゃなかったんですか? よかった! 何て幸運なんだ!」

 ジルベールは上体を起こし、腕を広げて天に感謝を捧げた。それがジルベールなりの誠意だった。

 アンドレがジルベールを心配そうに覗き込んだ。

「頭がおかしくなったの、ジルベール? 服が破けそう。放して頂戴。茶番はやめましょう」

 ジルベールが立ち上がった。

「怒ってますね。でも愚痴なんかこぼしません。怒られて当然ですから。はっきりさせなきゃいけないのはそんなことじゃないんです。それよりどういうことですか! ここに住んでいるとは知りませんでした。空っぽで人がいないと思っていました。僕が探しに来たのは、あなたの思い出の品だったんです。それだけでした。ただの偶然で……もう何を言っているのか自分でもわかりません。すみません。まずはあなたのお父上に話したかったのですが、その当人がいなくなって」

 アンドレが身じろぎした。

「お父様? 何故お父様に?」

 ジルベールは答えを誤魔化した。

「あなたが怖かったものですから。でもわかってるんです、すべて僕ら二人で解決した方がいい。すべてを償い元通りにするのが最前の方法ですから」

「償うですって? いったい何の話? 償わなければならないこととは何です? お言いなさい」

 ジルベールは愛と卑屈にあふれた目でアンドレを見つめた。

「怒らないで下さい。確かに僕は大それたことをしました。ゴミみたいな人間なのに、上を向いて大それたことをしてしまいました。でも災いは起こってしまったのです」

 アンドレがたじろいだ。

「罪と呼びたければ罪と呼んでくれて構いません。そうですね。実際、恐ろしい罪ですから。この罪のことなら、運命を憎んで下さい、お嬢様。でもどうか僕の心は……」

「心とか罪とか運命とか! あなたはどうかしてるのよ、ジルベール。お願いだから怖がらせないで」

「これほど敬意を払って、これほど悔い改めて、これほど頭を下げて、これほど手を合わせても、哀れみ以外の感情を持ってもらうのは不可能なんですね。お嬢様、これから話すことを聞いて下さい。神と人々の前で約束した神聖な誓いです。僕の人生のすべてを一瞬の過ちを償うことに費やしたい、あなたの将来を幸せなものにして過去の苦しみをすべて消してしまいたいんです。お嬢様……」

 ジルベールは躊躇った。

「お嬢様、罪深い結びつきを神聖なものにする為に、結婚に同意していただけませんか」

 アンドレが後じさった。

「違います、気が違ってなんかいません。逃げないで下さい。握っているこの手を離さないで下さい。お願いです、慈悲と哀れみを……どうか僕の妻になることに同意して下しあ」

「あなたの妻ですって?」気が違ったのは自分の方かと思いそうだった。

「お願いです!」ジルベールが泣きじゃくった。「あの夜のことを許してくれると言って下さい。罪深い行為には怯えたけれど、後悔したのを見て許すと言って下さい。押し殺された愛情が原因なら、犯罪にも弁明の余地があると言って下さい」

「人でなし!」アンドレが猛り狂った。「あなただったのね? ああ、神様!」

 アンドレは混乱した思いを逃すまいとするかのように、両手で頭を抱え込んだ。

 ジルベールは尻込みしたまま無言で石と化していた。目の前にいるのは恐怖と混乱で髪を振り乱した、美しく蒼白のメドゥーサだ。

「こんな不幸になる定めだと言うのでしょうか?」アンドレは既に激情していた。「この名を二度までも侮辱されるなんて。罪によって辱められ、さらには犯人によって辱められると言うのでしょうか? 答えなさい、人でなし! あなただったの?」

「知らなかったのか!」ジルベールは愕然として呟いた。

「助けて!」アンドレが部屋に駆け戻った。「フィリップ、助けて! フィリップ!」

 ジルベールは絶望に駆られて後を追い、辺りを目で探した。見つかるのなら、覚悟していたように一撃の下で気高く倒れる為の場所でもいい。身を守る為の武器でもいい。

 だが助けに応える者はなく、アンドレは一人きりで部屋にいた。

「一人にして!」アンドレの身体は怒りで震えていた。「ここから出て行って、人でなし! 神の怒りを煽るようなことはしないで!」

 ジルベールがゆっくりと顔を上げた。

「僕が怖いのはあなたの怒りだけです。どうか僕を苦しめないで下さい!」

 ジルベールは手を合わせて頼み込んだ。

「人殺し! 人殺し!」アンドレが叫び続ける。

「話を聞いてくれないのですか? まずは話を聞いて下さい。殺したいのならその後にして下さい」

「このうえさらに話を聞けですって! 何を話すつもりなんです?」

「先ほど言ったように、僕は罪を犯しましたが、僕の気持がわかる人なら許してくれるはずです。僕は罪の償いをしたいんです」

「それよ! その言葉の意味がわからないうちからぞっとしたわ。結婚ですって!……そう言ったように聞こえたけれど?」

「お嬢様……」

「結婚?」アンドレの態度にますます高ぶりが見え始めた。「あなたに感じているのは怒りではなく、蔑みと憎しみです。蔑みほど卑しくておぞましい感情はないというのに、面と向かってそれを投げつけられながら耐えられるとは、理解できないわ」

 ジルベールは真っ青になった。目の縁には涙がきらめき、口唇は真珠母の切片のように薄く白くなっていた。

「僕は――」全身が震えていた。「あなたの名誉を傷つけてしまった償いが出来ぬほどちっぽけな人間ではありません」

 アンドレが立ち上がった。

「名誉を損なったというのなら、あなたの名誉であってわたくしのではありません。わたくしの名誉は損なわれておりませんし、それが汚されるとしたらあなたと結婚する時にほかなりません!」

「母になった女性が考えなくてはならないのはただ子供の未来のみではありませんか」ジルベールの声は冷たかった。

「あなたの方こそ、そんなことを考えているとは思えません」アンドレの目には炎が燃えていた。

「考えていますとも」ジルベールは足許への攻撃にぐらつかずに立て直そうとした。「この子を飢えさせたくはありませんから。名誉を聞かされて育った貴族の家では飢えを選ぶこともままあるじゃありませんか。でも人間は平等なんです。誰かに名誉を説かれようとも、自分は自分なんです。僕が愛されてないのはわかってます。あなたには僕の心が見えないんだから。軽蔑されてるのもわかってます。僕の考えていることがわからないんですから。だけど、僕には我が子のことを考える権利がないと思われることだけは理解できません! あなたと結婚しようとすれば、宿望も情熱も野心も叶えることが出来ません。それでも義務を果たすことにしたんです。あなたの奴隷となって、人生をあなたに捧げたんです。でもあなたが僕の名を背負うことはないでしょうね。これからも庭師のジルベール扱いしたければしてくれればいいし、それが正しいんです。でも子供にはそんな犠牲を払わせてはいけません。ここに三十万リーヴルあります。親切な方からいただいたものです。あなたとは違う裁きを僕に下し、持参金として下さったのです。結婚したらこのお金は僕のものです。でも僕自身は何も要りません。生きていたら呼吸できるだけの空気があればいいし、死んでしまえば死体を埋めるだけの穴があればいい。それ以上のものは子供にやるつもりです。さあ、三十万リーヴルです」

 ジルベールは札束をアンドレの手元にある卓子に置いた。

「たいへんな誤解をなさっているみたいだけれど、あなたには子供がいないではありませんか」

「そんな!」

「どの子の話をしているのかしら?」

「あなたが母親となった子供のことです。二人の前で認めたのではないのですか? 兄であるフィリップの前と、ド・バルサモ伯爵の前で。妊娠していると認めたのではないのですか? そして相手は僕だったと。ひどい人だ!……」

「聞いていたのね? だったら話が早いわ。あなたは卑劣にもわたくしを暴力で犯した。眠っている間に力ずくでわたくしを奪った。罪を犯してわたくしをものにした。わたくしが母なのは間違いないけれど、子供には母しかいません。わかる? あなたがわたくしを辱めたのは事実だけれど、わたくしの子の父親ではあり得ません!」

 アンドレは札束をつかむと汚らわしいとでもいうように部屋の外へ放り投げた。札束はジルベールの青い顔をかすめて飛んで行った。

 ジルベールがどす黒い怒りの衝動に駆られたのを見て、アンドレの守護天使が守り人のことを心配してまたも震えおののいてもおかしくはなかった。

 だが怒りは荒々しく抑えられ、ジルベールはアンドレに見向きもせずに通り過ぎた。

 ジルベールが敷居を跨ぎ越えるとすぐにアンドレは駆け出し、扉も窓も鎧戸もしっかりと閉めた。あたかもそうすることで世界を現在と過去の間に閉じ込めてしまえるかのように。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLIII「Où Gilbert voit qu'un crime est plus facile à commettre qu'un préjugé à vaincre」の全訳です。


Ver.1 12/06/16

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