この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百五十六章 最後の謁見

 十一月、言い換えるなら我々がお話しした出来事があってから一月後、フィリップ・ド・タヴェルネはその時期にしては朝早く――端的に言えば夜明けに、妹と暮らしている家から出かけた。まだ明かりも消えぬ時間ながら、パリ中の産業が目を覚ましていた。朝の瑞々しい空気の中、湯気の立ったお菓子を、田舎の貧乏商人がご馳走でも食べるように貪っている。野菜でいっぱいの籠。魚や牡蠣を積んだ二輪馬車が、市場を走り回っている。こうして忙しく立ち働きながらも、富裕層の眠りを妨げてはなるまいとばかりの控えめな様子も身体に染みついていた。

 フィリップは人でごった返した自宅周辺地区を急いで通り抜け、人気のないシャン=ゼリゼーにたどり着いた。

 梢の先で色褪せた葉がくるくると回転している。大部分は王妃の中庭の踏み固められた並木道を覆っていた。この時間帯には人気のない球技場も、震える葉群に隠れている。

 フィリップはパリでも指折りのブルジョワのような裾のゆったりした服と絹のキュロットと靴下を身に着けていた。腰には剣を佩いている。丁寧に整えられた髪からは、昼前に当時のファッションの最高峰である鬘師の手に任せていたことが窺える。

 だから、朝方の風によって髪が乱され髪粉が飛び散り始めたことに気づいて、フィリップはシャン=ゼリゼーの並木道で眉をひそめて、この道で営業している貸し馬車がどれか一台でも、まだ出発してはいないかどうか確かめた。

 長くはかからなかった。使い古され壊れかけた年代物の四輪馬車が、痩せた川原毛色の雌馬に曳かれて、揺れ始めた。御者が何物も見逃すまいとした暗い目つきをして、木立の中に乗客がいやしないかと遠くに目を凝らしている。その様はあたかもティレニア海の波間に船を探すアイネイエスの如きであった。

 フィリップを見つけた御者がさらに激しく鞭を当てた為、四輪馬車はすぐにフィリップのところにたどり着いた。

「九時頃までにヴェルサイユに行けるようにしてくれ。半エキュやろう」

 言葉通り九時には、謁見を始めていた王太子妃からフィリップも朝の謁見を賜っていた。細心の注意を払い、また作法を脱ぎ捨てて、大公女はトリアノンでおこなわせている仕事を朝のうちに見て回ることにしていた。途中で謁見の約束をしていた請願者に出会うと、急いで用件を済ませた。智性と優美な佇まいの中にも威厳を失わず、優しさを誤解されていることに気づこうものなら尊大にさえなった。

 初めこそフィリップは歩いて訪問しようとしていた。それだけ経済的に逼迫していたのだ。だが自尊心から――或いは、軍人なら目上の人間と対する際に決して失うことのない、敬意の気持から――ヴェルサイユを礼服で訪れんが為に倹約の日々を過ごさざるを得なかったのだ。

 フィリップは徒歩で戻るつもりだった。梯子の同じ段の上で、正反対の地点から飛び出していながら、貴族階級のフィリップと平民階級のジルベールは交差していたのである。

 フィリップは心を締めつけられながらも、なおも心を奪われているヴェルサイユに戻って来た。二人の将来を魅了して来た、黄金色と薔薇色の夢に満ちた場所。心をずたずたに切り裂かれて、不幸と恥の思い出であるトリアノンに戻って来た。九時ちょうどに、謁見状を手にして、四阿近くの花壇に沿って歩いていた。

 およそ百歩ほど離れたところに、王太子妃が建築家と話をしているのが見えた。寒い季節ではないというのに、建築家は貂の毛皮を羽織っていた。王太子妃はワトーの描く貴婦人のような小さな帽子をかぶり、緑豊かな木立を背景にして立っていた。時折り、澄んだ声の震えた響きが届き、フィリップの感情を掻き立てた。普段であれば、傷ついた心のうちの悲しみを消し去っていたであろう。

 フィリップと同じく謁見を許された人々が、次々と四阿の戸口に現れた。控えの間では取次が謁見の順序を按配しに来ていた。王太子妃が建築家のミックと戻って来るたびに、その途上にいる人々が言葉をかけてもらっていた。特別な計らいで言葉を交わした人さえいる。

 それが終わると別の謁見者が現れるのを待った。

 フィリップは今もしんがりにいた。王太子妃の目が自分に向けられたことにはとうに気づいていた。まるで王太子妃の方からも会いたがってくれていたように感じられて、フィリップは赤面し、その場に相応しい謙虚で忍耐強い態度を取ろうと努めた。

 ついに取次がフィリップに声をかけた。ご用件はございませんか。王太子妃殿下は遅れてお戻りになるわけにはなりませんし、ひとたびお戻りになってしまえば誰ともお会いにはなりません。

 そこでフィリップは進み出た。王太子妃から見つめられるままに、百歩の距離を縮め、適切な機会を捉えて恭しく挨拶をした。

 王太子妃が取次を見た。

「この挨拶した者の名前は?」

 取次が謁見状を読み上げた。

「フィリップ・ド・タヴェルネ殿です」

「ええ……」

 王太子妃はフィリップのことをさらにじっくりと物問いたげに見つめた。

 フィリップは身体を折り畳んだような状態で待っていた。

「ご機嫌よう、ド・タヴェルネさん。アンドレ嬢はお元気?」

「臥せっております。ですが妃殿下からいただいたご厚意のしるしを見れば元気になるに違いありません」

 王太子妃は答えなかった。フィリップの痩せて青ざめた顔に苦しみを読み取り、町人のような簡素な服装の下に、初めてフランスの地を訪れた時に案内役を務めたあの将校を認めた。

「ミックさん、では舞踏室の内装についてはそういたしましょう。隣の森林園のことはもう決定いたしましたわね。こんなに長く寒い思いをさせてしまってごめんなさい」

「それでは失礼いたします」ミックはお辞儀をして立ち去った。

 王太子妃からお辞儀をされて、待機していた人々もすぐに退出した。王太子妃は自分にも型通りに挨拶するはずだ、と考えて、フィリップはずっと苦しんでいた。

「妹さんは臥せっている、と仰ったわね?」目の前に王太子妃が現れてたずねた。

「臥せっております」フィリップは躊躇った。「控えめに申しましても元気がありません」

「元気がない?」王太子妃が首を傾げた。「あれほど健康的でしたのに!」

 フィリップが頭を下げた。王太子妃は一族の許では鷲の視線と呼ばれる問うような目つきでそれを眺めてから、こう言った。

「少し歩いてもいいですか。風が冷たいので」

 王太子妃が歩き始めても、フィリップは動かなかった。

「あら、いらっしゃいませんの?」マリ=アントワネットが振り向いてたずねた。

 フィリップはひと飛びで王太子妃のそばに寄った。

「どうしてもっと早くにアンドレ嬢の具合を知らせて下さいませんでしたの?」

「そんな。妃殿下ご自身が仰ったのではありませんか……以前には妹に目を掛けて下さいましたが……今は……」

「今もまだ気に掛けておりますわ……ですけれど、タヴェルネ嬢がとっとと仕事を辞めてしまったのではありませんの?」

「そうするしかなかったのです!」フィリップは声を絞り出した。

「何ですって? そうするしかなかった?……その言葉を説明して下さいな」

 フィリップは答えなかった。

「ルイ先生が話してくれました。ヴェルサイユの空気はタヴェルネ嬢の健康に良くないそうですね。お父様の家で過ごせば元通りになると……そう言われました。妹さんが出発前に一度だけ訪ねてくれましたが、顔色も悪く悲しそうでした。その際に妹さんがどれだけ我慢しているのかはっきりと伝わって来ました。あんなにたくさんの涙を流していたのですから!」

「嘘偽りのない涙でございます。心が激しく打ちつけ、涸れることもなりません」

「確かお父様に宮廷に連れて来られたはずでしたから、故郷が恋しくなって、何処か具合が……」

「妃殿下」フィリップが急いで口を挟んだ。「妹が恋しがっているのは妃殿下を措いてほかにございません」

「それなのに苦しんでいるなんて……おかしな病気ですね。故郷の空気で良くなるはずなのに、悪化してしまうなんて」

「いつまでも妃殿下に誤魔化しているわけには参りません。妹の病気は深い悲しみによるもので、絶望と隣り合わせの状態にまで悪化してしまいました。タヴェルネ嬢が愛しているのはこの世で妃殿下とぼくだけであるにもかかわらず、愛情よりも神を信じるようになったのです。ここに謁見をお願いしましたのも、妹のこうした願いを妃殿下に援助していただきたかったからでございます」

 王太子妃が顔を上げた。

「修道院に入りたがっているというのですか?」

「はい、殿下」

「それは辛いでしょう? あなたは妹さんを愛してらっしゃるのに」

「妹の立場に相応しい判断をしたと思っておりますし、そもそもこれはぼくが言いだしたことです。ぼくはアンドレを愛しています。この考えが間違っているとは思いませんし、欲得ずくだと思われることもないでしょう。アンドレを幽閉することでぼくには何の益もありません。お互いに何一つ持ってなどいないのですから」

 王太子妃は動きを止めて、改めてフィリップを盗み見た。

「あなたは理解しようとはなさらなかったけれど、わたしが先ほど申し上げたのはそのことです。お金には苦労なさっているのでしょう?」

「妃殿下……」

「うわべだけの恥などお忘れなさい。大事なのは妹さんの幸せではありませんか……率直にお答え下さい。誠実に……あなたが誠実な方なのはわかっておりますもの」

 誠実に光るフィリップの目が大公女の目とぶつかり、そのまま下がらなかった。

「お答えいたします、殿下」

「では。妹さんが俗世を離れたがっているのには、すぐにでもそうしなくてはならない止むに止まれぬ事情があるのですか? 何ということを口になさるのかしら! 君主というのも不便なものですね! 神から不幸を憐れむ心をいただいていながら、慎みの名のもとに、それを見抜く洞察力を拒まれているのですから。率直にお答え下さい。そうなのですか?」

「違います」フィリップはきっぱりと答えた。「そうではありません。ですが妹はサン=ドニ修道院に入りたがっておりますし、それなのに必要な持参金の三分の一しかないのです」

「持参金は六万リーヴルでしたね。では二万リーヴルしかお持ちではないのですか?」

「それだけは何とか。ですが妃殿下ならお出来になるはずです。たった一言で、財布の紐をゆるめることなく、寄宿生を受け入れさせることが出来るはずです」

「確かにその通りです」

「でしたら特別にご厚意をお願いするわけには参りませんか。既に妹がルイーズ・ド・フランス様のところでどなたかに仲介の約束を取りつけていなければの話ですが」

「聯隊長、突然のお話ですね」マリ=アントワネットが不思議そうに言った。「わたしの周りには、貧しい貴族の方がたくさんいらっしゃるのです! それがわかっていなかったことはお詫びいたします」

「ぼくは聯隊長ではありません」フィリップの声は穏やかだった。「今のぼくは妃殿下の忠実なしもべでしかありません」

「聯隊長ではないと仰いましたか? いつからでしょう?」

「一度でもそうだったことはありません」

「国王はわたしの見ているところで聯隊の約束をなさったじゃありませんか……」

「任命状が届かなかったのです」

「でも階級が……」

「国王の不興を買って落ちぶれた以上は、それも諦めました」

「国王の不興? 何故ですの?」

「わかりません」

「ああ! 宮廷というところは……」王太子妃は悲しみを露わにした。

 フィリップが侘びしげに微笑んだ。

「妃殿下は天使でいらっしゃいます。フランス王家にお仕えして、妃殿下の為に死ぬ機会を得ることが叶いませんのが残念でなりません」

 王太子妃の双眸に激しい光がよぎり、フィリップは両手で顔を覆った。王太子妃はそれを慰めようとも、この瞬間にフィリップの頭を占めていた考えを取り除こうともしなかった。

 王太子妃は声も立てず何とか息を吸って、ベンガル薔薇の花を震える手でむしり取った。

 フィリップが再び口を開いた。

「許していただけますか」

 マリ=アントワネットはその言葉には応えなかった。

「妹さんがそうしたければ明日にでもサン=ドニに入れます」王太子妃の声は燃えるように鮮やかだった。「そしてあなたは、一月後には聯隊の責任者になっているはずです。わたしがそういたしましょう!」

「妃殿下、先ほどの言葉を聞いてもなおこのようなご厚意を寄せて下さるのですか? 妹は妃殿下のご親切をお受けいたしますが、ぼくの方はお断わりせねばなりません」

「断ると言うのですか?」

「ええ。ぼくは宮廷で侮辱を受けました……侮辱した人たちは、ぼくが今より厚遇されたらもっとひどいことをしてくるでしょう」

「わたしの庇護があってもですか?」

「その故にますますひどくことなるでしょう」フィリップは断言した。

「その通りですね!」大公女は青ざめて呟いた。

「それに……忘れていました。殿下とお話ししながらすっかり忘れていました。この世に幸運などもうないことを……暗がりに籠ってもう外に出るべきではないことを。暗がりの中で勇気を持って祈り、心のよすがにいたします!」

 フィリップの声の響きに、王太子妃は背筋がぞっとするのを感じていた。

「その時が来たら、今は頭の中で考えるしか出来ないことも、口にすることが出来ますもの。妹さんがそうしたくなったらいつでもサン=ドニに入れますよ」

「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

「あなたの方は……どうか希望を仰って」

「ですが……」

「お願いですから!」

 王太子妃の手袋を着けた手が下がるのが見えた。何かを待つように宙ぶらりんのまま。意味するところは恐らく命令にほかならなかった。

 フィリップはひざまずき、手を取り、胸を高鳴らせながらゆっくりと口唇をつけた。

「希望を!」王太子妃は感動のあまり手を引っ込めることもしなかった。

 フィリップが顔を伏せた。辛い思いが波となって、船を飲み込む嵐のようにフィリップを飲み込んだ……しばらくは口を聞くことも動くこともしなかったが、やがて立ち上がった顔色は変じ、目からは生気が消えていた。

「フランスを出る旅券を下さい。妹がサン=ドニ修道院に入った日に、ぼくはフランスを発ちます」

 ぎょっとしたように王太子妃が後じさった。フィリップがどれほど苦しんでいるのかを理解し、共感してしまっては、曖昧な言葉を返すことしか出来なかった。

「そうですか」

 そして常緑の帷子を纏った孤独な糸杉の並木道に姿を消した。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLVI「Dernière audience」の全訳です。


Ver.1 12/07/14

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