フィリップは恐ろしい夜を過ごしていた。雪の上に足跡があるのを見れば、誰かが家に侵入して赤ん坊を攫ったのは明らかだった。だがいったい誰が? それを明らかにする手がかりが何もない。
フィリップは父親のことがよくわかっていたから、父親こそこの事件の共犯であるのだと信じて疑わなかった。ド・タヴェルネ男爵はこの子の父親がルイ十五世だと信じていた。である以上、国王がデュ・バリー夫人におこなった不貞の、生きた証拠を確保することに大きな価値を見出したに違いない。遅かれ早かれアンドレが寵姫に助けを求め、もたらされるありきたりの財産にもっと高い値をつけて買い戻そうとすると信じたに違いない。
父の性格について天啓を受けて、フィリップは多少なりとも落ち着きを取り戻した。誘拐犯が誰なのかわかっている以上、取り返す見込みはある。
そこで八時にルイ医師を待ち伏せ、通りを歩きながら恐ろしい夜の出来事を話して聞かせた。
医師は相談相手として最適だった。庭の足跡を調べ、考えた結果、フィリップの推理を後押しした。
「私も男爵のことは知っています。このくらいのことはしかねないでしょう。しかしですね、別の利害――もっと直接的な利害を持った人物が、この子の誘拐をおこなった可能性はないのでしょうか?」
「どういうことでしょうか?」
「本当の父親ですよ」
「そのことは考えました。でもあいつにはパンすらないんです。それにあの気違いは今頃は逃げ出して、ぼくの影にさえ怯えているはずです……間違ってはいけません、あいつは好機に乗じて罪を犯しました。でも今のぼくは怒りとは程遠いところにいるんです。あの犯罪者を憎んでいるのはもちろんですが、二度と顔を合わせないようにするつもりです。会うと殺してしまうでしょうから。あいつだって悔恨の念を感じて罪の意識に打たれているものだと信じてます。あいつなんて飢えてさすらえばいいんです、この剣を用いずともそれが復讐になるでしょうから」
「もうその話はやめにしましょう」
「一つだけ嘘に付き合ってくれませんか。何よりも大事なのは、アンドレを安心させることですから。昨日は赤ん坊の具合が心配になって、夜になってから乳母のところに連れて行ったのだと伝えてくれませんか。アンドレのことを思って最初に考えついた作り話なのです」
「伝えましょう。あなたは赤ん坊を捜しに?」
「手はあります。ぼくはフランスを離れます。アンドレがサン=ドニの修道院に入る際に、父上と会うことになるでしょうから、すべて知っていると告げるつもりです。赤ん坊の隠し場所を引き出してみせますよ。世間にぶちまけると言ったり妃殿下に口を利いてもらうと言ったりして圧力をかければ、きっと上手くいきます」
「妹さんが修道院に入るとなると、赤ん坊はどうするつもりなのです?」
「どなたか紹介していただけますか。その方のところに子守りに預けたいと考えています……学校に進み、大きくなったら、引き取るつもりです。ぼくが生きていればの話ですが」
「あなたも子供もいなくなることに、母親は同意しているのですか?」
「ぼくのやろうと思っていることになら、アンドレは何にでも同意してくれます。ぼくが妃殿下に陳情申し上げたことは知っていますし、ぼくは妃殿下から約束の言葉をいただきました。ぼくらを庇護して下さる方に対して敬意を欠くようなことは妹もするはずがありません」
「よければ母親のところに戻りませんか」
医師は言葉通りアンドレの部屋に入った。アンドレはフィリップに看病されたおかげで安らかに眠っていた。
目を開けて最初に口に出したのは、医師への質問だったが、答えるまでもなく医師の明るい表情がすべてを語っていた。
それでようやくアンドレもすっかり落ち着いて、快復も早まり、一週間すると起き上がり、ステンドグラスに陽が落ちる頃には温室を歩けるようになっていた。
ちょうどその日、何日か家を空けていたフィリップがコック=エロン街の家に帰って来た。その表情があまりにも暗かったので、扉を開けた医師は、何か良くないことがあったのだと悟った。
「何があったのです? お父上から赤ん坊を返してもらえませんでしたか?」
「父上は……熱を出して、パリを発った日から三日間、寝台に釘付けになっており、ぼくが訪れた時には息も絶え絶えでした。これはきっと病気のふりをして一杯食わせるつもりだな、それこそ誘拐に関わっていた証拠に違いない、と考え、強気で責め立てました。ですが父上はキリストの名にかけて、何を言われているのかわからない、と誓ったのです」
「それで何の手がかりもないまま戻って来たと?」
「そういうことです」
「男爵が本当のことを仰っているのは間違いありませんか?」
「まず間違いありません」
「あなたよりも狡猾な方だ。本音を見せなかったのではありませんか」
「妃殿下に口を利いてもらうと言って脅すと、真っ青になって言ったのです。『わしを破滅させたいのならすればいい。父と自分の名誉を汚せばよかろう。怒りにまかせてとち狂ったところで、何の解決ももたらされんぞ。お前が何を言いたいのかわしにはさっぱりわからん』と」
「それで……?」
「それで、ぼくはがっかりして帰って来たのです」
その時、アンドレの呼ぶ声が聞こえた。
「いま入って来たのはフィリップなの?」
「何てこった! こんな時に……何と言えばいいのだろう?」
「何も言ってはいけません!」医師が諫めた。
アンドレが部屋から出て来て優しく抱きしめるので、フィリップは肝を冷やした。
「何処に行ってらしたの?」
「まずは父上のところだよ。話しておいただろう」
「お父様はお元気でした?」
「ああ、元気だったよ。でも立ち寄ったのは父上のところだけじゃない……お前をサン=ドニに入れる為に、いろいろな人に会って来たんだ。ありがたいことに、これですべての準備は整った。これで髪を下ろして、将来を修身と信仰に費やすことが出来るよ」
アンドレがフィリップに近寄り、穏やかに微笑んだ。
「お兄様、わたくしは自分の将来になどもう何も費やしません。わたくしの将来には誰も時間を費やしてはならないんです……我が子の将来こそが、わたくしのすべて。神が与えて下さった息子の為だけにすべてを捧げます。それがわたくしの決意――体力が回復して心に迷いがなくなってから、心に決めたことです。息子の為に生き、切りつめて生活し、必要とあらば働くことも厭いませんが、息子から片時も離れるつもりはありません。それがわたくしの描いた将来です。修道院も諦め、我欲も捨てます。わたくしは他人のもの。神様もわたくしのことはもうお構いなさいませぬよう!」
医師がフィリップに目顔で問いかけた――先ほど言った通りではありませんか?
「アンドレ、アンドレ、何を言っているんだ?」
「怒らないで、フィリップ。弱くて見栄っ張りな女の気まぐれではないんです。お兄様に迷惑はかけません、すべて自分で面倒を見ます」
「だが……だがアンドレ、ぼくはフランスを離れなくちゃならない。すべてを置き去りにしていくつもりなんだ。もうぼくには財産もない。未来もない。祭壇の下におまえを置いていくつもりだったんだ。それなのに、世間だって?……仕事だって?……アンドレ、大丈夫なのか?」
「もう覚悟は出来ています……愛してます、フィリップ。でもわたくしの許を離れるというのなら、涙は堪えて、息子の揺りかごのそばで引き籠もることにします」
医師が近づいた。
「あなたは混乱しているんです」
「仕方ないじゃありませんか、先生! 母親というのは混乱しているものですわ! でもこの混乱も神様が下さったのです。あの子がわたくしを必要としている以上は、決意を曲げるつもりはありません」
フィリップと医師が目を交わした。
「お嬢さん」医師が初めに口を開いた。「私は説教師ではありませんから上手く話せませんが、神が人間に対して激しすぎる執着を禁じていたことは覚えていますよ」
「そうだとも、アンドレ」
「神様も母親に対して我が子を愛することを禁じてはいなかったのではありませんか、先生?」
「いいですかお嬢さん。哲学者も医者も、人間の愛の為に神学者が掘った穴の深さを測ろうとしているんです。神から授かった教えに従い、大本を探りなさい。精神的な理由を探すだけではいけません。それだと完全で細かすぎることがありますからね。物質的な理由も探すのです。神は母親に対して、子供に愛を注ぎすぎることを禁じました。子供とは弱く細い茎であり、災いや苦しみを引き寄せやすいからです。束の間の命に過剰な愛を注ぐことは、絶望に陥る危険を伴っているからです」
「先生、どうしてそんなことを仰るんですか? それにフィリップも、どうしてそんな慰めるような顔をして見つめているの? 真っ青じゃない」
「アンドレ、友人からの助言だと思って聞いてくれ。元の身体に戻ったんだから、出来るだけ早くサン=ドニ修道院に入った方がいい」
「フィリップ!……あの子を置いては行けないと言ったじゃありませんか」
「あなたのことが必要ならそうしますよ」医師が静かに言った。
「どういうことです? 話して下さい。何かひどいことでもあったのですか?」
「お気をつけなさい」医師がフィリップに耳打ちした。「まだ衝撃に耐えられるほどではありません」
「お兄様、答えてくれないのね。説明して下さい」
「アンドレ、帰りがけにポワン=デュ=ジュールを通って、あの子を子守りに預けて来たと言っただろう」
「ええ……それで?」
「うん、あの子は具合が悪くてね」
「あの子の具合が……マルグリット……マルグリット……急いで馬車を! あの子のところに行かなくては!」
「無茶だ! あなたはまだ馬車に乗れるような状態じゃない」医師が声をあげた。
「今朝は大丈夫だと仰ったじゃありませんか。フィリップが戻って来た時、明日になればあの子に会えると仰ったじゃありませんか」
「きっと良くなりますから」
「嘘ではございませんね?」
医師は答えなかった。
「マルグリット! 言う通りにして……馬車を!」
「そんなことをしては死んでしまう」フィリップが止めた。
「だったら死にます!……命に未練はないもの……」
マルグリットはアンドレとフィリップと医師に代わる代わる目を遣りながら立ち尽くしていた。
「早く! 命令です!……」アンドレの頬が真っ赤に染まった。
「アンドレ!」
「何も聞くつもりはありません。馬車を用意できないというのなら、歩いて行きます」
「アンドレ」フィリップがアンドレをとっさに抱きしめた。「行くな、行っても仕方がないんだ」
「あの子は死んでしまったのね!」アンドレは凍えるような声を出した。フィリップと医師が椅子に坐らせると、アンドレは椅子に滑らせるように腕を落とした。
フィリップは何も言えずに、冷たく強張った手に口づけすることしか出来なかった……やがて首筋から緊張も解けると、アンドレはうなだれて涙を流した。
「神の思し召しだよ。ぼくらはこの試練に耐えなくてはならない。偉大で公正な神のすることだもの、きっとお考えがあるんだよ。あの子がおまえのそばにいるのは不当な罰だったと判断なさったんだ」
「でも……どうして神様は罪もないあの子を苦しめるようなことをなさるのかしら?」
「神は苦しめたりなどなさっていませんよ」と医師がいった。「あの子は生まれたその晩に亡くなったのです……消え去った幻にいつまでも未練を抱いてはいけません」
「わたくしが聞いたあの声は……?」
「あの子がこの世に別れを告げる声でした」
アンドレが顔を覆うと、フィリップと医師は目を交わした。優しい嘘が効果を上げたという点で、二人の思いは一致していた。
突然マルグリットが手紙を持って戻って来た……アンドレ宛てだ……
『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック=エロン街、九番地、プラトリエール街を出て最初の正門』
フィリップはアンドレの頭越しに医師に手紙を見せた。アンドレは泣きやんでいたが、苦しみのうちに閉じ籠もっていた。
――誰だろうな? とフィリップは考えた。ここの住所は誰も知らないはずだし、父上の筆跡ではない。
「アンドレ、おまえ宛てだよ」
考えることも抵抗することも驚くこともせず、アンドレは封筒を破って目を拭い、手紙を広げて読み始めた。だが三行の文章に目を走らせただけで、大きな悲鳴をあげ、気が違ったように立ち上がり、四肢を痙攣で強張らせ、駆け寄って来たマルグリットの腕の中に彫像のようにずさりと倒れ込んだ。
フィリップが手紙を拾い上げて読んだ。
『海上にて、一七……年、十二月十三日
あなたに追い払われて旅に出ます。もう会うことはないでしょう。僕の子は預かってゆきます。この子があなたを母と呼ぶことはありません!
ジルベール』
フィリップは怒鳴り声をあげて手紙を握りつぶした。
「糞ッ!」と歯軋りし、「その場の勢いに流されて犯した罪だからこそ、大目に見てやっていたんだ。今回は明確な意思を持って罪を犯した以上、報いは受けさせてやる……アンドレ、失神したおまえの心にかけて誓おう。あいつが目の前に現れたらその場で殺してやる。神もぼくらを邂逅させてくれる。あいつは一線を越えたんだ……先生、アンドレは意識を取り戻すことが出来ますか?」
「ええ、大丈夫ですよ!」
「先生、明日はアンドレをサン=ドニの修道院に入れて、明後日には次の寄港地に行かなくてはなりません……あいつが逃げ出した以上……追いかけてやる……それに、ぼくにはあの子が必要なんです……先生、一番近い寄港地は何処ですか?」
「ル・アーヴルです」
「三十六時間後にはル・アーヴルに着いてみせます」フィリップが答えた。
Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLXII「Le dernier adieu de Gilbert」の全訳です。
Ver.1 12/08/25
[註釈・メモなど]
・メモ
妃殿下から約束の言葉……第156章。王太子妃はアンドレのサン=ドニ入りとフィリップの旅券を約束した。
・註釈
▼*1. []。[↑]