ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百六十二章 ジルベール最後の挨拶

 フィリップは恐ろしい夜を過ごしていた。雪の上に足跡があるのを見れば、誰かが家に侵入して赤ん坊を攫ったのは明らかだった。だがいったい誰が? それを明らかにする手がかりが何もない。

 フィリップは父親のことがよくわかっていたから、父親がこの事件に関与しているのだと信じて疑わなかった。タヴェルネ男爵はこの子の父親がルイ十五世だと信じていた。である以上、国王がデュバリー夫人におこなった不貞の、生きた証拠を確保することに大きな価値を見出したに違いない。それに遅かれ早かれアンドレは寵愛レースに復帰し、将来の財産の大部分を高く買い戻すことになるということも信じていたに違いない。

 新たに発見した父の性格に基づいてそう考えると、少しは気が楽になった。誘拐犯が誰なのかわかっている以上、取り返す見込みはある。

 そこで八時にルイ医師を待ち伏せ、通りを歩きながら恐ろしい夜の出来事を話して聞かせた。

 医師は相談相手として最適だった。庭の足跡を調べ、考えた結果、フィリップの推理を後押しした。

「私も男爵のことは知っています。このくらいのことはしかねないでしょう。しかしですね、別の利害――もっと直接的な利害を持った人物が、この子の誘拐をおこなった可能性はないのでしょうか?」

「どういうことでしょうか?」

「本当の父親ですよ」

「そのことは考えました。でもあいつにはパンすらないんです。常軌を逸して正気も失い、今頃は逃げ出して、ぼくの影にさえ怯えているはずです……はっきり言いましょう。あいつは好機に乗じて罪を犯しました。でも今のぼくは怒りとは程遠いところにいるんです。あの犯罪者を憎んでいるのはもちろんですが、あいつを殺してしまわないように、二度と顔を合わせないようにしようと思ってます。あいつは今頃、罪の意識に苛まれて報いを受けていることでしょう。飢えたまま逃げ続けるような生活が、この剣に代わって恨みを晴らしてくれることでしょう」

「もうその話はやめにしましょう」

「一つだけ噓に付き合ってくれませんか。何よりも大事なのは、アンドレを安心させることですから。昨日は赤ん坊の具合が心配になって、夜になってから乳母のところに連れて行ったのだと伝えてくれませんか。アンドレのことを思って最初に考えついた作り話なのです」

「伝えましょう。あなたは赤ん坊を捜しに?」

「手はあります。ぼくはフランスを離れます。アンドレがサン゠ドニの修道院に入りますから、その時に父上と会って、すべて知っていると告げるつもりです。血の繫がった親であることは忘れて、赤ん坊の隠し場所を明かすよう迫ってみせます。世間への暴露や妃殿下の口利きをちらつかせれば、そうごねたりはしないでしょう」

「妹さんが修道院に入るとなると、赤ん坊はどうするつもりなのです?」

「どなたか紹介していただけますか。その方のところに子守りに預けたいと考えています……学校に通わせ、大きくなったら、引き取るつもりです。ぼくが生きていればの話ですが」

「あなたとであれ、赤ん坊とであれ、離れ離れになることに母親が同意すると思うのですか?」

「アンドレならこれからはぼくのすることに同意してくれるはずです。ぼくが妃殿下に陳情申し上げたことも、妃殿下から約束の言葉をいただいたことも知っています。ぼくらを庇護して下さる方に対して敬意を欠くようなことは妹もするはずがありません」

「よければ母親のところに戻りましょう」

 医師は言葉通りアンドレの部屋に入った。アンドレはフィリップの看病の甲斐あって安らかにまどろんでいた。

 目を開けて最初に口に出したのは、医師への質問だったが、答えるまでもなく医師の明るい表情がすべてを語っていた。

 こうしてアンドレもすっかり落ち着き、そのおかげで快復も早まり、十日後には起き上がって、ステンドグラスに陽が落ちる頃には温室を歩けるようになっていた。

 ちょうどその日、何日か家を空けていたフィリップがコック゠エロン街の家に帰って来た。その表情があまりにも暗かったので、扉を開けた医師は、何か良くないことがあったのだと悟った。

「何があったのです? お父上から赤ん坊を返してもらえませんでしたか?」

「父上は……熱を出して、パリを発った日から三日間、寝台に釘付けになっており、ぼくが訪れた時には息も絶え絶えでした。これはきっと病気のふりをして一杯食わせるつもりだな、それこそ誘拐に関わっていた証拠に違いない、と考え、強気で責め立てました。ですが父上はキリストの名にかけて、何を言われているのかわからない、と誓ったのです」

「それで何の手がかりもないまま戻って来たと?」

「そういうことです」

「男爵が本当のことを仰っているのは間違いありませんか?」

「まず間違いありません」

「あなたよりも狡猾な方だ。本音を見せなかったのではありませんか」

「妃殿下に口を利いてもらうと言って脅すと、真っ青になって言ったのです。『わしを破滅させたいのならすればいい。父と自分の名誉を汚せばよかろう。怒りにまかせてとち狂ったところで、何の解決ももたらされんぞ。お前が何を言いたいのかわしにはさっぱりわからん』と」

「それで……?」

「それで、また絶望に逆戻りです」

 その時、アンドレの呼ぶ声が聞こえた。

「いま入って来たのはフィリップなの?」

「何てこった! こんな時に……何と言えばいいのだろう?」

「何も言ってはいけません!」医師が助言した。

 アンドレが部屋から出て来て優しく抱きしめるので、フィリップは肝を冷やした。

「何処に行ってらしたの?」

「まずは父上のところだよ。話しておいただろう」

「お父様はお元気でした?」

「ああ、元気だったよ。でも立ち寄ったのは父上のところだけじゃない……お前をサン゠ドニに入れるために、いろいろな人に会って来たんだ。ありがたいことに、これですべての準備は整った。もう安心していい、これからの将来は理智的で毅然とした生活を送ることが出来るよ」

 アンドレがフィリップに近寄り、穏やかに微笑んだ。

「お兄様、もう自分の将来のために時間を費やすつもりはありません。それどころか、誰であってもわたくしの将来に時間を費やす必要などないんです……我が子の将来こそが、わたくしのすべて。神が与えて下さった息子のためだけにすべてを捧げます。それがわたくしの決意――体力が回復して心に迷いがなくなって以来、その決意が揺らいだことはありません。息子のために生き、切りつめて生活し、必要とあらば働くことも厭いませんが、息子から片時も離れるつもりはありません。それがわたくしの描いた将来です。修道院も諦め、我欲も捨てます。もう自分のことなどどうでもよいのです。今や神様からも必要とされていないのですから!」

 医師がフィリップに目顔で問いかけた――先ほど言った通りではありませんか?

「アンドレ、アンドレ、何を言っているんだ?」

「怒らないで、フィリップ。弱くて見栄っ張りな女の気まぐれではないんです。お兄様に迷惑はかけません、すべて自分で面倒を見ます」

「だが……だがアンドレ、ぼくはフランスを離れなくちゃならない。すべてを置き去りにしていくつもりなんだ。もうぼくには財産もない。未来もない。祭壇の下におまえを預けていくつもりだったんだ。それなのに、世間に出て、貧しさの中、働くだなんて……アンドレ、無茶はよすんだ」

「もう覚悟は出来ています……愛してます、フィリップ。でもわたくしの許を離れるというのなら、涙は堪えて、息子の揺りかごのそばに身を寄せることにします」

 医師が近づいた。

「あなたは混乱しているんです」

「仕方ないじゃありませんか、先生……母親になるだなんて、混乱して当然でしょう? でもこの混乱も神様が下さったのです。あの子がわたくしを必要としている以上は、決意を曲げるつもりはありません」

 フィリップと医師が目を交わした。

「お嬢さん」医師が初めに口を開いた。「私は説教師ではありませんから上手く話せませんが、神はあまりに激しい執着を人間に禁じていたことは覚えていますよ」

「そうだとも、アンドレ」

「神様も母親が我が子を愛することを禁じてはいなかったのではありませんか、先生?」

「申し訳ないがお嬢さん、人生の先輩として、そして医師として、人間が持つ激しい感情について神学者が穿った溝の深さを、探ってみようと思います。神から授かった教えに従い、大本を探りなさい。精神的な理由を探すだけではいけません。精神的な理由は、時に完璧すぎて捉えがたい。物質的な理由も探すのです。子供に過度な愛情を注ぐのを神が母親に禁じたのは、子供というものがか細くて傷つきやすい植物のような存在だからです。災いや苦しみを引き寄せやすい、儚い存在に、激しい愛情を注ぐことは、絶望に身を晒すことになりかねません」

「先生、どうしてそんなことを仰るんですか? それにフィリップも、どうしてそんな慰めるような顔をして見つめているの? 真っ青じゃない」

「アンドレ、親しい人間からの助言だと思って聞いてくれ。元の身体に戻ったんだから、出来るだけ早くサン゠ドニ修道院に入った方がいい」

「フィリップ!……あの子を置いては行けないと言ったじゃありませんか」

「あの子にその必要があればもちろんそうします」医師が静かに言った。

「どういうことです? 話して下さい。何かひどいことでもあったのですか?」

「お気をつけなさい」医師がフィリップに耳打ちした。「まだ衝撃に耐えられるほどの体調ではありません」

「お兄様、答えてくれないのね。説明して下さい」

「アンドレ、帰りがけにポワン゠デュ゠ジュールに寄ったんだ。あの子はそこの乳母に預けてある」

「ええ……それで?」

「うん、あの子は具合が悪くてね」

「あの子の具合が……マルグリット……マルグリット……急いで馬車を! あの子のところに行かなくては!」

「無茶だ! あなたはまだ馬車に乗れるような状態じゃない」医師が声をあげた。

「今朝は大丈夫だと仰ったじゃありませんか。フィリップが戻って来た時、明日になればあの子に会えると仰ったじゃありませんか」

「良くなると思っていたのですが」

「噓でしたのね?」

 医師は答えなかった。

「マルグリット! 言う通りにして……馬車を!」

「そんなことをしては死んでしまう」フィリップが止めた。

「だったら死にます!……命に未練はないもの……」

 マルグリットはアンドレとフィリップと医師に代わる代わる目を遣りながら立ち尽くしていた。

「早く! 命令です!……」アンドレの頬が真っ赤に染まった。

「アンドレ!」

「何も聞くつもりはありません。馬車を用意できないというのなら、歩いて行きます」

「アンドレ」フィリップがアンドレをとっさに抱きしめた。「行くな、行っても仕方がないんだ」

「あの子は死んでしまったのね!」アンドレは凍えるような声を出した。フィリップと医師が椅子に坐らせると、アンドレの腕はそのまま椅子の脇にずり落ちた。

 フィリップは何も言えずに、冷たく強張った手に口づけすることしか出来なかった……やがて強張った首筋が弛緩し、アンドレはうなだれて涙を流した。

「神の思し召しだよ。ぼくらはこの試練に耐えなくてはならない。偉大で公正な神のすることだもの、きっとお考えがあるんだよ。あの子がおまえのそばにいるのは不当な罰だったと判断なさったんだ」

「でも……どうして神様は罪もないあの子を苦しめるようなことをなさるのかしら?」

「神は苦しめたりなどなさっていませんよ」と医師がいった。「あの子は生まれたその晩に亡くなったのです……消え去った幻にいつまでも未練を抱いてはいけません」

「わたくしが聞いたあの声は……?」

「あの子がこの世に別れを告げる声でした」

 アンドレが顔を覆うと、フィリップと医師は目を交わした。優しい噓が効果を上げたという点で、二人の思いは一致していた。

 突然マルグリットが手紙を持って戻って来た……アンドレ宛てだ……

『アンドレ・ド・タヴェルネ嬢、パリ、コック゠エロン街、プラトリエール街を出て最初にある馬車の入れる正門の家』

 フィリップはアンドレの頭越しに医師に手紙を見せた。アンドレは泣きやんでいたが、苦しみのうちに閉じ籠もっていた。

 ――誰だろうな? とフィリップは考えた。ここの住所は誰も知らないはずだし、父上の筆跡ではない。[*1]

「アンドレ、おまえ宛てだよ」

 アンドレは考えることも抵抗することも驚くこともせず、封筒を破って目を拭い、手紙を広げて読み始めた。だが三行の文章に目を走らせただけで、大きな悲鳴をあげ、気が違ったように立ち上がり、四肢を痙攣で強張らせ、駆け寄って来たマルグリットの腕の中に彫像のようにずさりと倒れ込んだ。

 フィリップが手紙を拾い上げて読んだ。

『海上にて、一七……年、十二月十五日

 あなたに追い払われて旅に出ます。もう会うことはないでしょう。僕の子は預かってゆきます。この子があなたを母と呼ぶことはありません!

 ジルベール』

 フィリップは怒鳴り声をあげて手紙を握りつぶした。

「糞ッ!」と歯軋りし、「その場の勢いに流されて犯した罪だからこそ、大目に見てやっていたんだ。今回は明確な意思を持って罪を犯した以上、報いは受けさせてやる……アンドレ、失神したおまえの心にかけて誓おう。あいつが目の前に現れたらその場で殺してやる。神もぼくらを邂逅させてくれる。あいつは一線を越えたんだ……先生、アンドレは意識を取り戻すことが出来ますか?」

「ええ、大丈夫ですよ!」

「先生、明日はアンドレをサン゠ドニの修道院に入れて、明後日には最寄りの寄港地に行かなくてはなりません……あいつが逃げ出した以上……追いかけてやる……それに、ぼくにはあの子が必要なんです……先生、一番近い寄港地は何処ですか?」

「ル・アーヴルです」

「三十六時間後にはル・アーヴルに着いてみせます」フィリップが答えた。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLXII「Le dernier adieu de Gilbert」の全訳です。初出は『La Presse』紙、1848年1月13日(連載第161回)。


Ver.1 12/08/25
Ver.2 26/08/30

[註釈・メモなど]

・メモ
 妃殿下から約束の言葉……第156章。王太子妃はアンドレのサン=ドニ入りとフィリップの旅券を約束した。

[更新履歴]

・26/08/30 Le baron devait croire également que tôt ou tard Andrée recourrait à la faveur et qu'elle rachèterait fort cher alors le principal moyen de sa fortune à venir. 「la faveur」は「寵姫」ではなく「寵愛」「遅かれ早かれアンドレが寵姫に助けを求め、もたらされるありきたりの財産にもっと高い値をつけて買い戻そうとすると信じたに違いない。」 → 「それに遅かれ早かれアンドレは寵愛レースに復帰し、将来の財産の大部分を高く買い戻すことになるということも信じていたに違いない。」に訂正。

・26/08/30 「」 → 「」

・26/08/30 「」 → 「」

・26/08/30 「」 → 「」

・26/08/30 「」 → 「」

 

[註釈]

*1. [父上の筆跡ではない。]
 初出ではこの文章と次の「アンドレ、おまえ宛てだよ」の間に、「– Donnez-lui la lettre, interrompit le docteur, ce sera une distraction à cette profonde rêverie qui m'inquiète.(「お嬢さんに見せるといい」医師がフィリップの物思いを破った。「やはり深く閉じ籠もっているのは心配だ。この状況に対する一筋の光になるでしょう」)」という医師の台詞がある。しかし、医師がアンドレにこの手紙を見せようとするのはさすがに無責任すぎると感じる。そのため、単行本化の際にミスにより抜け落ちたわけではなく意図的にカットしたのであろうと判断し、この部分は初出を本文に反映はさせなかった。[]
 

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