この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東 照
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ジョゼフ・バルサモ

アレクサンドル・デュマ

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第百六十四章 アゾレス諸島

 船長の言葉どおりの時間に、船の前方、輝く太陽の彼方に、北東に連なる群島の海岸線が見えた。

 アゾレス諸島だ。

 風が海岸に吹き寄せ、船は順調に進んだ。午後三時頃、島が全貌を現わした。

 奇妙な形の丘の天辺が幾つも見えた。火山活動によって黒ずんだ岩石、輝く尾根と深い崖が形作る起伏。

 一つ目の島にある大砲の射程距離に入ると、船が止まった。乗組員が上陸の準備を始めた。船長が言っていたように、冷たい水を数トン補給する為である。

 乗客全員が地上を歩けることにわくわくしていた。何十日にもわたる辛い船旅を送った後で固い大地に足を降ろす喜びは、長い航海をした者だけが味わえる感覚だった。

「皆さん」心を決めかねている乗客に向かって船長が声をかけた。「上陸時間は五時間です。この機会にお楽しみ下さい。自然に興味がおありなら、人っ子一人いないこの島には冷たい泉がございます。狩りに興味がおありなら、兎や山鶉がいます」

 フィリップは銃と弾丸を身につけた。

「ところで船長は船に残るのですか? ぼくらと一緒には来ないのですか?」

「あれですよ」船長は海に注意を向けさせた。「怪しい動きをしている船がある。四日前くらいから跡を尾けて来ています。面構えが気に食わない、とでも言いますか、それで船の動きを見張っていようと考えております」

 フィリップはその説明に納得し、しんがりのボートに乗って地上に向かった。

 ご婦人たちや甲板の乗客の中には、敢えて降りようとしないのか、はたまた順番を待っているらしき人たちもいた。

 二艘のボートが遠ざかってゆく。乗っているのは機嫌のいい水夫たちと、さらに上機嫌な乗客たちだ。

 船長が最後に発したのは、

「八時になったら最終ボートでお出迎えいたします。いいですか、遅れた者は置き去りにしていきます」、という言葉だった。

 自然に興味のある者も狩りに興味のある者も誰もが上陸し終えると、水夫たちは海岸からほどしばらくのところにある洞窟に駆け込んだ。洞窟は日光を避けでもするように大きく曲がっていた。

 青く甘美な水を湛えた冷たい泉が、苔むした岩の下に流れ、洞窟から出ることなく、細かい流砂の奥に消えていた。

 水夫たちがそこで立ち止まり、水で樽を満たして海岸まで転がして行こうとしている。

 フィリップはそれを見つめていた。洞窟の青みがかった暗さに見とれていた。ひんやりとした空気や、水が滝を流れ落ちる心地よい音に、身体を委ねていた。淡く神秘的な光の散りばめられた暖かい暗がりからほんの数分のところに、光の射さない暗闇と涼しい場所があることに驚きを隠せなかった。手を伸ばし、岩壁にぶつかりながら、姿の見えない水夫たちを追いかけた。やがて少しずつ顔や姿が光に照らされ明らかになり始めた。空の光よりも、澄んでいる洞窟の光の方が好きだった。海岸に溢れている陽射しはうるさいし強過ぎる。

 そうこうしているうちに同行者たちの声が遠くに消えてゆく。銃声が一つ二つ、山の方で鳴り響いたかと思うと静かになり、フィリップは一人取り残されていた。

 水夫たちの方は仕事を終えていた。もう洞窟には戻って来ないだろう。

 フィリップは徐々にこの孤独の魔力と考え事の渦に引き込まれていた。柔らかい砂に寝そべり、むんむんとする苔むした岩にもたれて、物思いに耽った。

 こうして時間は流れ、浮世のことなど忘れていた。弾を抜いた銃を傍らの岩に寝かせると、安心して休めるように、肌身離さず持ち歩いている拳銃をポケットから取り出した。

 昔のことが何もかも甦って来た。ゆっくりと、厳かに、まるで諭したり責めたりするように。これからのことは何もかも飛び去ってしまった。時たま姿を見せはするが手では触れられなかったここらの野生の鳥のように、素っ気なく。

 フィリップがこのように物思いに耽っている間、ほかの人々もつい鼻の先で物思いに耽ったり、声をあげて笑ったり、希望に胸をふくらませたりしていたようだ。フィリップもそれを漠然と感じ取っていたし、ボートの櫂を漕ぐ音も一度ならず聞こえていたような気がする。海岸に向かっているのか、乗客を船まで送っているのだろう。気晴らしに飽きた人々もいれば、今度は自分が楽しむ番だと意気込む人々もいるに違いない。

 だがそれでもフィリップの夢想が破られることはなかった。洞窟の入口に気づかれなかったのかもしれないし、或いは目にしても入る気にならなかったのかもしれない。

 不意に人影がおずおずと躊躇うように、陽射しと洞窟のちょうど境目の辺りに現れた……誰かが歩いて来る。手探りで、背を丸め、水のせせらぎに近づいて来る。一度など苔に足を滑らせて岩にぶつかりもした。

 それを見たフィリップは立ち上がって手を差し伸べようとした。フィリップの指と件の人物の手が暗闇の中で触れ合った。

「こちらです」フィリップは明るい声を出した。「水はこちらです」

 その声を聞いて相手の人物がぱっと顔を上げた。洞窟の青ざめた光に顔をさらし、口を利こうとした。

 だが突然フィリップが恐ろしい悲鳴をあげ、後じさった。

 それを聞いて相手の方も叫び声をあげて後じさった。

「ジルベール!」

「フィリップ!」

 二人の声が地を這う雷鳴のように同時に鳴り響いた。

 その後に聞こえるのは争いの音だけだった。フィリップは両手でジルベールの首根っこをつかみ、洞窟の奥に引きずり込んだ。

 ジルベールは呻き声一つ出さずに引きずられていた。岩に押しつけられ、もう後じさることも出来ない。

「人でなしめ! とうとう捕まえたぞ!……神のお導きだ……神が正しく裁いて下さったんだ!」

 ジルベールは真っ青になって一言も発しなかった。両腕をだらりと降ろした。

「臆病な卑怯者め! 身を守る本能すらないのか」

 だがジルベールは悲痛な声を出した。

「身を守るですって? どうしてです?」

「自分がぼくの手の内にあることも、罰を受けて当然の人間だということも知っているはずだ。罪を犯したのは間違いない。おまえは一人の女を辱め、残酷にも息の根を止めたんだ。一人の生娘を辱めただけでなく、一人の母親を死に至らしめようとしたんだ!」

 ジルベールは一言も答えない。フィリップは思わずかっとなり、再びジルベールに手を伸ばした。抵抗はなかった。

「おまえは男じゃないのか?」フィリップはジルベールを乱暴に揺さぶった。「うわべだけなのか?……抵抗すらしないなんて!……首を絞めているんだぞ、抵抗くらいしたらどうだ! 身を守るがいい……意気地なしめ! 臆病者! 人殺し!」

 フィリップの指が喉に食い込むのを感じたジルベールは立ち上がって身体を強張らせ、獅子のように獰猛に、肩を動かしただけでフィリップを投げ飛ばし、腕を組んだ。

「わかりましたか? 守ろうと思えば身を守れるんです。でもそれに何の意味があるんですか? あなたは銃に飛びついているじゃないですか。爪で引き裂かれたりぼこぼこに殴られたりするよりは、一発で殺される方を選びます」

 確かにフィリップは銃をつかんでいた。だがジルベールの言葉を聞いて銃を押しやった。

「違うんだ」

 呟いてから、はっきりと声に出してたずねた。

「何処に行くつもりなんだ?……どうしてここにいる?」

「僕はラドニ号に乗っているんです」

「では隠れていたのか? ぼくに気づいていたのか?」

「あなたが乗っていることさえ知りませんでした」

「嘘だ」

「嘘じゃありません」

「だったらどうして姿が見えなかったんだ?」

「夜にならないと部屋から出ないようにしていたからです」

「ほらみろ、隠れていたんじゃないか!」

「そうかもしれません」

「ぼくから隠れていたんだな?」

「そうじゃありません。アメリカ行きはある任務の為で、人に見られてはならないんです。船長が乗客とは別に部屋を用意してくれました……その為に」

「おまえは隠れていたんだ。ぼくから逃れる為に……分けても、攫った子供を隠す為に」

「子供ですって?」

「そうだ、いつかその子を武器にして利益を引き出そうと、攫って連れ歩いているんだろう。人でなしめ!」

 ジルベールが首を横に振った。

「ぼくがあの子を取り返したのは、父親を軽蔑したり裏切ったりするようなことを覚えてもらいたくなかったからです」

 フィリップは少し呼吸を整えた。

「それが本当なら……それを信じるとすれば、おまえも思っていたほど悪人ではないようだな。だがどうして攫ったことまで正直に話したんだ?」

「僕が攫ったですって?」

「あの子を攫っただろう」

「僕の子ですよ! 僕のものだ! 自分のものを取り返すのは盗みでも誘拐でもありません」

 フィリップが怒りに身を震わせた。「いいか! ぼくはついさっきまでおまえを殺そうと考えていたんだぞ。そう心に誓ったし、そうする権利がぼくにはあるんだ」

 ジルベールは無言だった。

「ところが神が光を与えて下さった。神はぼくの足許におまえを投げ出し、『復讐は無益。神から見放された者のみが復讐に手を染めなさい……』と仰ったんだ。だからおまえは殺さない。おまえが組み立てた悪しき計画を壊すだけにしておこう。おまえにとってあの子は将来の手だてなのだろうが、今すぐぼくに返すんだ」

「でも子供はいません。赤ん坊を二週間も船で旅行させられるわけがないじゃないですか」

「子守りを見つけなければならなかったものな。子守りを連れて来ているんだろう?」

「あの子を連れて来てはいないんです」

「あの子をフランスに置き去りにしたと言うのか? 何処に置いて来たんだ?」

 ジルベールが口をつぐんだ。

「答えろ! 何処の子守りに預け、どれだけ金を積んだんだ?」

 ジルベールは口をつぐんだままだ。

「人でなしめ、逆らう気か? 堪忍袋の緒が切れようとも厭わないというわけか……妹の子が何処にいるのか教えてくれ。あの子を返してくれ」

「僕の子は僕のものです」

「ろくでなしめ! どうやら死にたいらしいな!」

「僕の子を差し出すつもりはありません」

「ジルベール、落ち着いて話そう。過去のことは水に流すように努めるし、おまえのことも恨んだりしない。ぼくが優しいのは知っているだろう?……許すよ! おまえがぼくらの家に放り込んだ恥と不幸のすべてを許すと言っているんだ。とんでもない譲歩だぞ……あの子を返してくれ。何が望みだ?……アンドレが抱いていて当然の嫌悪感を取り除いて欲しいのか? 取りなして欲しいのか? わかった……やってみよう……あの子を返してくれ……それと……アンドレはあの子を愛している……おまえの子を熱愛しているんだ。後悔していることがわかればアンドレの気持も変わるだろう。約束する。誓うよ。だからあの子を返してくれ、ジルベール、返してくれ!」

 ジルベールは腕を組んで、暗い炎の宿った瞳でフィリップを見つめた。

「あなたは僕のことを信じなかった。僕もあなたを信じません。あなたが不正直だからじゃない。身分の隔たりの深さを嫌というほどわかっているからです。返してもらうものが多ければ多いほど、それだけ許しも多い。僕らは天敵同士……あなたは強い。きっと勝つでしょう……武器から手を離せとは言いません。だから僕の武器も取り上げないで下さい……」

「武器だと認めるんだな?」

「ええ、そうです。軽蔑と忘恩と侮辱に対する武器として!」

「もう一度だけ聞く、ジルベール」フィリップの口元には泡が浮かんでいた。「返してくれ……」

「嫌です」

「考え直せ!」

「嫌です」

「おまえを一方的に殺したくないんだ。おまえにもアンドレの兄を殺す機会を与えよう。また一つ罪が増えるな!……いいだろう。この拳銃を取れ。ここにもう一つある。お互い三つまで数えてから、引き金を引くんだ」

 フィリップはジルベールの足許に拳銃を放った。

 ジルベールは動かない。

「決闘なんて冗談じゃありません」

「では自殺する方を選ぶのか?」フィリップは怒りと絶望に吠え狂った。

「あなたに殺されることを選びます」

「よく考えろ……頭がおかしくなりそうだ」

「よく考えた結果です」

「ぼくには殺す権利がある。神はぼくをお許しになるはずだ」

「わかっています……殺して下さい」

「これが最後だぞ。決闘する気はあるのか?」

「望みません」

「身を守るつもりはないのか?」

「ええ」

「わかった。だったら罪人として死ねばいい。ぼくが地上を浄めてやる。冒涜者や強盗や犬コロのように死ねばいい!」

 フィリップは至近距離からジルベールに銃弾を撃ち込んだ。ジルベールは腕を伸ばし、後ろによろめいたかと思うと、前にかしぎ、声をあげることもなくうつぶせに倒れた。足許の砂に生暖かい血が染み込むのを感じたフィリップは、すっかり動顛して洞窟から飛び出した。

 目の前には海岸があり、小舟が待っていた。出発時刻は八時だと言っていた。今は八時数分過ぎだった。

「あなたですか……」水夫たちが声をかけた。「あなたで最後ですよ……みんな船に戻りました。何を仕留めたんです?」

 フィリップはその言葉を聞いて意識を失った。そういうわけで出航の準備をしている船まで運ばれることになった。

「みんな戻ったか?」船長がたずねた。

「俺らが連れて来たのが最後の乗客です。滑って転んだんでしょうな、気を失ってしまいましたぜ」

 船長が決定を下し、船はアゾレス諸島を速やかに離れた。それと入れ替わりに、じりじりして待っていた大型船が、アメリカ国旗の掲げられた港に移動した。

 ラドニ号の船長はその大型船と合図を交わし、不安を見せる様子もなく、進路を西に取ると、やがて夜の闇の中に見えなくなった。

 乗客が一人足りないことに気づいたのは翌日になってからだった。


Alexandre Dumas『Joseph Balsamo』Chapitre CLXIV「Les îles Açores」の全訳です。


Ver.1 12/09/01

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