ビヨは歩き続けていたが、叫ぶのはやめていた。叫んでいたのは群衆であった。軍人然とした佇まいに惹かれ、ビヨの内に自分を感じ、一挙手一投足に目を凝らしてビヨに付き従っていた群衆は、進むにつれて上げ潮のように膨れ上がっていた。
サン=ミシェル河岸にたどり着いた時、ビヨの後ろには庖丁や斧や槍や小銃で武装した三千人以上の男たちがいた。
誰もが口々に「バスチーユへ! バスチーユへ!」と叫んでいた。
ビヨは物思いに耽っていた。前章に記した考察をビヨ自身が考え始め、それにつれて昂奮も治まって来た。
頭の中をくっきりと見通せた。
計画は崇高だが正気ではない。「バスチーユへ!」という叫びに感化されて怯えと皮肉の浮かんだ顔を見れば、それは歴然としている。
だがそれも決意をいっそう強くするだけだった。
とは言え母や妻や子供に対し、ついて来る男たちの命を預かっているのは理解したし、用心するのにしすぎることはないと心に決めた。
そこで音頭を取って群衆を市庁舎広場に導くことにした。
そこでビヨは聯隊長と将校を決めた。いわば羊の群れを率いる犬の役目を託したのだ。
――さて、フランスには権力が一つ、いや二つ、いや三つもある。話し合ってみるとしよう。
ビヨは市庁舎に乗り込み、代表者が誰かをたずねた。
パリ市長ド・フレッセル氏だという答えが返って来た。
「そうか」ビヨは不満げだった。「ド・フレッセル氏、貴族、いわば庶民の敵だな」
「まさか。有能な人ですよ」
ビヨは市庁舎の階段を上った。
控えの間に守衛(huissier)がいた。
「ド・フレッセル氏にお会いしたい」近づいて来た守衛に用件をたずねられたビヨは答えた。
「無理だ。市長は目下パリ市が計画しているブルジョワ民兵の概要をまとめるのに忙しい」
「そいつはよかった。兵隊を率いているのがこの俺なんだ。もう三千人も集まった。フレッセルさんに会いたい。周りを兵隊で固められる前にな。フレッセルさんと話をさせてくれ、今すぐだ。ほら、窓の外を見たらどうだ?」
守衛が慌てて河岸に目を遣ると、ビヨが率いて来た群衆が見えた。大急ぎで市長に知らせに行き、欄外に註をつけるかのように問題の群衆を指さした。
それを見た市長は、面会希望者に敬意のようなものを感じた。会議を抜け、控えの間で面会者を探した。
ビヨを見てこの人だと当たりをつけ、笑顔で話しかけた。
「あなたですね?」
「パリ市長のフレッセルさんですね?」
「いかにも。ご用件を承りましょう。ただし手短に。忙しいのでね」
「市長さん、フランスには権力が幾つありますか?」
「仰る意味にもよります」
「市長さんなりの受け取り方で結構です」
「バイイ氏(M. Bailly。国民議会議長)なら、国民議会ただ一つだけだと答えるでしょうし、ド・ドルー=ブレゼ氏(M. de Dreux-Brézé。儀典長)なら、国王ただ一人だけだと答えるでしょう」
「市長ご自身はどうお考えですか?」
「今は一つだけ、という意見には賛成ですな」
「国民議会ですか? 国王ですか?」
「どちらでもない。国民ですよ」フレッセルは胸飾りをくしゃくしゃに丸めた。
「なるほど、国民か!」
「いかにも。言い換えるなら、庖丁と焼き串を手に下の広場に集まっている皆さんです。言い換えるなら、国民とはフランス人すべてだ」
「きっとその通りですよ、フレッセルさん。有能な人だという話は本当らしい」
フレッセルは頭を下げた。
「三つのうちどちらに訴えるおつもりですか?」
「考えるまでもない。大事なことをたずねたいなら、聖人ではなく神にたずねるもんです」
「つまり国王にお話しに行くつもりだと?」
「そう願いたいね」
「差し支えなければ内容を聞かせていただいても?」
「ジルベール医師をバスチーユから自由にすること」
「ジルベール医師? パンフレットの作者のことか?」
「哲学者の、と言ってもらおう」
「お好きなように。国王からお許しをいただく可能性は低いでしょうね」
「それはまたどうして?」
「ジルベール医師をバスチーユに入れたのが国王だとしたら、そうなるのが当然ではありませんか」
「構うもんか! 向こうが理屈を押し通すならなら、こっちの理屈を押し通すまでです」
「ビヨさん、国王はお忙しい方ですから、恐らく会ってはいただけますまい」
「会わせてくれないというのなら、許可なく入り込む手だてを見つけますとも」
「入り込めたとしてもドルー=ブレゼ氏に見つかって門から放り出されるのが落ちです」
「門から放り出されるって?」
「いかにも。国民議会のこともまとめて放り出したかったことでしょう。もちろん上手く行きませんでしたから、なおさら腹を立ててあなたに八つ当たりしないとも限りません」
「わかった。だったら国民議会に話を聞いてもらうことにする」
「すんなりヴェルサイユには行けませんよ」
「こっちには三千人いるんだ」
「途中にはスイス人衛兵が四、五千人、オーストリア兵が二、三千人はいるんです。あなたがたなどあっと言う間に片づけられてしまいますよ」
「じゃあどうすればいいんだ?」
「好きなようになさい。ただしその前に三千人の方々を連れ出してもらえますか。槍で地面を叩いて煙草を吹かされてはたまらない。倉庫には火薬が七、八リーヴルあるんです。火の粉ひとつでみんな吹き飛ばされてしまう」
「となると話は別だ。国王でも国民議会でもなく、国民に話を聞いてもらわないとな。バスチーユを奪還することにする」
「どうやって?」
「八千リーヴルの火薬をくれないか、市長殿」
「正気ですか?」フレッセルは吹き出した。
「そんなところだ。倉庫の鍵をいただきます」
「まさか本気で仰っているわけでは?」
「本気だとも。冗談なんか言わん」
ビヨはフレッセルの襟首をつかんだ。
「鍵を寄こすんだ。さもなきゃ三千人を呼び寄せるぞ」
フレッセルは死人のように青ざめた。口唇はぶるぶる震え、歯はがたがたと鳴ってはいたが、声は震えもかすれもせず、嘲るような口調も変わらなかった。
「こちらとしては火薬を厄介払い出来てありがたい。ご希望通り鍵を届けさせましょう。ですがね、お上はこちらだということはお忘れなく。それに今のやり取りを公然とおこなおうものなら、半刻後には番人たちの手で縛り首にされてしまいますよ。それでも火薬が欲しいですか?」
「もちろんだ」
「ご自身で運び出すのですか?」
「ああ」
「いつ?」
「今すぐ」
「では一つお願いが。まだ十五分ほどここでやらなくてはならないことが残っているのですが、差し支えなければ、運び出すのは私が立ち去ってからにしていただきたい。ひどい死に方しか出来ないよと言われては来たが、空中に飛ばされるのはご免こうむりたいのだ」
「まあいいさ。十五分後だな。それはそうと、俺の方にも頼みがある」
「何です?」
「あの窓のところに行こう」
「何故?」
「民衆の味方になってもらいたい」
「ありがたいがどうやって?」
「見てればわかるさ」
ビヨは市長を窓辺に連れて行った。
「お前たちはバスチーユを奪還するつもりなんだろう?」
「もちろんだ!」三、四千の声が応えた。
「ところが火薬がないんだな?」
「そうだ! 火薬をくれ!」
「よしわかった。ここにいる市長さんが、市庁舎の倉庫にある火薬を分けて下さる。感謝しろよ」
「市長万歳! フレッセル万歳!」
「ありがとう。俺からも市長さんからもお礼を言っておこう」
ビヨはそれから市長に向かい、「これでもう、二人きりであれ公然とであれ、首根っこを押さえておく必要もない。火薬を渡さなけりゃあ、あなたの言う『国民』に八つ裂きにされちまうぞ」
「鍵はここにある。あなたに頼まれては拒むに拒めない」
「そいつは心強いな」
「まだ何か要求するつもりですか?」
「ああ。バスチーユの司令官は知っているな?」
「ド・ローネー氏のことかな?」
「名前は知らん」
「ローネーというんだよ」
「そうか。そのローネー氏を知っているな?」
「友人だよ」
「だったら悪いことが降りかかって欲しくはないだろう?」
「もちろんだ」
「それなら話は簡単だ。バスチーユを明け渡すか、さもなくば医師を引き渡してくれればいい」
「囚人だろうと要塞だろうと、私に何か出来るなどとは思っていないでしょう?」
「俺がどうにかするさ。案内してくれればいい」
「ビヨさん、バスチーユには連れは入れません」
「結構だ!」
「一人で入ったが最後、二度と出られはしないでしょう」
「ますます結構!」
「通行許可証をお渡しします」
「ありがたい」
「ただし一つ条件がある」
「条件とは?」
「月に行く許可証をくれと言われても困る。あそこには知り合いがいないんです」
「フレッセル!」背後からうなり声が聞こえた。「二つの顔を使い分けるのはいい加減やめてもらいましょう。貴族に笑いかける一方で、庶民に微笑みかけるような真似をすれば、明日までには地獄行きの許可証に署名してもらうことになりますよ」
市長はぎょっとして振り返った。
「誰だ?」
「マラーと言います」
「哲学者マラー、医師マラーだって?」ビヨが声をあげた。
「その通り」
「そうだ、哲学者マラー、医師マラーだ」フレッセルもうなずいた。「医師として気違いを治療して然るべき人間。となれば今日は山ほど患者がいただろうに」
「フレッセル殿、こちらの勇敢な市民は、ローネー氏宛ての通行許可証を所望しているのではありませんでしたか? 待っているのはこの方だけじゃない。三千人の人間が待っているんです」
「ああ、今渡しますよ」
フレッセルは卓子に歩み寄り、額を拭うと羽根ペンを取って、さらさらと文章をしたためた。
「さあどうぞ」フレッセルはビヨに書類を手渡した。
「読み上げて下さい」マラーが言った。
「俺は字が読めないんだ」ビヨが答えた。
「読みますから貸して下さい」
ビヨはマラーに書類を手渡した。
許可証にはこのように書かれてあった。
「司令官殿、
ここにパリ市長はビヨ氏を派遣するところと為す。即ち件の市益について貴殿と協議せんがためなり。
一七八九年七月十四日、ド・フレッセル」
「いいじゃないか! 返してくれ」
「この許可証を、良いと思うのですか?」マラーがたずねた。
「良くないか?」
「市長殿に追伸を書いてもらえば、もっと良くなります」
マラーはフレッセルに近づいた。フレッセルは立ったまま卓子に手をつき、劣ったものを見るような目つきで二人を睨んでいたが、さらには戸口に現れた三人目の人物を見つめていた。裸も同然の恰好で、小銃を肩に担いでいる。
ビヨを追いかけて来たピトゥであった。どんな命令であろうと従う準備は出来ていた。
「市長殿、追伸を書き加えて下されば、この許可証ももっと良くなるのですが」マラーがフレッセルに声をかけた。
「どのような? マラーさん」
マラーは卓子の上に許可証を置き、追伸を書くべき場所を指さした。
「市民ビヨは、休戦交渉使節として、その安否を貴殿の名誉に委ねることとする」
フレッセルはマラーを見つめた。指示に従うくらいならその横っ面を張り飛ばしてやろうと思っているのがありありとわかった。
「お嫌ですか?」マラーがたずねた。
「まさか。あなたの要求はごもっともです」
フレッセルは言われた通りに追伸を書き足した。
「だがね、ビヨ氏の安全は保証できません」
「心配ご無用」マラーは許可証を奪い、「あなたの自由はビヨ氏の自由に懸かっているし、あなたの首はビヨ氏の首に懸かっているんですから。さあビヨさん、許可証です」
「ラブリ! ラブリ!」フレッセルが呼ばわった。
お仕着せを着た従僕がやって来た。
「馬車は?」
「中庭でお待ちしております」
「では行こう。ほかにご要望はありませんね?」
「ない」ビヨとマラーが答えた。
「このまま行かせてしまうのですか?」ピトゥがたずねた。
「お若い方、失礼だが人の部屋の戸口に立つには見苦しい姿ではありませんか。ここにいたいと思うのなら、弾薬で前を隠し、壁に背中をつけておいてもらいましょう」
「このまま行かせてしまうのですか?」フレッセルを見つめる目つきからすると、からかわれたのがお気に召さなかったようだ。
「ああ」ビヨが答えた。
ピトゥは脇によけた。
「行かせるべきではないのかもしれない。捕まえて人質にすべきなのかもしれない。だがいずれにせよ、また何処かでお目にかかれることでしょう」マラーが取りなした。
「ラブリ、これから火薬が持ち出される」市長が馬車に乗り込みならが命じた。「市庁舎の爆発に巻き込まれたくはない。安全なところまで行ってくれ」
馬車が天蓋を抜け広場に現れると、四、五千人もの人間が不満のうなりをあげていた。
フレッセルは危惧していた。このように外に出ては勘違いされて逃亡と取られかねない。
窓から身体を乗り出し、御者に向かって叫んだ。
「国民議会まで行ってくれ!」
その言葉は群衆からの喝采を引き起こすに充分であった。
露台に出ていたマラーとビヨにもフレッセルの言葉は聞こえていた。
「もし違っていたら首を交換してもいい。市長は国民議会ではなく国王に会いに行くつもりです」
「止めないのか?」
「止めませんよ」マラーが嫌らしい笑みを浮かべた。「まあ見ていて下さい。どんなに早く走られようと、もっと早く走ればいいんです。今はそんなことより火薬です」
「そうだ、火薬だ」
二人は階段を降り、ピトゥもそれに倣った。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XIV「Les trois pouvoirs de la France」の全訳です。
Ver.1 13/10/19
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[註釈]
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