この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
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第十八章 ジルベール医師

 喜びと怒りで真っ赤になった群衆がバスチーユの中庭に殺到する中、二人の人間が堀の泥水の中でもがいていた。

 ピトゥとビヨである。

 ピトゥがビヨを支えていた。弾丸も当たらず、銃撃も受けていない。だが落ちた衝撃で半ば気を失っている。

 綱が投げられ、竿が突き出された。

 ピトゥは竿をつかみ、ビヨが綱をつかんだ。

 五分後、二人は泥まみれにも関わらず、担ぎ上げられ、抱きしめられていた。

 一人がビヨの口にブランデーを含ませ、一人がピトゥにソーセージとワインを与えた。

 三人目の人物が二人の身体を擦り、日向に連れて行った。

 ここで突然ある考えが、というよりは、ある記憶が、ビヨの胸をよぎった。介抱の手を振り払い、バスチーユに向かって駆け出した。

「囚人たちのところに行かなくては!」

「そうだ、囚人です!」ピトゥもビヨを追って駆け出した。

 それまでは死刑執行人のことだけを考えていた者たちも、その犠牲者のことを考えてぞっとした。

 ただ一言、「囚人たちを救え」の大合唱が起こった。

 新しい攻撃の波が堤防を砕き、あたかも自由を運び入れんがため城塞の内腑を分かとうとしているかのようであった。

 ビヨとピトゥの眼前に恐ろしい光景が広がっていた。昂奮し、我を失い、怒り狂った人々が中庭になだれ込んでいた。初めに捕まった兵士は人々の手で引き千切られた。

 ゴンションはそれを見つめていた。人々の怒りは大河の流れのようなものであり、止めようとすれば、流れるに任せておくよりもひどいことになると判断したのだろう。

 エリーとユランはむしろ虐殺の真ん前に飛び出していた。命を助けると約束したのは嘘だったのか!と言って、祈り、嘆願していた。

 ビヨとピトゥが来てくれたのはありがたかった。

 誰のために復讐しているのかといえばビヨのためであり、そのビヨが生きていたのだから。ビヨは怪我さえしていない。足許の板が傾いただけだったのだ。泥風呂に浸かったに過ぎなかった。

 何よりも大きかったのはスイス人衛兵に対する怒りなのだが、そのスイス人衛兵が見あたらない。スイス人衛兵には灰色の上着を羽織る余裕があったので、使用人や囚人に紛れてしまったのだ。投げられた石で、文字盤に凭れる二人の囚人像が壊された。塔の天辺に押し寄せた人々に、死を吐き出していた大砲が攻撃された。憎むべき石壁が、血に染まった手でもぎ取られた。

 一番乗りを果たした人々が砲台に姿を見せると、外にいた者たち、即ち十万人の人々が、巨大な歓声をあげた。

 どよめきはパリを覆い、強い翼を持つ鷲のようにフランスを駆け巡った。

「バスチーユが陥落したぞ!」

 その叫びは心を溶かし、目を濡らし、腕を広げた。もはや反対派も特権階級もなかった。パリ人たちは誰もが同胞だと感じ、人々は誰もが自由だと悟った。

 百万の人々が互いに抱擁を交わした。

 ビヨとピトゥも押しつ押されつしながら中に入っていた。二人の望みは勝利を分かち合うことではなく、囚人を解放することだった。

 司令官の中庭(la cour du Gouvernement、別名 la première cour)を突っ切り、灰色の服を着た男のそばを通り過ぎた。男は口も利かず、金の握りのついた杖に身体を預けていた。

 この男こそ司令官であった。味方が助けに来るか敵が殺しに来るかするのを、じっと待っていたのである。

 ビヨは一目見て正体を見抜き、声をあげて真っ直ぐ近づいた。

 ローネーもまたビヨに気づき、腕を組んで待っていた。「私に最初の一撃を加えるのはおまえかね?」と言いたげに見つめていた。

 ビヨも感づいて立ち止まった。

 ――話しかけたらあいつは気づかれてしまう。気づかれたらあいつは殺される。

 だがこんな混乱の中でどうやってジルベール医師を見つければいいというのか? どうやってバスチーユが内腑に飲み込んでいる秘密を引き出せばいいというのか?

 こうした躊躇いや迷いに、今度はローネーの方が感づいた。

「望みは?」ローネーは低い声でたずねた。

「何も」ビヨは門を指さし、まだ逃げられると暗に示した。「ジルベール先生なら見つけられる」

「ベルトディエール塔の三号室だ」ローネーの声は優しいと言っていいほど穏やかだった。

 それからもローネーは動かなかった。

 ビヨの後ろで声がした。

「司令官だ!」

 この世のものとは思われぬほど凪いだ声だったが、その発音の一つ一つがローネーの胸を穿つ鋭いナイフだった。

 声を出したのはゴンションだった。

 その言葉はさながら鳴り響く警鐘のようだった。その場にいる者がみな復讐に酔いしれ、身震いし、爛々とした目を向け、ローネーを見つけて殺到した。

「助けてやってくれ。でないと殺されてしまう」ビヨはそばを通りかかったエリーとユランに言った。

「手伝ってくれ」と二人は答えた。

「やらなきゃいけないことがあるんだ。俺にも助けなきゃならん人がいる」

 瞬く間にローネーは幾万の怒れる腕に捕えられ、攫われ、引きずられ、連れて行かれた。

 エリーとユランが後を追って叫んだ。

「待て! 命は助けると約束したんだ」

 事実ではなかった。だが崇高な嘘が二人の気高い心から同時に飛び出したのである。

 すぐにローネーはエリーとユランと共に、出口に通ずる通路から見えなくなった。周りでは「市庁舎へ!」と叫んでいる。

 生きた獲物であるローネーは、勝った者たちにとって、敗れたバスチーユという死んだ獲物にも等しい価値があった。

 それにしても奇妙な光景だった。四世紀来、衛兵や牢番、残酷な司令官だけが訪れていたこの侘びしく陰鬱な建物が、民衆の餌食にされていた。屋根の下を走り回り、階段を上り下りしながら、羽虫のように唸りをあげ、花崗岩の巣穴をうごめきやどよめきで満たしていた。

 ビヨがローネーを目で追うと、連れて行かれるというよりは持って行かれるように、運ばれていた。

「ベルトディエール塔の三号室」

 震えている牢番に出くわした。

「ベルトディエール塔の三号室は?」

「こっちさ。でも鍵が無え」

「何処にある?」

「奪われた」

「斧を貸してくれ」ビヨは労働者に声をかけた。

「やるよ。もう必要ない。バスチーユは陥落したんだ」

 ビヨは斧をつかんで階段に駆け込み、牢番の後を追った。

 牢番が扉の前で立ち止まった。

「ベルトディエール塔の三号室か?」

「ああ。ここだ」

「ここに入れられてるはジルベール医師という人か?」

「知らん」

「連れて来られたのはつい五、六日前だな?」

「知らん」

「わかった。俺が確かめる」

 ビヨは斧を扉にぶち込んだ。

 堅い楢の扉であったが、逞しい農夫の一撃を食らって破片が舞い飛んだ。

 すぐに独房内を覗けるだけの穴が出来た。

 ビヨは穴に目を押しつけ、中を覗いた。

 鉄格子のついた塔の窓越しに入り込む陽射しの中に、一人の男が立っていた。心持ち身体を反らし、寝台からもぎ取った横木を手に、防御の姿勢を取っている。

 入って来た人間をぶちのめそうとしているのは明らかだ。

 髭は伸び、顔は青ざめ、髪は刈り取られているが、ビヨにはわかった。ジルベール医師だ。

「先生! 先生! あなたですか?」

「誰だ?」

「ビヨです。味方です」

「ビヨなのか?」

「そうだよ! 本人だ! 俺たちもいるぞ!」斧の音を聞いて踊り場で立ち止まっていた男たちが声をあげる。

「俺たちとは?」

「バスチーユの勝者だよ! バスチーユは陥落した。あんたは自由なんだ!」

「バスチーユが陥落? 私が自由?」

 穴から手が伸び、扉が揺すられると、肘金と錠が外れそうになり、ビヨがゆるめていた扉の一部が音を立てて壊れ、ジルベールの手の中に残された。

「待って下さい」ビヨが声をかける。もう一度扉を揺すったり昂奮したりしては、ジルベールの力が尽きてしまうのではないか。

 ビヨはいっそう力を込めた。

 遂に穴が広がり、脚立に腰を下ろしている囚人が見えた。幽霊のように青ざめ、そばに落ちた横木を持ち上げることも出来そうにない。サムソンのようにバスチーユを揺るがしそうだった勢いは何処に行ったのか。

「ビヨ! ビヨなのか!」呟きが聞こえた。

「そうです、俺です。ピトゥもいます。ピトゥのことは覚えておいででしょう。アンジェリク伯母のところに預けていたピトゥが、助けに来たんです」

「こんなちっぽけな穴など通れるもんか!」医師が叫んだ。

「通れるとも! 待っていろ!」

 居合わせた者が力を合わせて、壁と扉の隙間に鉄梃を差し込んだり、鍵穴を梃子でがちゃがちゃさせたり、肩や手で押したりした結果、遂には楢材もめりめりと音を立て、壁が剥がれたため、壊れた扉と欠けた壁を越えて奔流のようにいっせいに独房内になだれ込んだ。

 ジルベールはピトゥとビヨの腕に抱かれていた。

 タヴェルネ邸の田舎小僧、ジルベール。血に浸ったままアゾレス諸島の洞窟に置き去りにされたジルベールが、三十四、五歳の男となっていた。病に蝕まれてはいない白い顔、黒い髪、頑固な揺るぎない瞳。その眼差しは虚空に消えることも空を彷徨うこともなかった。見るべき外の世界を見つめていなければ、内なる思いを見つめていたし、そうなれば目つきはより暗くより深くなるのみであった。筋の通った鼻が真っ直ぐに額に繋がっていた。鼻の下にはふてぶてしい口唇があり、歪められたように、白い歯を覗かせていた。往時の身なりはクエーカー教徒のように質素で厳格なものであったが、極度に清潔なおかげで今は厳格どころか洗練されていた。ややふくよかで均整のとれた身体。力に関しては先ほどご覧になった通り、怒りや昂奮によってひと息で極限状態にまで達することが出来た。

 五、六日前から独房内にいたにもかかわらず、常と変わらず身だしなみに気を配っていた。長く伸びた髯がくすんだ顔色を際立たせていたが、斯かる落ち度は本人のものではなく、剃刀の支給を拒まれたか髯剃りを拒まれたかのいずれかであろう。

 ビヨとピトゥの腕に抱かれながら、独房を埋めている人々に顔を向けた。ほんの一時あれば力を取り戻すには充分だったようだ。

「この日を待っていた! ありがとう、同胞ともよ、ありがとう、人々の自由を見守る神よ!」

 ジルベールが両手を差し出すと、その気高い眼差しと厳かな声を聞いてこれは一廉の人物だと感じた人々は、恐る恐る手を伸ばした。

 ジルベールが独房から出て姿を見せた。ビヨの肩に寄りかかり、その後ろにピトゥや仲間たちがいた。

 初めこそジルベールによって親愛と感謝が示されたものの、すぐに博学な医師と、無知な農夫、善良なピトゥ、救出に携わった人々との間に隔たりが築かれた。

 門にたどり着いたジルベールは、溢れる陽の光を前に立ち止まった。立ち止まり、胸の前で腕を組み、空を見上げた。

「よろしく、自由! あの世であんたが生まれるのを見たよ、僕らは昔なじみだ。よろしく、自由!」

 医師の微笑みを見れば、自由に酔いしれる人々の声を聞くのが初めてではないことがわかった。

 ジルベールはしばし考えてからたずねた。

「ビヨ、つまり国民は専制政治に打ち勝ったのかい?」

「ええ、先生」

「君は戦いに来たんだね?」

「あなたを助けに来たんです」

「逮捕されたのを知っていたのか!」

「息子さんが今朝教えてくれました」

「哀れなエミール! 会ったんだね?」

「会いました」

「寄宿舎で変わりなく暮らしていたかい?」

「俺が立ち去った時には看護士四人と抗っていました」

「病気なのか? 狂人なのか?」

「俺たちと一緒に戦いたがっていたんです」

「そういうことか!」

 誇らしげな笑みが口元に浮かんだ。息子は期待通りに育っていたのだ。

「つまり君は……」

「俺は言ったんです。ジルベール先生がバスチーユに囚われているのなら、バスチーユを攻め落とそうじゃないかと。見ての通りバスチーユは陥落しました。でもまだ終わりじゃない」

「何があると?」

「小箱が盗まれたんです」

「預けておいた小箱かい?」

「そうです」

「誰に盗まれたんだ?」

「黒服の男たちです。パンフレットを差し押さえると言って家に押し入り、俺を捕まえて倉庫に閉じ込め、家中を探し回って小箱を見つけて持ち去ったんです」

「いつ?」

「昨日」

「奇遇だな、逮捕されたのと同じ日だ。ということは、僕を逮捕させたのも小箱を盗みに入らせたのも同じ人物の仕業だろう。逮捕させたのが誰だかわかれば、窃盗犯(泥棒の正体)もわかるはずだ。記録庫は何処だい?」ジルベール医師は牢番にたずねた。

「司令官の中庭です」[*1]

「では記録庫に行くぞ! みんな、記録庫だ!」

「失礼」牢番が声をかけた。「ご一緒してもいいですか。それが駄目なら、俺をみんなに紹介しておいて下さい。死にたくないんで」

「いいとも」

 ジルベールが皆に顔を向けると、好奇に満ちた敬意に見つめられた。

「みんな、紹介しよう。この人は門の開け閉めをしていたけれど、囚人には優しかった。この人には手を出さないでくれないか」

「もちろんだ」至るところから声があがる。「恐れることも怖がることもない。来るといい」

「ありがとう。だが記録庫に行きたいのなら急いだ方がいい。紙が燃えているみたいだ」

「そりゃまずい! すぐに記録庫に行こう!」

 ジルベールが司令官の中庭に駆け出すと、みんなも後に続き、その先頭には常にビヨとピトゥがいた。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XVIII「Le docteur Gilbert」の全訳です。


Ver.1 14/03/15

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[訳者あとがき]


 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [記録庫は何処だい?]
 実際には archives は cour du gouvernement(première cour)ではなく、grande cour にあり Tour de la Basinière に隣接している。[]
 

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