ジルベールは辻馬車の座席に腰を落ち着けた。隣にはビヨが、向かいにはピトゥがいる。顔は青ざめ、髪の先からは汗がしたたっていた。
だがジルベールは感情の揺れに屈するような人間ではなかった。馬車の隅に背を預け、考え込むようにして両手に顔をうずめてしばらくそのままでいたが、やがて手を離すと、動揺は消え去り、落ち着いた表情が現れた。
「ビヨ、国王がド・ネッケル男爵を罷免したと言ったね?」
「ええ、そうなんです」
「パリで叛乱が起こったのには少なからずそのことが関係していると」
「大いに関係ありますよ」
「それに、ネッケル氏はすぐにヴェルサイユを去ったと?」
「昼食中に書状を受け取り、一時間後にはブリュッセルに向かっていました」
「今は何処に?」
「いるはずのところに」
「途中で逮捕されたという話は聞いてないんだね?」
「そりゃそうですよ。サン=トゥアン(Saint-Ouen)まで娘さんのスタール男爵夫人にお別れを言いに行ったそうです」
「スタール夫人もご一緒したのかい?」
「ご一緒したのは奥さんだけという話でしたがね」
「馭者君、仕立屋があればそこで停めてくれ給え」
「お着替えですか?」ビヨがたずねた。
「うん、これにはバスチーユの壁でうんと擦り切れているからね。こんな恰好では罷免された大臣の娘さんに会いに行けないよ。もしかしたら君のポケットに何ルイか入ってないかな」
「おやおや、バスチーユに財布を置いて来てしまったようですね」
「規則だからね」ジルベールが微笑んだ。「価値のあるものは記録庫に提出しなくてはならなかった」
「そのままそこにあるんですね」
ビヨが大きな手を開くと、そこには二十ルイばかりがあった。
「どうぞ、先生」
ジルベールは十ルイを手に取った。数分後、辻馬車が古着屋の前で停まった。
当時はまだそれが一般的だった。
ジルベールはバスチーユの壁で擦り切れた服を、国民議会の第三身分が着ているようなこざっぱりした黒い服と替えた。
店の床屋と靴磨きに身なりを整えてもらった。
馭者はモンソー公園(parc de Monceau)の後ろを通って外側の大通り出てサン=トゥアンに向かった。
ジルベールがサン=トゥアンのネッケル邸で馬車を降りた時には、ダゴベルトの大聖堂(cathédrale de Dagobert)が午後七時の鐘を鳴らしていた。
数日前までは賑わっていたこの家の周りにも今は深い静寂が漂っており、それを破るものはジルベールの辻馬車だけであった。
だが見捨てられた城館に特有の侘びしさだとか、不興を蒙った邸宅にありがちな陰鬱な憂えだとかいったものはない。
閉じた門(grille)と人気のない花壇が主人たちの不在を告げていたものの、悲しみや慌ただしさの痕跡は認められない。
おまけに邸宅の一部、東翼では、鎧戸が開けっ放しにされていた。ジルベールがそちらに向かうと、ネッケル氏のお仕着せが近づいて来た。
門の柵(grille)越しにおこなわれたのは次のような会話であった。
「ネッケル氏はもうこちらにはいらっしゃらないんですね?」
「はい、男爵様は土曜にブリュッセルにお発ちになりました」
「男爵夫人は?」
「ご一緒されました」
「ではスタール夫人は?」
「マダムはお残りになりました。ですがお会い出来るかどうかはお答え出来ません。散歩のお時間でございますので」
「ご在宅かどうか確認してもらえますか。ジルベール医師が来たと伝えて下さい」
「お部屋にいらっしゃるかどうか確認して参ります。恐らくお会いになれるかと存じます。ですがお散歩中の場合にはお邪魔せぬよう命じられております」
「わかった。では確認して下さい」
お仕着せが門を開き、ジルベールを中に入れた。
開けた門を閉めながら、ジルベールの乗って来た馬車と二人の道連れに訝るような目を向けた。
そうして、自分の頭が信用できないとでも言いたげに首を振りながら立ち去った。それはまるで、自分の頭を暗中に漬け込んでしまった問題に光を当てられる人間がいるのならお目にかかりたいものだ、と言っているようであった。
ジルベールは一人で待っていた。
五分経ってお仕着せが戻って来た。
「男爵夫人はお散歩中でございます」
と言ってお辞儀をし、追い返そうとした。
だがジルベールには引き下がるつもりはなかった。
「命令を少し曲げて、僕が来たことを男爵夫人に伝えてくれないか。僕はラ・ファイエット侯爵の友人なんだ」
その名を聞いて躊躇いは半ば消えかけていたが、手に滑り込まされた一枚のルイ金貨によって完全に消滅した。
「お入り下さいませ」
だがジルベールが連れて行かれたのは、家の中ではなく庭園だった。
「男爵夫人はこちらを好んでいらっしゃいます」お仕着せが案内したのは迷路のような場所の入口だった。「ここでお待ち下さい」
十分後、葉陰から物音がして、背が高く、優雅というよりは高貴な、二十三、四の女性が、ジルベールの前に姿を見せた。
訪問者がまだ若いのを見て驚いたように見えた。もっと年配の人間だと思っていたのだろう。[*1]
確かにジルベールはスタール夫人のような鋭い人間でも一目見てはっとするような人物であった。
これほど曲がったところのない顔立ちの者もそうはいまい。それが強い意思によって動かされることで、恐ろしく強情な性質を滲ませていた。表情豊かな黒く澄んだ瞳は、精勤と苦労によってかすんで固まっていたせいで、若者らしいおどおどした魅力を損ねていた。
薄い唇の端には上品ながらくっきりとした皺が刻まれており、観相家ならそれを警戒心の現れと読み取っただろう。一人きりでいたせいと年より早く老け込んだせいで、本来は備わっていなかったはずのそうした気性が作られてしまったようだ。
丸い大きな頭からは、久しく白い髪粉をつけることもなかった黒髪がわずかに後退していたが、その中には科学と思想、思考と空想が同居していた。師であるルソーのようにジルベールも、高い眉骨が目に影を投げかけ、その影の中から生きている証である光がほとばしっていた。
ジルベールは質素な身なりをしていたにもかかわらず、後の『コリンヌ』の著者の目には、優れて洗練された姿に映っていた。長く白い手、細く逞しいふくらはぎの先にある華奢で上品な足といった美しさが上手く調和していた。
スタール夫人はしばらくジルベールを観察していた。
ジルベールの方ではその間に堅苦しい挨拶を済ませた。アメリカのクエーカー教徒を思わせる慎ましやかな挨拶であった。つまり女性に対して微笑んで敬意を表すのではなく、友愛によって安心させるクエーカー流の挨拶である。[*2]
次に一瞥して、既に名を成している婦人の人となりを分析した。智的で表情豊かな顔立ちには愛想だけはこれっぽっちも存在しない。色っぽい身体の上に載った女の顔ではなく、むしろどこにでもありそうな男の顔だった。
夫人は柘榴の枝を手に、毟るともなく口で花を毟っていた。
「ジルベールさんというのはあなた?」
「ええそうです」
「お若いんですね。ご高名はかねがね耳にしていますよ。もしかするとお父様かお兄様のお名前かもしれませんけど」
「ほかにジルベールという人間は知りません。仰るように多少なりともこの名前が有名なのだとすれば、その栄誉はすべてこの僕のものです」
「ラ・ファイエット侯爵の名前を出したのは、私に会うためですね。確かにあなたのことは聞いていますよ。深い科学の智識をお持ちだとも」
ジルベールは頭を下げた。
「それも並はずれて重要な科学だと。そこらの化学者や臨床医とは違い、生命科学のの謎を探ったそうですね」
「ラ・ファイエット侯爵は僕のことを魔法使いだと言いませんでしたか」ジルベールは笑みを浮かべた。「そう言ったのだとしたら、あの人なら、その言葉を証明しようと思えば証明してしまえたはずですね」
「その通りでした。あなたは戦場であろうとアメリカの病院であろうと関係なく、重態の患者に見事な治療を施したそうじゃありませんか。将軍のお話では、患者を一時的に死んだ状態にしていたそうですが、本当に死んだようにしか見えなかったと仰っていました」
「死んだように見えるのは、まだ人には知られていない科学の成果なんです。今はまだ限られた仲間にしか知らせていませんが、いずれは誰にでも広く知ってもらうつもりです」
「メスメリズムですね?」スタール夫人が微笑んだ。
「そうなんです、メスメリズムです」
「きっと提唱者ご本人を師と仰がれたのでしょうね」
「師ですって? メスメル本人も生徒でしかありません。メスメリズム、或いは動物磁気とは、エジプトやギリシアに伝わる太古の科学なんです。中世の海の中、一度は失われてしまいました。シェイクスピアがマクベスの中で予言し、ユルバン・グランディエが再び見つけ、見つけたために死ぬことになったものです。それはともかく、僕が師事したのはカリオストロ伯爵です」[*3]
「あのいかさま師ですか!」
「待って下さい。生きているうちは認められないかもしれませんが、後の世には正当に評価される方ですよ。僕の科学もそのいかさま師のおかげですし、その人のおかげで世界は自由を手にすることになるはずです」
「わかりました」スタール夫人は微笑んだ。「私は存じ上げませんけど、あなたはよくご存じなのですから、きっとあなたが正しくて、私が間違っているのだと思います……それよりあなたのことです。長い間フランスを離れていた事情をお聞かせ下さい。ラヴォワジエやカバニスやコンドルセやバイイやルイ(les Lavoisier, les Cabanis, les Condorcet, les Bailly et les Louis)に混じって身を置こうとしなかったのは何故だったのでしょうか?」[*4]
最後に口にされた名前を聞いて、ジルベールはわからぬほどに顔を赤らめた。
「そんな方々と肩を並べるにはまだ勉強が足りません」
「それはそうと、生憎でしたね。あなたのお役に立てれば父も喜んだでしょうに、任を解かれて三日前からここにはおりません」
ジルベールはにっこり笑って会釈した。
「六日前にネッケルさんの指示で僕はバスチーユに入れられたんです」
今度はスタール夫人が顔を赤らめる番だった。
「驚くようなことを仰いますね。バスチーユにいたなんて!」
「正真正銘そうなんですよ」
「何をなさったんです?」
「放り込んだ人間に聞くしかありませんね」
「でも出てらしたんですね?」
「もうバスチーユなどありませんから」
「もうバスチーユがない?」スタール夫人は驚いた素振りを見せた。
「大砲の音が聞こえませんでしたか?」
「聞こえましたけど、大砲は大砲に過ぎません」
「失礼ながら、ネッケル氏のご息女スタール夫人ともあろう方が、今やバスチーユが民衆に奪われたことを知らないわけがないのではありませんか」
「そう仰いましても」と夫人は困惑してみせた。「父がいなくなってから何が起こったのかまったく知らないのです。涙にかきくれていたものですから」
「いけませんよ!」ジルベールは首を振った。「政府の飛脚はサン=トゥアン邸までの道をよく知っているんですから、バスチーユが占拠されてから四時間経って誰も到着しないわけがありません」
あからさまな嘘をつかずに返答することは出来そうにないと悟ったものの、男爵夫人は嘘が嫌いだったため、話題を変えることにした。
「それで、ご用件は?」
「ネッケルさんとお話ししたかったのですが」
「もうフランスいないとご存じだったはずでは?」
「ネッケル氏が遠くに旅立ってしまったとは信じられませんし、事態を見届けなかったとも思えないのです……」
「つまり……?」
「つまり、何処に行けばお会い出来るのか教えていただけるものと考えております」
「ブリュッセルに行けば会えますよ」
ジルベールは探るような目つきで夫人を見つめた。
「ありがとうございます。ではブリュッセルに行って、伝えなくてはならない大事な話を伝えることにします」
スタール夫人は躊躇いを見せたが、すぐに答えた。
「あなたは真面目な方のようですから。ほかの方の口から出たのなら、その大事な話というのも無意味に聞こえますが……失脚して過去の人間となった父に大事なことなどあるでしょうか?」
「未来が。僕だって未来のために何も出来ないわけじゃありません。でもそんなことはどうでもいい。僕にとってもネッケルさんにとっても、大事なのはお会いすることなんです……ブリュッセルにいると仰いましたね?」
「ええ」
「二十時間かけないと会えないことになる。革命さなかの二十時間がどういったものなのか、二十時間でどれほどのことが起こるのか、おわかりですか? ネッケルさんも軽率なことをしてくれました。自分と現状の間、つまり手段と目的の間に、二十時間の空白を設けてしまうなんて」
「脅かさないで下さい。父が軽率なことをしたと感じ始めてしまいました」
「ではどうすれば? 事態はこの通りなのではありませんか? 僕としてはご迷惑をお詫びするしかありません。これで失礼いたします」
だが男爵夫人に呼び止められた。
「脅かさないでと言ったはずですよ。あなたにはすっかり説明して不安を取り除く義務があります」
「今は自分のことで精一杯ですね。他人のことまで構っていられません。僕の命と名誉が懸かっているんです。ネッケルさんの命と名誉が懸かっていたように。二十時間後ではなく今すぐお話し出来れば、きっと役立ててもらえたでしょうに」
「大事なことを忘れていました。このような問題は、誰が聞いているかわからない庭園のようなところで、大っぴらに話すべきではありません」
「ここはあたなのご自宅ですよ。失礼ながら、何処で会おうかお決めになったのはあなたです。どうしますか? お決め下さい」
「では話の続きは私の書斎でいたしましょう」
――へえ、そうですか! あんまりいじめてもまずいしな。そうでなけりゃあ、あなたの書斎はブリュッセルにあるんですか、とたずねたいところだけど。
だがジルベールは質問はせずに、邸宅の方へ足早に歩き始めた男爵夫人の後を追った。
玄関の前には先ほどのお仕着せがいた。スタール夫人はお仕着せに合図して、自分の手で扉を開け、ジルベールを書斎まで案内した。魅力的ではあるが女性的ではなく男性的な部屋で、入って来たのとは別の扉と二つの窓が庭に面している。見ず知らずの人間はこの庭に立ち入ることはおろか目にすることも叶わないようになっていた。
部屋に入るとスタール夫人は扉を閉め、ジルベールと向かい合った。
「人類の名に於いて、お話しなさい。父にとって大切なこととは何なのですか。何をしにサン=トゥアンにいらしたのですか」
「お父上がここにいらして話を聞くことが出来れば――この僕が『思想と進歩の現状』と題された覚書を国王に送った人間だと知ったら――ネッケル男爵はすぐにでも姿を見せて、『ジルベールさん、ご用件は? お聞きしましょう』と言ってくれるに違いありません」
ジルベールの話の途中で、ヴァンロー(Vanloo)の描かれた羽目板の後ろで、音もなく隠し扉が開き、笑みを浮かべたネッケル男爵が姿を見せた。螺旋階段の終わりに立ち、頭上には明かりが差していた。
スタール夫人はジルベールに軽く頭を下げてから父の額に口づけし、父の現れたその階段を上って羽目板を閉め、姿を消した。
ネッケルはジルベールに近寄り、手を差し出した。
「こうして参りました。ご用件は? お聞きしましょう」
二人は腰を下ろした。
「僕がどういう考えの持ち主なのかはお聞きになったはずです。四年前、欧州の概況に関する覚書を国王に届けたのは僕です。その後、フランスで起こった和解案や内政問題に関する幾つもの覚書を、アメリカから送ったのも僕です」
「その覚書について口にされる陛下の言葉の端々からは、決まって称讃と恐怖を感じたものですが」
「それは覚書に書かれてあることが真実だからですよ。真実を耳にするのは恐ろしいことだからであり、それが今では現実となって、目にするのがいっそう恐ろしいからではありませんか?」
「まさしくその通りなのでしょう」ネッケルは答えた。
「その覚書を国王から渡されたんですね?」
「全部ではない。二部だけです。財政に関する覚書を読みましたが、些かの相違はあれど同意見でした。もちろん相違点はあっても敬意に変わりはありません」
「それだけじゃないんです。僕は現実に起こったことはすべて国王に報告しました」
「えっ!」
「そうなんですよ」
「差し支えなければ――」
「ではそのうちの二点を。一つは国王が約束に反してあなたを解雇しなければならない日が来るということでした」
「失脚を予言していたと?」
「疑いなく」
「それが一つ目だとして、二つ目は?」
「バスチーユの襲撃です」
「バスチーユの襲撃を予言していたと仰るのか?」
「バスチーユとは監獄というよりは専制の象徴でした。象徴を破壊することで自由が始まったんです。続きは革命がもたらしてくれるでしょう」
「今の発言は重要性を理解したうえでのことでしょうな?」
「そんなところです」
「そんな主張を公にして、怖くはないと?」
「何を怖がるというんです?」
「困ったことが起こるかもしれない」
「ネッケルさん」ジルベールは微笑んだ。「バスチーユから出て来た人間に怖いものなどありませんよ」
「バスチーユから出て来たですって?」
「今日この日のことです」
「どうしてバスチーユに?」
「それを伺いに来ました」
「私に?」
「あなたでしょうね」
「またどうして私に?」
「投獄させたのがあなただからです」
「私があなたのことをバスチーユに投獄させたと言うのですか?」
「六日前のことです。そう古い話ではありません。よもやお忘れではありますまい」
「馬鹿な」
「ご署名に見覚えは?」
そう言ってジルベールはバスチーユの囚人名簿とそれに添えられてた封印状を見せた。
「封印状には見覚えのある気がします。出来るだけ署名はしない方だが、それでも年に四千通はしているし、馘首になった時に白紙のものに何通か署名させられた覚えがありますから。慚愧に堪えないが、お持ちなのはそのうちの一通だったようだ」
「僕の投獄には無関係だと仰りたいのですか?」
「恐らくは」
「そうは言ってもこうやって詮索している事情もご理解いただけますよね。僕を閉じ込めたのが誰なのか知りたいんです。ですからそれを教えていただくぐらいのことはしてもらえませんか」
「お安いご用です。もしもの時に備えて、書類を職場に置きっぱなしにはせず、毎晩ここに持ち帰っていますから。今月の分は書類棚のBの抽斗の中です。Gの束を探してみるとしましょうか」
ネッケルは抽斗を開け、ゆうに五、六百通はある大きな束をめくって行った。
「保管してあるのは、身を守るためのものばかりです。逮捕させれば敵が出来る。だから敵の攻撃をかわさなくてはならなかった。何もなければむしろ驚くところですが。ええと、G……G……あった、ジルベール。王妃の許から出されていますね」
「王妃のところから?」
「ええ。ジルベールなる者に関する封印状の請求。職業、なし。瞳、黒。髪、黒。以上の特徴。ル・アーヴルからパリに向かいし。因って件の如し。このジルベールというのがあなたかね?」
「僕のことです。その封印状を渡してもらえませんか?」
「出来ません。誰の署名なのかなら申し上げましょう」
「教えて下さい」
「ド・シャルニー伯爵夫人」
「シャルニー伯爵夫人? そんな人知りません。恨まれるようなことはした覚えもない」
ジルベールは記憶を探るようにじっくりと天井を睨んだ。
「余白に書き込みがあります。署名はないが、筆跡に見覚えがある。ご覧なさい」
ジルベールは顔を近づけ、余白の文字を読んだ。
『シャルニー伯爵夫人の請求は遅れずに実行のこと』
「わからないな。王妃の署名だというならまだわかる。覚書に書いた王妃とポリニャックのことだろうから。でもこのシャルニー夫人というのは……」
「ご存じない?」
「きっと名義を貸しただけなのでしょう。そもそも、当然ながらヴェルサイユの貴人方など存じ上げませんしね。十五年もフランスを離れていて、戻って来たのは二回だけで、この間戻って来てから約四年になりますから。このシャルニー伯爵夫人というのはどんな方なのですか?」
「王妃の友人であり、話相手であり、側近です。シャルニー伯爵の愛妻であり、美と徳を持ち合わせた、言うなれば奇跡のような方です」
「そんな奇跡とは知り合いじゃありませんね」
「そういうことでしたらお気をつけなさい。あなたは政治的陰謀の玩具だったんです。カリオストロ伯爵の話をしたことはありませんでしたか?」
「あります」
「お知り合いですか?」
「友人でした。友人というよりも師、師というより救世主です」
「そうですか。投獄を命じたのはオーストリアか教皇庁でしょう。パンフレットをお書きになったのでしょう?」
「ええ、その通りです」
「それですよ。あなたの身の上に起こったささやかな仕返しのどれもが元をたどれば王妃を指し示しているのです。
ジルベールは反芻してみた。
思い出した。ピスルー(Pisseleux。ヴィレル=コトレにある村)のビヨの家から盗まれた小箱には、王妃やオーストリアや教皇庁の欲しがるようなものは何も入っていなかったのだ。危うく間違えるところだった。
「違うんです、そんなわけはない。でも構いません。別の話をしましょう」
「何の話を?」
「あなたの話です」
「私ですか? お話しするようなことがあるとは思えませんが?」
「誰よりもよくご存じじゃありませんか。三日も経たずにあなたは再任されるでしょうから、そうなればお好きなようにフランスを支配できるはずです」
「本気でそんなことを?」ネッケルは吹き出した。
「あなただって同じことを考えていたのでは。ブリュッセルに行かなかったのがその証拠です」
「いいでしょう。その結果は? 必要なのは結果だ」
「結果ですか。あなたは今フランス人に愛されていますが、すぐに崇拝されるようになるでしょう。王妃はあなたが愛されているのを見るのにうんざりしていますが、国王はあなたが崇拝されるのを見て苦々しく思うことになるはずです。あなたの努力が実って二人は支持されることになりますが、あなたはそれに耐えられなくなります。その頃あなたの方は支持が下がるでしょうね。民衆は飢えた狼なんです。餌をくれさえすればどんな手であろうと舐め回すものなんですよ」
「それからどうなる?」
「それからあなたは再び忘れられます」
「忘れられる?」
「ええ」
「なぜだ?」
「大きな出来事が起こるからです」
「何を言う。あなたは予言者なのか?」
「悲しいことに或る程度は」
「いったい何が起こると?」
「予言するのは難しくありません。現に議会には兆しが芽吹いているんですから。今は眠っていますが、いずれ或る党が立ち上がることでしょう。間違った。眠っちゃいません。起きているけど身を潜めているだけです。信念を旗印に、思想を武器に掲げて」
「わかりました。オルレアン党のことですね」
「はずれです。オルレアン党のことなら、人間を旗印に、人気を武器にしていると言いますとも。今まではその党の名前が口にされたことさえありません。共和党です」
「共和党? まさか!」
「お疑いですか……?」
「妄想だ!」
「ええ、
「私だって共和主義者になれる。いや、今だってそうだ」
「ジュネーヴでなら申し分ない共和主義者だったでしょうけれどね」
「はて、共和主義者は共和主義者ではないのか」
「違うんです。この国の共和主義者はほかの国とは別物なんです。初めに特権階級を喰らい、次に貴族を喰らい、それから王権を喰らい尽くすことでしょう。スタートこそあなたと一緒でしたが、あなたなしでもゴール出来る。あなただって後を追うつもりはないでしょう? そういうことです、ネッケルさん、あなたは共和主義者ではありません」
「そういうことなら私は違う。国王に好意を抱いている」
「僕もですよ。今はみんながそう思っています。こうしてお話ししているのがあなたほど立派な人じゃなければ、罵られたり馬鹿にされたりするようなことかもしれませんが、どうか僕の言うことを信じて下さい、ネッケルさん」
「本当の話なのであれば、そう願いたいが……」
「秘密結社のことをご存じですか?」
「そんな話を聞いたことは何度もある」
「信じていらっしゃいますか?」
「存在は信じている。正しいものとは信じていない」
「何処かに入会なさっていますか?」
「いや」
「フリーメーソン支部に所属しているだけでも?」
「ない」
「そうですか。僕は入ってますよ」
「会員だと?」
「ええ。気をつけて下さい。巨大な網が玉座という玉座を覆っているんですから。目に見えぬナイフが君主制を狙っているんです。三百万近い同胞が全国に広がり、ありとあらゆる階級や社会に散らばっているんです。庶民にもブルジョワにも貴族にも王族にも君主の中にも味方がいます。気をつけて下さい、腹の立つ王族が会員かもしれないんです。お辞儀をしている家来が会員かもしれないんです。あなたの命も運命もあなたのものではありません。名誉さえそうです。どれもこれも目に見えぬ権力のもの。あなたには抗うことも見ることも叶いませんが、向こうにはあなたを滅ぼすことが出来るんです。だって向こうからは丸見えなんですから。この三百万の同胞が、既にアメリカに共和制を樹立して、今はフランスに共和国を作ろうとし、いずれ欧州を共和制にしようとしています」
「だが合衆国の共和制にはさほど脅威を感じない。私なら喜んでその計画を受け入れるが」
「そうですね。でもアメリカと僕らの間には深い溝が横たわっています。アメリカという九つの州には、偏見も特権も王権もなく、豊饒な土地も肥沃な大地も手つかずの森もある。海に囲まれているアメリカには、貿易のために開いている口があるし、住民が財産を貯め込むしかないような孤独がある。ところがフランスと来たら!……フランスをアメリカと同じ水準にするために前もって破壊しなくてはならないことがどれだけあるか!」
「では結局のところどうなさりたいのですか?」
「やらねばならないことをやるまでです。そうは言っても邪魔されることなく目的を達したいですからね、先頭には国王に立ってもらいます」
「旗として?」
「いいえ、楯として、です」
「楯?」ネッケルは吹き出した。「あなたは国王をご存じない。そんな役を演じさせようとは」
「知ってますよ。ようく知っています。アメリカの小さな町でああいった指導者を何人も見て来ました。人が良く、威厳に欠け、立ち向かう力もなければ、積極性もありませんが、どうしろと言うんです? 肩書きのおかげでしかないのだとしても、さっき申し上げた人たちに対する壁の役目は果たしてくれます。弱っちい壁でも、ないよりはマシですから。
「覚えていますよ、アメリカ北部の蛮族と戦っている最中、葦の茂みの陰で幾晩も過ごし、川の向こう岸にいる敵から銃撃を受けたものです。
「葦なんて頼りないと思いますよね? それが違うんです。身を隠している緑の茎が銃弾によって糸くずのように細切れにされているというのに、丸見えの原っぱにいるのと比べれば、どれだけ心が安らいだことか。つまり国王とはその壁なんです。国王のおかげでこっちからは敵を見ながらも、向こうからは見られずに済むんです。僕がニューヨークやフィラデルフィアでは共和派でありながら、フランスでは王党派でいるのは、こうした事情です。アメリカでは独裁官の名はワシントンと言いました。ここフランスでどう呼ばれることになるのかは神のみぞ知ることです。ナイフかもしれませんし死刑台かもしれない」
「血を見ることになりますよ」
「僕のように今日グレーヴ広場にいらっしゃったなら、僕と同じ色の血が流れているのをご覧になったでしょうに」
「そうでしょうね。虐殺があったと聞いている」
「たいしたものです……庶民であっても、いざとなれば……嵐にもなれるんです! 本物の嵐に近づいてもいないのに!」
ネッケルが眉間に皺を寄せた。
「あなたがいればよかった。困った時にはよい助言をしてくれたでしょうに」
「僕がいてもたいしてお役に立てませんよ。ましてやフランスですからね、僕が目指している場所とは違う」
「では何処を目指しておいでか?」
「それがですね、玉座のそばにすら玉座の敵がいて、王のそばにすら王の敵がいるんです。王妃ですよ。可哀相なひとだ、自分がマリア=テレジアの娘だということを忘れている。いや、思い上がった気持でしか思い出せないんです。王を救うつもりで、王だけではなく王国までも失くしてしまう。僕らが国王を愛し、フランスを愛しているのなら、その支配を弱め、その威力を殺さなくてはならないんです」
「そういうことなら、仰ったことをなさればいい。どうか私のそばにいて、手を貸して下さい」
「僕らが一緒にいては一つの手段しか取れません。あなたは僕で、僕はあなたでしかなくなってしまう。ばらばらになる必要があります。そうして二人分の重さを背負いましょう」
「それで何が出来るというのです?」
「破滅を遅らせることが出来ると思います。もちろん破滅を防ぐことは出来ませんが、それでもラ・ファイエット侯爵という強力な援助を請け合います」
「ラ・ファイエットは共和主義者なのですね?」
「ラ・ファイエットのような人が共和主義でいられるほどには。『平等』の下をくぐらなくてはならないのだとしたら、大貴族を基準に選ぼうじゃありませんか。同じ『平等』なら、卑屈に身を屈めるのではなく、気高く背を伸ばしていたい」
「ラ・ファイエットのことは請け合いますね?」
「名誉と勇気と忠誠の許す限りに於いて」
「いいでしょう、何をお望みですか?」
「ルイ十六世国王陛下にお近づきになるための紹介状をいただけますか」
「あなたほどのご身分なら紹介状は必要ないでしょう。名乗ればよいではありませんか」
「それでもあなたに都合をつけてもらった方がいいでしょう。あなたから紹介されるというのが計画の一部なんです」
「何を狙っているのです?」
「国王の季節侍医になりたいんです」[*5]
「簡単に言ってくれますね。王妃はどうするんです?」
「国王に近づきさえ出来れば、後は僕の問題です」
「だが王妃からの迫害が待っているかもしれない」
「その時には、国王に意思というものを持たせてみせます」
「国王に意思を? それが出来たら超人だ」
「いつになっても精神を制御できないのなら、その肉体の持ち主は大間抜けですよ」
「だが国王の侍医になるには、バスチーユに投獄されていたという経歴が響くとは思わないのですか?」
「むしろ好都合です。あなたによれば、僕は思想の罪で弾圧されたんじゃありませんか?」
「それが怖いのです」
「国王が権威と人気を取り戻したいのなら、どんな者を侍医に取り立てればよいか。ルソーの弟子、新しい教義の支持者、そしてバスチーユから解放された囚人です。国王にお会いになったらそう耳打ちしてもらえますか」
「仰ることはわかるが、国王のおそばに戻った暁には、あなたのお力を期待してよいのでしょうね?」
「僕らの政治的立場からあなたが外れない限り、絶対に」
「何をしていただけるのですか?」
「あなたが辞める正確な日付をお教えしましょう」
ネッケルはしばしジルベールを見つめ、沈んだ声で言った。
「確かにそれこそ、大臣のために友人が出来る最大にして最後の助けですね」
ネッケルは卓子の前に行き、国王宛ての手紙を書いた。
その間ジルベールは封印状を読み返していた。
「シャルニー伯爵夫人か。何者なんだろう?」
「さあこれです」間もなくネッケルはジルベールに、書いたばかりの紹介状を見せた。
ジルベールは紹介状を受け取り、内容を確かめた。
『陛下、
只今の陛下にご入り用なのは確かな人間であり、ご政務について話の出来る人間でございます。陛下のお膝元を去るに当たり、最後のご献上、最後のご奉公といたしまして、ジルベール医師を紹介申し上げます。このジルベール医師なる者が、現今並ぶ者なき名医であることに加えまして、陛下がご感銘をお受けになった覚書『行政と政治(Administrations et Politiques)』の著者である、と申し上げれば充分でございましょう。
陛下への変わらぬ忠誠を込めて、
ド・ネッケル男爵』
ネッケルは日付を入れずに紹介状をジルベールに手渡した。簡素な封印がされている。
「では、私はブリュッセルにいるということで?」
「もちろんです。それに明日の朝には新たな情報をお知らせ出来るでしょう」
ネッケルが羽目板を叩いて合図すると、スタール夫人が再び姿を見せた。いつの間にか柘榴の枝に加えて、ジルベールのパンフレットを手にしている。
夫人はジルベールに媚びるかのようにその書名をちらりと見せた。
ジルベールはネッケルにいとまを告げ、男爵夫人の手に口づけすると、夫人に見送られて書斎を出た。
辻馬車に戻ると、ピトゥとビヨが前部座席で眠りこけ、馭者も馭者台で眠りこけ、馬も脚をたたんで眠りこけていた。
Alexandre Dumas『Ange Pitou』Chapitre XXI「Madame de Staël」の全訳です。
Ver.1 14/07/27
[訳者あとがき]
[更新履歴]
[註釈]
▼*1. [訪問者がまだ若い…]。1770年当時18歳だったジルベールは、1789年には37歳。
[↑]
▼*2. [クエーカー流の挨拶]。「握手をした」ということか?
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▼*3. [ユルバン・グランディエ]。Urbain Grandier、1590-1634。悪魔と契約したかどで処刑されたフランスの司祭。デュマも『有名な犯罪』で小説化、のちに戯曲化もしている。
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▼*4. [ルイ]。アントワーヌ・ルイ(Antoine Louis、1723-1792)、ギロチンの開発者のことか?
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▼*5. [季節侍医]。médecin par quartier。四半期ごとに交代する医師。
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▼*6. []。
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