この翻訳は翻訳者の許可を取ることなく好きに使ってくれてかまわない。ただし訳者はそれについてにいかなる責任も負わない。
翻訳:東照《あずま・てる》
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アンジュ・ピトゥ

アレクサンドル・デュマ

訳者あとがき・更新履歴
著者略年譜・作品リスト

第四十二章 娘婿[*1]

 フーロンの遺体を辱めていた者たちが、血生臭い遊びをやめて、新しい犠牲を求めて飛びかかった。

 広場の先の路地からほとんどの暴徒がなだれ込んだ。ナイフを振り上げ、拳を振り回し、サン=マルタン街に向かって、第二の葬列を出迎えに突き進んでいた。

 二つの集団が出会うのに時間はかからなかった。それだけ両者とも心がはやっていた。

 起こったことは以下の通りである。

 グレーヴ広場にいた目端の利く連中が、槍の先に刺した義父の首を娘婿のところまで見せに来ていた。

 役員に付き添われたベルチエ氏は、サン=マルタン街(rue Saint-Martin)を通ってサン=メリー街(rue Saint-Merry)近くまで来ていた。

 乗っていた二輪馬車は当時にあってあまりにも貴族的で、庶民の反感を促すに充分であった。庶民の不満は蓄積していた。伊達男にしても自分で御する踊り子にしても、力強い馬に牽かれて疾風の如く馬車を走らせるものだから、時には人を轢いたり、決まって泥をはねたりしていたのだ。

 ベルチエは罵声や野次や脅しを浴びせられる中、選挙人のリヴィエールと穏やかに話をしながら先へ進んでいた。このリヴィエール氏、ベルチエを助けにコンピエーニュに派遣された役人であったが、同僚に見捨てられて、助けるどころか自分すらも逃げるに逃げられない状況に陥っていた。

 二輪馬車に手がつけられた。幌が破られ、ベルチエとリヴィエールの姿が丸見えになり、二人とも視線にも拳の雨にも晒されることとなった。

 その間中、ベルチエのおこなったとされる悪事に対し、怒りのせいで誇張された非難が飛んでいた。

「パリに飢饉を引き起こそうとしたって話だ」

「ライ麦と小麦を実る前に刈り取らせて、穀物の値段を吊り上げ、たっぷり儲けたそうじゃないか」

「それだけじゃ飽き足らず、陰謀を企てているらしい」

 紙入れが押収されていた。紙入れの中には、何万個もの弾薬が実行犯に配られた証拠となる、煽情的な手紙や虐殺の指令書が入っていた。

 何とも馬鹿げているとしか言いようがないが、ご存じの通り怒りに駆られた群衆というものは、あり得ないような話をあたかも真実であるかのようにしゃべり散らすものだ。

 そうした非難を一身に受けているというのが、まだ三十過ぎの、上品な身なりの若者であった。拳や罵声を浴びせられても、微笑みらしきものを浮かべ、下劣なプラカード(écriteaux)を見せられても、不安も見せずに周りに目を遣り、虚勢も張らずにリヴィエールと話を続けている。

 二人の人間がそうした態度を癪に思い、ベルチエを脅しつけて態度を改めさせてやろうと考えた。二人はそれぞれ二輪馬車の昇降段に足をかけ、ベルチエの胸に銃剣を押しつけた。

 だがベルチエは無神経なまでに勇敢だった。動揺した素振りをおくびにも出さず、選挙人と話を続けていた。突きつけられているのがまるで銃剣ではなく無害な馬車の付属品であるかのようだった。

 怯え切っていたフーロンとは対照的な、人を見下したベルチエの態度に、人々はいい加減に業を煮やし、馬車を取り囲んで罵声を浴びせながらも、罵声だけではなく実際に痛みを与えられるようになる瞬間を待ちわびていた。

 そんな時だった。ベルチエは目の前で振り回されている血塗れの何かに目を留め、途端にそれが義父の首だと気づいた。首がベルチエの口許まで下げられた。

 口づけを交わさせようとしているのだ。

 リヴィエール氏が憤慨して槍を押しやった。

 ベルチエは感謝の印にうなずいたが、振り返っておぞましいトロフィーを目で追おうとはしなかった。今では首は馬車の後ろに運ばれ、ベルチエの頭上に掲げられていた。

 こうしてグレーヴ広場に到着した。急いで駆けつけた衛兵の努力の甲斐もあり、ベルチエは市庁舎の選挙人たちの手に取り戻された。

 これから待ち受けている困難な使命と重い責任を前に、ラファイエットの顔はまたも青ざめ、パリ市長の心臓は跳ね上がった。

 暴徒たちは二輪馬車をばらばらにして市庁舎の階段に放り出してから、それぞれの位置につき、出入口を固め、手筈を整えると、街灯の滑車に改めて綱をかけた。

 ベルチエが市庁舎の玄関階段を落ち着き払って上っているのを目にしたビヨは、思わず嗚咽を洩らして髪を掻きむしった。

 ピトゥは土手(le berge)から河岸(le quai)に戻って来ていた。フーロンの虐殺は終わったものだと思っていたからだ。確かにベルチエのことは憎かった。ピトゥの目から見れば、非難されているような悪事はもちろん、カトリーヌに金の耳飾り(boucles d'or)を贈ったという罪を犯した人間だった。それにも関わらず、ピトゥは土手の陰にうずくまってしゃくり上げた。

 そうしている間にもベルチエは、他人事のように会議室に足を踏み入れ、今は選挙人たちと話をしていた。

 選挙人のほとんどと顔見知りだったし、親しくしている者さえいた。

 だが選挙人たちはベルチエと接触すると、とてもではないが恐ろしくなって遠ざかって行った。

 こうして、間もなくベルチエの近くにはバイイとラファイエットしかいなくなった。

 ベルチエはフーロンが拷問の末に殺された経緯を聞かされ、肩をすくめた。

「ええ、わかってますよ。みんな我々のことが憎いんでしょう。庶民を苦しめる王権の道具だったからです」

「あなたも重大な罪を犯した、と非難されています」バイイが厳めしい顔で言った。

「市長さん(Monsieur)」ベルチエが答えた。「もし仮に、非難されているような罪を犯したのだとしたら、この私は人間以下の存在か人間以上の存在、獣か悪魔のどちらかですよ。これから裁きにかけられるのでしょうから、その際に明らかになるでしょう」

「その通りです」

「それこそ望むところです。手紙を持って行かれましたから、それを見れば命令に従っただけだとわかるはずです。そうすれば責任の所在が実際には誰にあるのかも明らかになるでしょう」

 選挙人たちが広場に目をやった。狂おしいどよめきが漂って来た。

 ベルチエはその返答の意味を理解した。

 その時、ビヨがバイイの周りにいる選挙人たちを掻き分けてベルチエに近づき、大きな手を差し出した。

「こんにちは、ソーヴィニーさん」

「まさか! ビヨじゃないか」ベルチエは笑顔になって、差し出された手をしっかりと握った。「パリまで暴動をしに来たのかい? ヴィレル=コトレ(Villers-Cotterêts)やクレピー(Crépy)やソワッソン(Soissons)の市場で小麦を売っていた善良な農夫が?」

 ビヨ自身のものの考え方は庶民的な方であったが、自分の命が糸一本でぶら下がっている時に冗談を言えるような、落ち着き払った態度に感嘆せずにはいられなかった。

「諸君、着席し給え」バイイが選挙人に命じた。「只今より被告人に対し予審をおこなうものとする」

「それはそれとして」ベルチエが言った。「一ついいですか、もうへとへとです。まる二日も寝ていない。今日はコンピエーニュからパリまで、小突かれて殴られて引っ張られて、散々でした。お腹が空いたと言っても、干し草しかくれないので、ちっとも元気が出ません。何処かで寝かせてくれませんか、一時間だけでいい」

 ラファイエットがすぐさま確認しに部屋を出ると、憔悴しきって戻って来た。

「バイイ、連中の我慢も限界だよ。このままベルチエ氏を匿っていれば我々も包囲されてしまう。市庁舎を守れば、暴徒に口実を与えてしまうし、市庁舎を守らなければ、暴動のたび言いなりになるという慣例を作ってしまうことになる」

 その間にもベルチエは長椅子に腰を下ろして横になっていた。

 眠りに就こうとしている。

 窓から怒号は届いていたが、まったく動じていなかった。顔つきは穏やかなまま、すべてを忘れて頭を休ませようとしていた。

 バイイは選挙人たちやラファイエットと議論をしていた。

 ビヨはベルチエを見つめていた。

 ラファイエットは大急ぎで意見をまとめて、眠りかけていたベルチエに声をかけた。

「準備をしていただいても構いませんか?」

 ベルチエは溜息をついて肘を起こした。

「何の準備ですか?」

「大修道院(l'Abbaye)に移っていただくという結論に至ったのです」

「大修道院に? まあいいでしょう」ベルチエ知事は選挙人たちがまごついているのを見て、事情をすっかり理解した。「そうと決まれば、どの道この道、さっさと終わらせてしまいましょう」

 怒りの声がグレーヴ広場から湧き起こった。いつまでも抑えつけられていた不満が爆発したのだ。

「まずい。いま外に出すわけにはいかない」ラファイエットが制止の声をあげた。

 バイイは勇気をふるって胸の内で決意を固め、選挙人二人と広場に降り立ち、沈黙を命じた。

 暴徒たちはバイイの言わんとしていることなど聞かずともわかっていた。罪を重ねるつもりだったから譴責など聞く耳は持たなかった。バイイが口を開いた瞬間に、大きなどよめきが生じ、声が聞こえる前に声を掻き消した。

 バイイはただの一言すら声に出すのは叶わないと悟り、市庁舎に舞い戻った。その後ろから「ベルチエを出せ! ベルチエを出せ!」という声が追いかけて来た。

 やがてその声に割り込むように別の声が聞こえて来た。いずれもウェーバー(Weber)やマイヤベーア(Meyerbeer)作品の悪魔が詠唱中に聞かせる絶唱のような声だった。「街灯に吊るせ! 街灯に吊るせ!」[*2]

 バイイが戻って来るのを見て、今度はラファイエットが飛び出した。若く意気に燃えた人気者なら。つい昨日まで人気のあった老人には手に入れられなかったものでも、ワシントンとネッケルの友人になら初めの一言で手に入れられるかもしれない。[*3]

 だが人民の将軍が暴徒の中に飛び込んだのも無駄だった。正義と人道の名に懸けて訴えたのも無駄だった。舵取りらしき者たちを見つけたというよりは見つけたように見せかけて、手を握って歩みを止めるよう呼びかけたのも無駄だった。

 言葉は一つも耳に届かず、行動も心には染み込まず、涙も目には映らなかった。

 ラファイエットはじりじりと押し戻されて、市庁舎の正面階段(le perron)に膝を突き、同胞という名の虎たちに向かって懇願した。自分の国を貶めないでくれ、自分のことを貶めないでくれ、法律の力で罰を与えて貶めを授けるべき罪人たちを殉教者に祭り上げてしまうのはやめてくれ。

 懇願しているうちにラファイエットを脅す者まで現れたが、ラファイエットは屈しなかった。猛り狂った拳が突き上げられ、腕が振り上げられた。

 ラファイエットが拳に向かって突き進むと、振り上げられていた腕は下げられた。

 だがラファイエットすら恫喝されるようなら、ベルチエなどは恫喝では済むまい。

 ラファイエットはバイイ同様すごすごと市庁舎に戻った。

 選挙人たちは皆、ラファイエットが嵐を前に無力だったところを目撃していた。最後の砦が落とされたのだ。

 こうなればもう、市庁舎の衛兵にベルチエを大修道院に連れて行かせるべきだ。

 それはつまり、ベルチエを死地に送り出すということだ。

「遂に来たか」方針が明らかになるとベルチエが言った。

 ベルチエは選挙人たちに蔑みの目を向けると、バイイとラファイエットに感謝の合図をして、ビヨに手を差し出してから、衛兵に挟まれるようにして立った。

 バイイが涙の滲んだ目を逸らし、ラファイエットは怒りに溢れた目を逸らした。

 ベルチエは市庁舎の階段を、上った時と同じ足取りで降りた。

 ベルチエが正面階段に姿を見せた途端、広場から悪鬼のような咆吼が湧き起こり、足を置いていた石段すら震わせた。

 だがベルチエは気にも留めずに平然として、怒りに燃えた眼差しを見渡すと、肩をすくめてこう言った。

「おかしな人たちだ。何を騒いでいるんだ?」

 最後まで口にすることは出来なかった。ベルチエはもはや暴徒のものであった。石段の上の衛兵のところにまで、幾つもの腕が突き出された。衛兵を蹴散らしたその鉄の鉤に捕えられ、足をすくわれ、小突き回された。

 抗い難い力によって引きずり出されたのは、二時間前にフーロンがたどった血塗れの道だった。

 あの街灯の上に、綱を持った男が待機していた。

 だがそれとは別にベルチエにしがみついている男がいて、狂ったようになって、暴徒に拳と罵声を浴びせていた。

「離れろ! 殺させるもんか!」

 ビヨだった。追いつめられたビヨは、狂人のような馬鹿力を得ていた。

 ビヨが叫んだ。

「覚えていないか? 俺もバスチーユにいたんだ!」

 気づいた者たちもいて、攻撃の手が緩んだ。

 今度は別の方向に向かって叫んだ。

「裁判を開くんだ! 俺が責任を持つ。逃げるようなことがあれば、代わりに俺を吊るせばいい」

 哀れなビヨ、哀れな正直者! ベルチエと共に渦に呑み込まれ、羽根や藁のように竜巻に巻き上げられてしまった。

 状態もわからず、何も見えないまま、気づけば到着していた。

 衝撃は遅れてやって来た。

 ベルチエは後ろ向きに引きずられ、担がれていたので、歩みが止まったのに気づいて振り返って目を上げてみると、頭上には絞首索が揺れていた。

 ここで思いがけぬ力を出して羽交い締めから抜け出し、国民衛兵の小銃を奪って、銃剣で暴徒たちに立ち向かった。

 だがすぐに背後から殴り倒され、袋だたきにされてしまった。

 ビヨは暴徒たちの足許に埋もれていた。

 ベルチエには苦しむ間もなかった。幾つもの傷口から、血と魂が一斉に飛び立った。

 ビヨが目にしたのはこれまでに見たどんなものよりもさらにおぞましい光景だった。男が死体の胸に手を突っ込み、湯気の立つ心臓を抜き出していた。

 男は心臓を剣の先に刺し、歓呼する暴徒が開けた道を通って、選挙人が会議をしている大会議室の机に乗せようとした。

 さしもの鉄人ビヨもこれには耐えられず、街灯のそばにある境界石(une borne)の上にひっくり返った。

 ラファイエットは自分の権威が汚されたのを目にし、指揮していた、と思っていた革命が汚されたのを目の当たりにして、剣を折って人殺しどもの頭上に放り投げた。

 ピトゥはビヨを助けに向かい、腕に抱えて歩きながら耳許に囁いた。

「ビヨさん! 起きて下さい。気が遠くなっているところなんか見られたら、仲間だと思われて殺されてしまいますよ。そんなのいけません……立派な愛国者なんですから!」

 そう言うとピトゥはビヨを川の方へ引っ張って行った。ひそひそと言葉を交わしている暴徒の目を出来るだけ避けるようにしていた。


Alexandre Dumas『Ange Pitou』「Chapitre XLII Le gendre」の全訳です。


Ver.1 16/08/13

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[訳者あとがき]

 初出『La Presse』紙、1851年4月2日。
 

[更新履歴]


 

[註釈]

*1. [第四十二章]
 底本のイラスト全集ではここから第42章だが、初出では二段落先の「二つの集団が出会うのに時間はかからなかった。」からが第42章の始まりである。[]
 

*2. [ウェーバー、マイアベーア]。ウェーバー(Weber)、マイアベーア(Meyerbeer)。いずれも18〜19世紀ドイツのオペラ作曲家。本文中で言及されているのはそれぞれ『魔弾の射手』や『悪魔のロベール』のことか?
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*3. [若く行きに燃えた人気者]。バイイは1736生、1789当時53歳。ラファイエットは1757生、1789当時32歳。
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*4. []
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